学位論文要旨



No 121069
著者(漢字) 宮道,和成
著者(英字)
著者(カナ) ミヤミチ,カズナリ
標題(和) マウス嗅球における糸球地図形成の分子的基盤
標題(洋) Molecular basis for the glomerular map formation in the mouse olfactory bulb
報告番号 121069
報告番号 甲21069
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4869号
研究科 理学系研究科
専攻 生物化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 深田,吉孝
 東京大学 教授 坂野,仁
 東京大学 助教授 飯野,雄一
 東京大学 教授 岩倉,洋一郎
 理化学研究所 チームリーダー 吉原,良浩
内容要旨 要旨を表示する

我々ヒトの脳の複雑な機能は、多様に特殊化した神経細胞が自らの特異性を踏まえて互いに連結しあい、無数の神経回路を形成することによって支えられている。神経発生の研究では、神経軸索の個性(”neuronal identity”)の獲得、およびそれに基づく特異的神経接続の機構解明が重要な課題となっている。本論文が扱うマウスの嗅覚系は、発現される嗅覚受容体によって与えられる嗅細胞の”neuronal identity”が、軸索投射先の混合/分離という形で明瞭に観察できるという点で、特異的な神経回路の構築原理を研究する優れたモデル系を提供している。

匂い受容を担う嗅覚受容体(odorant receptor:OR)遺伝子は、1000種類以上にも及ぶ類似遺伝子からなる多重遺伝子系を構成し、ほぼ全ての染色体にクラスターを成して存在する。個々の嗅細胞では、これら遺伝子群の中から一種類のみが相互排他的かつmono-allelicに発現される。これを嗅覚系における「1神経:1受容体のルール」と呼び、動物の持つ高度な匂い識別能力の基盤であると考えられる。OR遺伝子コーディング領域の欠損変異体やOR偽遺伝子を用いた一連の研究によって、OR分子を介する負のフィードバック制御が「1神経:1受容体のルール」を保証する分子機構として機能すると考えられている。

大脳前部に位置する嗅球上には、OR分子の種類に対応した約1000対の糸球体と呼ばれる構造体が分布し、嗅細胞はそのうち特定の一対に対して軸索を投射する(図1)。各ORに対応する嗅球上の投射位置(糸球地図)は、ほぼ個体差なく定まっており、嗅上皮でどの嗅細胞が活性化されたかという匂い分子の結合情報は、嗅球表面上ではどの糸球体が活性化されたかという2次元の位置情報(匂い地図)へと変換される。この匂い地図は更に高次の嗅皮質へと伝えられ、最終的に匂いの認識、識別、あるいは匂いに惹起される情動や行動を引き起こすものと考えられている。

嗅細胞の軸索投射は、発現するORの種類に直接依存せず大まかな投射位置が定められる初期投射と、OR依存的に軸索を収斂させる後期投射の二段階からなると考えられている。前者に関して本研究では、嗅上皮の位置情報が嗅球での軸索投射位置の規定に果たす役割を検討した。従来、嗅上皮は4つの異なるzoneに分けられ、各OR遺伝子を発現する嗅細胞は1つのzoneに特異的に、かつzoneの中ではランダムに分布するものと考えられてきた。本研究では、80種類のOR遺伝子の発現領域をISH法によって解析し、嗅上皮におけるOR遺伝子の発現領域は必ずしも古典的な4 zoneに当てはまらないことを明らかにした。発現領域は各OR遺伝子に特異的で、重なり合いながら連続的に配置されていた。更に、DiIの逆行輸送実験とトランスジェニックマウスにおけるOR遺伝子の発現系を用いた実験によって、嗅球における背腹軸上の軸索投射位置は、嗅上皮における背内側-腹外側軸に沿った個々のOR遺伝子に固有な発現領域と強く相関することが明らかになった(図2)。本論文ではこれらの観察に基づいて、糸球地図の背腹軸が嗅上皮の位置情報によって規定されることを提唱し、投射位置決定の機構について考察する。

次に、同じ種類のORを発現する嗅細胞軸索の収斂に関して、ORの種類に相関して発現制御される軸索ガイダンス分子の存在を想定した。このような分子をスクリーニングする為には、単一のOR遺伝子をモノクローナルに発現する細胞株が必要であるが、残念ながら機能的なOR遺伝子を発現する嗅細胞株は存在しない。その代替として本研究では、OR遺伝子MOR28の属するクラスターを正に制御するエンハンサー配列H領域を利用して、殆どの嗅細胞がMOR28を発現するようなトランスジェニックマウス(H-MOR28マウス)を作成し、その嗅上皮における細胞接着分子の発現プロファイルに偏りがないかを解析した(図3)。H-MOR28マウスでは、zone 4の嗅細胞の80-90%においてMOR28トランスジーンが発現し、かつ「1神経:1受容体のルール」が守られていた。H-MOR28マウスと野生型マウスの嗅上皮において発現量の異なる遺伝子をSerial Analysis of Gene Expression(SAGE)法とin situ hybridization(ISH)法で探索した結果、軸索ガイダンス分子ephrin-Aとその受容体Eph-A、細胞接着分子Kirrelファミリーを含む複数の遺伝子の発現量がMOR28の過剰な発現によって変化していた(図3B)。個々の嗅細胞においてこれら遺伝子の発現量は発現されるOR分子の種類と相関していた。興味深いことに、ephrin-AとEph-A、Kirrel-2とKirrel-3の転写量はそれぞれ相補的な関係にあり、一方の発現量が高い細胞では他方の発現量は低く制御されていた。BACトランスジェニックマウスの系においてOR遺伝子のコーディング領域を入れ換えるswap実験を行い、嗅細胞で発現されるOR分子の種類に応じてephrin-A/Eph-A、Kirrel遺伝子群の発現量が制御されることを明らかにした。次に、OR分子の種類を細胞接着分子の発現量に変換する機構を探る目的で、神経活動の発生が抑制された変異体マウスの解析を行った。その結果、OR分子を介する神経活動が、細胞接着分子の転写量を制御する上で重要な役割を果たすことが明らかとなった。先行研究によりephrin-Aは嗅細胞の軸索投射に関与するガイダンス分子の一つであることが知られており、Eph-Aとephrin-Aとの間に働く反発性の相互作用はOR分子の種類によって嗅細胞の軸索を仕分けるのに貢献すると考えられる。本論文では、発現されるORの種類によって規定されるneuronal identityが、神経活動のレベルを介して細胞接着分子の発現量という形で軸索末端に表現され、軸索の選別に関与しているという新しいモデルを提唱し、その神経系全般における意義について考察する。

野生型マウスとH-MOR28マウスの嗅上皮切片においてISH法によりMOR28の発現を観察した(A)。H-MOR28マウスでは、MOR28遺伝子が極めて高頻度に発現する。H-MOR28マウスと野生型マウスの嗅上皮において発現量に差のある遺伝子を探索したところ、Kirrelファミリー,Eph-A/ephrin-Aファミリーの複数のメンバーが得られた。野生型マウス(non-Tg)とH-MOR28マウスの嗅上皮においてこれらの発現をISH法により赤色に検出し、同時に抗GFP抗体染色により、H-MOR28の発現を緑色に検出した。MOR28トランスジーンを発現する細胞(緑色)で、Eph-A5とKirrel-2の発現は検出されず、これら遺伝子を発現する細胞数は野生型の相同領域に比較して顕著に減少した。一方、MOR28トランスジーンとephrin-A3,-A5は共発現し、これら遺伝子の発現細胞数は減少せず、むしろH-MOR28マスにおいて若干増加する傾向にあった。この結果は、MOR28の発現に相関して発現制御される一群の軸索ガイダンス/細胞接着分子が存在することを示した。

図1 マウスの嗅覚系

図2 嗅上皮-嗅球の位置対応マップ

嗅球外側部の80箇所にDiIの微結晶を置き、嗅細胞の軸索末端から細胞体へと逆行輸送実験を行った。DiIで標識される嗅細胞の分布をcolor gradientによって示した。嗅上皮の位置と嗅球の背腹軸との間に明瞭な対応関係が見られる。

図3 ORの種類と相関して発現する細胞接着分子の探索

審査要旨 要旨を表示する

学位申請者宮道和成は、マウス嗅覚神経系における嗅細胞の軸索投射について研究した。学位論文は3章からなる。第1章は、イントロダクションであり、マウスの嗅覚系の概要と、嗅細胞の軸索投射における重要な課題について議論されている。個々の嗅細胞では、1000種類以上にも及ぶ嗅覚受容体 (odorant receptor: OR) 遺伝子の中から一種類のみが相互排他的かつmono-allelicに発現される。大脳前部に位置する嗅球上には、OR分子の種類に対応した約1000対の糸球体と呼ばれる構造体が分布し、嗅細胞はそのうち特定の一対に対して軸索を投射する。すなわち嗅細胞は発現されるORの種類に応じてneuronal identityを獲得し、それが軸索投射先の混合/分離という形で明瞭に観察できるという点で、マウスの嗅覚系は特異的な神経回路の構築原理を研究する優れたモデル系といえる。学位論文では、嗅細胞の軸索投射において、嗅球上の投射位置を大まかに定める仕組みと、ORによって規定される嗅細胞のidentityがどのようにして嗅細胞の軸索投射に反映されるのかという二つの問題を提起し、それぞれについて実験結果に基づく考察を展開している。

第2章は、嗅上皮の位置情報が嗅球での軸索投射位置の規定に果たす役割を検討している。従来、OR遺伝子の発現領域に基づいて嗅上皮を4つの異なるzoneに分ける考え方が受け入れられていたが、申請者は、80種類のOR遺伝子の発現領域を体系的に比較する過程で、各OR遺伝子の発現領域は必ずしも古典的な4 zoneに当てはまらず、むしろ各OR遺伝子に特異的で、重なり合いながら連続的に配置されることを明らかにした。更に、DiIの逆行輸送実験とトランスジェニックマウスにおけるOR遺伝子の発現系を用いた実験によって、嗅球における背腹軸上の軸索投射位置は、嗅上皮における背内側-腹外側軸に沿った個々のOR遺伝子に固有な発現領域と強く相関することが明らかにされた。これは糸球地図の背腹軸が、嗅上皮の位置情報によって規定されることを示唆する重要な知見である。

第3章は、同じ種類のORを発現する嗅細胞軸索の収斂に関して、ORの種類に相関して発現制御される細胞接着分子について記述している。従来、嗅細胞の培養細胞株が樹立できないことから、このような分子を研究することは困難だった。申請者は、殆どの嗅細胞が特定のOR遺伝子を発現するようなトランスジェニックマウスを作成することで、ORの種類に依存して発現制御を受ける細胞接着分子の探索を可能にした。Serial Analysis of Gene Expression (SAGE) 法とin situ hybridization (ISH) 法で探索した結果、ephrin-A, Eph-A, Kirrel-2を含む複数の細胞接着分子の転写レベルでの発現量が、個々の嗅細胞で発現されるORの種類とユニークに相関していることが明らかにされた。OR遺伝子のコーディング領域を入れ換えるswap実験の結果から、OR遺伝子座の選択よりも発現されるOR遺伝子の種類の方が、細胞接着分子の転写制御に重要な役割を果たすことが示唆された。また申請者は、OR分子の種類が細胞接着分子の発現量へと変換される機構を探る目的で、神経活動の発生が抑制された変異体マウスの解析を行った。匂いシグナル伝達に関わるcyclic nucleotide gated channel遺伝子のknock-outマウスの解析と鼻孔閉塞実験の結果、OR分子を介する神経活動が、細胞接着分子の転写制御に関与することが示された。これらの結果は、発現されるORの種類によって規定されるneuronal identityが、細胞接着分子の発現量という形で軸索末端に表現されることを示唆し、ORに依存する嗅細胞軸索の収斂に関する新しいモデルを提起するという点で、興味深い知見である。今後、同定された細胞接着分子の機能解析が進むことによって、ORに依存する嗅細胞の軸索収斂の機構が明らかにされるのみならず、神経活動による細胞接着分子の制御を介した回路構築という神経発生学における新しい研究領域の開拓へと繋がる重要な成果となるだろう。

本研究の成果は、マウスの神経科学、特に特異的な神経接続機構の理解に対する重要な寄与であり、学位申請者の業績は博士 (理学) の称号を受けるにふさわしいと審査員全員が判断した。なお、本論文は芹沢尚氏、木村紘子氏、坂野仁氏との共同研究であるが、論文提出者が主体となって分析及び検証を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

従って、宮道和成に博士 (理学) の学位を授与できると認める。

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