学位論文要旨



No 121181
著者(漢字) 蜂須,英和
著者(英字)
著者(カナ) ハチス,ヒデカズ
標題(和) シュタルク・アトムチップによる中性原子の運動制御
標題(洋)
報告番号 121181
報告番号 甲21181
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第6271号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 五神,真
 東京大学 教授 宮野,健次郎
 東京大学 助教授 香取,秀俊
 東京大学 助教授 染谷,隆夫
 東京大学 助教授 井上,慎
 東京大学 特任講師 中,暢子
内容要旨 要旨を表示する

研究の背景

近年のエレクトロニクスとフォトニクスの目覚しい発展は、これらの情報の担体である電子・光子の制御技術が成熟したことによる。このアナロジーから、より多様な自由度を持つ原子の高度な制御技術の確立により、アトムトロニクスとも言うべきより高度な情報処理系の構築が期待される。

原子の制御ツールには、イオンに対するクーロン力やローレンツ力、中性原子に対するゼーマン効果やシュタルク効果がある。イオンには比較的相互作用の強いクーロン力やローレンツ力が働くため、イオンは中性原子に比べて扱い易く、その研究は早くから行われていた。これに対し、電荷を持たない中性原子の運動制御は磁気双極子モーメントや電気双極子モーメントを通して行うため、イオンのような荷電粒子を扱うほど容易ではない。しかし、レーザー冷却技術の発達が運動エネルギーの小さい原子を用意することを可能にし、近年その制御が研究されるようになった。1995年のアルカリ原子のボーズ・アインシュタイン凝縮(BEC)実現の成功は、自由空間中での原子制御技術の成熟を物語っている一つの例である。

初めてBEC実現が報告された直後、マイクロチップによる磁気トラップのアイデアが発表された。このトラップは、マイクロチップの配線に流す電流で磁場を発生させ、それと原子スピンとのゼーマン相互作用を基本制御ツールとしている。これを皮切りにマイクロチップ上での原子制御の開発が精力的に進められ、かつては実験室の巨大な装置でしか実現し得なかった実験をマイクロチップというコンパクトな系で行えるようになった。このような原子制御を目的としたマイクロチップをアトムチップと呼んでいる。このアトムチップは進歩著しいマイクロエレクトロニクス技術との融合を図ることで、アトムトロニクスの基盤として大きな期待が寄せられた。しかし、原子がミクロンレベルでチップ表面に近付くと、表面で発生した熱的変動磁場(ジョンソンノイズに起因する電流が磁場を発生させる)と原子スピンとの結合などによるトラップロスが問題になるようになった。これはトラップの小型化、強いては集積化の困難さを示唆する。

この中性原子の磁場アトムチップ同様、イオントラップに対しても同様の懸念がある。早くからその制御技術が開発されていたイオントラップでも、マイクロチップを使った研究が進められており、その良好な制御性のため、原子系において現在最も高度な制御が行われている。しかし、その制御が容易であることと相反して中性原子の磁場アトムチップ以上に電荷と環境との結合が非常に強いというデメリットもある。

本研究は、イオントラップのような制御をスピンのない状態の中性原子系で実現することで、イオントラップや磁場アトムチップで問題になっている表面との相互作用、及び環境からの外乱にロバストなアトムチップの開発を目的に行った。我々が提案するシュタルク・アトムチップでは、微小電極が形成する交替電場による原子のシュタルクシフトを制御ツールとするため、電荷もスピンもない状態の中性原子を扱える。スピンのない状態の中性原子はチップ表面に発生する熱的変動磁場との結合がほとんどないため、この制御技術の確立は外乱による揺らぎが極めて小さい原子トラップ系を構築する。また、トラップに磁場を必要としないので、磁気副準位の自由度が解放される。例えば、ストロンチウム原子の5s5p3P2準安定状態の磁気副準位を使った量子ビットへの応用が考えられる。この場合、スピンを持った状態の原子を扱うことになるが、このトラップには電流が不要であるため電極に抵抗率の大きな素材を使うことができる上、電極層を極限まで薄くすることができる。この結果、チップ表面に発生する熱的変動磁場を抑えることができるので、スピン原子を扱うにも拘わらず表面との相互作用を小さくすることができる。

シュタルク・アトムチップの工学面での特徴は、トラップ原子とチップ表面との相互作用が小さいため、トラップ構造の微細化を可能にすることである。これに加え、構造の微細化に伴って低電圧でのトラップ駆動が可能となるため、数ミクロンの電極構造では数ボルトレベルでの原子トラップが実現できる。さらに、このトラップは電圧駆動であるため、ジュール熱による発熱がない。その結果、電流を必要とする系で問題となり得る構造の微細化に伴う発熱を回避できる。これは、将来のアトムチップ上での原子制御素子によるIC実現を期待させるものであり、エレクトロニクスでバイポーラトランジスタからFETへと移行することでICが発達したことに似ている。

これまでの電場による中性原子制御の研究としては、自由空間中における2次元電場トラップや静電場と光による複合トラップなどの実現は報告されているが、3次元電場トラップに関しては提案こそあるもののその現実には至らなかった。これは、シュタルク効果が弱い効果であるため、強電場中に運動エネルギーの小さい原子を用意しなければならなかったためである。本研究では、微小電極により比較的容易に強電場を生成し、1μK程度まで冷却した原子を利用したことでこれに成功した。また、原子種として基底状態に磁気モーメントを持たないストロンチウムを選んだことで、スピン禁制遷移を利用したレーザー冷却を通して比較的容易にスピンを持たない状態の極低温原子を生成できた。

シュタルクトラップの原理

電場中での中性原子のシュタルクシフトは、

と表される。ここで、αは分極率、Eは電場である。安定状態にある原子の分極率は正なので、電場中の原子は電場の極大点に集まろうとするHigh field seekerとして振舞う。しかし、Earnshawの定理により自由空間中では静電場の極大点は作れないため、静的な3次元トラップはできない。そこで、2次元固体基板に作製した電極により交替電場を作成することで、イオンでのrfトラップと同様な動的安定化により原子を3次元トラップする。電極球モデルを用いて、このトラップ原理を定性的に示す。まず、図1.(a)の様にx軸方向に配置した1組の電極対に電圧±V0をかけた場合のシュタルクポテンシャルは、図1.(b)の様な鞍型形状になる。したがって、このとき原点近傍にいる原子はx軸、y軸方向にそれぞれ斥力、引力を受ける。電圧をかける軸をx軸、y軸で交換することで、ポテンシャルを回転させ、今度はx軸方向に引力を働かせる。どちらの位相に対してもz方向には束縛力が働くため、電圧の印加方向を適当な周波数で交換することで、原子を3次元トラップすることができる。

シュタルクトラップ実験

本研究の実験配置を図2に示す。シュタルク・アトムチップをARコートウィンドウに真空対応エポキシ系接着剤で貼り付け、さらにこれを真空槽に同接着剤で貼り付けることで真空をシールした。

実験は以下の手順で行った:(i)ミラー磁気光学トラップにより、アトムチップ(電極)の下1.5 mm程度の位置に冷却原子を作成する。(ii)電極中心部(貫通穴)でフォーカスしたレーザー光をアトムチップの上下方向から入射して定在波を作る(光格子)。先述したように、原子は電場の強いところに集まるので、原子は定在波の腹にトラップされる。(iii)この定在波を作る2本のレーザー光に周波数差を付けることで定在波の腹を制御し、原子をシュタルクトラップ領域に運ぶ(移動光格子)。(iv)移動光格子を遮断し、電極に電圧をかけることでシュタルクトラップを開始する。(v)適当なトラップ時間後、図2のようにプローブ光を照射し、原子からの蛍光を高感度CCDカメラにより検出する。

図3((a)、(b)はそれぞれ印加電圧をon、offにしたとき)はこの手法によりトラップしたシュタルク・アトムチップ中の原子集団の様子である。このときのトラップ条件は、印加電圧V0=±200 V、電圧駆動周波数6.4 kHzでトラップ時間は20 msである。シュタルクトラップの特性を図4、5(シュタルクトラップ時間5 msでの結果)に示す。プロットが実験結果で、曲線が数値解析によって得られた計算結果である。このとき振幅をフィッティングパラメータとして使った。図4は電圧駆動周波数依存の評価を示しており、これから駆

動周波数6.4 kHzのときが最も安定なトラップであることが分かった。この駆動周波数6.4 kHzの条件下で、電圧パルス(パルス周期T [s]=1/6.4 [kHz], パルス位相φ=0, 360 [deg]がパルス列のエッジ)の開始する位相を制御することでトラップ原子の電圧パルス初期位相依存を調べた結果を図5に示す。この依存性は、電圧パルスの印加によってトラップ中心から広がろうとしている原子をトラップ中心に引き戻す動的安定化の基本原理に基づくもので、移動光格子によって運ばれてきた原子集団の位相空間分布と電圧パルスの開始する位相に対するシュタルクトラップ可能な原子の初期位相空間分布との重なり具合に起因している。

本研究では、固体基板上に作製したミクロンサイズの微小電極が形成する交替電場によって、スピンを持たない状態の中性原子を情報の担体とする新しいアトムチップ(シュタルク・アトムチップ)の実現に成功した。また、このシュタルク・アトムチップという新しい系において単一原子レベルでの時間・空間分解可能な観測系を構築し、シュタルクトラップ原子のダイナミクスを調べた。このシュタルク・アトムチップでは電荷もスピンも持たない状態の原子の制御を可能とし、その結果、イオントラップや磁場アトムチップで問題になっているチップ表面の熱的変動磁場などに起因する外乱の影響を格段に抑えることができる。このこととトラップ構造と駆動電圧のスケーリング則から、低電圧駆動での小型な原子トラップが可能になるため、このトラップ技術の拡張はアトムトロニクスにおける原子制御素子の集積回路実現を期待させる。

図1: (a)球電極モデル(b) (a)によって形成される原子が感じるシュタルクポテンシャル

図2: 実験配置

図3: シュタルクトラップのその場観測

図4: 電圧駆動周波数依存

図5: 電圧パルス初期位相依存

審査要旨 要旨を表示する

電子や光子に比べ自由度の豊富な原子の状態を高度に制御する技術は、その並進運動や内部状態の情報を用いた高度な量子情報処理を可能にするものである。原子をマイクロチップ上で制御するアトムチップのアイデアは、情報の担体としての原子の制御性と拡張性の観点から量子情報処理の有望なプラットフォームとして期待され、近年活発に研究が進められている。

この20年間で急速に進展したレーザー冷却技術により、運動エネルギーの小さい原子を用意することが可能になり、室温状態では実現できなかった高度な原子制御が行えるようになった。1995年のアルカリ原子のボーズ・アインシュタイン凝縮(BEC)実現によって、マイクロケルビン以下の温度領域での操作技術の開拓が進み、自由空間中での原子制御技術は成熟期を迎えたとも言える。この発展を踏まえ、磁場トラップを基本制御法としたアトムチップのアイデアが発表され、後に世界の有力研究グループがこの実現を果たした。このアトムチップは進歩著しいマイクロエレクトロニクス技術との融合を図ることで、原子制御回路の基盤として大きな期待が寄せられている。

現在、量子情報処理実現を1つの目的としてこのマイクロチップでの原子制御の研究が進められているが、その2つの手法、先ほどの「中性原子の磁場トラップ」と伝統的な「イオントラップ」とを基本制御法にしたものが並行して研究されている。これらの制御法において問題になっているのが、チップ表面の電磁場の揺らぎ(ジョンソンノイズなどに起因する)やパッチポテンシャルの揺らぎ(電極表面に付着したトラップされなかった原子などに起因する)とトラップ原子との相互作用によって生じる加熱である。これは量子情報処理で重要な量子状態のコヒーレンスの保持に影響する。本研究では、これらの両手法と比較して、より外乱を受けにくいマイクロチップによる中性原子の電場制御「シュタルク・アトムチップ」について、理論的な検討を加えた。この一方で、ストロンチウム原子にこの手法を適用することで、この新しい原子トラップの原理を実験的に実現し、そのトラップメカニズムを詳細に調べている。

本論文は以下の9章からなる。以下に各章の内容を要約する。

第1章では、研究の背景として、原子制御の現状および現在行われているマイクロチップ上での原子制御(アトムチップ)の研究、さらに本論文の研究課題であるシュタルク・アトムチップの特徴について言及している。

第2章では、シュタルク・アトムチップのトラップ手法について述べている。静電場中では、原理的に電場トラップのポテンシャル極小点がないので、原子を3次元電場トラップするためには動的安定化が必要であることを示し、実現可能な電極モデルを使って、シュタルク・アトムチップのトラップ手法について記述している。そして、このトラップが微小振動と実効ポテンシャル中での永年運動との線形結合であると仮定し、中性原子の電場トラップを実現する上で必要となる印加電圧の駆動周波数条件と実効的なトラップ周波数を解析的に導いている。

第3章では、シュタルク・アトムチップの設計について述べている。実際の電極構造に対して有限要素法による電場解析と原子トラップの安定条件を数値解析により求め、実際のポテンシャルに含まれる非調和成分の影響を評価した上で、トラップの安定条件を拡張したアトムチップの設計を行っている。

第4章では、シュタルク・アトムチップサンプルの作製について述べている。前章の設計に基づき、FIB(Focused Ion Beam)を用いたサンプルの加工について記述している。

第5章では、本実験に必要な実験装置と光源の開発について述べている。シュタルクトラップ実験で必要な冷却原子の作成と移動光格子への原子ローディングの実験系について、その各装置について詳述している。

第6章では、ストロンチウム原子の冷却・トラップ実験について述べている。前章で述べられた装置と光源を用い、シュタルク・アトムチップへ原子をロードするために必要となる冷却原子作成と光格子による原子トラップについて記述されている。

第7章では、シュタルク・アトムチップによる中性原子の電場トラップ実験について述べている。光格子にロードした冷却原子を移動光格子の手法によってシュタルク・アトムチップへ輸送し、中性原子の電場トラップを実証している。さらに、このトラップの安定条件について実験と数値解析の結果の比較検討をしている。

第8章では、シュタルク・アトムチップ中の原子観測実験について述べている。このアトムチップにトラップした原子に観測用レンズをできる限り近付けることで原子からの信号光量を上げ、プローブ光による電極からの散乱ノイズを抑えることでS/N比を向上させた観測手法により、トラップ原子の時間分解計測を実現し、トラップダイナミクスを調べている。

第9章では、まとめと本系における今後の展望について述べている。本研究によって実現されたアトムチップは、量子情報実現において必要とされる量子ビットの拡張性に優れた手法であることを指摘している。この実現に向けた今後の課題として、単一原子量子ビットの実証、原子導波路の実現、そして原子間の量子相関形成手法について言及している。

以上のように、本研究ではマイクロチップ上に作製した電極に交替電圧を印加することで動的安定化による電場トラップの手法をストロンチウム原子に適用し、アトムチップの新手法を提案・実現した。また、実験と数値解析との比較により、シュタルクトラップのメカニズムを詳細に調べている。この原子トラップ手法は構造の微細化に伴い、低電圧でのトラップ駆動が可能になる特徴を持つ。さらに、この系では原子とチップ表面との相互作用を最小限にすることが可能になるため、原子制御回路の小型化、集積化の実現などの応用面における展望が開けている。本研究は、原子系での量子情報処理実現を可能にする有望な手法を提案・実現し、新たな原子デバイスの基礎を築き上げた点に意義があり、物理工学発展への波及効果は大きい。よって、本論文は博士(工学)の学位論文として合格と認める。

UTokyo Repositoryリンク