学位論文要旨



No 121174
著者(漢字) 岡村,幸太郎
著者(英字)
著者(カナ) オカムラ,コウタロウ
標題(和) 極低温連続波原子線源の開発
標題(洋)
報告番号 121174
報告番号 甲21174
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第6264号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 五神,真
 東京大学 教授 宮野,健次郎
 東京大学 助教授 香取,秀俊
 東京大学 助教授 古澤,明
 東京大学 助教授 井上,慎
 東京大学 特任講師 中,暢子
内容要旨 要旨を表示する

近年のレーザー冷却・トラップ技術の発達により、高輝度な原子波源が実現されるようになった。また、例えば誘導ラマン過程によってコヒーレントに原子波を分割したり重ね合わせたりすることが出来るようになっている。このようにして要素技術が揃ったことにより、原子波を用いた干渉計、原子波干渉計の実験が多く行なわれるようになってきている。

原子干渉計の感度を向上させるためには、原子干渉計内の位相差を増大させる、または位相差検出感度を向上させる必要がある。例えば原子波ジャイロスコープの場合、位相差増大のためには干渉計の囲む面積を増大させる必要がある。このためには干渉計のサイズを増大する必要があるが、これにより外場、特に残留磁場の影響が大きくなる。一次のゼーマンシフトは原子の状態をmF=0と選ぶことで0に出来るが、二次のゼーマンシフトが残る。これを最少化するためにはスピンを持たない原子を用いることが望ましい。また、干渉計の面積を増大させるためには、二つの原子の経路の間の距離をできる限り大きくとる必要が有る。この距離は、原子波を分割する際の偏向角に比例する。原子波をコヒーレントに分割する手段としては誘導ラマン遷移を用いるもの、微細加工によって作られる回折格子を用いるものが挙げられるが、その際に与えられる横方向速度はせいぜいcm/sのオーダーであるので、偏向角を大きくするためには原子の初期速度を小さくする必要が有る。地球上で実現できるものとしては、静止した状態で生成して落下させるのが最も低速な原子線となる。

位相差検出感度を向上するためには干渉出力の検出精度を向上させなくてはならない。検出感度は究極的には検出原子数のランダム揺らぎにより制限される。原子数の相対揺らぎは原子数の平方根に反比例するので、干渉計用原子線源には出力線束の大きいことが求められる。

出力原子線束を増大していった場合に考慮すべき事項として、原子同士の二体衝突によるエネルギーシフトがある。これは原子の密度に比例するため、原子をパルス的に出力する場合にとくに顕著になる。このことから、干渉計用原子線源は連続出力であることが望ましい。

上記の理由に基づき、本研究では極低温、連続出力でスピンを持たない原子を出力する原子線源の開発を行なった。

磁気光学トラップは広い速度範囲の原子を収集し、スピンを持った原子の場合は中心部での偏光勾配冷却によりドップラー限界温度以下にまで冷却可能な冷却/ トラップ手法であり、レーザー冷却実験で広く用いられている。しかし、原子数を増大していった場合、輻射トラッピングによる温度上昇、光励起衝突による原子損失が顕著になる。このため、磁気光学トラップを原子線源として用いる場合、連続的に原子を出力することにより一時に蓄積する原子数を少なく保つのが望ましい。

これまでレーザー冷却実験で広く用いられてきたアルカリ金属原子ではある瞬間に磁気光学トラップ可能な遷移は一つしかない。このため、連続的に出力しようとした場合、原子収集に最適な実験条件と低温への冷却に最適な実験条件とが異なることから、収集と冷却を空間的に分離するといったような複雑な実験系にならざるをえない。これに対し、本研究で用いたストロンチウムはアルカリ土類金属原子であり、同時同一空間で磁気光学トラップに使用可能な遷移が二つある。それぞれの遷移に原子収集と低温への冷却を役割分担させることができるので、単純な磁気光学トラップにより極低温連続出力原子線源を構成することができる。

ストロンチウム原子は基底状態5s2 1S0の他に5s5p 3P0,5s5p 3P2の二つの準安定状態を持つ。これら3準位のうち、基底状態と3P2準安定状態はそれぞれ上準位5s5p 1P1, 5s5d 3D3状態との間でほとんど閉じた遷移(Γ=30MHz/10MHz)を持ち、磁気光学トラップが可能である。この二つの磁気光学トラップは共有する準位がないので同時同一空間で行なうことができる。基底状態の磁気光学トラップ内では、上準位5s5p 1P1から5s4d 1D2 を経由した緩和により5s5p 3P2準安定状態が生成される。5s5p 3P2準安定状態の磁気光学トラップ内でも同様に、上準位5s5d 3D3から5s6p 3P2を経た緩和により5s5p 3P0準安定状態が生成される。5s5p 3P0状態はスピンを持たず磁場と相互作用しないので重力により落下し、連続波原子線源となる。5s5p 3P2状態原子の磁気光学トラップ中心部では偏光勾配冷却が行なわれるため、ドップラー限界以下の温度が期待できる。

実際に実験を行なったところ、基底状態磁気光学トラップの原子数が大幅に増大した。これは、3P2準安定状態冷却過程上準位5s5d 3D3 からの緩和で5s5p 3P0状態に比べて5s5p 3P1(寿命21μs)が一桁程度多く生成され、これが基底状態に戻ってしまうために起きると考えられる。また、3P2準安定状態磁気光学トラップの寿命がトラップ内運動の緩和時間と同程度となっていたため、トラップサイズが大きくなり、到達温度も高くなっていた。これらの問題を解決するために5s5p 3P1-5s5d 3D2遷移への共鳴光を照射し、5s5p 3P1 から5s5p 3P2への光ポンピングを行なった。光ポンピング付き3P2準安定状態磁気光学トラップの寿命を5s5p 3P0原子出力有り無しで比較することにより5s5p 3P2状態から5s5p 3P0状態への変換効率として74% を得た。また、光ポンピングの有無による基底状態磁気光学トラップの寿命の変化を調べることで5s4d 1D2から5s5p 3P1,2への緩和の分配比を6:1と決定した。

5s5p 3P0状態連続出力原子線の温度をTime of Flight法で低温/高温2成分モデルによりフィットして測定したところ、低温成分の温度としてドップラー温度0.25mKを下回る80μKを得た。しかし、3P2準安定状態磁気光学トラップの離調を変化させた実験では、大きな離調で出力原子数が極端に減少し、また原子の初期分布が拡大したことによって誤差に対して敏感になり、S/N比が低下して温度の離調依存性は観測できなかった。これは離調が大きくなったことにより磁気光学トラップの安定性条件が破れて5s5p 3P2状態原子を捕獲しきれなくなったためと考えられる。5s5p 3P0状態原子の出力を止めた3P2準安定状態磁気光学トラップの温度を測定したところ離調依存性を示して20〜30μK程度が達成されていることが確認できたため、捕獲できた原子については偏光勾配冷却が有効に効いているものと考えられる。

離調を大きくとった状態で5s5p 3P2状態原子の捕獲確率を向上させるため、第二の3P2準安定状態磁気光学トラップビームを設置した。これは中心に直径5mmの穴が空いた、+80MHz周波数シフトしたビームで、これを離調-Γ程度にすることでトラップ中心から2.5mm以上外れた原子を確実に捕獲するものである。トラップ中心に捕獲された原子には第二のビームは当たらず、離調-9Γ程度の偏光勾配冷却が実現される。

実験を行なったところ、低温成分の温度として30μKが達成された。原子線束は9x10^7[s^-1]であった。

本研究において開発した極低温連続波原子線源は他の手法による連続原子線と同程度以下の温度を実現した。無スピンの原子線源としては最低温度である。原子線束は実験装置の改善により2桁程度の改善が可能と見込まれる。

審査要旨 要旨を表示する

現在、光干渉計は高精度計測において広く用いられる技法となっている。これに対し、近年、原子波を干渉波動として用いる原子干渉計の実験が行なわれるようになってきている。原子干渉計は光干渉計に比べ、1. 他の条件が同じとしてサニャックジャイロを構成した場合1011倍程度感度が高い 2. 磁場や物質との強い相互作用など、光干渉計でとらえられない物質量の測定が可能 等という特長を持っている。原子干渉計の構成要素としては、1. 原子線源、2. 原子波束分割手段、3. 原子波束重ね合わせ手段、4. 原子波検出手段がある。レーザー冷却技術の発展により高輝度の原子波源が得られるようになり、また微細加工技術の進歩やレーザー周波数制御技術の進歩により、現実的な原子波束分割/重ね合わせ手段も得られるようになってきた。これによりこれまで原子干渉計によるサニャックジャイロ、重力傾度計、ガスによる屈折率測定等が実現されてきている。

現在、原子干渉計の実験は主にアルカリ金属原子を対象として行なわれている。原子線源の構成としてはオーブンから飛来する原子をレーザー冷却により横方向速度広がりを小さくし収束した原子線源か、磁気光学トラップにより捕獲、冷却した原子を用いている。しかしこれらには一長一短がある。サニャックジャイロを例にとると、その感度はループ面積に比例する。ループの原子線方向長さを一定とするとループの幅は原子波束分割時に原子に与えられる横方向速度に比例し、原子線速度に反比例する。オーブンから出射される原子線は大きな速度を持つので、感度の面で不利となる。磁気光学トラップにより捕獲した場合、原子線速度は低いが、間欠的に出力することになる。この場合、原子間の衝突シフトによる位相回りによって最大原子数が制限され、これにより位相検出感度が制限されてしまう。また、アルカリ金属原子の各状態は必ず角運動量を持ち、それゆえにたとえ磁気副準位を0に取ったとしても大きな二次ゼーマンシフトを起こす。これを避けるには厳重な磁気シールドを必要とし、実験装置の大規模化を困難にする。本研究では、上記の問題を回避できる、角運動量を持たない原子を極低温、連続波、静止状態で出力する新たなスカラー原子線源を提案し、実験によりその詳細な特性を調べている。

本論文は以下の6章からなる。以下に各章の内容を要約する。

第1章では、研究の背景として、原子干渉計及び原子干渉計用原子線源に求められる特性について述べている。

第2章では、レーザー冷却の理論と磁気光学トラップ既存の原子線源について述べている。まず中性原子と光の相互作用について述べ、それに基づき各種のレーザー冷却法について述べている。それに続き原子線源として高原子数で磁気光学トラップを行なった時に生ずる各種問題、またそれを回避した既存の原子線源について述べている。

第3章では、ストロンチウム原子を用いた連続波極低温原子線源の原理及び実現可能性について述べている。ストロンチウム原子基底状態5s21S0を下準位とした、800KからμKオーダーの温度への冷却を行なうゼーマン冷却過程及び磁気光学トラップと、準安定状態5s5p3P2を下準位とした、μKオーダーから数10μKオーダーへの冷却を行なう磁気光学トラップを同時同一空間で行なうことにより、冷却上準位からのカスケード遷移を用いて状態遷移を行なわせ、800Kから数10μKまで連続的に冷却可能なことを示している。また、準安定状態5s5p3P2を下準位とした磁気光学トラップ上準位5s5d3D3からの緩和過程について理論予測を行ない、もう一つの角運動量0の準安定状態5s5p3P0が生成されることを示している。更に、この準安定状態5s5p3P0の生成効率を高めて実用的なスカラー原子線源を作るためには5s5d3D3からの緩和過程で大量に生成される5s5p3P1状態から5s5p3P2状態へのポンピングが必要であることを示し、光ポンピングによりそれが実現できることを示している。

第4章では、実験装置について述べている。磁場・トラップビーム配置を述べ、光源で用いた外部共振器型半導体レーザー及びFM分光法の原理を述べてから連続波極低温原子線源用の準安定状態冷却用光源及び光ポンピング用光源の開発について述べている。

第5章では、連続波極低温原子線源の実験及びそれによって判明した特性について述べている。まず基底状態5s21S0を下準位とした磁気光学トラップの特性を説明した後、それに対するポンピング光の効果を説明、これまで理論値しか知られていなかった分岐過程の分岐比の実測値を示している。次いで準安定状態5s5p3P2を下準位とする磁気光学トラップの特性を説明し、これにより効率よく角運動量0 の準安定状態5s5p3P0が生成されることを説明している。更にTOF法による連続波スカラー原子線源の温度測定について説明し、原子線束測定についても説明している。更に原子収集光の追加により大離調により低温を達成しつつ効率よく原子を捕獲できることを説明し、その特性について説明している。最後に連続波スカラー原子線源の応用例として、スピン禁制遷移を用いたドップラー分光について説明している。

第6章では、まとめと本連続波原子線源を用いた実験の将来展望について説明している。

以上のように、本研究はストロンチウムにおいて同時同一空間で二種類の磁気光学トラップが実行可能であることに着目し、それによって実現される極低温連続波スカラー原子線源の詳細な特性を測定している。その結果、連続波スカラー原子線源としてはこれまでにない低温を実現した。本研究は、これまで主に価電子を一つしか持たず一時に可能な冷却遷移が一つしかないアルカリ金属を用いて行なわれてきた原子線源の開発に対して、アルカリ土類金属のストロンチウムが二つの価電子を持ち基底状態に加えて二つの準安定状態があって同時実行可能な冷却遷移が二つ取れることに着目して、これまでになく外場の影響を受けにくい干渉計向きの原子線源を実現した点で意義があり、物理工学の発展への寄与は大きい。よって、本論文は博士(工学)の学位論文として合格と認める。

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