学位論文要旨



No 121039
著者(漢字) 井上,宏昭
著者(英字)
著者(カナ) イノウエ,ヒロアキ
標題(和) 走査トンネル顕微鏡法による有機-無機ヘテロ構造の解明
標題(洋) Elucidation of organic-inorganic heterostructures with scanning tunneling microscopy
報告番号 121039
報告番号 甲21039
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4839号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 齊木,幸一朗
 東京大学 教授 小林,昭子
 東京大学 教授 長谷川,哲也
 東京大学 助教授 近藤,寛
 東京大学 助教授 田中,健太郎
内容要旨 要旨を表示する

【序論】

現在、有機化合物を用いた電子デバイスの開発は広く注目を集めている。その理由の一つは、これまでのシリコン半導体技術による微細化・集積化の技術的な限界が近づいており、有機物を用いた有機エレクトロニクスによる新機軸の提案が待たれることが挙げられる.その中で、固体表面上で有機化合物が自己集積・自己組織化する性質を、新規の表面加工技術へ応用することが期待されている。この自己組織化の制御のためには、固体表面と有機分子の界面構造を明らかにすることが必須である。

本研究においては、有機半導体の材料として注目されているオリゴチオフェン類の中でも、最も研究が進んでいるα-sexithienyl(6T)(図1)を取り上げ、6T分子を超高真空中で金属の単結晶基板上に成長させ、走査トンネル顕微鏡(STM)を用いて観測することにより、有機・無機界面に特有な構造・電子状態を原子レベルで直接観測し、その起源を明らかにすることを目的として研究をおこなった。

【実験】

本研究で用いた銀単結晶基板は、大気中で研磨・化学エッチングをおこない、これを超高真空装置内に導入後Ar+スパッタリング及びアニールを繰り返し単結晶表面を清浄化した。室温に戻したこの清浄表面に対し、Knudsen-cellから6T分子を真空蒸着させ試料を作製した。この試料を室温でSTM観察した。銀結晶基板の研磨・化学エッチング以後の操作は全て4×10-8Pa以下の超高真空装置内でおこなった。STMの測定には日本電子製JSPM-4500SAを用いた。

【結果と考察】

1ML未満での6Tの構造

6T分子をAg(110)単結晶基板上に成長させた試料の中で、表面被覆率が1ML未満の試料のSTM観察像を図2と図3に示す。図2の100nm×100nmの観察像において、左下から右上にかけて、6T分子が少なくとも100nm以上の長さを持つ分子鎖を形成し、1次元構造をとっていることがわかった。6Tがこのような1次元の分子鎖を形成することから、6Tには強い分子間相互作用が働いていることが示唆される。更にこのSTM像から直接計測した結果、6Tの分子鎖の方向はAg(110)基板の[110]方向に対して約16°ずれていること、また部分的ではあるが約27°ずれている領域があることが分かった。

図3は図2の中央付近をより拡大してスキャンしたものである。左上に黒い矢印で示した部分には基板のAg(110)基板の原子列を観察することができる。この原子列は基板の[110]方向に対して平行である。この観察像では、6Tの分子鎖の中に6T分子を明暗のある分子像として1つ1つはっきりと識別することができる。この6Tの分子像は、1つおきに像の明暗があり(図3の白と黒の四角)、この2分子を1ユニットとして6Tの分子鎖が基板の[001]方向に沿ってスライドしていることから、分子鎖の中では6Tはダイマー構造を形成していることが示唆される。6T分子がダイマーを形成する要因としては、バルク結晶で6Tはherringbone構造をとる(図4)ことから、Ag(110)表面での1次元構造においても6Tが擬似的なherringbone構造に近い2分子会合の状態が、構造的に安定であるからだと考えられる。 また、ダイマーの[001]方向のスライド幅はどのダイマーでも0.4nmの整数倍である。この0.4nmという距離はAg(110)基板の[110]方向に平行なAg原子列の間隔(0.408nm)とほぼ同じであると同時に、6T分子内のチオフェン環の距離(0.399nm)ともほとんど一致する。このことから、6T分子内のチオフェン環は銀原子列と強く相互作用しており、[001]方向にスライドする時もチオフェン環が常に銀原子列上に来るように配列するからだと考えられる。このためにスライド幅が原子列間距離0.4nmの整数倍になる。この6T分子像の長軸方向の長さは2.50±0.10nm、隣接する分子間の距離は0.70±0.02nmであり、長軸方向の距離は6Tのバルク結晶で報告されている値とよく一致している。この観察像から、6T分子と基板の方位関係についても明らかになった。6T分子の長軸方向は矢印で示した基板のAg原子列と直交している。このことから6T分子はAg[001]方向に対して平行になるようにAg(110)基板上配列していることになり、この方位関係はX線吸収端近傍微細構造(NEXAFS)での実験結果と一致する。

6T分子鎖内の隣接する分子間の距離は0.70nmでほぼ一定し、Ag(110)基板の[110]方向の原子間距離が0.28nmであることを考慮すると、6T分子は[110]方向の基板原子2.5原子に1分子の割合で吸着していると考えられる。

以上の結果から1ML未満での6TとAg(110)基板の界面構造のモデルを提案する(図5)。この観察によって、6Tが長い分子鎖を構築すること、Ag(110)基板上での6T原子レベルでの吸着位置が明らかとなった。また6Tの分子間相互作用と、6TとAg(110)基板間の相互作用が存在し、これらの相互作用が1ML未満での界面構造の安定化に強く寄与していることが示唆される。これらの相互作用と6T分子鎖間の反発の釣り合いによって、今回観察された特異的な1次元の分子鎖構造となると考えられる。

1MLでの6Tの構造

図6に6T分子の膜厚が1ML近辺の試料のSTM観察像を示す。この観察像から、6Tは層状成長することが分かった。また、1ML前後では6Tの分子鎖の間隔が密になり、分子鎖の中での6T分子のずれも矯正されている。この構造は、6Tが6Tの第2層を形成するよりも、先にAg(110)基板の表面全体を覆うように6T分子が拡散して吸着することが熱力学的に有利であり、その効果が6T分子鎖間の反発を抑えて図6のような表面全体に6T分子が密に詰まった構造を構築すると考えられる。

1ML以上での6Tの構造

図7に6T分子を1ML以上成長させた試料のSTM観察像を示す。この観察像から、6Tは1次元的な分子鎖構造をとらず、表面全体に密に集積しているのが分かった。また6T分子の配列する方位は大半の6T分子で1ML以下の被覆率の試料と同じく、Ag基板の[001]方向に対し分子の長軸が平行であるのに対し、一部の分子では[001]方向に対して垂直となる配列をとっている(図中の白い矢印)。この垂直方向の方位を取る特異的な6T分子は、STMの走査中に表面を移動することがあり、平行に配向している6T分子よりも下層に対し弱く吸着していることが示唆される。また隣接する6T同士の相対的な位置も1ML以下と比べて規則性・周期性が減少しており、Ag基板と6Tとの相互作用の減少がこのような構造をもたらしていることが示唆される。

サンプル電圧を変化させた場合のSTM観察像の変化

図8に、試料に印加する電圧を系統的に変化させて観察したSTM像を示す。試料電圧が+0.25Vから-0.50Vにかけて6Tの分子像は不鮮明になっているが、これらの領域では6Tを通して流れるトンネル電流が減少していると考えられる。像が不鮮明になるのは6Tのバンドギャップを反映していると考えられる。また+1.5Vと-1.5Vの観察像を比較した場合、+1.5Vの観察像では6Tはダイマーが1つの像として観察されている。これは6TのLUMOの軌道の広がりに対応していると考えられる。

【結論】

Ag(110)単結晶基板上に6Tを成長させ、その表面構造をSTMで観察した。被覆率が1ML未満で6T分子は、特異な一次元分子鎖構造を形成することを明らかにし、その構造モデルを提案した。更に1ML以上の被覆率での観察もおこない、被覆率による表面構造の変化とその決定因子を明らかにした。また、バイアス依存性の測定から、6T/Ag(110)界面特有の電子状態発現の可能性を示唆する観察像を得た。これらの結果は、有機・無機界面特有の構造および電子状態の解明と制御に向けた新たな指標を与えるものである。

図1 α-sexithienylの分子構造

図2 1ML未満での6TのSTM像100nm2、Vs:−1.0V、It:0.10nA

図3 1ML未満での6TのSTM像20nm2、Vs:−1.0V、It:0.10nA

(左)図4 6T バルク結晶でのherringbone 構造

(右)図5 1ML 未満での6T/Ag(110)界面の構造モデル

図61MLでの6TのSTM像60nm2、Vs:−0.50V、It:0.20nA

図71ML以上での6TのSTM像20nm2、Vs:−1.0V、It:0.10nA

図8サンプル電圧を変化させて測定したSTM像20nm2、It=0.10nAVs=(a)+1.50V(b)+1.00V(c)+0.50V(d)+0.25V(e)−0.25V(f)−0.50V(g)−1.00V(h)−1.50V

審査要旨 要旨を表示する

本論文は4章からなる.第1章では総論として本論文の主題である「走査トンネル顕微鏡法による有機−無機ヘテロ構造の解明」についての研究の意義が述べられている.研究の背景として、有機半導体デバイスの発展に重要な意味を持つ有機−無機へテロ界面の構造を探求する必要性を述べ,有機−無機ヘテロ界面のモデル物質として実際の研究で用いたα−sexithienyl(6T)分子とAg(110)基板の特徴について解説している.更にこの6T/Ag(110)ヘテロ界面の先行研究を紹介し,この界面を走査トンネル顕微鏡法(STM)で解明する意義について述べている.

第2章では,本研究で用いた実験手法と装置について述べている.本研究の中心となった走査トンネル顕微鏡法の発明から現在にいたるまでの発展と装置の原理について解説している.また,有機−無機ヘテロ界面作製に必要な手法についても合わせて述べられている.

第3章では,本研究で実際におこなった実験の詳細な手順・条件が述べられている.試料作製とそのSTM観察の手順のほか,測定の精度向上のためにおこなった装置の作製・改良についても述べられている.

第4章では,本研究の実験結果について示し,その実験結果についての考察をおこなっている.第4章は2部構成になっており,第1部では「薄膜成長による表面・界面構造の変化」として6T分子の表面被覆率の増加によって6T/Ag(110)ヘテロ構造がどのように変化していくかを,STM観察の結果に基づいて考察している.STM像から(1) 6T分子がAg(110)基板上での広範囲にわたって特異的な1次元構造を構築すること,(2) 6T分子がダイマーを形成していること,(3) 6T分子軸はAg(110)表面の原子列に直交していること,(4) 構造が1層以下,1層,多層,と膜厚の増加とともに変化すること,など,この界面構造をサブナノメートルオーダーで明らかにし,従来の分光学的手法では分からなかった6T/Ag(110)界面の詳細を説明している.さらに6T被覆率増大に伴う界面構造の変化の原因について考察し,6T−Ag(110)間や6T−6T分子間の相互作用,およびその異方性が構造決定の要因になっていることを明らかにした.

第4章第2部では「6T/Ag(110)界面の電子状態の解明」として,STM測定時に試料に印加する電圧を系統的に変えておこなった結果を示し考察している.試料に印加する電圧が0V近傍では6T分子側には分子軌道が存在しないため,本来ならばトンネル電流が流れないが,チオフェン環の周期に対応する輝点の出現を見出し,この起源を考察した結果,フェルミ準位近傍で6T/Ag(110)界面に形成される新奇界面電子状態であると結論している.

以上に述べたように,有機−無機ヘテロ界面の構造モデルとして,6T/Ag(110)界面を取り上げ,STM観察によってその界面構造,界面電子状態を解明した.本研究で得られた知見はこの系にとどまらず,有機分子-金属界面構造の制御に一指針をあたえるものである.

なお,本論文のうち第4章は,斉木幸一朗氏,吉川元起氏との共同研究であるが,論文提出者が主体となって実験,解析,考察を行ったものであり,論文提出者の寄与が十分であると判断する.したがって,博士(理学)の学位を受けるのに十分な資格を有すると認める.

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