学位論文要旨



No 120984
著者(漢字) 白旗,麻衣
著者(英字)
著者(カナ) シラハタ,マイ
標題(和) 一酸化炭素分子の回転振動遷移吸収線観測による活動銀河核を取り囲む分子トーラスの研究
標題(洋) Probing Molecular Tori in Obscured Active Galactic Nuclei with Spectroscopic Observations of CO Ro-vibrational Absorption Lines
報告番号 120984
報告番号 甲20984
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4784号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 牧島,一夫
 東京大学 助教授 須藤,靖
 東京大学 教授 井上,允
 東京大学 助教授 河野,孝太郎
 東京大学 助教授 山崎,典子
内容要旨 要旨を表示する

活動銀河中心核(AGN: Active Galactic Nuclei)は、その可視スペクトルによって2つのタイプに分類されている。しかし、これらは本来おなじ構造を持つ天体であり、異なる視線方向から観測しているにすぎない、というAGN統一モデルが一般に広く受け入れられている。このモデルの重要な構成要素は、中心の巨大ブラックホール周辺をドーナツ状に取り囲む分子雲の塊、分子トーラスである。しかしこれまでに、分子トーラスの温度や柱密度などの物理状態を直接観測した例はなく、その正確な正体は未だ不明である。

本研究では、この分子トーラスの物理状態を直接的に明らかにするために、すばる望遠鏡近赤外線分光撮像装置(IRCS)のエシェルモードを用いて、AGN分子トーラスからの一酸化炭素分子ガスの吸収線スペクトル観測に取り組んだ。この観測に用いた手法は、AGNの明るい中心核からの熱放射を背景光として用いて、その手前に存在している分子トーラス中の一酸化炭素ガスの回転振動遷移(12COν=1←0、ΔJ=±1、4.6μm帯)を吸収線として捕らえる、という方法である。

一酸化炭素分子の観測は、一般に、電波領域において回転遷移の輝線観測が盛んに行われている。これに比べ、本研究で用いた赤外線領域における一酸化炭素の回転振動遷移の吸収線観測には、以下のような利点がある。

異なるエネルギー準位のラインを一度に観測できるため、物理量を正確に決定できる。

実効的なビームサイズが、明るくコンパクトな連続光源の大きさによって決まるため、非常に高い空間分解能を達成できる可能性がある。

高い波長分解能(R>5,000)の観測を行えば、分子雲の速度構造を明らかにできる。ただし、この観測手法は非常に高感度を必要とするため、これまでの研究対象は、銀河系内の分子雲に限られていた。我々は、大口径かつ高感度のすばる望遠鏡を用いることで、この観測手法を近傍の明るいAGNへと応用した。ただし、この観測手法は非常に高感度を必要とするため、これまでの研究対象は、銀河系内の分子雲に限られていた。我々は、大口径かつ高感度のすばる望遠鏡を用いることで、この観測手法を近傍の明るいAGNへと応用した。

本研究の観測の対象としては、中心核への視線方向に分子トーラスが存在するAGNが適している。このような特徴を持つ銀河として、以下の2種類が挙げられる。一つは、X線や可視光線のスペクトルよりAGNの存在とそれを取り囲む分子トーラスの構造が明らかにされているSeyfert 2銀河であり、もう一つは、近中間赤外線のスペクトルよりダストに深く埋もれたAGNの存在が示唆されている、赤外線領域で非常に明るい銀河(超高光度赤外銀河;ULIRG:Ultra-Luminous Infrared Galaxy)である。我々は、これら2種類の天体を主とする合計10天体を観測した。

観測の結果、ダストに埋もれたAGN 3天体(IRAS 08572+3915、UGC 05101、NGC 4418)から、一酸化炭素分子ガスによる明らかな吸収線を検出した。

最も鮮明な一酸化炭素分子の吸収線が観測された天体は、IRAS 08572+3915である。そのスペクトルを図1に示す。吸収線は非常に高い回転励起準位(J≦17)まで続いている。また、吸収線の線幅は、系内の分子雲(Δν≪10km s-1)と比べて、圧倒的に広い(Δν>200k ms-1)。

このスペクトルの特徴の一つ、速度構造について着目する。図2に、異なる回転エネルギー準位ごとの速度構造を示した。母銀河に対して、-160 km s-1、0km s-1、+100km s-1という特徴的な3成分が存在していることがわかる。さらに、成分同士の強度比が、エネルギー準位とともに変化している。0 km s-1の成分は低い回転準位(J≦5)にのみ、-160 km s-1成分はすべての回転準位ではっきりと、+100 km s-1の成分は高い回転準位(J≦4)でのみ、検出されている。これは、各速度成分が異なる温度を持っていることを示す。

そこで我々は、検出した吸収線の強度比を用いて、分子雲の温度と柱密度を見積もった。まず、観測した吸収線の強度から、各エネルギー準位に存在する分子数を算出した。その後、分子数分布が熱平衡に従うと仮定し、温度と全分子数を求めた(局所的熱平衡モデル;LTE:the local thermodymamic equilibrium)。結果を図3に示す。2つの温度成分、24±1Kと272±2K、で表せる吸収体が存在していることが明らかになった。また、各温度成分の一酸化炭素分子の視線方向に積分した密度(柱密度という)は、それぞれNCO=(4.51±0.03)×1018 cm-2(冷たい成分)とNCO=(1.94±0.07)×1018 cm-2(暖かい成分)であり、水素分子の柱密度に換算すると、NH=(2.51±0.02)×1022 cm-2(冷たい成分)とNH=(1.08±0.04)×1022cm-2(暖かい成分)となった。

図2における速度構造0 km s-1の成分は、図3の低温成分に対応している。24Kという低い温度から、母銀河による吸収と考えられる。一方、吸収の大部分を占める-160 km s-1成分は、272Kに対応している。この分子雲は、一般の星間空間に存在する分子雲(典型的には<50K)と比べて高温なので、我々は、AGN中心核によって暖められた分子雲であると結論づけた。-160 km s-1という速度を持つことから、中心核から噴出する動きを想像することができる。+100 km s-1の成分は強度が小さいために図3にはあらわには現れなかったが、J=6とJ=16の強度が同程度であるため、およそ700 Kの非常に高温な分子雲であると考えられる。中心核により近い場所に存在しており、中心核への質量降着を反映しているのかもしれない。

また、視線方向の分子雲の厚みにも制限をつけることができた。図3から、272Kという熱平衡状態がJ=17という高励起な回転準位まで成立していることがわかった。これは、粒子数分布が粒子同士の衝突(主な衝突相手は、分子雲中に最も豊富に存在している水素分子)で決まる、ということを意味している。このために必要とされる分子ガスの密度は、nH2=2×107 cm-3と見積もられ、一般の星間分子雲(nH2<104cm-3)と比べて非常に濃い。LTEモデルから求めた柱密度と臨界密度を用いて、分子雲の厚みを見積もると、およそ2×10-4pcという値が導かれた。一般に、分子雲は塊状の構造になっていると考えられているため、一様を仮定した上記の場合に比べて、物理的な厚みが大きくなることが予想される。しかしながらそのような極限を仮定しても、最大2×10.2pc程度であろう。つまり、視線方向に非常に薄い分子雲であることが示唆された。

一酸化炭素分子の吸収線が検出されたもう一つの天体は、ダストに埋もれたAGN、UGC 05101であった。注目すべき結果は、この天体からの吸収線スペクトルが、IRAS 08572+3915のスペクトルと非常に良く似た性質を持っていたことである。つまり、J=19という高い回転励起準位まで吸収線が検出されたこと、ライン幅がとても広いこと、さらには複数の速度成分が存在し青方偏移した成分が赤方偏移した成分より強いこと、まで共通している。この観測結果は、IRAS 08572+3915やUGC 05101で検出した速度構造が、単に不規則に運動している分子雲に起因するものではなく、ダストに埋もれたAGN周辺に普遍的に存在している構造によるものである、ということを物語っている。

我々が観測を行った合計10天体のうち一酸化炭素分子の吸収線を検出した天体は、すべてダストに埋もれたAGNであり、Seyfert 2銀河からは検出されなかった。一酸化炭素分子吸収線が検出された3天体は、赤外のスペクトルにおいて、3.4μmに現れるダストの吸収線、6.0μmに現れる氷の吸収線、9.7μmに現れるシリケイトダストの吸収線、が深く検出されることで知られている天体である。また、硬X線が検出できないほど大量のガス・ダストに覆われていること、可視光のスペクトルタイプがLINERと呼ばれる低励起イオンの輝線のみが見えるグループに属すること、といった共通の性質もある。このような特徴は、中心核周辺に、特に大量の吸収体が存在している証拠である。一酸化炭素分子吸収線を検出するためには、Seyfert銀河に存在する分子トーラスからの吸収では不足であり、大量のガスが必要なことが明らかとなった。

これら観測結果を踏まえて、AGN周辺を取り囲む吸収体の物理状態について考察した。この吸収体は、高温かつ高密度であるが厚みが薄い分子雲であることが示唆された。このような分子雲が、どのようなメカニズムによってAGN周辺に存在するのだろうか?我々は、AGN中心核から放射されている強いX線によって分子雲の物理状態や化学組成が支配される(X-ray Dissociation Regions:XDRs)、という考えに注目した。中心核に直近する分子雲では、X線によって一酸化炭素が解離されてしまい、分子として存在できない可能性がある。理論計算(Maloney et al.1996)によると、X線が検出されないほど柱密度が大きくなってはじめて一酸化炭素が存在できるようになり、この領域の温度が数百Kと高温である。またこの領域の厚さは、1 pc程度と薄くなりうる。つまり、我々が観測で検出した分子雲は、XDRである可能性が高い。

また、我々は、視線方向に明らかに分離する2成分を発見した。AGN統一モデルで提唱されてきた「中心核の周りをドーナツ状に取り囲む吸収体」では同径方向への速度は考えられていないため、この2成分を説明することは到底不可能である。ダストに埋もれたAGNの中心核付近にある吸収体の構造は、非常に複雑であることがわかった。

以上のように我々は、一酸化炭素分子の回転振動遷移の吸収線観測によって、ダストに埋もれたAGNの中心領域に存在する分子雲の物理状態を、観測的に初めて明らかにした。

図1:IRAS 08572+3915から得られた、一酸化炭素ガスの回転振動遷移吸収線スペクトル。12C16O分子の基底状態から第一振動励起状態への回転振動遷移の中心波長(理論値)を、母銀河の赤方偏移を考慮してスペクトルの上部に書き入れた。解析に採用した連続光スペクトルを実線で示した。十分な信号強度が得られなかったデータ点(大気の透過率が50%より低い部分とS/N比が10%以上)は解析から除外し、灰色で示した。大気透過率のモデル計算の結果を、下部パネルに示している。

図2:IRAS 08572+3915の12C16O(ν=1←0)の吸収線の速度構造。X軸は母銀河の系における速度を示す。

図3:IRAS 08572+3915から検出された一酸化炭素分子の分子数分布を、各回転エネルギーに対してプロットしたもの。熱平衡が成立している場合には、データ点が直線上に分布し、その直線の傾きが吸収体の温度を示す。観測された分子数分布を説明するためには、2つの温度成分が必要であり、その温度は24±1Kと272±3Kと求まった。各温度成分の一酸化炭素分子の柱密度は、それぞれ(4.51±0.03)×1018 cm-2(冷たい成分)と(1.94±0.07)×1018 cm.2(暖かい成分)であり、水素分子の柱密度に換算すると、(2.51±0.02)×1022cm-2(冷たい成分)と(1.08±0.04)×1022 cm-2(暖かい成分)である。

審査要旨 要旨を表示する

多くの銀河の中心には、太陽の数百万倍から数億倍の質量をもつ巨大ブラックホールが存在すると考えられ、そこに質量降着が起きて強い電磁波が放射されるものを、活動銀河核(AGN)と呼ぶ。AGNに降着する物質は、最終的には平たい円盤を形成するが、より遠方では、濃い低温の分子ガスから成る「分子トーラス」を形作ると考えられる。中心ブラックホールをこのトーラスの極方向から見た天体は、現象論的な分類による1型AGNに対応し、赤道方向から見たものが2型AGNであると解釈できる。しかし、この分子トーラスの形状や物理状態は、従来ほとんど未知であった。

分子トーラスの診断には、存在量が多くかつ電気双極子をもつ分子として、一酸化炭素 (CO) が有用である。2型AGNでは、ブラックホールからの放射がトーラスを通過するさい、CO分子の回転振動遷移により、スペクトルの赤外線領域(4.6μm帯)に吸収線群が生じると期待される。この遷移は、振動量子数が1つ変化すると同時に、回転量子数が±1だけ変わるもので、吸収線の深さから一酸化炭素分子の柱密度が推定できる。さらに遷移始状態の回転量子数の違いは、吸収線の波長の違いとして同定できるので、一連の、吸収線群が検出できれば、それらの強度比からCO分子の回転準位の占拠数、したがって温度が推定できる。第1章では、こうした背景が述べられる。

COの回転振動遷移吸収線は、これまで諸外国で探査が試みられていたが、まだ検出に成功した例は無かった。そこで申請者は5個の2型セイファート銀河と、5個のダストに埋もれたLINER(低電離輝線放射)型銀河を選び、「すばる」望遠鏡の赤外線撮像分光装置(IRCS)装置を用いて、合計9夜にわたって観測を行った。第2章では、これら10天体の選択の根拠が述べられ、第3章では「すばる」IRCSによる観測の実際と、基本的なデータ解析が記述される。この観測の結果、申請者は5個のダストに埋もれたLINAER型銀河のうち、IRAS 08582+3915、UGC 05101、NGC 4418 の3天体から世界で初めて、COの回転振動遷移による吸収線群を検出することに成功した。いっぽう5個の2型セイファート銀河からは、吸収線は検出されなかった。

第4章ではもっとも明瞭な結果が得られたIRAS 08582+3915を代表に選び、詳しい赤外線分光の解析結果が記述される。COの吸収線群は 4.90〜5.15 μmの波長帯域に、P系列(回転量子数が1だけ減少)のものが19本、R系列(回転量子数が1だけ増加)が4本も検出された。吸収線のプロファイルはいずれも幅広で、複雑な構造をもち、とくに母銀河に対し約160 km/s に青方偏位した成分が強い。これは200 km/s に達する速度幅をもち、かつP系列では第16励起準位まで検出されていることから、吸収体の温度は約270 Kと推定された。COの柱密度は 2×1018 cm-2、水素分子に換算すると1×1022 cm-2となった。これに加え、+200 km/s に赤方偏移した、より高温 (約700 K) の吸収成分も存在している。第5章ではUGC 05101の観測結果が紹介されるが、基本的にIRAS 08582+3915の結果に酷似している。

第6章では、これら2天体の結果に、NGC 4418からの検出や、他の銀河での上限値などを加えて、CO吸収線の観測結果に解釈が加えられる。青方偏移した成分は高温なので、 AGNの照射を受けたガスによる吸収と考えられる。吸収体が衝突により高温になるには、ガス密度が高くなくてはならないが、その割に柱密度は低いので、吸収体の視線方向の厚みはきわめて薄いと推論される。これらを総合すると、ブラックホールからのX線や紫外線は、まずAGNから1パーセク付近で分子トーラスに吸収され、ダストの放射する赤外線に変換され、ついでこの赤外線の連続スペクトルが、その外側に存在するCO分子により吸収され、吸収線群を形成すると解釈できる。吸収体の位置はAGNから10 pc 付近と考えられ、2型セイファート銀河でCO吸収線が見られないのは、対応する領域でCOが解離しているためと解釈できる。吸収線のプロファイルは分子トーラスのケプラー回転では説明が難しく、したがって160 km/s という速度の起源は、今後の課題となっている。

以上のように申請者は、世界で初めてCO回転振動遷移に伴う吸収線の検出に成功し、AGNを取り囲む分子トーラスの位置や物理状態に、新しい知見をもたらした。よって本研究は博士(理学)の学位を授与するに値することを、審査員の全員一致により確認した。本研究の一部は、中川貴雄氏らとの共同研究であるが、その中で申請者は、観測の実施やデータ解析などで中心的な役割を果たしており、共同研究者からの同意承諾書も完備している。

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