学位論文要旨



No 121090
著者(漢字) 橋口,康之
著者(英字)
著者(カナ) ハシグチ,ヤスユキ
標題(和) 魚類 V2R 型匂い受容体遺伝子ファミリーの進化
標題(洋) Evolution of V2R-type Odorant Receptor Gene Family in Fishes
報告番号 121090
報告番号 甲21090
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4890号
研究科 理学系研究科
専攻 生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 西田,睦
 東京大学 教授 竹井,祥郎
 東京大学 助教授 河村,正二
 東京大学 講師 成瀬,清
 東京大学 助教授 東原,和成
内容要旨 要旨を表示する

脊椎動物の「嗅覚」は、鼻腔内の嗅上皮に存在する嗅細胞が細胞ごとに異なる物質を受容し、中枢へ伝達することによって起こる感覚である。個々の嗅細胞は異なる種類の化学物質受容体を1種類づつ発現しており、そのような受容体が多数存在することによって、さまざまなにおいを区別することができる。実際、嗅覚受容体をコードする遺伝子は脊椎動物で最大の遺伝子ファミリーを構成しており、哺乳類では1種あたり数百〜1,000種類以上の嗅覚受容体遺伝子を持つことが知られている。

魚類では、嗅覚は視覚と並ぶ重要な感覚であり、同種個体の認識による生殖隔離に関与するおもな要因の一つでもあると推測される。また、水中生活をする魚類では、アミノ酸や核酸などの水溶性の物質を匂いとして認識しており、揮発性の物質を認識している哺乳類などの陸生の脊椎動物とは異なった形で匂いに対する適応をしていると考えられる。したがって、魚類の嗅覚受容体遺伝子ファミリーの実体を明らかにし、その進化過程を探ることは、生物の環境に対する適応のしくみについての重要な情報を提供するものと考えられる。しかし、魚類の匂い受容体遺伝子ファミリーの進化についての研究は少なく、どのくらいの規模の遺伝子ファミリーを形成しているのか、また系統的に離れた魚類種間でどの程度異なっているのか、といったことはほとんど知られていない。

本研究では、魚類の嗅覚受容体ファミリーの一つであるV2R型受容体遺伝子ファミリーに着目した。V2R型受容体は、哺乳類ではペプチドフェロモンの受容体であることが示唆されており、同種個体の認識などに関わっている可能性が高い。本研究は、魚類の嗅覚受容体ファミリーの一つであるV2R型受容体遺伝子ファミリーに着目し、その実体を明らかにした上で、魚類V2R型匂い受容体遺伝子ファミリーの進化過程を推定することを目的としている。

ゼブラフィッシュV2R遺伝子ファミリーの実体と分子進化

魚類V2R遺伝子は、数十の遺伝子からなる多重遺伝子ファミリーを構成すると考えられている。しかし、ある1種の魚類が持つすべてのV2R遺伝子を特定した研究はなく、その全体像は必ずしも明らかではない。そこで、まず魚類V2R受容体遺伝子ファミリーの実体を明らかにするため、ゼブラフィッシュDanio rerioのゲノム配列データを対象に、既知の魚類、哺乳類V2R遺伝子をもとにTBLASTN検索を行った。それにより、88個の異なるV2R遺伝子/偽遺伝子を特定した。遺伝子間の系統解析から、ゼブラフィッシュのV2R遺伝子ファミリーは12のサブファミリーに分けられた。そのうち11は、魚類と四足動物の分岐以後に生じたものであった。これらのサブファミリーのうち2つは非常に多くの遺伝子/偽遺伝子からなり、それぞれ17、18番染色体上で遺伝子クラスターを形成していた(図1)。

遺伝子クラスター内では、類似した配列はお互いに近接しており、同じ転写方向にコードされていた。その他のサブファミリーはいずれも1-4の遺伝子から構成されており、その多くは17,18番染色体の遺伝子クラスターにコードされていたが、まったく別の染色体上に存在するものも見られた。また例外的なものとして、魚類(条鰭類)と四足動物の分岐以前に生じたと考えられるものも1遺伝子だけ見つかった。これらの結果から、ゼブラフィッシュのV2R遺伝子ファミリーは、複数のサブファミリーから構成されており、そのうち2つがそれぞれ縦列重複によって大幅にコピー数を増加させていることが明らかになった。

魚類V2R受容体遺伝子ファミリーの種間比較

魚類V2R遺伝子ファミリーの進化過程について調べるため、ゼブラフィッシュと近縁なコイ科のヤリタナゴTanakia lanceolataのV2R受容体遺伝子の部分配列をクローニングし、比較解析を行った。また系統的に離れたトラフグTakifugu rubripes,ミドリフグTetraodon nigroviridis,およびメダカOryzias latipesのV2R配列をそれぞれの概要ゲノム配列データの検索から特定し、比較に加えた。これらのV2R遺伝子を用いた系統解析から、魚類V2R遺伝子ファミリーにはフグ、メダカを含む系統とゼブラフィッシュ、ヤリタナゴを含む系統が分岐する以前に分かれたグループが10前後存在すること、そのうち2つはゼブラフィッシュ、ヤリタナゴで共通に多様化していることなどがわかった(図2)。一方、ゼブラフィッシュではグループV(図2,遺伝子数:34)、ヤリタナゴではグループI(遺伝子数:33)がもっとも多くの遺伝子を含むなどの違いも見られた。遺伝子の位置関係については、系統的に近いメダカとミドリフグではかなり保存されているように見える(図3)。また、ゼブラフィッシュではゲノム内の複数の領域にV2R遺伝子が分散していたのに対し、メダカ、ミドリフグでは1つの遺伝子クラスターにすべてのV2R遺伝子が含まれていた。以上より、魚類V2R遺伝子ファミリーは共通な単一の遺伝子クラスターに由来し、ゼブラフィッシュ、ヤリタナゴを含む系統では、染色体レベルでの遺伝子配置の大規模な変動が起こったと考えられた。

Danio属近縁種間での比較による、種特異的なV2R受容体遺伝子の探索

近縁な2種の生物の間で、特定の匂いに対する感受性に違いが見られる場合、それは2種の間での生態的な違い(摂餌、繁殖など)を反映していると推測される。このような「匂いに対する感受性」の種間での違いは、どちらか一方の種のみに存在する、またはどちらかの種のみで失われているような匂い受容体に起因する可能性がある。そのような匂い受容体の遺伝子は、種分岐以後の遺伝子重複、偽遺伝子化、またはパラログ間でのgene conversionによって生じる。分岐してあまり時間の経っていない種間で比較を行なうことによって、このような「種特異的」遺伝子を見つけることができると考えられる。そこで、魚類V2R遺伝子ファミリーにおいてそのような遺伝子を特定し、またそれらが受けている自然選択について調べるため、ゼブラフィッシュの近縁種の1つであるDanio albolineatusを対象に、V2R遺伝子部分配列を決定し、ゼブラフィッシュとの間での比較を行なった。

D.albolineatusの鼻の細胞由来のcDNAライブラリに対して、ゼブラフィッシュのサブファミリーH(ゼブラフィッシュでもっとも遺伝子数の多いサブファミリーで、37の遺伝子/偽遺伝子からなる)から設計したプライマーを用いたPCRを行ない、約400クローンの配列を決定した結果、15種類のV2R遺伝子部分配列が得られた。また、これらのうち少なくとも7遺伝子に、複数のスプライシングバリアントが存在していた。分子系統樹から特定された11のオーソログ遺伝子のうち5組では、どちらかの種、または両種で重複か偽遺伝子化が起こっていた(図4)。特に一部のクレードでは、複数回の重複/偽遺伝子化が高い頻度で両種に起こっており、「多様化」しているように見える。スプライシングバリアントが確認された7遺伝子のうち、4つはこの「多様化している」クレード内の遺伝子であった(図4:灰色の矢印)。

さらに、このクレードの遺伝子とその姉妹クレードの遺伝子との間でgene conversionが検出された(図4:赤または青の矢印)。また最尤法を用いた検定によって、Danio属2種で「多様化している」クレードでは、機能的制約が低下していることが示唆された。多様化が起こっているV2R遺伝子は、2種のそれぞれで異なる環境への適応の途上にあるのかもしれない。

本研究により、魚類V2R遺伝子ファミリーの実体およびその進化のパターンについて多くの知見が得られた。今後は、個々のV2R受容体が認識するリガンドの種類と受容体遺伝子の多様性との関係や、複数の異なる受容体遺伝子間の相互作用に対してはたらく自然選択について、研究を進める予定である。

図1.ゼブラフィッシュV2Rの系統関係と、染色体上の位置との関係。

図2.魚類V2R-type匂い受容体遺伝子のBayes法による系統樹(50% majority rule consensus tree)。

青:トラフグ、緑:メダカ、オレンジ:ゼブラフィッシュ、赤:ヤリタナゴ。青い矢印は魚類4種の共通祖先の位置を示す。

図3.メダカ、ミドリフグ、およびゼブラフィッシュのV2R遺伝子クラスターの物理地図。

矢印の色はそれぞれV2Rのグループ(図2)を示す。矢印の向きは転写方向を示す。

図4.Danio属2種のsubfamily H V2R遺伝子の系統関係(NJtree)。

DR:zebrafish(D,rerio)。DA:D.albolineatus。黒い円は2種の種分化に伴う分岐の位置を示す。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は5章からなる。第1章は序論であり、脊椎動物、とくに魚類の嗅覚およびフェロモン受容体遺伝子ファミリーに関する現在までの研究が要約され、その上で研究課題の提示がなされている。脊椎動物の匂い受容体にはOR, V1R, V2Rの3つのタイプがあるが、そのうちV2Rは、水溶性物質による同種個体間での情報伝達に関与している可能性があり、進化学的に興味深い。そこで魚類におけるV2R遺伝子ファミリーの実態を明らかにし、その進化過程を探ることを目的として本研究を実施したことが述べられている。

第2章は、ゼブラフィッシュV2R遺伝子ファミリーのin silico解析による特定と、その進化解析についての章である。ゼブラフィッシュのゲノム配列データに対し、BLAST検索による遺伝子の探索を行った結果、これまで考えられていたよりも多い88種類の異なるV2R遺伝子および偽遺伝子を見つけた。系統解析により、それらは類似性の異なる12のグループからなっていた。そのうち2つは非常に多くのコピー数からなり、また染色体上の特定の領域で遺伝子クラスターを形成していた。18番染色体上の遺伝子クラスターでは、かなり最近に重複をしたと考えられる約60kbの相同領域が見出された。以上の結果から、ゼブラフィッシュのV2R遺伝子ファミリーは複数のグループからなり、その一部が頻繁な縦列重複によってコピー数を増加させてきたことを論じている。

第3章では、トラフグ、ミドリフグおよびメダカのV2Rはゲノム配列データの検索から、またコイ科のヤリタナゴでは、degenerate PCR法とサザンハイブリダイゼーションを用いた方法により、V2R遺伝子ファミリーの大部分を特定した。これらの系統解析から、魚類V2R遺伝子ファミリーには10前後のグループが存在し、それらはトラフグ、メダカを含む系統とゼブラフィッシュ、ヤリタナゴを含む系統が分岐する以前に分かれたこと、そのうちの2つは種間でほぼ共通に多様化していることを明らかにした。また、モデル魚類4種のV2R遺伝子クラスターの物理地図の比較から、メダカ、フグの系統では遺伝子配置がかなり保存的である一方、ゼブラフィッシュのそれはかなり異なっており、染色体レベルでの遺伝子クラスターの分断およびその後の重複のあったことを示唆した。

第4章では、ゼブラフィッシュの近縁種であるパールダニオに着目し、そのV2R遺伝子群をクローニングし、ゼブラフィッシュと比較することによって、より短い時間スケールでの魚類V2R遺伝子ファミリーの進化について調べている。これら2種のV2R遺伝子の系統解析から、11のオーソロガスな遺伝子の組が特定され、いくつかの遺伝子では、種分化後の重複が2種で共通して複数回起こっていた。それらの遺伝子では、頻繁にスプライシングバリアントが見られ、また機能的制約の低下が起こっていることも示唆された。これらの結果から、2種の一部のV2R遺伝子は頻繁に重複しており、その結果、遺伝子間で機能が余剰となることによって、機能的制約の低下がおこっていると考えられた。

第5章は総合考察である。ここでは、脊椎動物V2Rファミリーの進化を、研究例のあるORファミリーの進化と比較し、それらの共通点および相違点について考察している。また、今後の研究課題について言及しており、特に筆者が関心を持つ、魚類における嗅覚による同種認識と生殖前隔離の機構について今後の研究課題を提示している。

筆者はこの論文を通じて、魚類の化学物質認識の基盤の一つである匂い受容体のうちV2R受容体について、その多重遺伝子ファミリーとしての実体を明らかにし、魚類におけるその進化について重要な知見を提供した。複雑な遺伝子構造をもつV2R遺伝子は、OR, V1Rに比べて解析が困難であり、その研究は遅れていた。この論文の成果は、脊椎動物におけるV2R遺伝子ファミリーの全体像を提示した最初の研究の一つである。また、V2R遺伝子群の複数の魚種間での比較に基づく解析は、魚類のゲノム進化の研究を進める上で重要な情報を提供している。

なお、本論文第2章は、主査である西田との共同研究であるが、論文提出者が主体となって分析および検証を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

UTokyo Repositoryリンク