学位論文要旨



No 121176
著者(漢字) 井野,雄介
著者(英字)
著者(カナ) イノ,ユウスケ
標題(和) 誘電分散解析に基づく時間波形処理を用いたテラヘルツ分光計測法の開拓
標題(洋)
報告番号 121176
報告番号 甲21176
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第6266号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 五神,真
 東京大学 教授 平川,一彦
 東京大学 助教授 古澤,明
 東京大学 助教授 井上,慎
 東京大学 助教授 島野,亮
内容要旨 要旨を表示する

周波数1兆Hz、波長0.3mmであり光と電波の中間に当たる電磁波をテラヘルツ(THz)電磁波と呼ぶ。ドープ半導体・誘電体・超伝導体・生体物質と言った様々な物質がこの電磁波に対して興味深い応答を示す事に加え、この領域はエレクトロニクス・フォトニクス双方の極限に当たる事。従って基礎研究・応用の両面においてこの電磁波は早くから注目されていたが、これまでは良好な光源が無かった為に研究全般が立ち遅れていた。1984年にAustonらは、フェムト秒レーザーを半導体光伝導スイッチに照射してTHz電磁波を発生させ、空中伝播させた後に観測する事に成功した。以後、フェムト秒パルスレーザーを用いて広帯域・高輝度なテラヘルツ電磁波を発生させる技術が発達し、THz電磁波を発生・検出する技術は整備されつつある。

今後更にTHz技術を発達させ、基礎研究や産業において様々な応用に堪えるようにするためには、検出したTHz電磁波信号を処理し、効率よく情報を抽出できるような手法を確立することが重要である。その際に注目すべきは、このようなTHz電磁波パルスを検出する技術においては、電場時間波形の時間発展を直接観測することが可能である、と言う点である。得られた時間波形をFourier変換することにより、周波数成分ごとに振幅と位相が同時に得られる。従ってこの電磁波パルスを用いて透過あるいは反射測定を行うことで物質の応答関数を振幅・位相を同時に観測することができ、複素屈折率の実部・虚部を同時に決定することができる。可視光の測定においては通常振幅のみ得られることと比べると、時間波形測定の持つメリットは極めて大きい。このような物質の測定法をTHz時間領域分光(THz-TDS)と呼ぶ。上述したようにTHz電磁波は様々な物質と強く相互作用するので、期待されるTHz-TDSの用途は極めて広い。THz波発生・検出技術の進展と共に、THz-TDSは信頼性の高い分析ツールとして広く利用されるようになったが、依然としていくつかの解決すべき課題を抱えている。第一に、THz-TDSには時間波形を得られると言う莫大な長所があるものの、現状ではその特性を最大限に活用しているとは言い難い。また、信号において波長が可視光に比べ3桁程度大きい故に、試料の構造・実験系の配置など試料内部の情報とは無関係な成分が信号に混入している恐れが大きく、試料の所望な情報を的確に抽出する手法の構築が不可欠である。更に、THz電磁波パルスの帯域はそのキャリア周波数と同程度に達しており、周波数情報に関する解釈を厳密に行う為には注意深い取り扱いが必要である。

以上の問題を鑑み、本研究においてはTHz電磁波パルスの信号処理に誘電分散解析を応用し、試料に関する情報を効率よく検出する方法の構築を目指した。具体的には、THz時間領域反射測定において試料反射面の位置不確定性に伴う位相成分を、測定した信号の有する解析性を用いて抽出するアルゴリズムを開発した。またこの方法をイメージング測定に応用し、試料表面の形状と物質分布を同時に抽出する測定スキームを開発した。更にTHz電磁波パルスの偏光自由度を活用して、異方性媒質の誘電率テンソルを決定する測定・解析法の構築を行った。

まず、THz時間領域反射測定において問題となる試料表面位置不確定性に起因する位相誤差を、因果律やエントロピー最大の原理などを用いて抽出するアルゴリズムの構築を行った。THz波を用いて反射測定を行う際は、試料と参照試料各々の表面からの計測された反射波を比較して複素反射係数を計算するが、その際に試料と参照試料の反射面が一致していることが前提となる。もし両者が食い違っていれば、計算された複素反射係数の位相には周波数に比例する系統的な誤差成分(以降、位置成分と称する)が含まれてしまう。位置成分は解析を行ううえで極めて大きな障害となるため、これを取り除く手法の開発が不可欠である。複素反射係数の振幅と位相は共にある物理現象の結果として得られるので、互いに独立ではなく解析的な従属関係を形成する。これを誘電分散関係と呼ぶ。もし位相に位置成分が混入していれば、位相のみが振幅に独立に変化したことになるので、誘電分散関係は破壊される。本研究においてはこの点に着目し、誘電分散関係を調べることにより、位置成分の有無を検出することを目指した。

まず因果律に注目した。これは、過去に起こった出来事の結果として現在における信号の値が決まる、と言う原則を意味するが、この原則から複素反射係数の振幅スペクトルを解析的に変換して位相スペクトルを得る(あるいは位相スペクトルから振幅スペクトルを得る)為の関係式が導かれる。これをKramers-Kronigの関係と呼び、光学測定では盛んに利用されているが、その計算には周波数空間全域におけるスペクトルの値が必要であり、実験で得られる有限区間のみのスペクトルで計算を行うと誤差が生じてしまう、と言う問題がある。この問題を避けるために、振幅スペクトルに加えて位相スペクトルの値をある周波数1点で得ることさえできれば、有限区間の振幅スペクトルからであっても誤差が少なく位相スペクトルを再現できることが示された。これをSingly-subtractive Kramers-Kronig関係式(SSKK)と呼ぶ。このSSKKを位置位相の問題に適用した。その結果、測定された位相が正しい場合にはSSKKにより位相から計算された振幅スペクトルは測定された振幅と良い一致を示すものの、位置成分が含まれている場合には、SSKKにより計算された振幅は測定されたスペクトルから系統的にずれることが示された。このことを用いれば、試料表面の反射面位置を試料の誘電応答とは独立に抽出することが可能である。実際にn型半導体InAsのTHz領域複素反射スペクトルをこのアルゴリズムを用いて解析し、0.01mm程度の位置のずれを抽出して試料の誘電応答を決定することができた。

また、振幅を用いてSSKK演算を行うと数値計算が不安定になる場合があることを考慮し、より安定な複素反射係数の実部と虚部を用いたKramers-Kronig演算を用いることで、同様に位置成分を抽出できることを示した。更に、複素反射係数スペクトルのエントロピーが最大になることを要請することにより、測定した位相を試料の誘電応答と相関がある成分と無相関な成分(誤差位相)に分離するアルゴリズムを開発した。位置成分がない場合誤差位相は変化に乏しい関数であるので、位置のすれがある場合には位置成分と誤差位相は殆ど等しい値となってしまうため、位置のずれを評価することができる。この方法で先ほどと同じn型InAsの複素反射スペクトルを解析し、誘電応答と位置成分を分離することに成功した。

以上述べた誘電分散解析を用いた位置成分の除去アルゴリズムにおいて、除去可能な誤差の理論的な最小限界値は、解析するスペクトルの構造に依存する。もしスペクトルが共鳴構造を十分に含んでいれば、検出限界値は位置のずれに換算して1μmを下回る。しかしスペクトルが共鳴構造を部分的にしか含んでいない場合、検出限界は10μm程度にまで悪化する。

これらの位相解析アルゴリズムを不均一な試料に応用すると、試料の各点に於いて誘電応答と反射面の位置を同時に決定する事が可能になる。これを試料上全点について行うと、試料における物質の分布と表面の形状に関する情報が同時に得られる。この測定法を金属-半導体混成試料に対して適用した。その結果、試料の表面形状を正しく抽出し、表面形状を0.05 mmの精度で決定する事に成功した。この精度は、実験条件を改善する事によりアルゴリズムで決まる限界まで改善される事が期待される。また物質上各点に置ける反射スペクトルについて、各々の物質の特徴が反映されている事を確認した。

更に、THz電磁パルスには偏光の自由度が有るが、この偏光の自由度と時間波形情報による位相の情報を組み合わせる事によって、異方性を持つ試料の誘電テンソルを決定する事が可能である。そこでTHz電磁波パルスが異方的な試料の界面で受ける波形変化を解析的に表現し、これをTHz電磁波パルス偏光測定と組み合わせる事により、試料の誘電テンソルの対角項・非対角項を実部・虚部同時に決定するアルゴリズムを開発した。この手法をn型半導体磁気光学測定に応用し、磁場下におけるn型半導体ホール効果の評価を行った。更に、THz電磁波パルスの時間波形を測定している事に注目し、1mradに相当する微小な偏光回転角を検出する手法を開発した。

まとめると、本研究においては、まずTHz電磁波パルスを用いて時間領域反射測定を行う際に生じる、試料-参照試料間反射面位置のずれに伴う位相成分を、誘電分散解析を用いて試料の誘電応答から分離するアルゴリズムを開拓した。このアルゴリズムを用いて、実際のTHz領域複素反射スペクトルから位置成分を抽出する事に成功した。更にこの方法をイメージング測定と組み合わせ、不均一試料の表面形状と物質の分布を同時に決定できる測定スキームの開発を行った。またTHz電磁パルスの偏光の自由度を活用して、異方的な試料を記述する誘電テンソルの対角・非対角成分を同時に検出する測定・解析アルゴリズムの開発を行った。本研究の成果は、材料やデバイスを非接触・非破壊で分析・評価する方法としての用途、生体物質を安全かつ非接触に検査する医療診断における用途、空港・港湾の荷物検査において金属・危険薬物等を形状も含めて検出する検査法としての用途等への応用が期待される。また本研究で開発されたアルゴリズムは、時間波形を用いた測定になら全て応用可能であるので、光パルス位相測定と組み合わせる事で新たな応用の可能性が見出されるであろう。

審査要旨 要旨を表示する

フェムト秒パルスレーザーを用いたテラヘルツ周波数帯の電磁パルスの発生・検出する技術の研究が進み、様々な分野での応用が盛んに研究されている。テラヘルツ電磁波は光と電波の中間領域であり測定技術としても、光技術と高周波エレクトロニクスの融合技術として興味深い研究対象である。例えば、テラヘルツ電磁パルスを用いた分光においては、電気信号と同様に、電場の時間波形を直接測定することが可能である。従って物質の誘電応答を評価する分光測定においては、応答関数の振幅と位相を同時に決定することが可能である。本研究では、この位相と振幅が応答の因果律によって拘束されることに着目し、時間領域反射分光法において試料と参照試料の位置ずれに起因する系統誤差を自動的に取り除くアルゴリズムを開発し、テラヘルツパルスを用いた新しい反射分光法を開発した。またテラヘルツパルスの持つ位相情報と偏光の自由度を組み合わせ、異方性媒質の誘電率テンソルを決定する手法を開発した。

本論文は以下の7章からなる。以下に各章の内容を要約する。

第1章では、テラヘルツ周波数帯が基礎研究・産業応用の両面から注目すべき領域である事を述べ、フェムト秒パルス技術の進展に伴うテラヘルツ帯研究の歴史と現状について述べている。その上で電磁パルスを使った分光において、位相情報の活用によって新たな分光手法が得られる可能性があることを示し、それを本研究の目的とすることを述べている。また、本論文の構成を示している。

第2章では本研究の理論的背景を述べている。まず可視光やテラヘルツ波を試料に入射した際に得られる透過・反射係数について、線形システム論におけるインパルス応答関数と関連して説明している。次いで、可視光の透過・反射測定について述べた上で、時間波形を用いた測定の特徴を説明している。更にその例としてテラヘルツ分光を挙げ、テラヘルツ分光が応用された研究の例を説明し、併せて産業応用が見込まれる分野について説明している。

第3章では、テラヘルツ電磁波パルスを用いた実験の方法について説明している。まずテラヘルツパルスを発生させる方法である光整流や検出する方法である電気光学効果について述べ、入射レーザー光の偏光や結晶方位に対する依存性を説明している。さらにテラヘルツパルスを効率よく測定するようにゲート・レーザー光の偏光を設定する方法について述べている。また検出の際にゲート・レーザー光の帯域が有限であることやレーザーの揺らぎが及ぼす影響についても述べている。加えて、テラヘルツパルスを用いた実験を行う為の実験系構築法について説明している。

第4章では、時間領域反射分光において、試料と参照用試料の位置が一致していない事に起因して生じる位相誤差について、測定される複素反射係数が満たすべき法則を用いてこれを除去する方法について説明している。まず応答関数が因果律に従うべきであることから導かれるKramers-Kronig関係式について述べ、これを変形したSingly - Subtractive Kramers-Kronig関係式(SSKK)を用いて測定された振幅と位相を解析する事により、簡便に位相誤差が除かれる事を示している。また典型的な誘電応答を記述するモデルであるLorentz振動子モデルとDrudeモデルを用いて理論的なスペクトルを計算し、これらの解析において位相誤差が除かれる精度を評価している。更に、これとは別に、エントロピー最大の原理を応答関数に課す(Maximum Entropy Method, MEM)事によって、応答関数が従うべき解析的な関係式を導出し、この式を用いて測定された位相を振幅のスペクトルと相関する成分と無相関な成分に分ける事により、位相誤差を取り除く方法について説明している。SSKKの場合と同様の理論的なスペクトルを用いた解析により、アルゴリズム精度の評価を行っている。

第5章では、第4章で得られたアルゴリズムを用いてテラヘルツパルスを用いた測定の解析を行っている。まずn-InAsのテラヘルツ領域複素反射スペクトルを解析し、位相を補正する事により妥当な誘電関数が得られる事を示している。補正の精度は試料位置のずれに換算すると1・mに、また時間に換算すると6fsに相当し、テラヘルツパルスのパルス幅よりも遥かに小さい。またこの方法を不均一試料のイメージング測定に応用し、導かれている解析アルゴリズムにより正しい表面形状が抽出される事を示している。

第6章では、テラヘルツパルスの偏光自由度を位相情報と組み合わせる事によって、異方性媒質の誘電率テンソルを実部・虚部同時に決定する方法について説明している。またこの方法で磁場を印加したn-InAsのHall効果を測定し、理論的な予測に適合する誘電テンソルスペクトルを得ている。さらに誤差の評価を行い、測定精度を向上する方法について考察を行っている。

第7章では、本研究の結果をまとめると同時に、課題と今後の展望を述べている。また予想される本研究の波及効果について述べている。

この他、本論文を理解する上で参考となる知識について、付録A~Fを設けて説明している。

以上のように本研究は、テラヘルツ電磁波パルスを用いた時間領域反射測定における位相の誤差について、複素反射率が普遍的に満たすべき法則を用いて除去されることを見いだし、それを用いて物質の応答関数の情報を効率よく抽出できる事を見出した。これらをもとに、分光計測法を考案しその原理実証を行うことに成功している。この成果は、様々な未知物質を測定する方法として有望であるテラヘルツ電磁波パルスを用いた分光の応用範囲を広げるだけでなく、近年急速に発達しつつある極超短光パルス位相測定技術へも応用され得るものである。これらは今後の物理工学の発展に大きく寄与することが期待される。

よって、本論文は博士(工学)の学位論文として合格と認める。

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