学位論文要旨



No 121068
著者(漢字) 松木,正尋
著者(英字)
著者(カナ) マツキ,マサヒロ
標題(和) 線虫C. elegans の嗅覚応答を調節するGタンパク質シグナルの遺伝学的機能解析
標題(洋) Functional and genetic analysis of G protein signaling that modulates olfactory responses in C. elegans
報告番号 121068
報告番号 甲21068
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4868号
研究科 理学系研究科
専攻 生物化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 多羽田,哲也
 東京大学 教授 坂野,仁
 東京大学 教授 久保,健雄
 国立遺伝学研究所 教授 佳,勲
 東京大学 助教授 飯野,雄一
内容要旨 要旨を表示する

線虫C. elegansは959個の細胞から構成されており、その約3分の1が神経細胞である。高等動物と比べると線虫には驚くほど少数の神経細胞しか存在しないにも関わらず、線虫は多種の感覚受容に基づいた走性行動を行うことができる。その中でも、嗅覚行動(匂い物質に対する化学走性行動)は比較的研究の歴史が古く、嗅覚行動に欠陥を示す変異体の解析から匂いの受容に関与する遺伝子が複数同定されてきた。我々の研究室でも、線虫のRas-MAPK経路が嗅覚行動に関わることを既に報告している。しかしながら、線虫における嗅覚行動の制御メカニズムには未解明な部分が多く、その全容は未だ明らかになっていない。

そこで私は、線虫の嗅覚行動を制御する新たな機構の同定とその解明を目的として本研究を始めた。既存の変異体の中から嗅覚行動に異常を示す変異体を探索したところ、私は線虫のGo〓をコードするgoa-1 (Go protein, alpha subunit) 遺伝子の変異体が興味深い表現型を示すことを発見した。goa-1変異体では、AWC感覚神経で受容される匂い物質に対する化学走性が亢進していたが、一方AWB感覚神経で受容される匂い物質に対する忌避行動に欠陥があった。

Goは哺乳類の神経系で最も豊富に存在するGタンパク質であり、神経活性を調節する重要な因子であると考えられている。Go の分子機能に関してin vitroの系ではこれまでに広く解析が進んでおり、Goが〓〓サブユニットを介して神経細胞のカリウムチャネルやカルシウムチャネルを直接的に制御することなどが知られている。しかしながらin vivoにおけるGo〓の生理的機能はほとんど理解されていない。そこで私は、線虫の嗅覚行動に関与するGOA-1 Go〓の機能に注目して以後の解析を行った。

goa-1が関与する嗅覚順応欠陥の解析

goa-1変異体では特に濃い匂い物質に対する化学走性が亢進していた。過去の知見から、線虫を高濃度の匂い物質に一定時間曝すとその匂い物質に順応し(嗅覚順応)、結果的に化学走性が著しく減衰することが知られている。このような知見とgoa-1変異体の特徴から、私はGOA-1が嗅覚順応に関与しているのではないかと考えた。そこでgoa-1変異体の嗅覚順応を調べたところ、goa-1変異体はAWC感覚神経で受容されるベンズアルデヒド、イソアミルアルコール、ブタノンに対する嗅覚順応に異常を示した。この嗅覚順応欠陥はgoa-1遺伝子の導入により完全に回復したことから、goa-1はAWC感覚神経受容性の匂い物質に対する嗅覚順応に必要であることが確認された。

次に、goa-1が線虫のどの神経細胞で機能するのか調べるため、特定の神経細胞(群)で発現を誘導するプロモーターを用いたレスキュー実験を行った。goa-1遺伝子をAWC感覚神経で発現させたところ、goa-1変異体の嗅覚順応欠陥は有意に回復した。これに対し、goa-1遺伝子をAWC感覚神経の下流に位置する介在神経で広く発現させても嗅覚順応欠陥は回復しなかった。この結果より、AWC感覚神経でのgoa-1の機能が嗅覚順応の制御に重要であることが示唆された。

運動や産卵行動では、EGL-30 Gq〓がGOA-1 Go〓と拮抗して機能することが知られている。そこで、複数のegl-30の機能獲得型変異体における嗅覚順応を調べたところ、それらはいずれも著しい嗅覚順応を示した。さらに、野生型のAWC感覚神経で恒常的活性化型のEGL-30タンパク質であるEGL-30(Q205L)を発現させても同様の順応欠陥が観察された。したがって、GOA-1とEGL-30はAWC感覚神経でそれぞれ嗅覚順応を正と負の両面から拮抗的に調節していると考えられる。

通常、Gq〓の下流ではPLC〓が機能し、産生されるIP3やジアシルグリセロール(DAG)がセカンドメッセンジャーとして働くことが知られている。実際に、線虫の前進後退運動はDAGで制御されている。そこで嗅覚順応の制御にもDAGが機能している可能性を考え、DAGのアナログであるホルボールエステル(PMA)を線虫に与えたところ、嗅覚順応が著しく阻害された。この結果から、Gq〓の過剰な活性化はDAGレベルの上昇を引き起こし、その結果として嗅覚順応が抑制されると考えられる。

DAGはPLC〓によって産生される一方、ジアシルグリセロールキナーゼ(DGK)によってリン酸化されホスファチジン酸へと変換される。つまりDGKにはDAGシグナルを終結させる役目がある。線虫の運動神経では、DGK〓をコードするDGK-1が機能していることが見出されているが、予想に反してdgk-1変異体の嗅覚順応はほとんど正常であった。そこで別のDGKの関与を疑い、哺乳類のDGK〓に相同性の高いDGK-2の変異体と、DGK〓/〓/〓 に相同性の高いDGK-3の変異体を得て嗅覚順応を調べたが、どちらの変異体も嗅覚順応に欠陥を示さなかった。しかしながらdgk-1とdgk-3の二重変異体(dgk-3; dgk-1)では強い嗅覚順応欠陥が観察された。つまり、DGK-1とDGK-3の重複した機能が正常な嗅覚順応に必要であると考えられる。

嗅覚順応におけるGOA-1とDAGシグナル経路の関係性を探るために、dgk-3; dgk-1変異体のAWC感覚神経でGOA-1(Q205L)を発現させたところ、dgk-3; dgk-1変異体の嗅覚順応欠陥は有意に抑圧された。この結果から、GOA-1はDAGレベルを下げることで順応を制御しているということが強く示唆された。一方、EGL-30(Q205L)が発現している株でGOA-1(Q205L)を発現させても嗅覚順応欠陥を抑圧する効果がなかったことから、GOA-1はEGL-30の上流で機能していることが示唆された。

以上の結果から、GOA-1 Go〓がEGL-30 Gq〓の活性を抑制することでDAGの産生を負に制御することが線虫の嗅覚順応に重要であると考えられる。

goa-1が関与する嗅覚忌避行動欠陥の解析

goa-1変異体はADL感覚神経で受容されるオクタノールに対して忌避行動の亢進を示したが、AWB感覚神経で受容されるノナノンに対しては逆に忌避行動の欠陥を示した。もしgoa-1変異体の忌避行動欠陥の原因がノナノンに対する感受性低下であるならば、オクタノールとノナノンが同時に存在していても忌避行動に欠陥は生じないと予想される。そこで、オクタノールとノナノンを同時に置いて化学走性のアッセイを行ったところ、goa-1変異体は忌避行動に著しい欠陥を示した。この結果から、goa-1変異体はノナノンを受容できないために忌避行動に欠陥を示すのではなく、ノナノンの異常なシグナルがgoa-1変異体の忌避行動を攪乱するため、結果的に忌避行動に欠陥を示すのだと考えられる。

ノナノンからの忌避行動においてgoa-1が機能する神経細胞を同定するために、前述と同様のレスキュー実験を行った。まずポジティブコントロールとして神経系で広範囲にgoa-1遺伝子を発現させところ、ノナノンに対する忌避行動欠陥は完全にレスキューされた。次に、嗅覚順応の解析で用いたgpa-13プロモーターを用いてAWC感覚神経とASH感覚神経でgoa-1遺伝子を発現させたところ、忌避行動欠陥はほとんど回復しなかった。しかし、ins-1プロモーターを用いてAIA介在神経を含む神経細胞群でgoa-1遺伝子を発現させたところ、忌避行動欠陥は有意に回復した。これらの結果から、嗅覚順応と忌避行動においてGOA-1はそれぞれ別の神経細胞(群)で機能していると考えられる。

線虫では、これまでにもGo-Gq経路が神経筋接合部で機能することは既に報告されている。しかしながら、感覚神経や介在神経におけるGoの機能はほとんど未知である。本研究ではGoが感覚神経や介在神経で機能し、化学走性やその行動可塑性の調節因子として機能していることを示した。哺乳類では中枢神経系でもGo〓が強く発現していることから、本研究を通じて得られた知見は、哺乳類におけるin vivoでのGo〓機能の理解につながると期待される。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、序論、材料と方法、結果(全3章)、考察と展望(全16項)より構成されており、線虫Caenorhabditis elegansの匂い物質に対する化学走性(嗅覚行動)について、Go〓をコードするgoa-1遺伝子の役割を中心に解析した結果について述べられている。

結果の第1章では、goa-1遺伝子の機能低下型変異体が示す匂い物質に対する化学走性行動(嗅覚行動)の亢進と、忌避性の匂い物質に対する化学走性行動(嗅覚忌避行動)異常の表現型について記載されている。

第2章において、論文提出者はまず、第1章で記述しているgoa-1変異体の示す化学走性の亢進が、匂い物質に対する順応(嗅覚順応)の欠陥に起因するのではないかと推測し、実際にgoa-1変異体を用いて嗅覚順応アッセイを行うことでその仮説が正しいことを示している。以後、論文提出者は、嗅覚順応におけるgoa-1遺伝子の機能に注目して解析を行っている。細胞(群)特異的に発現するプロモーターを用いたレスキュー実験から、嗅覚神経におけるGOA-1の働きが嗅覚順応に必要であることが示された。また、GOA-1の機能とは反対に、Gq〓をコードするegl-30の過剰な活性化は嗅覚順応を阻害することが示された。すなわちGOA-1とEGL-30は、それぞれ嗅覚順応を正と負の両面から拮抗的に調節していることが明らかとなった。また、嗅覚順応におけるGOA-1とEGL-30は、RGSタンパク質によってG〓5依存的に抑制的な制御を受けていることが示唆された。さらに、ホルボールエステルを用いた薬理学的解析や、ジアシルグリセロールキナーゼの変異体を用いた解析から、論文提出者は、EGL-30の下流ではジアシルグリセロールが機能していることを明らかにしている。またこの実験から、ジアシルグリセロールキナーゼDGK-1とDGK-3の重複した機能が正常な嗅覚順応の制御に必要であることが示唆された。この章の最後では、GOA-1とジアシルグリセロールシグナル経路との関連性を遺伝学的に調べた実験について述べられており、その実験結果から、論文提出者は「EGL-30の上流でジアシルグリセロールシグナルを抑制的に制御する」というGOA-1の作用モデルを提示している。

第3章では主に、第1章で記述しているgoa-1変異体が示す忌避行動異常に関する解析結果が記載されている。論文提出者はまず、神経発生の完了後の成虫期にGOA-1が機能していることを示し、またgoa-1変異体の忌避行動欠陥は、忌避性匂い物質に対する反射的な後退運動が優先的に引き起こされることが原因であると推測している。さらに、レスキュー実験により、忌避行動においては嗅覚順応時とは別の神経細胞群でgoa-1が機能している事を示している。

論文提出者は本論文において、線虫の運動を制御しているGOA-1 Go〓が、感覚受容に基づいた嗅覚忌避行動や、嗅覚順応行動においても重要な働きをしていることを明らかにしており、さらに機能未知であったDGK-3が嗅覚順応行動に関与することを示している。これらの結果は、学位論文として十分な内容であると判断された。

なお、本論文は國友博文、飯野雄一との共同研究であるが、論文提出者が主体となって実験、分析および検証を行なったもので、論文提出者の寄与が十分であると考えられる。

したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

UTokyo Repositoryリンク