学位論文要旨



No 121084
著者(漢字) 田中,裕之
著者(英字)
著者(カナ) タナカ,ヒロユキ
標題(和) Hofmeister 効果による精子運動制御機構に関する胎性魚グッピーを用いた研究
標題(洋) Regulation of sperm motility by Hofmeister effect in the viviparous fish guppy Poecilia reticulata
報告番号 121084
報告番号 甲21084
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4884号
研究科 理学系研究科
専攻 生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 岡,良隆
 東京大学 教授 神谷,律
 東京大学 教授 竹井,祥郎
 東京大学 助教授 真行寺,千佳子
 東京大学 助教授 朴,民根
内容要旨 要旨を表示する

胎生魚グッピー (Poecilia reticulata)において、精液は交尾により卵巣に直接送り込まれ、精子は数ヶ月にもわたり卵巣内に蓄えられ、受精も卵の周期的成熟に合わせて卵巣内で起こることが知られている。この際立った特徴から、グッピーは胎生魚の精子運動性制御の研究材料として非常に興味深い種である。そこで、グッピーを用いて精子運動性制御機構に関する研究を行った。その生殖様式から、グッピーの精子は一般の海産魚や淡水魚のように受精のプロセスにおいて浸透圧の変化に晒されることは無いと考えられる。従来の研究より、グッピー精子は浸透圧の変化に対して積極的な応答を示さないこと、および等張溶液中でいくつかのイオンによって活性化されることがわかっていた。しかし、精子がどのような溶質で、どのような原理に基づき活性化されているのかについて全く明らかにされていなかった。そこで本学位論文の第一章では、等張溶液中で様々な溶質による精子活性化を評価することによりin vitro 系において精子活性化の原理を探った。その結果、溶質はそれぞれ異なる強さの精子活性化能を持ち、それらの溶質を精子活性化能の強さで序列化すると、従来物理化学の法則として見出された溶質のHofmeister系列と一致し、chaotrope(高分子不安定化溶質)が精子を活性化し、kosmotrope(高分子安定化溶質)が精子活性化を阻害することを見出した。また、その法則性とは独立に、多価イオンが精子を活性化することも明らかにした。以上2つの法則により、実験に用いた全ての溶質による精子活性化を説明することができ、今回第一章で見出された各種溶質による精子運動性の制御は溶質の持つHofmeister効果により制御されることが強く示唆された。第二章では、グッピーの精子を活性化する溶質であるchaotropeおよび多価イオンによる精子活性化において関与している細胞内シグナルを探った。Triton X-100による除膜モデル、細胞内cAMPおよび細胞内Ca2+レベルの測定などの方法を用いた解析を行った結果、精液内では未成熟で運動を停止している精子がchaotropeや多価イオンに晒されることにより、何らかのシグナルを経て細胞内cAMPレベルが上昇し、cAMP依存的な精子成熟および運動の開始が誘導されることが明らかになった。最後に第三章において、グッピー精子の運動開始がHofmeister効果によって制御される現象について、そのin vivoにおける生理的意義の解明を行った。精液成分がchaotropeおよび多価イオンによるあらゆる精子活性化を阻害することを見出し、このことから精液にはオスの輸精管内で精子活性化を阻害して精子を不活性に保つ活性が存在することが予測された。そこで、精液がchaotropeによる活性化を阻害する作用は精液のkosmotropicな性質によるものである、との仮説を立てた。溶解度を測定することにより精液の物理化学的性質を検討し、Hofmeister効果による精子運動制御機構が生理的現象において実際に機能していることを示した。

第一章

グッピー精子の運動開始を制御する溶質

グッピー精子はspermatophoreとして形成され、射精時まで輸精管に蓄えられている。(図1)オスの腹を軽く圧迫し、ガラス毛細管に精液を採取し観察すると、精子は運動を停止しており、輸精管内でも運動を抑制された状態にあると考えられる。一方、森澤(1985)により、グッピー精子は等張溶液中で最も強い活性化が見られること、およびNaCl, KClなどの電解質中ではゆっくりとした活性化が見られるが、mannitol, glucoseなどの非電解質中では活性化が見られないことが報告されている。しかし、これらの溶質の効果がどのような原理に基づいているのかについては明らかにされていなかった。そこで等張溶液中で様々な溶質を精子に作用させることにより、溶質による精子運動制御の原理を探った。その結果、精子を活性化または不活性化する溶質の種類には幅広い選択性が見られ、(図2,3)その選択性から「Hofmeister系列(表1)におけるchaotropeおよび多価イオンによって精子は活性化され、kosmotropeにより精子は不活性化される」という法則が成立することを見出した。

次にHofmeister効果として知られる5つの物理化学的性質について精子運動性制御との対応を検討した。その特徴の一つに溶質効果の加成則がある。溶質効果の加成則とは、chaotropeとkosmotropeが共存すると、お互いの相反する効果が打ち消される現象を指す。精子運動性においても溶質効果の加成則が成立した(図4)ことなどからも、Hofmeister溶質によるグッピー精子運動性制御の現象がHofmeister効果を介することが示された。

第二章

精子運動制御に関与する細胞内シグナル

細胞内Ca2+およびcAMPレベルが精子運動開始・活性化に関与することが様々な動物種において知られている。そこでchaotropeおよび多価イオンによるグッピー精子活性化現象について、除膜モデルを用いた解析および細胞内Ca2+・cAMPレベルの測定を行った。Triton X-100除膜モデルの解析においては、精子を不活性化する溶質であるkosmotropeから成る除膜液によって除膜した場合には再活性化の際にcAMPの添加を必要とした。それに対し、一旦chaotropeにより運動開始させてから除膜した場合は再活性化にcAMPの添加を必要としなかった。このことからchaotropeによる精子活性化の際にcAMP依存的な精子鞭毛軸糸の成熟が起きていることが示された。ELIZAを用いた細胞内cAMPレベルの測定によっても精子活性化の際にcAMPレベルの上昇が検出された。(図5)また、膜透過型のcAMPの添加によっても精子は運動を開始したことから、細胞内cAMPレベルの上昇はchaotropeによる精子活性化の際の内因的な引き金であると考えられた。精子運動活性化の際に蛍光色素Fluo4により細胞内Ca2+レベルを測定したところ、変動は検出されず、細胞内Ca2+レベルの精子運動活性化への積極的関与は無いと考えられた。

第三章

Hofmeister効果による精子運動性制御の生理的意義

グッピー精子の運動開始は溶質のHofmeister効果により制御されることを第一章で示したが、第三章ではその現象の生理的意義について検討を行った。前述のように、精子はオスの輸精管において精液に浸かった状態で運動を停止している。そして精液が希釈されchaotropeや多価イオンに晒されると運動を開始するが、そのとき精液成分が十分に希釈されない場合には活性化が効果的に抑えられることを見出した。このことから輸精管における精子運動の停止が、精液に由来する精子運動阻害活性に起因することが推測された。そこで、第一章で示されたkosmotropeによるHofmeister効果を介したグッピー精子運動阻害活性の原理が、精液における精子運動阻害活性にあてはまるという可能性について検討を行った。溶解度測定のモデル物質であるBTEE (N-benzoyl-L-tyrosine ethyl ester)およびphenylalanineを用い、精液成分の物理化学的性質の評価を行った。精液成分がkosmotropicであればモデル物質の溶解度は精液成分の添加により減少すると想定される。その結果、精液の添加により両モデル物質の溶解度は減少し、精液はkosmotropicな性質を示すことが明らかになった。続いて分子量による精液成分の分画を行い、それぞれの画分の精子運動制御およびモデル物質の溶解度に対する効果を評価した。その結果、精液に存在することが明らかになった精子運動阻害活性およびモデル物質の溶解度を減少させる活性は、共に分子量3万以上の高分子画分に存することが明らかになった。以上の結果から、精液に含まれる高分子成分の持つHofmeister効果により精子を精液中で不活性状態に保つという、溶液の物理化学的性質に依存した新規の精子運動制御機構の存在が示唆された。

Hofmeister効果によるグッピー精子運動制御機構の概念図

図1 グッピー雄性生殖器官の構造とchaotropeによるspermatophoreの活性化

(a) ヘマトキシリン・エオシン染色を行った。形成されたspermatophore(矢頭)は輸精管(vas deferens)に蓄えられる。

(b) 等張のNaI (chaotrope)溶液に希釈された精子は、stage 0 (精子は運動を停止)、stage 1 (spermatophoreの中で精子が運動を開始)、stage 2 (spermatophoreの構造が崩壊し自由になった精子が泳ぎ出る)の経過で活性化する。

図2 各種陽イオンが精子運動性に及ぼす効果

(a) 等張の一価イオンの塩化物塩溶液(pH7.4)に精液を100倍に希釈し3分後の各活性化段階のspermatophoreの割合を示した。平均値±標準偏差(n=4)を示す。

(b) 1mMの二価イオンの塩化物塩を含む等張のNaCl溶液(pH7.4)による精子活性化

図3 各種陰イオンが精子運動性に及ぼす効果

等張の陰イオンのナトリウム塩溶液(pH7.4)に精液を100倍に希釈し3分後の各活性化段階のspermatophoreの割合を示した。平均値±標準偏差(n=4)を示す。データはイオンのHofmeister系列に従って並べた。

表1 Hofmeister系列

図4 各種kosmotropeがchaotrope(Br-)による精子活性化に及ぼす効果

100mMのNaBr、および[ ]に示す濃度の各種kosmotrope(対照実験は35mM NaCl)を含む溶液中に精液を希釈し5分後の各活性化段階のspermatophoreの割合を示した。平均値±標準偏差(n=4)を示す。

図5 chaotrope(SCN-)および二価陽イオン(Ca2+)による精子活性化における細胞内cAMPレベルの変動

各イオンにより0~90秒間精子を活性化し、細胞内cAMPレベルをEnzyme immunoassayにより測定した。非活性化状態(t=0)に対する比で表した。平均値±標準偏差(n=4)を示す。*は対照実験(NaClの処理)に対してp<0.05で有意差があることを示す。

審査要旨 要旨を表示する

胎生魚のグッピー (Poecilia reticulata)において、精液は交尾により卵巣に直接送り込まれ、精子は数ヶ月にもわたり卵巣内に蓄えられ、受精も卵の周期的成熟に合わせて卵巣内で起こることが知られている。この際立った特徴に着目し、グッピーを用いて胎生魚の精子運動性制御に関して研究を行った。本論文は3章からなる。第1章は、本論文の対象であるグッピー精子の運動性に関するin vitro系における観察と、その現象に見られる法則性についての記述である。従来の研究より、グッピー精子は等張溶液中で最も強い活性化が見られること、およびNaCl, KClなどの電解質中ではゆっくりとした活性化が見られるが、mannitol, glucoseなどの非電解質中では活性化が見られないことが報告されていた。しかし、精子がどのような溶質で、どのような原理に基づき活性化されているのかについて全く明らかにされていなかった。そこで等張溶液中で様々な溶質による精子活性化を評価することにより精子活性化の原理を探った。その結果、精子を活性化または不活性化する溶質の種類には幅広い選択性が見られ、それらの溶質を精子活性化能の強さで序列化すると、従来物理化学の法則として見出された溶質のHofmeister系列と一致し、chaotrope(高分子不安定化溶質)が精子を活性化し、kosmotrope(高分子安定化溶質)が精子活性化を阻害することを見出した。また、その法則性とは独立に、多価イオンが精子を活性化することも明らかにした。以上2つの法則により、実験に用いた全ての溶質による精子活性化を法則化することができた。Hofmeister効果の特徴の一つに溶質効果の加成則(chaotropeとkosmotropeが共存すると、お互いの相反する効果が打ち消される現象)があるが、精子運動性においても溶質効果の加成則が成立したことなどからも、各種溶質によるグッピー精子運動性の制御がHofmeister効果を介することが示された。第2章では、グッピーの精子を活性化する溶質であるchaotropeおよび多価イオンによる精子活性化において関与している細胞内シグナルについて述べられている。除膜モデルの解析においては、精子を不活性化する溶質であるkosmotropeから成る除膜液によって除膜した場合には再活性化の際にcAMPの添加を必要とした。それに対し、一旦chaotropeにより運動開始させてから除膜した場合は再活性化にcAMPの添加を必要としなかった。このことからchaotropeによる精子活性化の際にcAMP依存的な精子鞭毛軸糸の成熟が起きていることが示された。ELIZAを用いた細胞内cAMPレベルの測定によっても精子活性化の際にcAMPレベルの上昇が検出された。また、膜透過型のcAMPの添加によっても精子は運動を開始したことから、細胞内cAMPレベルの上昇はchaotropeによる精子活性化の際の内因的な引き金であると考えられた。蛍光色素Fluo4により細胞内Ca2+レベルを測定したところ、精子運動活性化の際に変動は検出されず、細胞内Ca2+レベルの積極的関与は支持されなかった。以上から、精液内では軸糸が未成熟で運動を停止している精子がchaotropeや多価イオンに晒されることにより、cAMP依存的な軸糸成熟および運動の開始が誘導されることが明らかになった。第3章においては、グッピー精子の運動開始がHofmeister効果によって制御される現象について、そのin vivoにおける生理的意義について述べられている。精子はオスの輸精管において精液中で運動を停止している。そして精液が希釈されchaotropeや多価イオンに晒されると運動を開始するが、そのとき精液成分が十分に希釈されない場合には活性化が効果的に抑えられることを見出した。このことから輸精管における精子運動の停止が、精液に由来する精子運動阻害活性に起因することが推測され、精液がchaotropeによる活性化を阻害する作用は精液のkosmotropicな性質によるものである、との仮説を立てた。モデル物質の溶解度を測定することにより精液の物理化学的性質を検討したところ、精液はkosmotropicな性質を示すことが明らかになった。以上の結果から、精液に含まれる溶質のHofmeister効果により精子を精液中で不活性状態に保つという、溶液の物理化学的性質に依存した新規の精子運動制御機構の存在が示唆された。

これらの論文の各章で示された研究成果は精子運動性の制御機構を理解する上で大変重要な知見であり、論文提出者の研究成果は博士(理学)の学位を受けるにふさわしいと判定した。

なお、本論文第1章〜第3章は、岡良隆との共同研究であるが、論文提出者が主体となって分析及び検証を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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