学位論文要旨



No 121103
著者(漢字) 金,憲奎
著者(英字)
著者(カナ) キム,ホンギュ
標題(和) 朝鮮朝における「邑治」の成立と変容に関する研究
標題(洋)
報告番号 121103
報告番号 甲21103
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第6193号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 藤森,照信
 東京大学 教授 鈴木,博之
 東京大学 教授 伊藤,毅
 東京大学 助教授 藤井,恵介
 東京大学 助教授 村松,伸
内容要旨 要旨を表示する

「邑治」とは地方郡縣の中でも中央から派遣された地方官の官庁がある行政的中心地域を示す言葉で、現在の韓国では「地方都市」の原形として理解されている。本論文は、朝鮮時代における「邑治」の歴史を系統的に分析し、「邑治」の成立と変容に対して考察を行った。そのために朝鮮時代に編纂された地理志・邑誌などの地理関連文献、そして朝鮮王朝実録・備邊司謄録などの編年史料、古地図・絵図などの視覚史料、個人の著述などを主な研究資料として用いた。その結果、最初「邑治」は二つの大きな特徴を持って成立したことを確認した。そして16世紀を境にしてほとんどの「邑治」が成立してから時代状況の推移に伴いその特徴を徐々に変化させていたことを解明した。よって、本論文で確認できた「邑治」の成立と変容において表れた特徴は次のように把握できる。

「体系化」と「都市化」

都城の縮小版としての「体系化」

朝鮮時代の「邑治」において最も注目される特徴は、儒教的秩序体系に従い「都城の縮小版」としてすべての「邑治」が体系的に整備されたことである。

「邑治」に設置された「客舎・公衙」は都城の「宮殿・官衙」という統治関連施設と、教育施設として「郷校」は「成均館」と、そして祭祀施設の「社稷・文廟・城隍祠・〓壇」は「社稷・文廟・風雲雷雨山川城隍壇・霊星壇」と一致するなど、「邑治」は「都城」と同様の構成原理による「都城の縮小版」であったことが確認できた。

そして、朝鮮の邑治に存在した諸施設はそれ以前、すなわち高麗時代にはすでに存在していたものがほとんどであった。ところが14世紀末〜15世紀初の制度整備によってこれらの諸施設は儒教的秩序体系にもとづいて整備・普及がなされ、全国の邑治が「体系化」されたといえる。

強化された中心性と「都市化」

次に、「周辺に対する強い中心性」を持っていたことも注目される特徴の一つである。「邑治」を単に地方郡縣に対する支配が行われる中心地であるとするならば、朝鮮王朝以前であっても各郡縣は地方官または豪族などによる支配が行われていたはずなので、行政・軍事の中心地として「邑治」はすでにあった。ところが朝鮮時代になって中央権力によって「邑治」は儒教的秩序に従って体系化されると共に「邑治」の守令以外の権力を認めない中央集権政治体制によって、行政・軍事の中心として周辺に対する中心性が強化された。さらに「邑治」に教育施設として「郷校」が設置され、郷村地域の在地勢力を中央集権体制に編入することが可能になり、「邑治」の中心性がより強化された。

そして以上のように「邑治」に官庁・教育施設など周辺の郷村とは異なる機能の建築が中央の権力を示す権威建築として設置され、周辺の郷村地域とは異なる建築とそれによる景観が生じた。これにより「邑治」と「郷村」の差別性はより深化されることになり、それは「邑治」で「都市化」が始まったことを意味することであった。

「邑治」から「商業地」へ

地方統治権の水平的分化と中心性の弱化

朝鮮王朝の建国後に行った制度の改革によって強化された「邑治の中心性」は、16世紀半ばになって「書院」の登場によって新たな方向へ向かっていった。地方の在地勢力によって郷村地域に設置された儒教施設である「書院」は「邑治」の「郷校」の教育機能を吸収し地方郡縣において教育の中心へ成長する。それによって中央政界へ進出した士林は守令中心の地方統治体制から郷村地域に対する自治権を獲得し地方統治において「邑治」の守令と対等な統治力を持つようになり、強化されつつあった「邑治」の中心性は分散されたのである。

すなわち、「書院」は単純に邑治の「郷校」の教育機能を代わりに受け持つ教育施設ではなかった。「書院」の登場によって、それまで築いてきた邑治の「強力な中心性」が弱まり、邑治に集中していた権力が郷村社会に分散され地方統治権力の「水平的分化」を起こした。その結果16世紀までに形成されていた「邑治」の中心性は弱くなり、その中心性の強化とともに進んでいた「都市化」も16世紀後半以降目立った進展を見せず、いったん止まってしまったことを確認した。

戦争による「邑治」の軍事機能の再考

朝鮮時代の城郭は住民の居住要否を基準として「居住型城郭」と「非居住型城郭」に分けられる。「居住型城郭」には、行政的機能が中心であった「都城」と「邑城」、そして軍事的機能が中心であった「営城」・「鎮城」・「堡」が、そして「非居住型城郭」には、軍事的機能の「行城」と避難用として使われた「山城」と「古城」が属する。

16世紀初には「居住型城郭」が中心となり、地域的には海岸地域と北の国境地域に集中的に分布し内陸地域にはほとんど城郭は分布していなかった。ところがこのような城郭分布による防衛体制は、1592年に始まった文禄の役など大規模な戦乱の際に、大部分が平地に位置していた「居住型城郭」はほとんど機能しなかった。そして、それに対する解決策として地形的に有利であるとされる「山城」を活用することにした。すなわち山城を中心とした「非居住型城郭」を「邑治」の避難用として確保し、有事の際には「邑治」ではなく「山城」に入り敵と戦うという体制であった。その結果「邑治」の補助施設として「非居住方城郭」の分布が大幅に増えた。

それは「都城」でも同様で、「邑治」の補助施設として「非居住方城郭」を用いることと同じ概念で王室の保障処の確保が進められた。1624年に築城した「南漢山城」をはじめとして都城の周辺に王室の保障処を確保し、有事の際に都城を離れ保障処を拠点として敵と戦う防衛体制を構築した。

「山城都市」の試み

王室の保障処として築城された「南漢山城」は朝鮮時代において唯一「陪都」として整備された。そこでは、宮殿としての「行宮」の他に、都城の宗廟と社禝の仮の奉安処として「左殿」・「右室」などが設置された。「山城」でありながら城郭が常に整備されておりいつでも使える状態で維持するために「南漢山城」は「邑治」を城内に移した「山城都市」として整備した。それと共に「守直寺」という寺を山城内に配置し軍器などの倉庫として、そしてそこの僧侶を城壁整備の任務と有事の際に軍隊として機能できるように組織化して置いた。

ところが「山城都市」の場合には15世紀にも試みた例もあったが、住民の生活の不便などに起因し「邑治」を再び平地へ戻してしまった。一方「南漢山城」では「復戸」という租税減免策を実施し住民を増やし安住させた。また「屯田」、「場市」、「浦口」の運営を通じて「南漢山城」の維持及び運営のための財政的・人的な財源を確保した。他の山城のほとんどは失敗に終わったのに対して、唯一「南漢山城」だけが約300年間維持されたのはこのような政策的支援が行われていたからであった。

防衛体制の変化に伴う「邑治」の変化

ところが18世紀の英祖朝になってから「山城」を利用する防衛体制に変化が生じた。都城へつながる主要交通路の周辺に城郭を整備し都城への接近を抑える交通路中心の「首都圏防衛体制」の構築が行われ、正祖朝に築城された「華城」によって完成となった。このような城郭の配置はすでに英祖朝に行った臨津堡の築城過程でも確認されており、「華城」だけの特殊なことではなかった。

しかし、このような防衛体制の変化によって「華城」と「南漢山城」は同様の目的で築城されたにもかかわらず全く異なる立地選定となった。山から下りて平地に立地したのは旧例の方法に戻ったことであるが、「邑治」が幹線道路上に道路を遮断するように立地したのは今までの朝鮮の「邑治」ではほとんど見られない例であった。

商業の活性化と「邑治」の変化

15世紀末の記録から一部の大規模の「邑治」に「市肆」という商業施設があったこと、そして遅くても16世紀末までは多くの「邑治」で場市が開かれていたことなどが確認できた。ところが商業に対して強い反感を持っていた士林による政局の主導や繰り返し行われた戦争などによって17世紀には「邑治」から離れた空地で場市が開市されるのが一般的な状況となった。しかし18世紀半ばの記録を分析した結果、全国の8割以上の「邑治」に場市が開市していることが確認できた。17世紀に一時期「邑治」を離れた商業機能が18世紀に再び「邑治」に戻ったのである。

「邑治」の中で開市場所として最も多く挙げられるのは「官門前」、すなわち中心官庁の前であったことが確認できた。地方郡縣の行政・軍事的中心であった17世紀の「邑治」に商業機能が加えられた。

また、場市の分布形態から地域別特徴が確認できた。「義州第一路」が通過する黄海道と平安道では邑内場が2ヶ所開かれる邑治が多く見られるなど他の地方とは区別される特徴を持っていたことが分かった。

「邑治」以外場所での「商業地」の成長

京畿道は邑内場の開市率が他の地方と比べて顕著に低いなど商業が発達していなかったことが確認できた。京畿道は首都漢陽を有し、また地方郡縣の行政的地位において最も高い「府」であった郡縣も4ヶ所あり、行政的には大規模の郡縣が多かったにもかかわらず場市や邑内場の開市は逆に他の地方より少なかったのは京畿道が持つ特殊な状況に起因することであった。つまり京畿道内の邑治の人口規模が他の道に比べて小規模であったこと、及び京畿道内の交通が他の地方と比べより発達していたことがその主な原因であった。人口が少なく幹線道路から離れた「邑治」よりは交通がよりも便利な他の場所に場市が開市していたことで、交通老が場市の開市において非常に重要な要素であったことを示す事例である。

このように交通路による場市の発達は19世紀の大場市の分布からも確認できる。大場市として記録された15ヶ所のうち「邑治」にあったのは4ヶ所で、その他のほとんどが幹線道路及び浦口という交通上要地に位置していた。特に水上交通の要地であった「漕倉」があった地域は「邑治」から離れているにもかかわらず「都会」と呼ばれるなど商業地としてもにぎやかなまちとなっていた。

朝鮮末期に生じたもうひとつの港町として「開港場」がある。「開港場」には外国の居留地がつくられ、さらに鉄道駅が立地するなど、急速に商業地として形成された。特に「開港場」には外国によって洋風の建築が次々と建てられるなど既存の朝鮮のまちとは全く異なる新たなまちが形成された。

そして19世紀末に導入された鉄道はその計画から建設まですべてが日本によって行われ朝鮮の既存の交通体系を大きく塗り替えた。日本は朝鮮の鉄道を大陸進出のための縦貫鉄道として建設したため鉄道路線が「邑治」と離れた場所に建設された。そして鉄道駅も多くの場合「邑治」から離され、一部「邑治」に近接して駅が設置された地域でも既存の「邑治」とは一定の距離を維持するなど意識的に「邑治」から離れた場所に駅を設置した。このことは駅周辺に多くの日本人を移住させようとした計画と関係があった。そして鉄道駅周辺の市場が成長していたことが確認されており、その結果鉄道建設は既存の「邑治」とは関係なく新たなまちを形成していった。

「商業地」による「邑治」の中心性再編

朝鮮政府が招いた日本人財政顧問の主導によって1909年に「家屋税法」とともに勅令を通じて270ヶ所の郡縣に「市街地」が指定された。この勅令によって指定された「市街地」は既存の戸税のかわりに家屋税を払うことが定められた。すなわちこれは農村地域と区別される地域を「市街地」として分類したのであった。

当時の郡縣の総数は330ヶ所を越えていたので、邑治であっても「市街地」にならなかったところも多くあった。一方邑治と共に邑治以外のところが「市街地」として指定される例もあり、また「邑治」は「市街地」に指定されず他の地域が指定される例もあった。1909年の主要市場89ヶ所の内70ヶ所が「市街地」に指定されたことは、「市街地」指定と主要市場が密接な関連性があったことを示している。

すなわち農村地域と区別される地域を「市街地」として分類し、公式的に指定したのである。18世紀以降、「邑治」のみならず交通上要地などに最大場市と呼ばれる「商業地」が形成されてきた。そしてそのような「商業地」が徐々に広がり、社会全般に影響を及ぼすに至り、政府はそれを公式に認め「邑治」とともに新たに再編し制度化したのである。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、朝鮮王朝が1392年の朝鮮王朝の建国から1910年に日本によって植民地化されて滅びるまでの約500年間を研究対象とし、韓国における地方都市の原型として知られている「邑治」の歴史を系統的に分析し、「邑治」の成立とその変容過程を究明することを目的としたものである。現在韓国の都市には20世紀以前の古い都市住宅,商業施設などがほとんど残っていないことから、本研究は主に朝鮮時代に編纂された地理志や邑誌などの文献史料を利用し考察を行った。これらの史料は、簡単に言えば、国家の地理統計資料とも言うべきもので、広範囲にわたり各都市の歴史を記録しており、多くの情報を提供してくれるという点で韓国の都市史研究において大変貴重な史料である。ところが、これらの史料は漢籍であるため従来の韓国の建築史、また都市史の多くの研究では、ごく一部だけが利用されていた。

本論文はこれらの全国地理志や個別邑誌をはじめとして、朝鮮時代に編纂された多くの1次史料を綿密に分析したことが注目すべき特徴である。特に各々時代が異なる複数の全国地理志を分析し、各時代におけるマクロな視点による特徴を解明した上で、個別邑誌や個人の著述などを用いてミクロな視座からの分析で補充し、個別の都市・建築をより広い視野で解明することができたという点で評価できる。

本論に入り第3章では、朝鮮朝の建国後に行われた改革の際に「邑治」に建設した諸施設を分析した。そして朝鮮朝の「邑治」は、「都城」と同様の構成原理にもとづいてつくった「都城の縮小版」であったことを実証的に解明している。そして当時の「邑治」には官庁・教育施設など周辺の郷村とは異なる機能の建築が中央の権力を示す権威建築として設置され、周辺の郷村地域とは異なる建築とそれによる景観が生じたことを究明した。このような「邑治」と「郷村」の機能と景観の差異の深化は「邑治」で「都市化」が始まったことを意味し、韓国の都市史において大きな転換点であったことを実証的に解明した。

そして、このような成果により15世紀にほぼ完成した「邑治」の諸施設の都市的機能や地方統治における支配構造を解明し、その関係を図式化することができた。これによって、代表的な郷村地域の施設である「書院」が持つ都市史的意味を究明することができた。朝鮮時代において大きな意味を持つ儒教建築である「書院」は「邑治」から離れていたことから一般的には「邑治」とは全く関係のない施設として知られていた。しかしながら、「書院」の建設によって「邑治」はその中心性が弱まり、これが朝鮮朝の建国以来進んでいた「邑治」の都市化を鈍化させたもっとも大きな原因であったことを究明したのは今までのない大変興味深い観点でありまた研究成果である。

第4章では主に城郭を中心として「邑治」の防御機能について分析を行っている。さまざまな種類の城郭を機能や使用法などに基づいて類型化し、類型ごとの城郭の分布状況とその変化を分析し朝鮮朝が持っていた防衛体制を解明した。そしてそれによって今まで多くの研究者によって朝鮮朝の地方都市を表す基準として扱われていた「邑城」が持つ意味を、必ずあるべき施設として認識されていた「都城」とは異なる系譜であったことを究明したのは非常に注目される研究成果である。

さらに16世紀以降朝鮮半島で発生したさまざまな戦争によって「邑治」の防御機能に対する見直しが生じ、既存の「邑治」の防御施設の整備のみならず新たな都市類型を生んだことを究明したことができたのは朝鮮の都市史研究において大きな意味を持つ研究成果であろう。そして現在ユネスコの世界文化遺産に登録されている「水原華城」の築城の理由が、王権と臣権の対立構造の中で「南漢山城」という「山城型軍事都市」を通じて軍事的・経済的権力を握っていた「老論」を抑えるためであったことを明らかにしたのは、都市を単体ではなくより広い範囲から分析した本論文の独特な研究方法によってこそ解明できたといえよう。

第5章では、新たな都市類型が生まれた中で都市を維持するための経済的基盤として「商業地」を設置していることに注目し、商業活動と「邑治」との関係について分析を行っている。朝鮮朝において都城での商業建築についてはすでに多くの研究成果が出ておりよく知られていたが、地方郡縣での商業建築についてはほとんど知られていなかった。そんな中で朝鮮初期に一部の地方郡縣に「肆」という商業建築があったことを明らかにしたのは大きな研究成果であろう。

そして地方郡縣において政治・軍事の中心であった「邑治」に商業機能が加えられその中心性がより強化されていった反面、既存の「邑治」とは離れた場所で交通の要地を中心として商業が盛んになり新たな「商業地」が形成され徐々に広がっていたことを明らかにした。そして19世紀以降につくられた「開港場」と鉄道などが既存の「邑治」から離れてつくられたことによって「邑治」とは別に大きなまちが形成されたのは、「邑治」が徐々に発展していったのとは別に、「商業地」が地方郡縣の都市史における新たな系譜として成長したことを明らかにしたのは大きな研究成果であろう。

以上のように本論文は韓国における地方都市の原型として知られている「邑治」が朝鮮初期の地方制度改革によって地域・規模などと関係なく、儒教的秩序体系という同一の概念によって体系化され成り立っていたことを解明した。

以上のように本論文は、都市史的観点にもとづいて「邑治」に対する包括的で体系的な考察を行い、1392年の朝鮮王朝の建国から1910年日本によって植民地化され滅びるまでの約500年間を研究対象とし、「邑治」の歴史を系統的に分析し、「邑治」の成立と変容過程を究明することができた。

よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

UTokyo Repositoryリンク