学位論文要旨



No 121036
著者(漢字) 市川,央
著者(英字)
著者(カナ) イチカワ,ヒサシ
標題(和) 有機分子系薄膜成長を制御する新しい因子の研究
標題(洋) Study of new factors to control thin film growth of organic molecular materials
報告番号 121036
報告番号 甲21036
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4836号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 齊木,幸一朗
 東京大学 教授 梅澤,喜夫
 東京大学 教授 西原,寛
 東京大学 教授 塩谷,光彦
 東京大学 助教授 島田,敏宏
内容要旨 要旨を表示する

[序]

近年、オプトエレクトロニクスの分野において、有機電界効果トランジスタ(FET)をはじめとする有機半導体素子の利用が注目されている。それらのデバイスは有機分子と無機基板表面の接合によってその特性を発現するものが多いため、その作成過程における分子と基板表面との界面における分子性結晶薄膜のグレインサイズや構造などのモルフォロジーが、デバイスの特性に大きな影響を与える。

このモルフォロジーには、基板と分子の組み合わせ、成長時の基板温度や表面上の成長分子濃度等、多種の要因が関与しているが、本研究では基板と成長分子間に働く相互作用エネルギーの問題に着目した。この相互作用エネルギーは基板と有機分子の組み合わせ(結合力や格子定数)、有機分子周囲の分子配置などの複合的な因子であるが、基板と有機膜の間が弱い分子間力によって結合している場合、これは結晶成長における主たる支配要因となりうる。

成長分子周囲の分子配置は完全に平坦な表面の場合ほぼ一定であるが、基板表面のミクロスコピックな形状によって変化する。その最も初期的なものとして規則的なステップを持つ傾斜基板を用い、ステップの方向が分子の拡散に与える影響について検討を行った。また、基板の表面を別の有機分子で修飾処理することで成長分子の「濡れ」の良し悪しが変化することが報告されており、これは表面修飾によって基板と有機薄膜結晶の間に緩衝層ができそれによって相互作用エネルギーが変化したと考えられる。これについても定量的な評価を行った。

さらに、有機分子の結晶成長初期において微少な摂動を与えることで、以降の成長様式を制御し成長する結晶に大きな変化を与えることが期待される。相互作用エネルギーに実際に摂動を与える方法として、光による結晶成長の制御を試みた。

[変調分子線散乱実験]

実験には、パルス化した有機分子線を一定温度に保った表面に照射し、散乱された分子線強度の時間プロファイルを測定する変調分子線散乱法を用いた。Fig.1に実験装置の概略を示す。

Knudsenセルから蒸発した分子はコリメータ、回転チョッパーによってパルス化された分子ビームとなる。分子ビームは基板(約6cm×4cm)上に照射され、吸着・拡散を経てから脱離する。脱離した分子を電子線衝撃によるイオン化・四重極マスフィルタを用いて検出する。

基板表面のミクロスコピックな形状が分子の挙動に与える影響

Si(111)基板の7度傾斜基板(ステップ間隔26Å)を用い、水素フタロシアニン(H2Pc)分子がステップに平行に拡散する場合、傾斜を登る方向に拡散する場合、下る方向に拡散する場合のそれぞれについて変調分子線散乱法による実験を行った。

基板表面の有機分子修飾による成長分子との相互作用変化

無機基板表面と有機半導体分子には、シリコン酸化膜表面とペンタセンの組み合わせを選択した。ペンタセンは移動度が高くFETの材料として期待されている。

シリコン酸化膜は洗浄したSi(111)ウェファを硝酸中煮沸によって作成し、文献に従いHMDS(hexamethyldisilazan)またはOTS(Octadecyltrichlorosilane;C18H37SiC13)のSAM膜で修飾された表面を得た。それぞれの表面には-O-Si(CH3)基と-O-Si (OH)2C18H37基が単分子層で吸着している。

シリコン酸化膜基板とこれら2種類の表面修飾基板を比較しながら変調分子線散乱実験を行った。

[結果と考察]

変調分子線散乱実験では基板上での拡散過程によって出力の時間的遅れは決定され、裾の広がりを持った出力が得られる。このピークの裾を分子入射時のプロファイルと、拡散による指数関数的減少とのコンボリューションとしてカーブフィッティングすることによって、滞在時間が求められる。この表面滞在時間を温度の逆数に対してアレニウスプロットするとよく直線に乗り、その傾きから滞在時間が何らかの活性化エネルギーを持つ過程によって決定されていることがわかる。

傾斜基板

7°傾斜の基板上でのH2Pc分子の滞在時間をアレニウスプロットしたものをFig.2に示す。傾斜基板のステップを登る場合・下る場合・平行な場合と傾斜の無い基板、酸化膜の場合を比較した。平坦基板と平行の場合はほぼ同じ結果が得られ、滞在時間はステップを登る場合に長く下る場合に短く、活性化エネルギーは上る場合に大きく下る場合に小さい。これより分子が表面上で拡散する際ステップの上端が脱離するサイトとして働いており、滞在時間はこの脱離サイトまでの移動時間によって決まると考えられ、活性化エネルギーは脱離サイトに到達するまでの移動に要するエネルギーであると推測される。

表面修飾

Fig.3に変調分子線散乱実験の結果からはOTSで処理した場合とシリコン酸化膜の場合に滞在時間が長く、HMDSで著しく短いことがわかる。また、活性化エネルギーもHMDSの場合に著しく小さい。

それぞれの表面でペンタセンの挙動が異なる原因を明らかにするため、原子間力顕微鏡(AFM)による表面の観察を行った。その結果有機修飾によってシリコン酸化膜上に作成されたSAM膜は、径10μm以上にわたって大きく平坦に形成されていることが確認された。

変調分子線散乱実験と同様の状況を作成するべく基板を一定時間加熱したところ、HMDS処理基板では加熱前後で高低差に大差が見られなかったのに対して、OTS処理基板では加熱によって平坦だった表面が粒状になった像が観測された。このことは修飾層が加熱によって分解されたことを示しており、OTS修飾基板では加熱により修飾層が分解したことでシリコン酸化膜の結果に近づいたと考えられる。

滞在時間の支配的因子、活性化エネルギーで表される実態について検討する。先の傾斜基板の場合と異なり基板の平坦性が高いことから、脱離サイトの存在を仮定することは適当でなくむしろ表面上に特定の吸着サイトが存在して、それが滞在時間を決定していると考えられる。したがって、この実験における活性化エネルギーは、分子と表面の親和力のポテンシャルの深さを表していると考えられる。

[光による結晶成長制御]

基板に塩化カリウムKCl(001)、成長有機分子にtris-(8-hydroxyquinoline)aluminum(III)(Alq3)を用いた系を対象に、結晶成長初期過程にレーザー光を照射し相互作用エネルギーを制御する実験を行った。偏光方向をKCl(001)基板の[100]方向に揃えて基板上に照射しながらAlq3をエピタキシャル成長させ、反射型高速電子線回折(RHEED)による結晶構造解析とAFMによるモルフォロジーの観測を行った。超高真空下に置かれたKCl(001)基板に、KnudsenセルでAlq3分子ビームと、He-Cdレーザー(442nmで25mW/cm2,cw)を同時に照射しながら結晶成長を行うことができる。

[結果と考察]

レーザー照射の無い条件下では、Alq3はKCl(001)基板上で[100]と[010]方向に伸長する針状結晶を形成する(Fig.4 a)。一方、レーザー照射下での成長を行った場合、偏光方向と平行の[100]方向に選択的に針状結晶の伸長が観測された(Fig.4 b)。

二つの方位からのRHEED像(Fig.4cとd、eとf)においても、光照射の無い場合には二種類存在していたストリークが、照射下で成長させた薄膜では一種類になっていることがわかる。このことからも、Alq3薄膜の成長がレーザーの偏光により大きく変化したことが示された。

一方光の波長が532nmの場合には、上記のような特異的な結晶成長はみられなかった。Alq3の吸収スペクトルを観測したところ、442nmは吸光領域に含まれ532nmは含まれない。即ちこのように配向した成長には光の吸収が大きく関係している。またこの結晶の配向性は膜厚依存性があり、膜厚が増加するほど[100]方向へ結晶が揃うことが観測された。

このような配向性が起きる機構については、分子が強誘電体的な結晶性のクラスターを作り、そのクラスターが光励起により作り出した巨大な光起電力が原因となっている可能性が考えられる。生じた電場が、互いのクラスターの配向に影響を及ぼし、それによって結晶が特定の方向にのみ成長するというモデルである。このモデルでは、関与するクラスターの数が大きくなればなるほど生じる電場が大きくなることから、結晶の配向性が膜厚に依存するという実験事実ともよく合致する。

[まとめ]

変調分子線散乱実験では、有機分子に対して無機基板表面の構造が、空間的に配置が異なる場合と化学種が異なる場合について研究を行った。その結果、傾斜基板表面では脱離サイトまでの到達時間が表面上での滞在時間の決定要因となり、一方表面を修飾した基板では表面上で吸着サイトに吸着されてから脱離するまでの時間が滞在時間の決定要因となっているというモデルを提示した。

光による結晶成長制御の実験では、レーザー光照射下成長させることによりKCl(001)基板上にレーザーの偏光方向と平行に配向したAlq3エピタキシャル薄膜を作成することに成功した。この結晶の配向からは、光励起により結晶性クラスターが巨大光起電力を生じ、その電場が互いにクラスターを配向させているという新たな成長機構が示唆される。

Fig.1実験装置

Fig.2 傾斜基板上H2Pcのアレニウスプロット

Fig.3 有機修飾基板のアレニウスレプロット

Fig.4 KCl(001)上に成長したAlq3薄膜のAFM像(a,b)とRHEED回折パターン(c〜f)a,c,eはレーザー照射なし、b,d,fは照射あり

審査要旨 要旨を表示する

本論文は6章からなる.第1章は序論であり,本論文の主題である「有機分子薄膜成長」についての研究の意義が述べられている.また,ヘテロエピタキシャル薄膜成長に関与する因子を整理し,本論文で着目した有機分子薄膜成長を制御する新しい因子について,それを評価する必要性,および制御機構の位置づけについて述べている.

第2章では,本研究で用いられた実験手法の原理について述べており,各手法によって得られる情報などについて,その基になる理論とともに述べている.また第3章では,本研究で主たる実験手法の一つとなった変調分子線散乱法について,その背景となるこれまで行われてきた基板―分子相互作用の研究について述べ,それらと比較した本研究手法の特徴について述べている.更に実験装置の詳説,および有機分子の基板表面上での滞在時間を導出するまでの,データ解析手法の解説なども行っている.

第4章と第5章では,前章で述べた変調分子線散乱法を実際に用いて基板−分子間相互作用の観測を行っている.第4章では,シリコン(001)酸化膜基板上のペンタセン分子について研究を行っている.シリコン(001)酸化膜基板表面を別の有機分子OTSとHMDSで化学修飾処理してペンタセン分子の表面滞在時間の変化について述べ,基板表面温度に対する表面滞在時間のアレニウスプロットから拡散に伴う活性化エネルギーを導出した.その結果,HMDS表面処理基板では活性化エネルギーが小さくなり表面滞在時間が短くなっていることが明らかになり,薄膜成長実験で核形成密度が小さいことをよく説明した.またOTS修飾基板表面で滞在時間が変化しなかったことから,ペンタセン分子が表面上の局所吸着サイトをホッピングで移動している描像を示した.

第5章では,微傾斜基板上の水素フタロシアニン分子に対して変調分子線散乱法を用いた基板―分子間相互作用観測実験を行っている.微傾斜基板の方位を変化させた滞在時間の観測から,水素フタロシアニン分子がステップ下端に吸着され,ステップ上端からの脱離には異方性があり,さらにステップ近傍がポテンシャル障壁となっているというモデルが提示された.加えて頻度因子がH-Si結合のストレッチングモードフォノンに由来することが示唆された.第4章と第5章の変調分子線散乱実験から,有機分子の表面上での拡散には,その間の吸着ポテンシャルや特定の吸着サイト・脱離サイトの存在など,他の研究手法からは推測できない要素が関与していることが明らかになった.

第6章では,KCl基板上のAlq3の系においてレーザー光によるその針状結晶成長の配向制御手法を新たに開発している.結晶成長初期にレーザー照射を行うことによって,レーザーの偏光方向と平行に針状結晶を成長できることが明らかとなった.基板方位と偏光方向の関係や膜厚依存性などの結果から,キナクリドン薄膜などの配向機構とは異なり,光照射によって生じた巨大光起電力により配向成長が起きることが述べられている.

以上述べたように,本論文では,有機分子薄膜成長に関与する因子を変調分子線散乱法という新規な手法により観測して,有機分子の表面上での拡散モデルを提示し,さらにその新たな制御手法を開発した.これらの結果は,化学的な視点から薄膜成長因子の解明手法および制御について新たな可能性を提示するものであり,表面化学の発展に寄与するものである.

なお,本論文のうち第3-5章は,小間篤氏,島田敏宏氏,斉木幸一朗氏との共同研究,第6章は島田敏宏氏,斉木幸一朗氏との共同研究であるが,論文提出者が主体となって実験,解析,考察を行ったものであり,論文提出者の寄与が十分であると判断する.したがって,博士(理学)の学位を受けるのに十分な資格を有すると認める.

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