学位論文要旨



No 120988
著者(漢字) 辻,幸秀
著者(英字)
著者(カナ) ツジ,ユキヒデ
標題(和) 吸着金属により誘起された半導体表面二次元電子系の輸送特性
標題(洋) Transport properties of metal-adsorbate-induced two dimensional electron systems on semiconductor surfaces
報告番号 120988
報告番号 甲20988
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4788号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 福山,寛
 東京大学 教授 勝本,信吾
 東京大学 助教授 長谷川,修司
 東京大学 教授 高田,康民
 東京大学 助教授 常行,真司
内容要旨 要旨を表示する

化合物半導体の一つであるInAsは、表面に電荷を容易に蓄積する性質をもっている。原子一層分にも満たない微少量の金属を吸着した場合でも表面におけるフェルミ準位が伝導帯よりも高く位置する現象が観測される。これまで光電子分光などの測定によって、数多くの種類の吸着金属(Ag,Au,Ga,Cu,Cs,Na,Sh,Fe,Nb,Co)に対してこのような現象が確認されている。金属吸着によって誘起されたInAs表面蓄積層(反転層)では、化学反応性の高い表面近傍に電子が存在するため、吸着した金属と電子とが強く相互作用している可能性が高く、その場合、吸着金属の種類を変える事で性質の異なるさまざまな電子状態を作成する事が出来ると期待される。また、デバイス表面から0.1μm、 程度深いところに存在する半導体界面の低次元電子系とは大きく異なり、マイクロプローブ測定法との相性も良い。デバイスの微細化が進みミクロな構造と伝導性との関係を明らかにする必要性の高まりから、試料中の電流分布電流を調べる研究が現在盛んに行われている。InAs表面はその点で非常に適した電子系である。

このようにInAs表面の電子系は固体デバイス中で実現されていたこれまでの低次元電子系とは大きく異なった特徴を持ち、非常に魅力的な電子系である。しかし、現段階では光電子分光やSTMなどの測定方法で、表面構造や表面準位、表面でのフェルミ準位を決めたものに留まり、最も基本的な伝導・磁気特性などの物性を測定するまでには至っていない。電子状態が表面の化学結合性と強く結びついている事は魅力的ではあるが、逆に、界面状態をきちんと制御しながら、その物性を測ることは困難を極めるからである。伝導特性を測定するにしても、界面の物質制御をしながら、面内にどのように端子を接続するのか、伝導チャネルをどのように制限するのかなどの難しさが存在する。

本研究によって、p型InAs表面の反転層における面内方向の伝導を精密に測定する実験手法が確立された。高磁場領域においては整数量子ホール効果を観測する事にも成功し、表面反転層内の電子が広い領域で完全な二次元系を形成している事を示した。表面二次元電子系に特有な蒸着金属の自由度を利用し、二次元電子状態に対して吸着金属が及ぼす影響を調べた。Au吸着によってElliot-Yafet(EY)機構によるスピン緩和の効果が変化することを示唆する結果が得られた。

図1に測定手法の概略を示す。低温・高真空にされた試料ホルダー内で、「試料のヘキ開」、「蒸着」、「磁気抵抗測定」の一連の操作が行われる。ヘキ開によって得られた清浄表面は汚染されることなく金属のその場蒸着が施さされ、そのまま磁場中の面内伝導測定をを行う事が可能になっている。導電性のないヘキ開表面に、薄膜化するには程遠い0.003ML(1 monolayer=7.75×1014cm2)というごく少量の銀を蒸着しただけで、数MΩ以上だった端子間抵抗が1〜10kΩまで小さくなる。金属の蒸着量を考えると金属薄膜による伝導が生じたとは考えにくく、また、表面に吸着した微少量の金属がバルクの伝導を大きく変化させたというのも考えにくい。従って、このような急激な抵抗の変化は、金属蒸着によって誘起されたInAsの表面伝導を測定している事を示している。試料端子は、ヘキ開面に対してホールバー型になっているため、磁場中での磁気伝導を測定することで、蒸着によって誘起された表面電子系の電子濃度と電子移動度を求めることが出来る。

図2にAg蒸着量が0<〓<0.3 MLまでの低蒸着量領域の電子濃度と蒸着量の関係を示す。電子子濃度Nsは、蒸着量〓〜0.002MLから蒸着量と共に増加した後、ほぼ一定(〜3.5×1O12cm-2)となる。実線は、挿入図で示すように一つの蒸着金属原子が-つの電子を放出する事を仮定した場合に予想される蒸着量に対する反転層中の電子濃度依存性を示したものである。正の閾値を持っている理由は、反転層を作るためにはバンドを曲げる必要があり、空乏層のアクセプターをイオン化するために蒸着金属から放出された電子が使われたからである。これらの計算結果は、今回の実験結果をよく再現していることがわかる。電子濃度が増加するとフェルミエネルギーが増加し,蒸着金属が作る表面ドナー準位に達すると,それ以上電子は供給されなくなると考えている。飽和に達する前に実線から徐々に蒸着量が増加するに従って直線からずれてくるのは、すでにイオン化している蒸着金属原子のクーロンポテンシャルによって、後から表面吸着した金属原子はイオン化しにくくなるためだと考えられる。電子濃度の最大値からフェルミエネルギーを見積もると伝導帯の底から380 meVとなり、Aristovらの光電子分光で得られた結果[1]とも良い一致を示した。

図3に、より広い範囲のAg蒸着量に対する電子濃度の依存性を示す。0.04ML以上の蒸着量から電子濃度は減少し始めることがわかる。これは、先ほど低電子濃度領域で仮定した単一銀原子によるドナーモデルでは説明出来ないため、クラスター形成が大きく関与しているのではないかと考えている。クラスター内の電子は原子間を移動出来る分だけ単一原子内に存在するよりもエネルギー的に得をしており.表面準位もその分だけ下がっていることが考えられる。また、一つのクラスターで複数の電子を出す事は非常に大きなクーロンエネルギーを必要とするために、一つのクラスターからは構成している原子数ほど電子が出てこないはずである。表面上でクラスターの成長と結合が進む事によるクラスター数の減少は、InAsの伝導帯に電子を供給するドナー数(表面ドナー準位の状態密度)の減少を引き起こす。従って、クラスター形成による表面ドナー準位と、その準位の状態密度の両方の低下が反転層の電子濃度を減少させた原因であると考える。

また、移動度のAg蒸着量に対する依存性を見てみると、図3に示すように必ずしも電子濃度の変化と対応していないことがわかる。低蒸着量領域(〓<0.01 ML)においては、電子濃度と同様、移動度も急速に増大しているのに対して、高蒸着量領域(〓<0.04 ML)では.電子濃度が減少し始めるのに対して移動度はほとんど変化しない。スクリーニング効果や散乱の波数依存性など電子濃度の変化による影響だけではなく、蒸着金属が作る不規則ポテンシャルの影響も現れていると考えられる。従って、蒸着金属は、単に反転層中の電子を供給するだけでなく、散乱体として二次元電子系の電気伝導に影響を与えている事が明らかになった。高蒸着領域で移動度が高いのは、一原子あたりの蒸着金属が電子を供給するイオン化率が低下しているためであろう。イオン化率が1に近い低蒸着領域に比べて蒸着原子が作る表面ポテンシャルの凹凸が小さくなっていると考えられる。

図4では高磁場中でのShubnikov-de Hass振動の様子を示している。各Ag蒸着量によって、InAs反転層の電子濃度が異なるため、SdH振動の振る舞いも大きく異なる。図中の矢印で示すように、InAs反転層ではRaShba効果によるスピンスプリットオフバンドが形成されたことを示すSdH振動のビートパタ-ンの節が観測された。

図5に、電子濃度は低く、シングルサブバンド状態にあると考えられるAg吸着されたInAs反転層の縦抵抗とホール抵抗の磁場依存性を示している。磁場を強くするとSdH振動はより大きくなり11 Tで縦抵抗は完全に零になり、ホール抵抗が一定値を取るランダウ準位充填率ν=4の電子ホール効果状態が観測された。これはヘキ開表面電子系における初めての量子ホール効果の観測であると同時に、この系が完全な二次元である事を証明するものである。

次にMg金属薄膜にAu不純物を導入した実験[2]からヒントを得て、InAs表面でも吸着金属によってEY機構によるスピン軌道相互作用の大きさが変化するのではないかと考えた。ただし、InAs表面反転層はD'yakonov-Perel(DP)機構によるスピン緩和の効果が強いと考えられており、新たに導入されたEY機構の効果とすでに存在するDP機構の効果を区別する必要がある。そこで、AuおよびGeをそれぞれ吸着させた電子濃度の等しい2つのInAs二次元電子系を用いて比較を行うことにした。電子濃度が等しい場合、閉じ込めポテンシャルおよびフェルミ波数が等しくなるため、Rashba項の係数は等しくなる。

図6に、GeおよびAuを蒸着した場合のInAs表面反転層の磁気抵抗を示す。DP機構によるスピン軌道相互作用の効果を考慮したIordanskii.Lyada-Geller,Pikus(ILP)による反弱反局在理論を用いてフィッティングを行ったところ、Geを吸着させた場合に対して非常によく再現出来ることがわかった。また、フィッティングによって得られた値を用いて、DP機構によるスピン緩和時間とEY機構によるスピン緩和時間の比(tsDP/tsEY)を求めたところ〜0.1でありDP機構がEY機構よりも優勢であることがわかった。これはDP機構によるスピン軌道相互作用を前提となっているILP理論で解析したことと矛盾しない結果である。Auを蒸着したInAs反転層では、負の磁気伝導が最大になる磁場が高磁場側に大きくシフトしていることがわかる。これは、スピン緩和時間tsが減少していることに対応するが、DP機構ではts∝t1-1(t1は弾牲散乱時間)であり、GeよりAuの方がt1は小さいのでtsの違いの原因をt1の違いに帰着させることは出来ない。Auが吸着したInAs反転層においては、スピン軌道散乱時間t2で特徴付けられるEY機構のスピン相互作用の効果が強まり、DP機構に比べて無視出来ないほど大きくなったためであると考えられる。これにより、高磁場側にシフトする負の磁気伝導ピークを定性的な説明することに成功し、Auによってスピン軌道散乱が大きくなったことを示唆する結果を得た。

図1:InAs表面反転層の面内磁気電動測定

図2:電子濃度の銀蒸着量依存性(低蒸着量領域)

図3:電子濃度と移動度の銀蒸着量依存性

図4:Shubnikov-de Haas振動のビートパターンの観測

図5:InAs表面反転層における量子ホール効果

図6:GeまたはAu-InAs表面反転層の磁気コンダクタン

V.Y.Aristov,et al.,Phys.Rev.B 47,2138(1993).G.Bergmann,Phys.Rep.107,1(1984).
審査要旨 要旨を表示する

極低温下で二次元電子系が示すAnderson局在や量子ホール効果など特異な伝導現象は、固体物理学研究の中でも重要な位置を占めている。通常これらの研究には結晶界面の反転層にできる二次元電子系を利用するが、本研究ではInAs(110)劈開面に金属原子を蒸着することで表面反転層に誘起される新しいタイプの二次元電子系を取り上げ、その伝導特性を測定するためのユニークな実験方法の確立と実際の測定に成功した。本論文は6章からなり、序論として研究背景が述べられた第1章に続いて、第2章でInAsの表面構造と二次元伝導、第3章で試料作成方法と実験装置、第4章でAg原子を表面蒸着したときの実験結果とその解釈、第5章はその他の原子を蒸着したしたときの実験結果と解釈がそれぞれ記述されており、最後に第6章で論文全体のまとめと今後の研究の展望が述べられている。

これまでInAs表面の二次元電子系については、光電子分光や走査トンネル分光によって表面構造や表面準位あるいは表面フェルミ準位が調べられてきたが、最も基本的な伝導特性は測定されていなかった。これは表面部分だけの伝導を測定する適当な方法が確立していなかったためである。これに対して論文提出者は、極低温下(T 〓 4 K)で超高真空が保たれた環境下でInAs単結晶試料を劈開することで清浄な (110)面を準備し、フィラメント通電で種々の金属原子をその劈開面にその場蒸着することで二次元電子系を誘起することに成功した。適当な熱処理を施した試料側面には予め金電極がスパッタリングで取り付けられており、劈開によって最表面と電極の良好なコンタクトが取れるよう工夫されている。

論文提出者はこのユニークな実験方法を確立して、InAs(110)表面にAgを蒸着した系に対して電子濃度(Ns)と移動度(m)を蒸着量の関数として詳しく調べた。その結果、0.01 ML (monolayer)以下の低蒸着量のときNsはqとともに単調増加するが、0.02 ML付近を境に減少に転じることが分かった。Nsの最大値から求めたフェルミ準位は他の測定結果とも良い一致を示す。一方、mは低蒸着量のときは同じようにqとともに単調増加するが、約0.01 ML以上では一定値(〓 3000 cm2/Vs)を示すことが判明した。これらの実験事実を最近の密度汎関数法による計算結果等と比較することで、論文提出者は、低蒸着量域では1個の蒸着金属原子がイオン化して1個の電子を放出するというドナーモデルがよく成り立つことを示した。これに対して高蒸着量での振る舞いについては、すでにイオン化した蒸着原子のクーロンポテンシャルや蒸着原子のクラスター化などを考慮することで定性的に説明可能である。

Ag蒸着した試料については、中間的な蒸着量のとき高磁場中の伝導測定でShubnikov-de Hass振動のビートパターンが観測された。これはRashba効果と呼ばれる反転層における閉じ込めポテンシャルの非対称性に起因するスピン-軌道相互作用によってスピンスプリットオフバンドが形成されたことを示しており、先の密度汎関数計算とも良く一致する。さらに蒸着量が増えて(Nsが減って)シングルバンドとなった試料では、整数量子ホール効果(n = 4)の観測にも成功している。これらのことは、本研究で作成した電子系がNsやmをコントロール可能な真正の二次元電子系であることを明確に示している。Ag以外にGe原子を蒸着したときも整数量子ホール効果が観測されたが、この場合はCr原子のときも含めてAgとは違ったNsの蒸着量依存性が観測された(蒸着量を増やしてもNsは減少に転じない)。論文ではAgに比べてGeやCrがクラスター化しづらいという可能性が指摘されている。

この他、Rashba効果の寄与が等しくなるよう電子濃度を揃えたGeとAu原子を蒸着した試料を準備し、それらの磁気伝導を測定した。得られたデータをIordanskii, Lyada-Geller and Pikusによる弱反局在理論で解析した結果、Geの場合はスピン-軌道相互作用のうちD'yakonov-Perel機構がElliot-Yafet機構よりも優勢であるが、Auの場合は後者も無視できない大きさをもつことが分かった。

以上のように、本研究は半導体表面二次元電子系の極低温・磁場中輸送現象を安定して測定する実験技術を確立し、量子ホール効果を含めて電子濃度や移動度などの諸性質を初めて明らかにしたものとして、その成果は高く評価できる。なお、本論文は岡本徹氏と望月敏光氏との共同研究であるが、論文提出者が主体となって実験の遂行、解析及び解釈を行ったものであり、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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