学位論文要旨



No 121050
著者(漢字) 林,賢
著者(英字)
著者(カナ) ハヤシ,サトシ
標題(和) ブチルメチルイミダゾリウムをカチオンとするイオン液体の液体構造の研究
標題(洋) Study on liquid structure of butylmethylimidazolium-based ionic liquids
報告番号 121050
報告番号 甲21050
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4850号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 濵口,宏夫
 東京大学 教授 小林,昭子
 東京大学 教授 梅澤,喜夫
 東京大学 教授 西原,寛
 東京大学 教授 永田,敬
内容要旨 要旨を表示する

{序}

イオン液体は、イオンだけで構成され常温で液体となる一連の化合物である。通常の塩とは異なりイオンのみから構成されるにもかかわらず常温で液体になり、物理化学的に大変興味もたれる。また、イオン液体中には分子液体と異なりクーロン相互作用が存在し、これまでにない液体構造をしていると可能性がある。このように新規な液体としての基礎研究が始まったばかりであり、様々なカチオン、アニオンの組み合わせからなる多様なイオン液体が調べられている。最も代表的なイオン液体のカチオンに、ブチルメチルイミダゾリウムがある。本研究ではこのカチオンに注目し、アニオンをハロゲンイオンとする典型的なイオン液体であるbmimCl(1-n-butyl-3-methylimidazolium chloride)とbmimBr(1-n-butyl-3-methylimidazolium bromide)(図1)を試料として用いた。私は、ラマンスペクトルと粉末X線パターンにより、bmimClがbmimCl Crystal(1)とbmimCl Crystal(2)の結晶多形があることを見出した。一方、bmimBrの結晶形は一つであった。そこで、これらの結晶について結晶構造とラマンスペクトルの関係を明らかにするため、結晶の単結晶X 線構造解析とラマンスペクトルの測定を行なった。さらに、ラマン分光を用いて結晶から液体への融解過程の構造変化を観測し、結晶と液体の構造の関係について検討した。これらの結果から、イオン液体の液体構造についての仮説を立て、その仮説をもとにすることで磁石に反応する液体である磁性イオン液体bmim[FeCl4]の発見につながった。本論文では、第一章はイオン液体について、bmimClの液体構造に関することが主題であり第二章から第五章に記述した。第六章に磁性イオン液体bmim[FeCl4]について記述した。

{実験}

はじめに試料であるbmimClとbmimBrをメチルイミダゾールとクロロブタンまたはブロモブタンから合成した。bmimClの融点は約67℃であり、bmimBrの融点は約70℃であり室温では固体となる。この二つの物質は吸湿性が高いため封入などの操作は乾燥窒素に置換したグローブボックス中で行った。アセトニトリルを溶媒として飽和溶液を冷却し単結晶を作製した。結晶の形はCrystal(1)が平板状で、Crystal(2)とbmimBr が針状であった。約0.5 mm角にカットした結晶をガラスキャピラーに封入しX線結晶構造解析を行った。X線結晶構造解析にはCCD単結晶X線構造解析装置MERCURY CCD system(Rigaku)を用いた。

また、融解過程の測定用の試料も同様にグローブボックス中で結晶を約0.5mm角くらいの大きさにカットしてキャピラリーに封入した。キャピラリーに封入した結晶を室温から約72 ℃まで数秒で素早く加熱し、融解過程を観察しながら1分ごとのラマンスペクトルを測定した。対照実験として有機化合物で融点が65 ℃のDPA(diphenylacetylene)の結晶を用いて同様に約0.5mm角くらいの大きさにカットしてキャピラリーに封入し実験した。

磁性イオン液体bmim[FeCl4]の合成は、単結晶化したbmimClと塩化鉄FeCl3を1対1のモル比で混合した。bmim[FeCl4]の基礎的なデータ(ラマンスペクトル、磁化)の測定を行った。

ラマンスペクトルの測定には、Q-switch Nd:YAGレーザーの基本波(1064nm、5kHz、100ns)を励起光とし、試料への入射光に対して90 度方向の散乱光を分光器で波長分解し、光電面にInP/InGaAsPを用いた近赤外イメージインテンシファイア付きCCD(浜松ホトニクス製)で検出した。検出器の感度は900nmから1350nmの波長領域で量子効率2%の感度であり2000cm-1 のラマンシフトまで測定可能である。近赤外の励起光を用いることにより、試料中に含まれる極微量の不純物からの蛍光を回避して、良好なS/N 比のラマンスペクトルを得ることができた。

{結果と考察}

[結晶構造とラマンスペクトル]

 Crystal(1)とCrystal(2)のラマンスペクトルを測定し比較すると結晶ごとに特徴的なバンドがある。Crystal(1)のラマンスペクトル(図2 b)で特徴的なバンドは625,730cm-1にあり、Crystal(2)のラマンスペクトル(図2 c)では500,603,701cm-1に存在する。

Crystal(1)とbmimBrのX線結晶構造解析に成功し、それぞれの結晶中ではカチオン、アニオンがカラム状に連なっている結果が得られた報文2。また、それぞれの結晶中では、bmim+カチオンのブチル基のコンフォメーションが異なっていることが分かった(図3)。bmim+カチオンのブチル基のコンフォメーションはCrystal(1)中ではtrans-trans型(TT)であり、bmimBrの結晶中ではtrans-gauche型(TG)であることがわかった(図3)。bmimBrの結晶とCrystal(2)のラマンスペクトルは非常によく似ている(図2 c,d)ので、Crystal(2)中のbmim+カチオンのブチル基のコンフォメーションはtrans-gauche型(TG)であると考えられる。また、Crystal(1)中ではbmim+カチオンのブチル基が互いにスタックしていることからブチル基間では相互作用していると考えられる。

Crystal(1)とbmimBrの結晶中のbmim+カチオンは回転異性体の関係にあり、bmimClのラマンスペクトルからはカチオンの構造を反映した情報を得られることから、Crystal(1)のラマンスペクトルの625,730cm-1、Crystal(2)のラマンスペクトルの500,603,701 cm-1のバンドは回転異性体のマーカーバンド(矢印で示した)と考えられる(図2)。そして、bmimCl液体のラマンスペクトルにそれらのマーカーバンドが共存することからイオン液体bmimClにはブチル基のコンフォメーションが異なる回転異性体が存在すると考えられる(図2 a)。

[融解過程時の構造変化]

Crystal(1)の結晶は0.5 mm程度の大きさで小さく、一気に約72℃に加熱すると瞬間的に融解して見た目には透明な液体となった。しかし、Crystal(1)を約72℃に加熱しはじめた直後に、ラマンスペクトルを測定すると、液体と結晶が混在するようなスペクトルが得られた(図4,Crystal(1))。その後、液体のラマンスペクトルを示すまではさらに長い時間がかかった。比較のため、DPA結晶を用いて同様の実験を行った。DPAは結晶のラマンスペクトルと液体のラマンスペクトルではバンドの強度比が異なり、結晶では540cm-1のバンドの強度に対する380cm-1と705cm-1のバンドの強度が大きい(図4,DPA)。同様に融解実験を行うと約72℃に加熱するとDPAも瞬間的に融解して見た目に液体となった。DPAでは融解させ見た目の変化に応じてすぐに液体のスペクトルを示した(図4,DPA)。

次にCrystal(1)のマーカーバンド(625cm-1)とCrystal(2)のマーカーバンド(603cm-1)のバンド強度比の時間変化と、DPAのラマンスペクトルの540cm-1と380cm-1のバンド強度比の時間変化をプロットした(図5)。DPAでは、加熱後30秒で液体のスペクトルが得られるのに対し、Crystal(1)では液体のマーカーバンドの強度比に近い強度比のスペクトルが得られたのは5分以降であった。この結果は、Crystal(1)の融解過程では、bmim+カチオンのブチル基のコンフォメーションがtrans-trans 型からtrans-gauche型への変換が起こりにくいことを示唆している。

イオン液体中ではブチル基の環境が一般的な有機溶媒と異なりイオン間やブチル基間などの相互作用があり、コンフォメーションがtrans-trans型からtrans-gauche型への変換が起こりにくく、複数のカチオンが共同的に変換しているのではなかと考えられる。共同的な空間の大きさは液体が透明であることから可視光以下の大きさであると推察される。以上のことからイオン液体はカチオンが回転異性体の関係にあるCrystal(1)とCrystal(2)に類似した部分構造が共存する液体構造を持つ可能性があると考えられる。

[磁性イオン液体]

磁性イオン液体の合成では、bmimClと無水塩化鉄FeCl3を1対1のモル比で混合すると、固体同士が直接反応し、発熱しながら磁性イオン液体となった。この液体は、図6のように磁石に反応する興味深い液体であった。bmim[FeCl4]のラマンスペクトルより、カチオンがbmimでありアニオンがFeCl4であることがわかった(図7)。次にbmim[FeCl4]の5から350Kでの磁気モーメントの温度依存性をSQUIDにより磁化を測定した。磁気モーメントの温度依存性はキュリー的であり常磁性的変化を示した。

図1 bmimClとbmimBrの構造式

図2 結晶と液体のラマンスペクトル

図3 X線構造解析結果

図4 融解時のスペクトル変化

図5 バンド強度比の時間変化

図6 磁性イオン液体の磁石との反応

図7 bmimClとbmim[FeCl4]のラマンスペクトル

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、近赤外ラマン分光法によるイオン液体bmimCl(1-n-butyl-3-methyl imidazolium chloride)の結晶多形の発見ならびにイオン液体の液体構造の研究を主題として、6章から構成されている。

第1章では導入として、イオン液体の特徴と興味のポイント、これまでのイオン液体の研究など、本研究の背景ならびに本研究の目的が述べられている。第2章では、一般的イオン液体の合成法に加え、本研究に用いられたイオン液体の合成に関する詳細が述べられている。第3章は、近赤外ラマン分光法によるbmimClの結晶多形の発見に関する記述である。近赤外ラマン分光法の採用により、不純物からの蛍光や、試料からの非弾性散乱によるラマンスペクトル測定の妨害を低減させることに成功した。その結果、固体粉末および液体状態のbmimClのラマン測定を精度よく行うことが可能となり、結晶多形(Crystal(1)およびCrystal(2))の発見につながった。さらに、Crystal(1)とCrystal(2)には、そのカチオンのイオン構造の差異を鋭敏に反映するマーカーバンドが存在することを見出した。第4章では、Crystal(1)および、Crystal(2)と同形であるbmimBrの単結晶X線構造解析の結果が記述されており、結晶多形がイミダゾリウムカチオンのブチル基の内部回転異性によるものであることが示されている。結晶と液体のラマンスペクトルの比較から、液体中には2種の回転異性体が共存することも示された。第5章には、近赤外ラマン分光法を用いたCrystal(1)から液体への融解過程の実時間観測実験の結果が示されている。融解した液体中の回転異性体の緩和が著しく遅いことを明らかにし、イオン液体中には、それぞれの異性体に対応した局所構造が存在するという仮説を導いている。第6章では、研究の過程で見出された磁性イオン液体に関する実験と結果が記述されている。

本研究において提出者は、近赤外ラマン分光法を用いることで、イオン液体bmimClの結晶多形を発見し、それぞれの結晶と液体中のカチオンの構造を明らかにした。さらに融解過程の時間分解ラマンスペクトル測定を行い、その結果に基づいて、イオン液体の液体構造に関する作業仮説を提出した。これらの業績は独創性に富み、また丁寧に実行された実験に基づいており、高く評価される。

本論文第3章、第4章、第6章はChemistry Lettersの速報3編として公表済み(小沢亮介、Satyen Saha、小林昭子、濱口宏夫との共著)であるが、論文提出者が主体となって実験および解析を行なっており、その寄与が十分であるので、学位論文の一部とすることに何ら問題はないと判断する。

以上の理由から、論文提出者林賢に博士(理学)の学位を授与することが適当であると認める。

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