学位論文要旨



No 121043
著者(漢字) 重藤,真介
著者(英字)
著者(カナ) シゲトウ,シンスケ
標題(和) 非線形ラマン分光法を用いた凝縮相における局所構造の研究
標題(洋) Local Structures in the Condensed Phase Studied by Nonlinear Raman Spectroscopy
報告番号 121043
報告番号 甲21043
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4843号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 口,宏夫
 東京大学 教授 太田,俊明
 東京大学 教授 岩澤,康裕
 東京大学 教授 山内,薫
 東京大学 教授 高塚,和夫
内容要旨 要旨を表示する

巨視的に見ると透明で一様な液体や溶液であっても、分子レベルでは必ずしも均一であるとは限らない。構成分子の間にはたらく分子間相互作用によって、多様な微視的構造(局所構造)が形成されていると考えられる。このような局所構造に関する知見は、液体構造の本質を理解するためだけでなく、いわゆる溶媒効果や溶液・液体物性を分子論的な視点に基づいて議論するために不可欠である。

光電場と物質との複数回の相互作用を用いた非線形ラマン分光法は、振動共鳴を利用することで分子特異的に局所構造の研究を行うことができるという利点を有している。本論文では、3次の非線形光学過程の一つであるcoherent anti-Stokes Raman scattering(CARS)を基盤とした凝縮相中の局所構造の新しいプローブ手法の開発と、その液体・溶液系への応用を行った。

カスケードCARS過程を用いたベンゼン/n-ヘキサン混合溶媒中の局所構造形成の研究(第2章)

カスケードCARS過程は試料中の2つの分子集団が関与して起こる全体で5次の非線形光学過程である。図1(a)にそのエネルギーダイアグラムを示す。ある分子集団aでのCARS過程により発生したCARS光が、別の分子集団bにおけるCARS過程のプローブ電場として作用し、その結果、振動数ωcascade=3ω1-2ω2のカスケード信号が位相整合方向kcascadeに発生する(図1(b))。このカスケード過程は2つの分子集団にまたがって起こる光学過程であるため、それらの光学的な環境を鋭敏に反映していると期待される。

本研究では、代表的な有機溶媒であるベンゼンとn-ヘキサンの混合溶媒10種類(ベンゼン濃度:2.2-11.2mol dm-3)に対して、ベンゼンの環呼吸振動モード(992cm-1)のカスケード信号強度のベンゼン濃度依存性を調べた。混合溶媒が微視的に均一な場合、カスケード信号強度はベンゼン濃度Nの4乗に比例する。これに対して、混合溶媒中に何らかの局所構造が形成されているような場合には、より複雑な依存性を示すと考えられる。図2の実線が示すように、6.7 mol dm-3より低い濃度領域では、カスケード信号強度はほぼN4に比例(Icascade∝Nα,α=4.3±0.1)しているが、それより高い濃度領域ではN4依存性からの顕著なずれが観測された。濃度依存性におけるこのような特異な振る舞いは、混合溶媒の巨視的な性質(密度や屈折率など)では説明できない。この結果は混合溶媒中でベンゼン分子が局所構造を形成することで生じる光学不均一性によるものであると解釈することができる。ベンゼン分子から構成されるドメインとn-ヘキサン分子から構成されるドメインが位相整合方向に交互に並んでいるモデルを考え、その中でのカスケード信号の発生および伝播の定式化を行った。このモデルに基づいて計算を行うと、ベンゼン濃度7.8 mol dm-3におけるN4依存性からの信号強度の減少は〜80%と見積もられ、実験結果(〜60%)を半定量的に説明することができた。

CARS信号の空間分布測定による液体・溶液中の局所構造の研究

位相整合方向における非線形ラマン信号強度の測定をさらに発展させ、他の角度方向で信号強度を測定し解析することで、液体・溶液中の局所構造の大きさに関する定量的な知見が得られる可能性がある。

本研究では特にCARSに着目し、CARS信号の空間分布測定の装置を製作した。ブロック図を図3に示す。再生増幅器およびマルチパスアンプにより増幅されたTi:Sapphireレーザーの基本波(800nm,〜3ps,1kHz)およびその第二高調波を用いて励起した2台の光パラメトリック増幅器(OPA)の出力をCARSのω1(568nmで固定)およびω2(振動モードに応じて600nm付近で可変)として用いた。通常の2ビーム配置で発生させたCARS信号の空間分布パターンを、位相整合方向kCARS=2k1-k2からの角度θの関数として測定した。

(1)ベンゼン混合溶媒のCARS信号の空間分布パターン(第3章)

ベンゼンと4種類の有機溶媒(シクロヘキサン、四塩化炭素、エタノール、アセトニトリル)の混合溶媒(ベンゼン濃度7.9 mol dm-3)に対して、ベンゼン環呼吸振動モードのCARS信号の空間分布測定を行った。Neatベンゼンおよび混合溶媒の空間分布パターンをθ=0°で規格化して示したものが図4である。ベンゼン/シクロヘキサンの分布パターンはneatベンゼンのそれに比べて、ほとんど変化していない。この結果は、ベンゼンとシクロヘキサンがミクロなレベルでも完全に混合しており、光学不均一性が生じていないことを示唆している。一方、他の混合溶媒はいずれも明らかに広がった空間分布パターンを示しており、その広がりの程度はベンゼン/アセトニトリルで最も顕著となっている。これらの結果から、CARS信号の空間分布パターンが混合溶媒の微視的な性質、すなわち局所構造形成を反映して実際に変化することが定性的に確かめられた。

(2)ポリスチレン微粒子分散系に対するCARS信号の空間分布測定とシミュレーション(第3章)

CARS信号の空間分布と液体・溶液中の局所構造の関係を定量的に取り扱うために、大きさが既知のポリスチレン微粒子を水に懸濁させた試料に対して、ベンゼン環振動モード(1000cm-1)のCARS信号の空間分布パターンを測定した。さらに、以下で述べるモデルに基づいたシミュレーションを行い、実験結果と比較・検討した。

CARS信号は、媒質中に誘起された3次の非線形分極から発生する分極波の重ね合わせとして記述することができる。分子レベルで均一な試料では、分極波が試料の長さ全体にわたってコヒーレントに重ね合わされるため、CARS信号は位相整合方向によく収束された空間分布パターンを示す。これに対して、局所構造形成に伴う光学不均一性が存在する場合、コヒーレントに重ね合わされる領域がそれぞれの局所構造の中だけとなる。その結果、均一な場合に比べて位相整合条件が十分に満たされなくなり、CARS信号の空間分布が広がると考えられる。すなわち、局所構造の大きさが小さいほど、広がった空間分布パターンを示すと期待される。

直径0.10μmおよび0.35μmの球形のポリスチレン微粒子の水懸濁液を試料として得られた実測の空間分布パターンと、上記モデルに基づいたシミュレーション結果との比較を図5(a),(b)に示す。図5(a)から、直径の小さいポリスチレン微粒子の方が広がった空間分布を示すという傾向が実験で観測され、それをシミュレーションでよく再現できていることがわかる。また、信号の相対強度を比較した図5(b)においても、実験結果とシミュレーションは良い一致を示している。したがって、少なくともポリスチレン微粒子分散系に関しては、CARSの位相整合緩和のモデルを用いて実験結果を定量的に説明することができたと言える。

(3)イオン液体Cnmim[PF6](n=4,6,8)のCARS信号の空間分布パターン(第4章)

イオン液体はイオンのみから構成される液体で、近年、基礎・応用両面から大きな注目を集めている新しい化合物群である。当研究室でのラマン分光や広角X線散乱などの実験から、イオン液体が通常の分子液体とは違う特異な微視的構造を持っているのではないかという作業仮説が提示されている。本研究ではCARS信号の空間分布測定を用いて、このような局所構造が本当に存在するのか、存在するとしたらどの程度の大きさなのか、といったイオン液体構造の解明につながる情報を得ることを目指した。

本研究で対象としたイオン液体は、1-アルキル-3-メチルイミダゾリウムヘキサフルオロリン酸(Cnmim[PF6]、図6)で、カチオンのアルキル鎖の長さnが4,6,8のものを用いた。PF6-全対称伸縮振動モード(750cm-1)のCARS信号の空間分布パターンを測定した(図7)。アルキル鎖の長さnが大きくなるにしたがって、分布パターンの幅が狭くなっている。このような空間分布パターンの変化は、これらのイオン液体中に局所構造が形成され、その大きさがアルキル鎖の長さに依存して変わることを示していると考えられる。また、ここで観測された変化の傾向は、nが大きい方がアルキル鎖どうしの相互作用によってより大きな局所構造を形成しているのではないかという予想を支持するものである。

イオン液体の持つ局所構造のモデルとしては、結晶状態と類似の秩序だったミクロな構造が液体状態においても残っているような状況を考えることができる。本手法は数ナノ〜数十ナノメートルのオーダーの局所構造に対して敏感であると考えられ、今回の実験結果はCnmim[PF6]の局所構造の大きさがそれくらいのスケールであることを示唆している。

(4)エタノール水溶液のCARS信号の空間分布パターン(第5章)

アルコールと水の「混ざりやすさ」と局所構造をめぐる問題は非常に長い歴史を有しており、様々な手法による研究が最近においても盛んに行われている。エタノールのC-C-O対称伸縮振動モード(883cm-1)のCARS信号について、エタノールと水を混合した直後に測定した空間分布パターンと、封入セルに入れて2週間ほど放置してから測定したものとの比較を行った。同じ組成の水溶液でありながら、それらの空間分布パターンが有意に異なるという興味深い結果が得られた。試料の温度変化や酸素の影響などに対する詳細な研究が必要であるが、少なくとも今回の結果から、CARS信号の空間分布測定を用いることでアルコール水溶液中の局所構造を定量的に解析できる可能性が示されたと言える。

図1 カスケードCARS過程の(a)エネルギーダイアグラムと(b)位相整合条件

図2 ベンゼンのカスケード信号強度の濃度依存性

図3 CARS信号の空間分布測定の装置

図4 ベンゼン混合溶媒のCARS信号の空間分布パターン。比較のためにneatベンゼンの空間分布パターンを点線で繰り返し示してある。

図5 ポリスチレン微粒子のCARS信号の空間分布測定の実験結果およびシミュレーション結果。(a)は0θ=°で規格化したもので、(b)は相対強度も含めて比較したもの。

図6 Cnmim[PF6]の構造式

図7 Cnmim[PF6]のCARS信号の空間分布パターン

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、凝縮相中の局所構造を研究するための新しい非線形ラマン分光法の開発といくつかの液体・溶液系への応用を主題としており、6章から構成されている。

第1章では導入として、凝縮相中の局所構造研究のもつ意義と本研究で開発した手法の基盤となるコヒーレントアンチストークスラマン散乱(CARS)について述べられている。第2章では、2つの分子集団の間でCARS過程が連続して起こるカスケードCARS過程をプローブとした、ベンゼン/n-ヘキサン混合溶媒中の局所構造形成の研究について述べられている。カスケード信号強度のベンゼン濃度依存性が詳細に調べられ、均一な溶液を仮定すると説明できない特異な振る舞いを示すことが見出された。この実験結果は、混合溶媒中でベンゼンが何らかの局所構造を形成していることを示唆している。第3章では、局所構造の大きさに関するより定量的な解析に向けて新たに提案したCARS信号の空間分布測定の基本原理、実験装置、およびデモンストレーションの結果が記されている。ベンゼン混合溶媒およびポリスチレン微粒子懸濁液に対する実験結果から、CARS信号の空間分布パターンが試料中の局所構造を鋭敏に反映し、その大きさに関する定量的情報を有していることが示された。第4章は、第3章で述べたCARS信号の空間分布測定をイオン液体へ応用した結果について述べられている。このイオン液体のカチオン部分のアルキル鎖長を変化させてCARS信号の空間分布測定を行った。イオン液体中に数ナノ〜数十ナノメートルの大きさの局所構造が存在することが示唆された。第5章は、エタノール水溶液への応用結果についての記述である。エタノール水溶液の空間分布パターンが混合直後と混合2週間後とで有意に異なるという非常に興味深い結果が得られた。このような空間分布パターンの経時変化はエタノール水溶液の微視的混合状態の時間変化を反映していると考えられる。これは本手法により初めて観測された現象である。第6章では、研究成果のまとめと将来に向けた展望が述べられている。

本研究において提出者は、従来のX線・中性子散乱や赤外・ラマン分光法では分子特異的かつ定量的に研究することが困難であったメソスコピックスケールの局所構造のプローブ手法を開発した。とくに、CARS信号の空間分布測定によって、イオン液体やエタノール水溶液中の局所構造形成に関する新たな知見を得た。結果として提出者は、本手法が凝縮相中の局所構造を分子特異的かつ定量的に研究するうえで、極めて有力であることを示した。これらの業績は独創性に富み、また丁寧に実行された実験と独自のシミュレーションとに基づいており、極めて高く評価される。

本論文第2章はThe Journal of Chemical Physicsのfull paperとして公表済み(加納英明、濱口宏夫との共著)、第3章はChemical Physics Lettersの速報として公表済み(濱口宏夫との共著)であるが、論文提出者が主体となって実験および解析を行なっており、その寄与が十分であるので、学位論文の一部とすることに何ら問題はないと判断する。

以上の理由から、論文提出者重藤真介に博士(理学)の学位を授与することが適当であると認める。

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