学位論文要旨



No 121080
著者(漢字) 川原,玲香
著者(英字)
著者(カナ) カワハラ,リョウカ
標題(和) トゲウオ科魚類における糊状タンパク質 spiggin 遺伝子の進化学的研究
標題(洋) Evolutionary characterization of genes encoding glue-like protein spiggen in gasterosteid fishes
報告番号 121080
報告番号 甲21080
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4880号
研究科 理学系研究科
専攻 生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 西田,睦
 東京大学 講師 成瀬,清
 東京大学 教授 久保,健雄
 東京大学 助教授 兵藤,晋
 東京大学 助教授 朴,民根
内容要旨 要旨を表示する

トゲウオ科魚類は繁殖期に雄が営巣行動を行うという興味深い特徴を示し、この分類群を含むトゲウオ亜目魚類には営巣を行う種、行わない種、あるいはホヤに産む種など多様な繁殖様式をもつ種が存在する。そのうち営巣を行う種の雄は自らが分泌する糊状の物質を用いて、水草などの巣材を装着する。近縁種間に多様な繁殖様式がみられるこの分類群は、繁殖行動という高次の形質がどのように進化してきたか考えるのに適した対象であり、営巣行動と密接に関連した糊状物質であるspigginは進化の"key character"とみなすことができる可能性がある。

営巣に用いられるこの糊状物質は繁殖期に雄の腎臓で産生され、泌尿生殖孔から分泌される。このように体外に分泌される糊状物質は他の脊椎動物ではほとんど報告されていない。この糊状物質をコードする遺伝子はいつ、どのようにして糊状の性質と繁殖期特異的大量発現という新たな機能と発現機構を獲得したのか、その進化の様子は分子進化学の研究対象として興味深い。

本研究では、まず基礎的な情報として、営巣行動に関連する形質を種間で比較し、進化を議論する基盤として重要である種間の系統関係をミトコンドリアゲノム全塩基配列データに基づいて解析した。その上で、営巣の際に用いる糊状物質をコードする遺伝子spigginについて、トゲウオ科魚類のイトヨを対象に進化学的な解析を行った。

営巣行動に関連した形質の比較

トゲウオ科魚類の多様な繁殖様式は古くから生物学的に興味を持たれる対象であり、その繁殖様式を他の行動形式と併せて種間で比較し、その情報に基づいて系統関係を推察した報告も多い(図1)。しかし、生態学的な情報に比べ、営巣に用いられる糊状物質に関連する形質についての報告は少ない。そこでまず、糊状物質を産生する腎臓の形態学的・組織学的観察による比較を行った。その結果、粘液状の糊状物質を分泌する種では繁殖期雄の腎臓上皮に共通した変化がみられ、糊状物質を産生、分泌するための分化が細胞に起こっていると考えられた。一方、糸状の糊状物質を分泌する種や営巣を行わない種ではそのような変化はみられなかった。以上の観察により多様な繁殖様式を示す分類群において形態、組織学的な面からの基礎的知見が得られた。

ミトコンドリア全ゲノム配列を用いたトゲウオ目魚類の系統関係の推定

研究対象とする生物種間の系統関係は、進化学的研究の基礎としてなくてはならない情報であり、営巣行動に関連する遺伝子の進化を考える上で、中立遺伝子マーカーを用いたトゲウオ亜目魚類の系統関係の解明が必要不可欠である。トゲウオ目魚類は進化研究のための基礎となる系統関係の解明がいまだなされておらず、一方でトゲウオ科魚類に関しては形態・行動形質を基にした系統関係が多く報告されているが矛盾点を含んでおり、いずれにしても分子データを基にした系統関係はほとんど報告されていない。

そこで、トゲウオ亜目に加えてヨウジウオ亜目を含むトゲウオ目魚類を用い、ミトコンドリアゲノム全塩基配列に基づく系統解析を行った。解析には新たに決定したトゲウオ亜目魚類6種を含め80種の配列データを用いた。その結果、トゲウオ目に含まれるトゲウオ亜目、ヨウジウオ亜目、およびヨウジウオ亜目に含まれるとされていたインドストムス科はそれぞれ別の系統であることが示された(図2)

特にトゲウオ科内の系統関係に注目すると、海産種で原始的な形質を示すとみられていたSpinachiaが、営巣行動や婚姻色などの点から最も派生的とみられていたイトヨ属(Gasterosteus)と単系統群を形成するなど、これまで主に形態・行動形質に基づいて構築された系統樹とは異なる、新しい系統関係が示された。本研究によって分子データに基づいたトゲウオ目魚類の系統類縁関係が初めて明らかになった。この結果は本分類群を用いた今後の進化学的研究に重要な情報を提供するものである。

トゲウオにおける複数のspiggin遺伝子の同定

糊状物質spigginをコードする遺伝子の進化的背景を探るため、トゲウオ科魚類の中でも特にイトヨに着目してspiggin遺伝子ファミリーを同定した。過去の研究では、この糊状物質は単一の遺伝子から転写された複数の転写産物からなるタンパク質であると報告されてきたが、一方で、複数の遺伝子からなるという矛盾した報告も存在するため、本研究では日本産の太平洋型イトヨのcDNAを用いRACE法を用いて遺伝子を同定した。その結果、複数のコピーからなる遺伝子ファミリーを形成していることが明らかになった。イトヨのほかにトミヨでも複数のspiggin遺伝子が同定されており、さらに魚類3種で公開されているゲノムデータベースに対して相同性検索を行ったところ、ゼブラフィッシュ、トラフグ、ミドリフグの3種でそれぞれひとつずつホモログが同定された。一方他の脊椎動物では同定されなかった。

これらの配列を用いて、相同性検索の結果得られた類似配列とともに系統解析を行った結果、spigginは魚類の共通祖先から単一遺伝子として存在している魚類特異的な遺伝子であること、その後トゲウオ類の系統で少なくともイトヨとトミヨの分岐前に重複が起こっていること、加えてイトヨとトミヨが分岐した後にそれぞれの種でさらに重複が起こっていることが明らかになった(図3)。spiggin祖先遺伝子の重複後におそらくその一方で糊状物質としての新たな機能が獲得され、それらがさらに重複して数を増したと考えられる。イトヨ・トミヨの共通祖先での遺伝子重複・その後の新機能獲得と、この2種で営巣行動が進化したこととの間には因果関係があるのかもしれない。一方で、営巣行動を行わないゼブラフィッシュやトラフグ、ミドリフグのゲノム上でこのspiggin配列が保存されていることは、それぞれの種でこの遺伝子が何らかの機能を保持している可能性を示唆する。イトヨやトミヨにもこの祖先的な機能を保ったままの配列がspigginとは別に存在しているのであろう。

spiggin遺伝子の分子進化学的解析

以上の実験から、少なくともイトヨとトミヨにはspiggin遺伝子が複数存在することが明らかになったが、ゲノミックサザンハイプリダイゼーションの結果からさらに多くの遺伝子が存在していそうであることが示唆された。そこで、新たにプライマーを設計し網羅的なクローニングを行った。その結果、多数のcDNAが得られ、spiggin遺伝子が少なくとも19の遺伝子からなる大きな遺伝子ファミリーを形成していることが明らかになった。これだけの遺伝子重複が起こっていることは、繁殖期特異的に大量に必要とされる糊状物質の効率的な発現に適応した進化である可能性が考えられるが、この遺伝子重複が多様性を生み出す方向へ自然選択を受けた結果である可能性もある。そこでこのような自然選択を受けている可能性について調べるため、配列間での塩基置換頻度を調べ、アミノ酸の変異を起こす非同義置換とアミノ酸の変異を伴わない同義置換の割合を比較した。得られたcDNAは系統解析の結果、大きく2つのグループに分かれることが明らかになり、グループごとに非同義置換/同義置換の値を調べたところ、そのうちの一方のグループで非同義置換の値が同義置換の値を上回り、正の選択が起こっていると予測できるサイトの存在が明らかになった。このことは、spiggin遺伝子ファミリーがその産物を多様化するような自然選択を受けている可能性を示唆する。

また、spigginと類似の配列を用いた系統解析により、spigginと進化的に近縁な遺伝子を調べた。spigginとその類似配列にはvon Willebrand factor(VWF)D-domainというドメイン構造が共通に存在していることが明らかになったため、配列からこのドメインの領域を抽出し、系統解析を行った。その結果、spigginから抽出したドメインの進化パターンはMucinと共通であり、その中でも特にMucin19と進化的に近縁であることが示唆された。Mucin19はヒトとマウスで既に同定されている遺伝子であり、ゲノムデータベースの情報から、ゼブラフィッシュ、ミドリフグのspiggin祖先遺伝子とのシンテニーが確認された。

結論

本研究により、トゲウオ科魚類でみられる営巣行動に関連した糊状物質spiggin遺伝子ファミリーの全貌がイトヨを用いた研究により明らかになった。また、トゲウオ目魚類における種間の系統関係も明らかになった。この系統樹上でspiggin遺伝子の進化を考察すると、この遺伝子はトゲウオ科魚類の成立時にすでに重複していると考えられ、遺伝子重複と営巣行動との進化との間にはなんらかの因果関係が存在している可能性がある。このことはspiggin遺伝子が営巣行動進化の"keycharacter"としてその分子基盤の解明に役立つ可能性を示唆する。今後他のトゲウオ科魚類でこの遺伝子の進化学的解析を進め、営巣行動に関連する形質と比較することで、さらにその関連性が明らかになることが期待される。

図1トゲウオ亜目魚類の巣作り行動と営巣形態からみた巣の進化。赤川(2003)より改変。

A:雌は海草の分岐点に産卵。

B:オスが糸状の糊状物質を分泌、巣状の構築物を作る。

C:産卵基質としてホヤを用いる。

D:糸状、粘液状の糊状物質を用いる。

E:粘液状の糊状物質のみを用いる。

F:植物上ではなく水底を掘って巣をつくる。

図2 ミトコンドリアゲノム全塩基配列に基づくトゲウオ目(影をつけた部分)を含む魚類の系統関係。

インドストムス科(Gasterosteiformes-1)、ヨウジウオ亜目(Gasterosteiformes-2)、トゲウオ亜目(Gasterosteiformes-3)。

図3 spigginとその相同配列の保存的領域を用いた系統解析結果。

spigginはMucinと共通の遺伝子ファミリーを形成することが示唆される。Muc19(クレードB)に最も近縁であると考えられる。spigginはホモログ配列とともに単系統群を形成し(クレードA)、spiggin祖先配列が魚類の共通祖先で1つ存在していたことが示唆される。

その内部の関係は、種の系統関係をほぼ反映しているが、イトヨの一部の配列とトミヨの全ての配列が単系統群を形成しており、イトヨとトミヨの共通祖先でこの遺伝子が重複していること、種分化後もイトヨ、トミヨそれぞれの系統で重複が起こっていることも示唆される。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は6章からなる。第1章は序論であり、以下のように研究の背景と目的を明示している。すなわち、トゲウオ亜目魚類には様々な繁殖様式をもつ種が存在する。そのうち営巣を行う種では、繁殖期になると雄が糊状の物質を分泌し、水草などの巣材を装着することが知られている。近縁種間に多様な繁殖様式がみられる本分類群は、繁殖行動という高次の形質がどのように進化してきたか考える対象として適している。また、営巣時に体外に分泌される糊状タンパク質は、脊椎動物では他に報告例がほとんどなく、この物質をコードする遺伝子の進化の過程は分子進化学の研究対象としても興味深い。本論文は、トゲウオ亜目魚類における繁殖様式の多様性進化を総合的に理解するための新たな知見を得ること、営巣の際に用いる糊状物質spigginをコードする遺伝子について分子進化学的な解析を行ない、その特徴や進化的背景を明らかにすることを主な目的とすることを述べている。

トゲウオ亜目魚類の繁殖様式については、生態学的・行動学的な情報に比べ、営巣に用いる糊状物質に関連した形質についての報告は少ない。第2章では、糊状物質を産生する腎臓の形態学的・組織学的観察による比較を行なった。その結果、粘液状の糊状物質を分泌する種では繁殖期雄の腎臓細尿管の上皮細胞に共通した変化が観察され、糊状物質を産生、分泌するための分化が細胞に起こっていると考えられた。一方、糸状の糊状物質を分泌する種や営巣を行わない種ではそのような変化は観察されなかった。これらの結果により、糊状物質の中でも糸状の糊と粘液状の糊との間で産生・分泌機構が異なることを示唆している。

研究対象とする生物種間の系統関係は進化学的研究の基礎としてなくてはならない情報であるが、トゲウオ亜目の系統関係についてはこれまで一致した仮説が得られておらず、分子データに基づいた解析はほとんど行なわれていない。第3章ではトゲウオ亜目を含むトゲウオ目とそれ以外の条鰭類をあわせた全80種について、ミトコンドリアゲノム全塩基配列データに基づいた大規模な解析を行い、その種間関係を推定した。その結果、トゲウオ目に含まれるトゲウオ亜目、ヨウジウオ亜目、およびインドストムス科はそれぞれ別の系統であることを示し、トゲウオ亜目内の種間関係についてこれまでの仮説と異なる新たな系統関係を提唱した。

第4章ではイトヨを材料に、糊状タンパク質spigginをコードする遺伝子の同定と解析を行なった。その結果、spigginは複数のコピーからなることを新たに明らかにし、さらにゼブラフィッシュ、トラフグ、ミドリフグ3種のゲノムデータベースから1つずつホモログ配列を同定した。これらの結果から、spiggin遺伝子の祖先配列は魚類の共通祖先から1つ存在しており、この配列が何らかの魚類特異的な機能を持つ遺伝子である可能性が示唆された。そしてこの祖先配列がトゲウオ類の系統で重複後、その一方が糊状タンパク質遺伝子としての性質を獲得し、さらにその後複数回の重複を経ていると考えられる。

続いて第5章では、イトヨにおいてさらに遺伝子を同定し、この遺伝子ファミリーが少なくとも19の遺伝子からなることを明らかにし、分子進化学的解析によりこの遺伝子群が適応的に進化している可能性を示した。また、spigginと類似の遺伝子配列を用いた系統解析とシンテニーの情報から、spigginはMucin遺伝子ファミリー、特にMucin19と近縁であることが示唆された。第6章の総合考察では、以上の結果を総合的に論じ、今後の研究展開の方向について検討している。

本研究により、トゲウオ亜目魚類の糊状物質の産生と分泌に関連した形質について新しい知見が得られた。また、分子データに基づいてトゲウオ目魚類の大規模な系統学的解析が行なわれたのは本研究が初めてであり、ここで推定された系統関係は、本分類群を用いた今後の進化学的研究に重要な情報となることが期待される。さらに、イトヨを用いた分子進化学的解析により、糊状タンパク質をコードするspiggin遺伝子ファミリーの全貌が明らかになった。本研究はトゲウオ亜目における営巣行動という高次形質の進化を包括的に理解する上で、多大な貢献をしたと認められる。

なお、本論文の一部は西田睦(第2−5章)、宮正樹・馬渕浩司・Sebastien Lavou〓(第3章)との共同研究であるが、論文提出者が主体となって実験および解析を行なったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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