学位論文要旨



No 121180
著者(漢字) 鈴木,涼
著者(英字)
著者(カナ) スズキ,リョウ
標題(和) 共鳴核反応法を用いた金属表面近傍での水素の動的挙動に関する研究
標題(洋)
報告番号 121180
報告番号 甲21180
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第6270号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 福谷,克之
 東京大学 教授 前田,康二
 東京大学 教授 岡野,達雄
 東京大学 教授 小牧,研一郎
 東京大学 教授 川合,真紀
内容要旨 要旨を表示する

近年、燃料電池をはじめとするエネルギー関連分野や,機能性材料の合成と改質,量子コンピューティング等、多くの分野で水素の利用が活発である。しかしながら、固体内部における水素の挙動は今以て不明点が多く、その研究に対する需要が高まっている。表面を含む固体内部の水素は、質量が軽くサイズも小さいため、他の元素とは異なる挙動を示し、学術的に見ても大変興味深い研究対象である。その一方で、固体内部の水素はそのサイズに起因して粒子や放射線といった各種プローブの散乱断面積が小さく、その検知,定量が実験的に困難である。固体内部の水素を定量する最も強力な手法の一つに、共鳴核反応法(NRA)がある。6.385MeVに加速された15Nイオンと水素が衝突すると、共鳴核反応が起こり、4.43MeVの・線を放出する。この・線量から固体内部の水素を直接定量できる。測定に使用する15Nイオンビームの入射エネルギーを走査することで、非破壊で試料内部の水素の深さ分布を測定できる。しかもこの核反応の共鳴幅は1.85keVと共鳴エネルギーと比べて非常に小さく、深さ分解能は数nmである。また、この狭い共鳴幅を利用して吸着水素の運動量分布を直接測定できる。この振動測定は励起過程を経ないため、吸着水素の零点振動エネルギーを方向別に分離して測定できる。

本研究ではNRAを用いて(1)W(110)表面上吸着水素の吸着状態と(2)Y(0001)単結晶薄膜の水素化に関する研究を行った。

金属表面上に吸着した水素は、金属表面上の特定のサイトに吸着するが、水素が感じるポテンシャルが平坦である場合、特定のサイトに留まらないで非局在化する場合がある。W(110)表面は、低速電子線回折(LEED)パターンが水素暴露量によって変化することが知られている。この解釈として、水素被覆率が0.5ML時に水素はlong-bridgeサイトに吸着し、0.75 MLに達すると吸着水素がhollowサイトへシフトするモデルが提唱された。一方で、別のグループの研究で、水素が被覆率に依らずhollowサイトに吸着するモデルが提案されている。しかしながら、LEEDによる研究では表面に吸着した水素を観察していないため、水素の吸着サイトは未だに不明である。結晶表面で吸着水素が感じるポテンシャルは、その吸着サイトを構成する原子の配置から決定される。従って吸着水素の振動解析からポテンシャルを決定すれば吸着サイトに関する情報が得られる。電子線エネルギー損失分光法(EELS)から得られた吸着水素の振動励起スペクトルに関して、被覆率の増加とともに振動励起スペクトルの表面水平方向に相当する成分の幅が広がり、飽和吸着時には連続化することが確認された。この解釈として吸着水素が被覆率の増加によって非局在化する可能性が示された。しかし、これまでに報告されている吸着水素の非局在化現象は、吸着水素間相互作用が弱い、水素被覆率が低い領域で起こっていることから、その真偽は確認されていない。

W(110)表面の水素吸着サイト変化の有無を確認し、非局在化状態の真偽を解明するため、表面吸着水素の振動解析を行った。110 Kに冷却したW(110)基板を水素曝露した後、図1に示す方式で表面吸着水素の零点振動エネルギーを、実空間上の方向別に、2つの異なる水素被覆率においてNRAで測定した。

実験の結果、(2x1) LEEDパターンは水素被覆率が0.54 MLの場合に、(1x1) LEEDパターンは1.03 MLの場合にそれぞれ見られることが分かった。吸着水素の零点振動エネルギーを測定した結果、1) 零点振動エネルギーのW(110)表面に垂直な[110]成分は、被覆率と関係なく、74 - 80 meVの範囲内で同じ値をとった。2) [11(─)0]成分は水素被覆率が低い場合は69.9 meV, 水素被覆率が高い場合は75.3 meVであった。また、[001] 成分は水素被覆率が低い場合は66.0 meV, 水素被覆率が高い場合は68.3 meVであった。

これと過去のEELSの研究結果とを合わせて、以下の考察を行った。1) 吸着水素が感じるW(110)表面に垂直な方向のポテンシャルは調和振動子モデルに沿っている。2) W(110)表面上において、水素は被覆率に依らずhollowサイトに吸着する。被覆率によって水素の吸着サイトは変化しない。3) 水素被覆率が増加しても水素が感じる面内のポテンシャルは減少せず、基底状態にある吸着水素は非局在化しない。

金属と気相中の水素から金属水素化物が成長する過程は、金属表面での水素の解離吸着,内部への侵入,拡散と格子変形といった素過程からなることが予想される。過程が複雑なことに加え、水素の定量の実験的な困難さから、金属の水素化過程の詳細は不明である。一方で、薄膜材料の合成に用いられるエピタキシャル成長法を利用すれば、薄膜成長時の基板温度や成長速度といった成長条件を変えることで、その結晶方位,結晶性を制御することが出来る。Y水素化物(YHx)は水素吸収量に応じて格子をhcp(x < 0.2-0.7: ・相)からfcc (1.7 < x < 2.1: ・相)に可逆的に変化させることが知られている。

本研究ではW(110)基板上に蒸着速度0.04 nm/sで膜厚20nmのY(0001)単結晶薄膜を作製し、1.2〜2.4×10-3 Paの水素雰囲気中に曝露して水素吸収量変化と吸収水素深さ分布をNRAで測定した。水素吸収速度の水素曝露温度依存性と薄膜成長温度依存性を解析した。

薄膜成長温度500 KのY薄膜を500 Kに保って2.4 x 10-3 Paの水素雰囲気中に曝露した場合の共鳴核反応プロファイルを図2に示す。水素曝露量が増加すると、水素吸収量に比例する共鳴核反応収量が増加する。YHx薄膜全体が水素濃度に換算して、x=1.8となった段階で水素の吸収が飽和した。また、吸収された水素は厚さ20 nmのY薄膜内で深さ方向に一様に分布している。Yバルクの相図によると、YHxの・相の最大水素濃度xは、500 Kでx 〓 0.3であり、これと1.7 < xの・相との間の水素吸収量を取る相はない。バルクの相図を20 nmの薄膜にも適用できると仮定すると、NRAで観測される0.3 < x < 1.7の領域では、・相と・相が共存している。測定から得られた高さが一様な共鳴核反応プロファイルは、・・・比が深さ方向について一定であることを示唆している。・相は、表面から層毎ではなく、特定の領域にて深さ方向に成長すると推測される。

薄膜成長温度500 KのY薄膜を700 Kに保って2.4 x 10-3 Pa水素雰囲気中に曝露した場合の水素濃度変化を図3に示す。水素曝露には、普通の水素の他に、加熱したWフィラメントを透過させて解離を促進した水素を用いた。Wフィラメントを加熱した前後で水素吸収曲線は相似の形を取った。また、この水素吸収曲線の相似性は格子変形を伴わない低水素濃度領域でも見られた。水素分子の解離が水素化反応の律速とならないことが明らかとなった。

薄膜成長温度が異なるY薄膜を300 Kに加熱して1.2 x 10-3 Pa水素雰囲気中に曝露した場合の水素濃度変化を図4に示す。水素曝露量あたりの水素濃度変化から求めた水素吸収確率が、薄膜成長温度300 Kの場合の4.8 %から、薄膜成長温度600 Kの場合の0.1 %まで、薄膜成長温度の上昇とともに減少する様子が確認された。水素吸収について理解を深めるため、薄膜成長温度が500 K, 600 KのY薄膜を300 Kと500 Kに保って2.4 x 10-3 Pa水素雰囲気中に曝露した場合の水素濃度変化を測定し、水素曝露温度依存性を解析した。薄膜成長温度600 KのY薄膜の方が、薄膜成長温度500 KのY薄膜より水素吸収速度の水素曝露温度依存性が大きい。水素化の活性化障壁は、薄膜成長温度500 KのY薄膜では20 meV,薄膜成長温度600 KのY薄膜では120 meVと見積もられた。過去の研究事例より、薄膜成長温度が300 Kから600 Kに増加することで、Y薄膜の結晶粒の平均径が20 nmから60 nmに増加することが知られている。Y結晶粒が大きくなることで、Y格子のhcpからfccへの変形に要するエネルギーが増加することが見込まれる。Y薄膜の水素化反応の律速は、薄膜成長温度が500 Kの場合の表面における水素の解離吸着から、薄膜成長温度が600 Kの場合はY格子の変形へと切り替わることが見込まれる。

図1: NRAを用いたW(110)表面吸着水素の零点振動測定。

図2: 基板温度500Kで成長させた膜厚20nmのY薄膜を500Kに加熱して2.4×10-3 Paの水素雰囲気中に曝露した場合の共鳴核反応プロファイル変化。1 L=1.33×10-4 Pa・sec.

図3: 基板温度500Kで成長させた膜厚20nmのY薄膜を700 Kで2.4×10-3 Paの水素雰囲気中に曝露した場合の水素濃度変化。○は水素曝露時,●は加熱したWフィラメントを透過させた水素曝露時。1 L=1.33×10-4 Pa・sec

図4: 成長時の基板温度が異なる膜厚20nmのY薄膜を300 Kで1.2×10-3 Paの水素雰囲気中に曝露した場合の水素吸収量変化。1 L=1.33×10-4 Pa・sec

審査要旨 要旨を表示する

金属表面での水素の吸着状態および表面から内部への吸収過程は、金属表面における触媒反応や水素吸蔵の基礎過程としてさらなる理解が求められている。表面に吸着した水素の吸着状態については、水素原子核が量子的に非局在化する可能性が理論的に指摘されているが、基底状態に関して実験的に立証されて例はない。また表面に吸着した水素が内部へと吸収される過程については、吸収経路や速度が明らかにされた例はほとんどない。このような背景のもと、本研究は、表面近傍に存在する水素の振動状態および深さ分布を調べることが可能な共鳴核反応法を用いて、水素の非局在化と水素吸収過程を調べた研究の成果である。

本論文は6章よりなる.

第1章は序論であり、本研究の背景、従来の研究成果と本研究を進めるに至った動機および目的が述べられている.

第2章では、本研究を遂行するにあたって利用した実験手法の原理、理論的枠組みを概説している。特に、本研究では水素の測定のために、加速器を用いた共鳴核反応法を利用しており、その詳細を述べている。共鳴核反応法では、(1)ドップラー効果を利用して表面に吸着した水素の量子的零点振動を直接測定すること、(2)表面から内部へ吸収された水素の深さ分布を高分解能で測定することが可能であり、その原理と実験方法が述べられている。

第3章では、本研究で用いた実験装置について記述している。清浄な表面を準備し確認するための超高真空設備、核反応のための高速イオンビームをえるための加速器とビーム光学系、核反応の計測系について詳述している.

第4章には、本研究における実験結果が詳述されている。実験内容は主に(1)清浄W(110)表面における吸着水素の零点振動測定と、(2)W(110)上に作成した単結晶Y薄膜の水素化過程の観測からなる。いずれも、共鳴核反応法を利用することで以下のような新しい知見を得た.

W(110)表面における吸着水素の零点振動

低速電子線回折を併用することで水素の曝露量を調整し、2種類の水素被覆率について、イオンビームの入射角を変えて共鳴核反応プロファイル測定を行った。実験結果の解析から、表面に垂直な方向の零点振動が80meVであること、表面に平行な方向の零点振動が[1-10]方向と[001]方向でいずれも~70meVであることを明らかにした。

Y薄膜の水素化

膜厚20nmのY薄膜に水素を曝露したときの核反応共鳴プロファイルの変化、および水素を曝露したときの水素吸収量変化の基盤温度依存性を測定した。共鳴プロファイル測定から、曝露量を変えても薄膜中の平均水素濃度が深さによらないことを見いだした。続いて水素を曝露する温度を変化させて水素吸収速度を詳しく調べ、250K以下ではβ相の成長が起こらないことを明らかにした。さらに薄膜成長温度を300―600Kの間で変化させると、成長温度が高くなるにつれて水素吸収速度が大きく低下することを見いだした。

第5章では、第4章で述べた実験結果に対する考察を行っている。

W(110)表面における水素吸着

低速電子線回折で見られる超周期構造に対応する水素被覆率の見積もりを行った。さらに本研究で得られた零点振動エネルギーと、従来報告されている電子エネルギー損失分光の結果とを合わせて考察することで、水素吸着状態の表面垂直方向には調和振動子近似が成立することを明らかにした。また、これまで論争となってきた水素の非局在化は基底状態では起こっていないことを論じた。

Y薄膜の水素化

Yのβ相形成において、実験結果の解析から、表面へ入射する水素の数(入射分子数を原子数に換算したもの)に対して内部へと吸収される確率が~1%であることを見積もった。500K以下で成長させたY薄膜のβ相形成速度が、水素曝露時の温度にほとんど依らないことから、このときの水素化過程は水素の表面吸着過程が律速となると論じた。一方、600K以上で成長させたY薄膜の水素化は、β相形成速度が律速となると議論した。成長温度の違いは、薄膜内の結晶粒径や欠陥密度に影響しており、これらがβ相形成速度に大きく影響していると議論した。

第6章は、本研究の結論が要約されている。

以上を要するに、本研究は、共鳴核反応法を利用して、(1)W(110)表面上の水素の零点振動エネルギーを直接測定し、水素の吸着状態に関する新たな知見を得、(2)Y薄膜を水素曝露した際の共鳴プロファイルと水素曝露量依存性測定から、Y薄膜中の水素分布および水素吸収確率の絶対値測定に成功し、金属水素化に関する新たな知見を得たものである。表面科学として有意義な貢献をなしたばかりでなく、金属の水素吸蔵基礎過程を明らかにした点から工学的にも寄与する所は大きい.よって,本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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