学位論文要旨



No 121105
著者(漢字) 山口,亜由美
著者(英字)
著者(カナ) ヤマグチ,アユミ
標題(和) ベトナム・フエ阮朝宮殿建築の構造的特徴
標題(洋)
報告番号 121105
報告番号 甲21105
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第6195号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 坂本,功
 東京大学 教授 久保,哲夫
 東京大学 教授 鈴木,博之
 東京大学 助教授 松村,秀一
 東京大学 助教授 腰原,幹雄
内容要旨 要旨を表示する

ベトナム社会主義共和国の中程に位置するトゥアンティエン・フエ省フエ市は,かつてベトナム史上最後の王朝となった阮朝(1802-1945年)の都として栄えた.ベトナムには阮朝以前にもいくつかの王朝が存在したが,ベトナム全土を統一した王朝は阮朝のほかにない.また,いずれの王都も,その栄華を現代に伝えることは叶わなかった.このため,ここに現存する当時の建造物群は1993年12月11日,ベトナムで初めてのユネスコ世界文化遺産となった.

しかし,近現代において多くの戦争を経験してきたベトナムにおいて,これら宮殿建築の維持は必ずしも十分に行われてこなかった.また,宮殿建築群の多くは木造であるため,高温多湿で降水量も多く,雨季には洪水を起こすフエの過酷な自然環境による被害での劣化は,政情が安定した現在では最も深刻な問題の一つとなっている.

近年,海外からの資金援助も盛んになり,ベトナムでは多くの修復工事がおこなわれている.しかし,地震とは無縁で,経済発展途上にあるベトナム国内では,開発によりあるいは自然災害により伝統的木造建築の文化的芸術的価値,またそれを支えた技術が失われることに対して警鐘を鳴らす風潮は生まれても,伝統的木造建築の構造体としての価値に対する関心は今なお薄い.

本研究では,阮朝宮殿建造物群ひいてはベトナム伝統的木造建築の保全のために,これら建築の構造的特徴を明らかにするものである.加えて,本研究は伝統木造建築に関して,技術面においても研究面においても先駆的位置にある日本が有する成果を世界に提供しようとする試みでもある.

本論文における研究は,調査,実験,解析といった3種類の作業によって進められた.調査にはベトナムでの資料の収集,建物の実測および観察ならびに日本国内での文献調査が含まれる.ベトナムでの資料の収集は一般に市販されている専門書から修理工事の現場で用いられている仕様書および積算書ならびに聞き取りなどにいたる.建物の実測は実験で使用する試験体を作製するためにおこなわれた.また,本論文における観察の部分の多くが破損状況,現行の構造補強および応急処置に対して費やされた.実験には,現地で実物の建物に対しておこなった常時微動測定および載荷実験ならびにベトナムで作製した試験体を日本に輸送しておこなった構造模型実験,接合部実験および材料試験が含まれる.解析では先の調査および実験における成果を踏まえて,阮朝宮殿建築を代表させやすい架構形式を選択してモデル化をおこない,宮殿建築が直面している構造的問題に対する検証をおこなった.

これら一連の研究は,現地,故都フエ遺跡保存センター(Hue Monuments Conservation Center)および早稲田大学中川武研究室(建築史学)およびものつくり大学白井裕泰研究室(保存修復学)との共同研究としておこなわれた.

序論

阮朝宮殿建築の歴史および種類について概説した.

1章

阮朝宮殿建築で観察される破損状況を整理し,その原因を理解することを目的とし,破損状況の定義をおこなった上で破損を部材別,建物別に整理した.阮朝宮殿建築の破損は,建物の変形と部材の変形といった2つの視点から見ることができ,建物の変形は部材の変形を包含し,部材の変形には,物理的破損と化学的破損の2種類がある.前者には破損,変形および欠損が含まれ,後者には腐朽,虫害および風食が含まれるといった分類を用いて整理することができる.

さらに,それら破損に至る原因を環境的要因と構造システム的要因の2つの側面から検証した.環境的要因からは木部の腐朽を阻止することがいかに困難な問題であるかが,フエの気候条件から明らかになった.また,木部の腐朽阻止といった問題は,宮殿建築の構法的な視点からも困難な問題であることがわかった.構造システム的要因からは,構造的検証のないままに修復を進めても,根本的解決を見ないことがわかった.

2章

阮朝時代の漢籍『欽定大南會典事例』および『大南一統志』における宮殿建築に関する記述ならびに故都フエ遺跡保存センターの修復記録を利用して宮殿建築49棟について建物別の修復年表を作成した.その結果,修理が頻繁におこなわれていた阮朝初期での修復間隔が,屋根の葺き替えでおよそ15年,建物修理でおよそ20年間隔であること,また,修理工事が阮朝で事業化されていた可能性が明らかになった.また,南ベトナム政府時代には多くの宮殿建築が失われたが,戦時下であったにもかかわらず,修復されている例があることが明らかになった.ベトナム社会主義共和国成立以降は,ユネスコの視察がおこなわれるようになり,1986年のドイモイ政策以降,海外からの支援がおこなわれるようになったことで,修復にかける年数が延びたり,全解体修理がおこなわれるようになったりするなど,修復の手法が変化している様子が明らかになった.その結果,阮朝宮殿建築に必要な修理間隔が,日本で最も頻繁に修理がおこなわれた場合の修理間隔に比べても短く,宮殿建築のおかれた環境,宮殿建築の持つ架構システムにその原因があることが明らかになった.

3章

阮朝宮殿建築の軸組みを構成する木材に着目し,宮殿建築を取り巻く環境を温湿度調査を通して明らかにするとともに,その環境下での木材の含水率およびひずみの変化を明らかにするために,宮殿建築3棟について温湿度変化を2棟について部材の含水率変化を,1棟について部材のひずみ変化を測定した.その結果,天井のある建物では天井のない建物に比べて温湿度変化が緩やかなこと,湿度環境は木材腐朽菌の活動を抑えることが困難な70%をおおむね超えるが,部材の含水率自体は木材腐朽菌の活動を抑えることができるとされる20%を下回ることがわかった.

また,阮朝宮殿建築に頻繁に用いられる2樹種について材料試験をおこなうことでこれらの物理的性質および強度的性質を明らかにした.阮朝宮殿建築に用いられる部材はベトナム語名でLimXanhとよばれるマメ科の広葉樹,およびベトナム語名でKienKienとよばれるフタバガキ科の広葉樹がほとんどである.これらは10%程度の幅があるものの,密度がおおむね0.8を超える硬木であり,その強度的性質はいずれにおいても日本の国産材で最も強い部類に入るシラカシの強度を上回るものであった.

4章

阮朝宮殿建築の構造性能を考察するにあたり,架構システムを軸組み,小屋組,軒廻りに分けて整理した.軸組みについては宮殿建築だけでなく,民家も含めて必ず柱転びが存在するがその割合は7/1000〜14/1000で現時点ではどのような建物にどのような値が用いられているのかは明確にはならなかった.小屋組については登梁式架構と虹梁式架構に大別される.登梁式架構では身舎-庇間で一材の登梁を用いるか,二材の登梁を用いるかの別はあり,庇柱での接合部が異なるが,後者におけるバリエーションは,いずれも虹梁が束を介して身舎の荷重を受けている点では同じであるといえる.

阮朝宮殿建築に用いられている瓦には,釉薬付丸瓦,釉薬付陰陽瓦,素焼陰陽瓦,素焼平瓦および釉薬付平瓦があり,乾季における重量は単位面積当たりそれぞれ380kg,350kg,量を増す.この結果を踏まえて構造模型に対する載荷実験をおこなったが,載荷によって受ける圧縮ひずみ以上に,材自体が伸縮していることがわかった.また,実物の建物に対して,雨季に増す瓦重量相当の載荷実験をおこなったが,それによって架構が受ける変形は極めて微細なものであった.宮殿建築に用いられる接合部6種についておこなった静的加力実験では,いずれの接合部でも変形角0.02rad程度のスリップが観察され,これにより接合部が剛性を発揮するまでに建物の変形が進むことが予測された.常時微動測定は宮殿建築8棟に対しておこなった.登梁と壁との取り合いにはほぼ関係なく,壁の存在そのものが固有振動数に与えている影響が大きかった.

5章

5間四方の単等式建築の解析モデルを作製し,4章の実験結果と比較した.壁の存在を考慮しない軸組みモデルであったが,屋根荷重が重い例に対しても大きな変形はなく,いずれの接合部における変形も0.02radには達しなかった.柱間により屋根荷重が異なる場合にもこの傾向は変わらなかった.

6章

宮殿建築は鉛直荷重に対しては大きな変形をきたさないことがわかったので,6章では5章で作製した解析モデルを用いて,風荷重による変形および部材の担う役割について検討した.その結果,屋根荷重を減らした場合には,柱の軸力が軽減されるため柱のせん断力が静止摩擦係数超える柱が増加するため,屋根荷重を軽減させる場合にもその重量に注意を払わなければならないことがわかった.

7章

今後の課題として,常時微動測定では比較対象となるデータを増やす必要がある.

審査要旨 要旨を表示する

本論文は,ベトナム社会主義共和国トゥアンティエン・フエ省フエ市におけるユネスコ世界文化遺産「フエの建造物群」のうち,特に阮(ぐえん)朝(1802-1945年)宮殿建築を対象とし,建築史,建築計画および都市計画といった他分野が先行しがちな文化遺産研究において,これを建築構造の見地からその現状を明らかにしたもので,序論および7章からなっている。

「序論」では,日本における伝統的木造建築に関する構造分野での研究成果を途上国における保存・修復事業に提供する意義を示した後,本研究の対象であるフエの都城としての歴史,阮朝の歴史および阮朝宮殿建築の歴史について概説している。

1章「現存遺構の破損状況」では,阮朝宮殿建築で観察される破損状況について,破損状況の定義をおこなった上でこれを部材別,建物別に整理し、それらの破損に至る原因を環境的要因と構造システム的要因の2つの側面から検討し、さらに構造的検証のないままに進められた修復の問題点を指摘している。

2章「既存の構造補強」では,阮朝時代の漢籍『欽定大南會典事例』および『大南一統志』における宮殿建築に関する記述ならびに故都フエ遺跡保存センターの修復記録を利用して宮殿建築49棟について建物別の修復年表を作成し、気候条件および構法・構造的問題を修復の歴史の観点から検討している。

3章「宮殿建築における温湿度変化および使用樹種」では,阮朝宮殿建築の軸組みを構成する木材に着目し,宮殿建築における温湿度,その環境下での木材の含水率およびひずみの変化を測定し,フエ建造物群の修復事業従事者による通説の誤りを指摘している。また,阮朝宮殿建築に頻繁に用いられる2樹種について材料試験をおこなうことでこれらの物理的性質および強度的性質を明らかにしている。

4章「ベトナム伝統的木造建築の構造システム」では,阮朝宮殿建築の構造性能を考察するにあたり,架構システムを軸組み,小屋組,軒廻りに分けて整理している。ついでその結果をうけて、「1/4構造模型」と「実物大模型」により載荷実験を行い、実査の挙動を検討している。また、「接合部」に関する実験では,スリップによる剛性低下が大きいことを明らかにしている。さらに、宮殿建築8棟に対して行った「常時微動測定」では.固有振動数に対して壁の効果が大きいことを明らかにしている。

5章「構造性能評価」では,5間四方の単棟式建築の解析モデルを作製し,4章の実験結果と比較しており.全体的に変形が小さいことを解析によっても検証している。

6章「宮殿建築の構造性能の評価」では, 5章で作製した解析モデルを用いて,風荷重による変形および部材の担う役割について検討している。その結果,現行の修復では軸組みの負担を軽減するために屋根荷重の軽減がおこなわれているが,この場合,柱の軸力が軽減されるため柱のせん断力が静止摩擦係数超えてすべりを生じる柱が増加することを指摘している。

7章「結論」では,以上の成果をまとめるとともに、今後の課題として,解体修理に際した詳細な調査結果を構造解析に反映させる必要があること,その結果を利用することで,効果的な修復が可能になること,継続的な常時微動測定によって比較対象となるデータを増やすこと,経年変化を管理する必要があることなどをあげている。

以上本論文は,ベトナム・フエ阮朝宮殿建築について,現状調査・文献調査・材料試験・構造模型実験・実物実験・接合部実験・常時微動測定・モデル解析といった多面的な調査,実験および解析をおこない,その構造的特徴を明らかにしたものであり、建築学上の発展に寄与するところがきわめて大きい。

よって,本論文は博士(工学)の学位請求論文として,合格と認められる.

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