学位論文要旨



No 121104
著者(漢字) 岩本,馨
著者(英字)
著者(カナ) イワモト,カオル
標題(和) 日本近世都市空間の関係論的研究
標題(洋)
報告番号 121104
報告番号 甲21104
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第6194号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 伊藤,毅
 東京大学 教授 鈴木,博之
 東京大学 助教授 藤井,恵介
 東京大学 教授 藤森,照信
 東京大学 教授 吉田,伸之
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、日本近世の都市空間を関係論という視角から捉えることを試みるものである。ここで「関係論」という言葉を用いているのは、既存の都市空間研究に対する次の二つの批判が念頭にある。一つは、都市空間の分析を個別独立的に行うのではなく、つねに都市の外部、あるいは地理的に隔たった他の都市の存在を視野に入れながら考察すべきだということであり、もう一つは都市空間を静的・固定的に捉えるのではなく、社会的な諸集団の関係構造のなかで動的に捉えるべきだということである。

もっとも、関係論という方法そのものは、文献史学においては政治史や流通経済史、社会集団論などの各分野においてすでに広く行われ、研究上の蓄積もなされてきた。しかしこれらの議論が主眼としているのはあくまで社会構造の分析にあって、多くの場合、そうした諸関係の展開する都市空間の構造については二義的に扱われがちであった。

こうした研究動向に対し、文献史学の吉田伸之氏は社会構造と空間構造との不可分性を「社会=空間構造」という言葉に込めて建築史学との共同研究の柱の一つとして位置づけてきた。人や組織・集団の行為行動が具体的な「空間」において展開している以上、この提起の重要性と有効性は言うまでもないが、しかし両者を架橋する方法論は未だ社会構造のあり方を空間構造と単純に対応させて捉えようとする段階にとどまっているように思われる。そのため建築史側の研究では人間や社会の描き方が、逆に文献史側の研究では空間の描き方が紋切り型にとどまりがちになっている。こうした都市空間史研究に対する一種の閉塞的状況を打破するためには、従来のような社会と空間との静態的な「対応」をのみ見るのではなく、都市空間を関係の構造そのものとして動態的に捉え直すことが求められているのではないだろうか。

都市における社会と空間をめぐる関係構造は部分集合の加算として解けるほど単純なものではなく、またそもそも特定の都市だけを対象として完結的に語りうると考えることは幻想と言わねばなるまい。そこで本論文では全体を秩序立てて構成するのではなく、個別の論考=事例研究を並列的に重ね合わせるかたちをとっている。しかしそれは決して全体性への視角の放棄を意味するのではなく、むしろ近世社会における特異点的な対象を事例として選んでいくことで、そこから近世都市をめぐる関係構造の全体的な広がりを垣間見ようと試みるものである。以下、各章の概要を紹介しておきたい。

第I部 幕藩関係と武家地空間では、近世社会の基軸をなす幕藩体制における武家地の空間のあり方について考察した。幕藩体制は一般に幕府による大名編成と、藩内での大名領国制という階層的な構造をとり、それは江戸と城下町、城と藩邸(屋敷)、屋敷内のゾーニングのような入れ子的な空間構造として表れるとされている。しかしそもそも幕藩体制自体が幕府と藩との相互関係として成立している以上、こうした空間構造も固定的ではありえず、こうした入れ子構造の枠を超えた空間的な流動が引き起こされることもあった。以下に収録する四つの論考は、そうした幕藩関係の特異点に注目して空間構造の変容を考察したものである。

第1章では紀州藩主であった徳川吉宗の将軍就任に伴い、200名を超える家臣が幕臣化した事実に注目し、彼らの江戸屋敷獲得が旧政権の中心幕臣を城下の中心部から周縁部へと排除するかたちで行われていく過程を分析した。これにより江戸幕府と紀州藩との関係の変容、および幕府内の政権交代という変動が都市空間においても武家屋敷の移動として表れることを明らかにした。

第2章では、甲府城下町の直轄化に伴い江戸から派遣された勤番士の武家屋敷の空間秩序の変遷を武家屋敷の地番のあり方から追い、当初機械的に割り当てられた屋敷地に居住していた彼らがしだいに甲府の都市的文脈に応じた屋敷獲得を志向し始める過程を明らかにした。幕府の側から見れば江戸の「飛び地」であるが、居住者から見れば固有の場所性をもった城下町であるという二重の論理の相剋がここでの重要な論点となっている。

第3章では水戸藩主が御三家のひとつとして江戸常住(定府)が定められていたという事実に着目し、それに伴い家臣が江戸に大量に移住していく動きを追い、当初の定府化が藩側の主導によって進められてきたのが、やがて藩士の江戸居住が藩の制御を超えて進展し、城下町の空洞化と藩邸の規制力の解体がなされていく過程を考察した。

つづく補論1では譜代大名並みの格式を持ちながら幕府陪臣であった御三家附家老五家に着目し、その江戸屋敷拝領の動向を追った。彼らは近世中期以降に屋敷地の実質的な買得を繰り返し、その増殖をはかっていくが、そうした行動の背景には同時期に進められていた彼らの大名化運動があった。つまり大名と陪臣の境界的存在である附家老の江戸屋敷拡大とは幕藩体制の階層的秩序を空間面からゆるがす危険を孕むものだったのである。

第II部 近世都市空間をめぐる由緒と物語では、実体としての空間と、由緒や物語などのかたちで場的に意味づけられた空間との相互規定性に焦点をあてた。ここでいう相互規定には大きく二つの方向性がある。一つは空間に意味や物語が付与されることで新たな社会的な関係が発生し、それが現実の空間構造をも変えていくという場合であり、もう一つは逆に、現実の空間の変化がそこに展開する社会集団それぞれにおいて意味づけられ、「物語」として受容されていく場合である。

まず第4章では秩父三十四ヵ所観音霊場を対象として、本来山国の小霊場に過ぎなかったはずの秩父の寺院が、日本百観音観音巡礼の札所として自らを意味づけることで江戸の士民との強固な関係を築き、またそのことが秩父霊場の現実の空間的様相を変え、さらに新たな人々・集団との関係を生み出していくという連鎖的な過程を描いている。

つづく第5章も同様に秩父霊場を対象とした論考であるが、ここでは秩父一番札所の別当寺であった妙音寺という具体的な寺院に着目し、同寺がその社会関係の異なるレベルに応じてさまざまなスケールの場と空間を創り出し、それを自在にあやつることで自己の「周縁性」を逆転していく過程を考察した。近世の固定的な関係構造の脱却への空間面からの可能性がここでは示される。

第6章では湊町敦賀の都市空間の変容を、「遊行の砂持ち」を通して考察したものである。遊行の砂持ちとは、中世における時宗集団による敦賀の都市改造を語るストーリーとして成立したものであったが、近世においてそれは敦賀に関わる多様な集団それぞれの固有の論理に即したかたちで受容されていく。そうした敦賀の都市空間のソフト面からの読み直しを、ここでは遊行上人の砂持ちという儀式的行為を通して描こうとした。

補論2は、徳川宗春時代の名古屋の繁栄を描いた絵巻である「享元絵巻」を取り上げ、そこに描かれた都市空間を分析したものである。ここでは、城下の士民のあいだに江戸への対抗意識と名古屋の都市民としての意識が育っていくなかで、宗春という藩主に仮託して名古屋の都市としての可能性を称えるような都市像が共有され始めていたことを指摘した。

第III部 近世的関係構造と都市空間 では、近代的な機能主義や資本の論理などとは別個の論理が支配する関係構造と、それをめぐる都市空間のあり方について考察した。ここで注目するのは近代性の萌芽というよりは近世性の極限的達成であり、そこに近世都市の空間の本質的な姿を見出そうとした。

まず第7章は、豊後国日田に成立した近世最大の私塾である廣瀬淡窓の咸宜園を空間の側面から分析したものである。ここで展開される空間は近代の学校のような機能主義的かつ固定的なものではなく、領域的集中と拠点的分散の原理を併せもつ可変的なものであり、それは近世の階層ごとに異なる多様な「知」の需要を最大公約数的に包摂するのに適合的なシステムであった。ここではそこに近世の「知」のあり方のハード・ソフト両面における達成を見出した。

第8章は、空間からの商人論へのアプローチを試みたもので、事例として富山売薬に着目した。ここでは売薬人が本拠の富山において家屋敷を売り場(懸場)の権利と置換可能なかたちで所持することで、空間化されない懸場に対する権利の不安定さを補完していたことを明らかにし、町の論理と商人の論理とが必ずしも矛盾せずに重なり合う構造を見出した。それは巨大都市江戸における資本の論理の跋扈とは明らかに異なるかたちでの、商業をめぐる空間と場の展開可能性を示すものと言えよう。

最後の補論3は個別事例研究ではなく、武家屋敷の視点から居住の近世性と近代性について総合的な考察を試みたものである。ここでは第I部の議論を援用しながら武士の居住システムの変容を概観し、家屋敷所持に対する社会集団相互の関係による規定性がしだいに失われ、建築と土地とが金銭に還元可能な「モノ」として扱われていく過程を論じた。ここで浮かび上がってくる、関係に規定される空間から機能に規定される空間への転換は都市空間の近世から近代への移行にかかわる重要な論点と考えられる。

以上見てきた「関係」とは、近世身分制を軸とした基底的関係としての地縁的・職縁的・血縁的関係、および複数の身分にまたがりあるいは超越する関係としての政治的・経済的・文化的関係とが複合的に存在したものであり、その構造のなかで生じた場が実体として空間化され、また形成された実体空間のなかに新たな場が生じていく。換言すれば、都市空間とはそれ自身として独自に分析しうるものではなく、複合する関係の体系そのものなのではないだろうか。

審査要旨 要旨を表示する

本論は日本の近世都市空間を「関係論」という新たな視角から捉えることを試みたものである。従来の都市史研究、とりわけ空間論をベースとした既往研究は個別の都市をひとつの完結したものと捉える傾向にあり、それは必然的に都市空間を固定的、静的に描くという結果をもたらした。しかしながら都市は単独で成立しているわけではなく、さまざまな社会的諸集団や他の都市・地域との複雑な動的ネットワークのなかで存在しているのであって、こうした関係構造をいかに空間論に取り込むかが課題として残っていた。本論はまさに上記の難問に正面から取り組み、都市空間の存在形態を関係論として位置づけることに挑戦した意欲作である。

論文は日本近世都市史研究のレビューと本論の方法・目的を述べた序章、3部構成の本論(各部に補論各1あり)、結論を述べた終章からなる。

本論は第I部で幕藩関係によって生ずる武家地空間の動的な変化を扱い、第2部では巡礼や由緒などいわば物語的な関係の生成に着目する。第3部では学知のあり方と全国に展開する売り場を通して、近世固有の関係構造がいかに都市を規定していたかを明らかにしている。以下、各部の具体的内容をみよう。

第1部では、まず第1章で、紀州藩主であった徳川吉宗の将軍就任に伴い、200名を超える吉宗家臣団が幕臣化し、江戸に移住するという特異な事象を分析し、第2章では、甲府城下町が直轄化されることによって江戸から派遣された勤番士の武家屋敷が形成されてゆくプロセスが明らかにされる。続く第3章では水戸城下町の解体過程を水戸藩士の江戸在府への進展を通して描き出している。これら3つのケースはいずれも一見特異例とみることもできるが、近世幕藩体制下ではこうした武士団の大量移動が少なからず行われたことを想起すると、むしろごく一般的な事象であったということができる。また「鉢植え」とも呼ばれる武士の都市間移動は、移転元の都市と移転先の都市の文脈が居住地に色濃く刻印される。本論では都市関係論という視角からこの問題に鋭く迫っている。

第II部は秩父観音霊場における巡礼ルートの変化と意味を考察した第4章、秩父における札所と別当寺の存在形態を妙音寺を素材に個別実証した第5章、古代以来の港町敦賀における時宗集団の由緒形成と都市のおける意味の付与(物語の創出)を「砂持ち」を通して跡付けた第6章からなる。

秩父札所の巡礼ルートは初期から中期にかけて大きく変更されるが、それは地方の一観音霊場に過ぎなかった秩父が巨大都市江戸と密接なかかわりをみせることと大きく関係していた。また各地(とりわけ江戸)からの巡礼者を受け入れる札所について、妙音寺では社会関係の4つのレベル(信者・巡礼者との関係、本寺との関係、他の別当寺との関係、地域社会の関係)に応じてさまざまなレベルの場と空間を創出していた事実を明らかにした。

第6章の敦賀と題材とした論考は、敦賀の都市空間の近世を通じての変容を、「遊行の砂持ち」という中世時宗集団の都市改造の物語が多様な社会集団固有の論理として読み替えられ、受容されていくプロセスを追ったもので、都市のソフト面における関係構造を明らかにしたものといえる。

以上の3章の個別研究は、従来この種の問題を取り上げた研究は皆無であっただけに、きわめて新しい論点が提示されており、本論の斬新な方法論の有効性と可能性が確認できる。

第III部は、近世最大の私塾である豊後国日田咸宜園と日田の都市空間を学知のネットワークという観点から捉えなおした第7章と、富山の売薬業の売り場の展開と城下町富山との関係を明らかにした第8章からなる。都市の関係論といえば通常、商品流通が大きく取り上げられることになるが、近世の知の全国的ネットワークと在地の空間分掌のあり方や売り場と富山城下町の家屋敷の権利上の互換性、売り場の諸類型などの事実解明から、都市関係論を格段に拡大・深化させることに成功した。

以上のように、本論は従来ほとんど本格的に試みられなかった、都市空間の関係構造を具体的な個別研究を積み重ねることによって、一定の方法論にまで高めた画期的な研究と評価することができ、学界に裨益するところ大である。よって、本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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