学位論文要旨



No 121044
著者(漢字) 島田,透
著者(英字)
著者(カナ) シマダ,トオル
標題(和) X線光電子回折法を用いた固体表面吸着分子の構造研究
標題(洋) Structural Studies of Molecular Adsorbates on Noble Metal Surfaces with the X-ray Photoelectron Diffraction Method
報告番号 121044
報告番号 甲21044
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4844号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 太田,俊明
 東京大学 教授 岩沢,康裕
 東京大学 教授 浜口,宏夫
 東京大学 助教授 佐々木,岳彦
 東京大学 助教授 吉信,淳
内容要旨 要旨を表示する

[序]

固体表面に吸着した分子の物理的、化学的相互作用の理解には、構造に関する情報は必要不可欠なものである。固体表面の構造を決める手法として、低速電子回折(LEED)法、表面広域X線吸収微細構造(SEXAFS)法などがあるが、近年、X線光電子回折(XPD)法が注目を集めている。この手法は、X線によって励起された内殻電子が、周囲の原子によって弾性散乱された電子と干渉して生じる回折現象を、エネルギーを固定して空間的な電子の角度分布で調べたり、放出角を固定して励起エネルギー依存性から調べるものである。内殻光電子スペクトルの強度変化であるから、LEEDと異なり元素選択性があること、表面XAFSと異なり化学種選択性がある。このようにXPD法は情報量が多い優れた手法であるが、これまであまり多くの報告例が無かった。その理由は、幅広い軟X線領域の光を供給する放射光ビームラインが無かったことによる。我々の研究室では2001年にスペクトル化学研究センターの軟X線ビームラインBL-7Aを再構築した。そこで、私は博士課程において、固体表面構造解析のためのXPD法を確立し、この手法を論争となっているいくつかの系に適用することを目的として研究を行った。

[測定手法の確立]

全ての実験は高エネルギー加速器研究機構放射光科学研究施設(KEK-PF)の軟X線ビームラインBL-7Aにおいて行なった。XPDは光電子分光(XPS)法の特殊な使用法であり、膨大な数の光電子スペクトルをできるだけ短時間で得ることが要請される。XPDでは、角度掃引法とエネルギー掃引法の2つの手法の確立が必要であるが、角度掃引に関しては試料マニピュレータにおいて、極角及び方位角を自動制御するシステムを開発した。また、エネルギー掃引法に関しては、ビームラインの分光器制御用、光電子分光器制御用、試料マニピュレータ制御用の3台のコンピューターを連動させることで光電子スペクトルの自動測定に成功した。プログラムの作成にはLabVIEWを用いた。これにより測定時間が大幅に短縮され、X線照射による試料への影響も軽減された。

[XPDの適用]

CH3SH及びC6H13SH/Au(111)

アルカンチオールは金基板上に自己組織化膜を形成することが知られている。1980年代にこの膜が初めて見出されて以来、膜構造を制御することによって様々な機能を持たせることを目的とした研究が数多くなされてきた。しかし、分子と基板の界面の構造に関しては様々なモデルが提案され論争となっている。そこで、この系にXPDを適用することで、Au(111)表面上におけるアルカンチオール、とくにメタンチオール(CH3SH)及びヘキサンチオール(C6H13SH)の構造に関する研究を行った。

試料はAu(111)単結晶清浄表面にメタンチオールまたはヘキサンチオールを室温で吸着させることで作成した。作成した試料はメタンチオールでは飽和相、ヘキサンチオールでは飽和相及びストライプ相である。ヘキサンチオールの自己組織化膜を真空中で作成すると、多段階成長様式をとることが知られており、ストライプ相は飽和相作成の途中で現れる分子軸を表面に横たえ、ある決まった結晶軸方向にヘキサンチオールが配列している相である。XPDの測定はS 2p XPSピーク強度のX線エネルギー掃引によって行った。得られたXPSピーク強度変化は回折成分のみを抽出しχ関数とし、モデル構造に対する多重散乱計算と比較した。多重散乱計算にはMSCD(Multiple Scattering Calculation of Diffraction)コードを用いた。実験によって得られたχ関数を最もよく再現する構造モデルをR-factor解析により決定した。

S 2p XPSの測定結果から、メタンチオール及びヘキサンチオールは共にS-Hが切れたチオレートとして表面に存在していることが分かった。また、C-K NEXAFSの結果から、ヘキサンチオールストライプ相では、分子面が基板と平行のside-on型で吸着していることが分かった。メタンチオール及びヘキサンチオールストライプ相の各サイトモデルについて、S-Au距離を変えながらR-factorを求めて最適構造を求めたところ、atopサイトモデルでR-factorが下がり、実験結果をよく再現することが分かった。ヘキサンチオール飽和相では、X線の照射により膜の一部が損傷を受けてしまうが、atopサイトモデルに近い結果を与えていた。また、これまで提案されているいくつかのモデルに対しても多重散乱シミュレーションから、誤りであることを明らかにし、atopモデルの妥当性を確認した。本研究により、これまでの論争に決着をつけることができた。

NO/Pt(110)

Pt(110)表面は[110]方向の原子列欠損を伴った(2×1)再構成することが知られている。この表面に飽和吸着したNOは、原子列上のatopサイトに吸着することが赤外反射吸収分光法(IRAS)により報告されている。Geらは密度汎関数理論(DFT)計算により、NOが表面垂直から約25°[110]方向に傾くことによって隣のNOとの間に軌道の重なりを生じ、一種のポリマーを生成するというモデルを提案している。しかし、最近OritaらはDFT計算によって、原子列上のatopサイトに互い違いに約50°傾いて存在するNOだけでなく、原子列間のlong-bridgeサイトに垂直に吸着したNO分子が存在するモデルを提案した。そこで、この系についてXPDによる実験を行った。

試料は180KでNOガスをPt(110)表面に飽和させることで作成した。XPDは、N 1s XPSについて放出電子の極角を基板原子列に平行([110])方向と垂直([001])方向に沿って掃引することで得た。光電子回折強度はN 1s XPS強度をO 1s XPS強度とX線の強度で割って規格化して得た。実験で得られたXPDカーブと、モデル構造に対するシミュレーションによるカーブを比較することで吸着構造を決定した。シミュレーションにMSCDコードを用いた。

XPSからNOの吸着量を見積もったところ、NOが原子列上だけでなく原子列間にも存在することが示唆された。モデル構造に対するシミュレーションでも、原子列間にNOを入れないときには実験結果の再現が悪かった。これは、OritaらのDFTを用いた計算で提案されているように、IRASでは観測されないNOが原子列の間に存在することを示している。詳細な解析の結果、NOはatopサイトに吸着し、分子軸を基板原子列[110]方向から約50°の方向に,表面垂直から約50°傾くことが分かった。Pt(110)表面に吸着したNOの構造は、これら2つのモデルのうち,OritaらのDFT用いた計算によるモデルに近い構造を取っていることを実験的に明らかにした。

[CO/Co/Pd(111)]

近年、磁性薄膜の容易磁化軸が面内⇔面直へ転移する、いわゆるスピン再配列相転移が分子吸着によって誘起される現象がいくつかの系で観測されている。その中で、3.5〜6.5ML Co/Pd(111)では、200KでCOが吸着すると面内から面直へのスピン再配列が起こるが、300Kでは起こらないという不思議な現象が我々の研究室で見いだされた。同時に測定したC 1s XPSスペクトルから、300Kでは単一ピーク、200Kでは、高エネルギー側に肩構造が観測される。そして、肩構造の出現がスピン再配列相転移と密接な相関があることが明らかになった。そこで、XPDを用いて300Kと200KでのCO吸着構造を調べた。

試料はCoが5MLのCo/Pd(111)表面を300及び200KでCOガスに曝し、飽和吸着状態にしたものを用いた。XPDの測定はC1s XPSピーク強度のX線エネルギー掃引によって行った。得られたXPSピーク強度変化は回折成分のみを抽出しχ関数とし、モデル構造に対する多重散乱計算と比較した。多重散乱計算にはMSCDコードを用いた。解析には投影法(projection method)を用いた。

300Kの結果から、COはatopサイトにCo-C間距離1.80Åで吸着していることが分かった。200Kの結果から、COはatopサイト以外にbridgeサイトにも吸着していることが明らかとなった。これらの結果から、atopサイトへの吸着は磁気異方性に影響を与えず、bridgeサイトへの吸着が磁性薄膜のスピン再配列を誘起することが明らかになった。

図1 ヘキサンチオール‘ストライプ相'の各サイトに対して、S-Au間距離をパラメータにして行ったときのR-factor

図2 (左)ヘキサンチオール‘ストライプ相'の実験結果(実線)とS-Au間距離2.40Å、atopモデルのシミュレーション結果(点線)。(右)このときのヘキサンチオールの吸着モデル。c(15×√3)及びp(√3×5√3)R30°ユニットセルも示す。

図3 角度掃引XPDの実験結果(実験結果)。R-factor解析から求めた最適構造に対するシミュレーション結果(点線)。

図4 角度掃引XPDのR-factor解析から求めたNO/Pt(110)モデル。

図5 CO/Co/Pd(111)系にprojection methodを用いた結果。(左)300K。COはCo-C間距離1.80Åでatopサイトに吸着。(右)200K。COはCo-C層間距離1.85及び1.70Åで、それぞれatop及びbridgeサイトに吸着している。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は6章よりなる。第1章は序論であり,表面に吸着した分子の構造を調べる意義,さまざまな研究手法,とりわけ,X線光電子回折法(XPD)の有効性,その発展の歴史が述べられた後,本論文の目的として,これまで吸着構造が論争の的で決着が付いていなかった系,構造解析が困難であった系にXPDを応用した事が述べられている。

第2章では実験法について述べられている。特に,XPDの原理,軟X線ビームラインの構成とその仕様,角度掃引XPD,エネルギー掃引XPD実験を可能にするためのさまざまな開発,試料周りの改造,そして,解析プログラムの具体的な内容が記述されている。

第3章ではAu(111)表面上に真空蒸着したアルカンチオレイト自己組織化膜の吸着構造の解明にXPDを用いた結果が示されている。特に,飽和吸着系に関してはこれまで理論,実験両面からさまざまなモデルが提案され,論争の的になっていた。メチルチオレイト吸着系について,エネルギー掃引XPD,角度掃引XPDの実験とその多重散乱理論解析から,これまで提案されていなかった構造,即ち,Sがatop吸着し,S−C結合が[-211],[-12-1]方向に表面垂直から50°傾いている構造であることを明らかにし,これまでの論争に決着をつけた。また,低吸着量ではストライプ相を形成するが,その構造解析もXPD法を用いて行い,アルキル基を基板に平行にしてSがatopサイトに吸着した構造であることを明らかにした。

第4章では,これまで構造解析が難解であるとされていたNO/Pt(110)へ応用した結果について述べられている。Pt(110)表面は[-110]の方向に原子列欠損を伴った(2x1)再構成をしているが,この表面に飽和吸着したNOについてはこれまでにも二つの矛盾した構造モデルが提案されていた。一つは吸着したNOがポリマーを形成しているというもの,他の一つはatopに吸着したNOがジグザグに傾いているというものであった。ここでは,X線光電子分光法(XPS),NEXAFS法をXPDと併用する事で,複雑なNOの吸着構造を明らかにした。それによると,NOは2種類のサイトを占有している。一つは原子列間のhollowサイトに面直配向したもの,他の一つはatopサイトに表面垂直から50°,更に[110]方向から50°傾いた吸着構造をとるというものであり,ポリマーモデルは否定され,最近のDFT計算と良い一致をしている。

第5章は表面磁性で興味ある現象を示す4 ML Co/Pd(111)上のCO吸着構造である。この系は,清浄表面でスピンが面内配向しており,300 KでCOを飽和吸着しても変化は無いが,200 KでCOを飽和吸着させるとスピン再配列転移が起こって面直配向する。C1sスペクトルは,300Kで単一ピーク,200Kでさらに肩構造をもつ。このCO吸着温度による違いの原因を明らかにするために,200KでCOの被覆率を上げながら,XPSとX線磁気円二色性(XMCD)を同時に測定したところ,C 1sピークに肩が出現すると同時に磁気相転移が起こった。すなわち,C 1sスペクトルに現れる肩構造と磁気相転移が密接に関わっていることが分った。このC1sスペクトルの主ピークと肩構造はCOの吸着サイトが異なることによることが知られているので,どのサイトに対応しているかをC1sのXPD測定とその解析から調べた。その結果,300Kではatopサイトに吸着,200Kではatopサイトとbridgeサイトに吸着していることが分った。したがって,COがbridgeサイトに吸着することがスピン再配列転移を起こす要因であることが明らかになった。

以上のように,本論文では,放射光を光源にしたXPDの実験法を確立し,これまで吸着構造が不明であったり,論争の的になっていた系にこの方法を適用して,それらの構造を明らかにした。これらの研究は表面化学に大きな貢献をしただけでなく,これからも強力な表面解析手法を適用することで,新たな展開が期待でき,博士(理学)に値すると考えられる。

なお,本論文は太田俊明,近藤 寛,松村 大樹,岩崎正興,中井郁代との共同研究であるが,論文提出者が主体となって開発,実験,及び解析を行ったものであり,論文提出者の寄与が十分であると判断する。

したがって,博士〈理学〉の学位を授与できると認める。

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