学位論文要旨



No 121219
著者(漢字) 西久保,英郎
著者(英字)
著者(カナ) ニシクボ,ヒデオ
標題(和) 強相関パイライト型硫化物のSTM/STSによる実空間スペクトロスコピー
標題(洋)
報告番号 121219
報告番号 甲21219
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第6309号
研究科 工学系研究科
専攻 超伝導工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 高木,英典
 東京大学 教授 鹿野田,一司
 東京大学 助教授 為ヶ井,強
 東京大学 助教授 山本,剛久
 東京大学 助教授 野原,実
 理化学研究所 研究員 花栗,哲郎
内容要旨 要旨を表示する

[背景]

強相関電子系の金属絶縁体転移(MI転移)近傍では電荷とスピンの自由度が競合しており、高温超伝導や超巨大磁気抵抗効果(CMR)といった特殊な電子物性の発現する舞台となっている。こうした強相関電子系に内在する多彩な物性の機構を解明する上で、電気特性を担うフェルミ準位近傍の電子状態を精密に把握することが重要視されてきた。また、強相関電子系の大部分を占めている遷移金属酸化物の物性は多重縮退したd軌道や酸素のp軌道が混成した複雑な電子状態が形成されていることが多い。そのため、MI転移に伴う電子状態の変化を詳細に調べるには、バンドの構成要素である伝導電子の軌道状態を知ることがより重要になって来る。走査型トンネル顕微鏡(STM)の持つ原子分解能とmVオーダーのエネルギー分解能は、原理的にはこうした要求に応えることが可能だとされている。しかしながら、高温超伝導以外の強相関電子系への適用例は少なく、汎用的な手法としては確立されていないのが現状である。

一方で、高温超伝導体のアンダードープ領域やCMRを示すマンガン酸化物においてナノスケールで不均一な電子状態が現れることが報告されており、MI転移と電子不均一の関連が示唆されている。こうした電子不均一の起源は主に二つの要因が考えられている。一つは、MI転移近傍では電気伝導性が低いことから、不純物ポテンシャルの遮蔽長が長くなることに起因しているというシナリオである。もう一つは、ドープされたキャリアは局所的に凝集して不均一な分布を持つ方が磁気的なエネルギー利得が大きく安定した状態になるシナリオである。そのため、電子不均一のメカニズムを明らかにするには、同じ結晶構造を持ったシステムの中でフィリング制御によるMI転移とキャリア数を変えないバンド幅制御MI転移の比較が必要になるが、こうした研究例は今のところ報告されていない。また、それ以前の問題として電子不均一が報告されている実験例も少ないことから、電子不均一という現象を強相関電子系の一般的な特徴なのかを確認する上でも、より多くのMI転移の系に対する実空間での電子状態の観察が望まれている。

[目的]

本研究では、第一の目的として複雑に軌道混成したバンドの中から特定の原子軌道を区別することが可能な分光法の確立を目指した。具体的には2種類の原子軌道が関与している電荷移動型絶縁体NiS2のMI転移下におけるSTM測定を行い、その軌道状態の寄与を量的に評価できる解析方法を探索する。第二の目的として強相関電子系のMI転移近傍でみられる電子不均一の起源を明らかにすること目指して、パイライト型硫化物という共通の母物質を持った系でフィリング制御MI転移とバンド幅制御MI転移のSTM測定を行いその結果を比較する。

[実験結果・考察]

本研究の舞台となったパイライト型硫化物NiS2は図1(a)のようにNiと硫黄のダイマーが岩塩状に配列した構造をとる。この物質は、+2価のNiイオンに硫黄が正八面体状に配位しているため、eg軌道が半分占有されている。バンド理論に従えばNiS2は金属に分類されるが、実際は電子相関の影響で荷電バンドが硫黄のpバンドで、伝導バンドがNiの上部ハバードバンドで占有された電荷移動型絶縁体に分類される。本研究ではSを価数の等しいSeで置換することで起こるバンド幅制御MI転移近傍と、Niを電子の一つ少ないCoで置換することで起こるフィリング制御MI転移近傍においてSTM測定を行った。

図2 (a1) - (a3)はフィリング制御MI転移近傍の金属的な組成であるNi0.85Co0.15S2の(100)へき開面におけるトポグラフ像である。占有状態と非占有状態で観測される粒子の位置が単位格子の周期から半分ずれた位置に観測される。この結果を電荷移動型絶縁体のMI転移の特徴に対応させると、占有状態では硫黄のp軌道によって形成されるジグザグ構造が観測されており、非占有状態ではNiのd軌道に由来する正方格子が観測されていると考えられ図1 (b)に示した(100)最表面の構造とも矛盾しない。また、フェルミ準位近傍においては、占有状態と非占有状態が重ね合わさった像になっていることからNiと硫黄のバンドが混成したp-d混成バンドが観測されていると考えられる。バンド幅制御の場合は、フィリング制御と異なり図3のように不規則に配列した輝点があらわれる。この輝点は、Seの置換量に比例して増減する不純物状態の一種である。また、非占有状態においてもジグザグ構造がみられるといった違いもあるが、背景にある原子は占有状態と非占有状態で単位格子の半周期分ずれており、フェルミ準位近傍ではフィリング制御と同様の微細構造がみられるといった点は共通しており、両者はほぼ同じバンド構造をとっていることがわかる。

トポグラフ像は印加バイアスによって連続的に変化することから、フーリエ解析によって像の特徴を数値化することでバンド構造を見積もることができる。非占有状のフーリエ変換像は図2 (b1)の様になっており、矢印で示した4回対象のフーリエ成分が特徴的でNiの正方格子成分に対応している。占有状態においては図2 (b2)のように単位格子の基本並進ベクトルと等しい距離を持つ一対のフーリエ成分が顕著になっており、ジグザグ構造の持つ一次元的な構造に対応している。フェルミ準位近傍においては高調波成分の強度が発達しており、単位格子に内部構造が発達することでに単位格子の半分のスケールをもった微細構造が観測されることに対応している。硫黄に特徴的な一次元成分を正方格子成分で規格化した量は硫黄の部分状態密度の目安で、高調波成分を正方格子成分で規格化した量はp-d混成の度合いの指標であると考えられる。これら、二種類のフーリエ強度比のバイアス依存性は図4のようになっており、Ni0.85Co0.15S2およびNiS1.55Se0.45の二つの組成を比べると、非占有状態に比べ占有状態では一次元的な特徴が強くなっており占有状態が硫黄のバンドであることを裏付けることができる。さらには、フェルミ準位近傍 -80 ~ +20 mVにおいて、p-d混成バンドが発達しているという点も共通しており、バンド幅制御とフィリング制御のMI転移近傍の金属相では良く似たバンド構造をとることが分る。こうした結果は、それぞれのエネルギー準位において寄与している原子軌道の区別が走査トンネル顕微鏡によって実現できていることを意味している。

電子不均一の解析手法としてトポグラフ像のヒストグラムを利用した。トポグラフ像は印加バイアスとトンネル電流を一定に保つような探針表面距離の空間分布をマッピングしたもので、探針表面距離はフェルミ準位から印加バイアスまでの状態密度の総和に対数関数的な依存性を持つ。そのため、状態密度が空間的に不均一になっている場合、バイアス電圧を変えて状態密度の積分範囲を変化させるとトポグラフ像の凹凸コントラストが変わり、ヒストグラムにバイアス依存性が生じる。こうした傾向は図5 (a1), (b1)のようにNiS1.7Se0.3やNi0.9Co0.1S2といった絶縁体的な組成において最も顕著になっており、強相関電子系の絶縁相においては電子的な不均一はフィリング・バンド幅といったパラメーターに依存しない一般的な現象であると考えられる。また、金属相においては、図5 (a2)の様にフィリング制御金属相Ni0.85Co0.15S2においてはフェルミ準位近傍においてヒストグラムの幅が増大するが、図5 (b2)のようにバンド幅制御金属相NiS1.55Se0.45では見られないことから、フィリング制御の場合の方がバンド幅制御にくらべて不均一な電子状態を形成しやすいことが分かった。

[まとめ]

本研究では、パイライト型硫化物のMI転移下におけるSTM測定を行った。その結果、トポグラフ像に対してフーリエ解析を行い観測される原子の特徴を数値化することで、実空間において軌道状態の識別が可能な新しい分光法を実現することができた。また、バンド幅制御・フィリング制御下におけるSTM測定の結果を同じ母物質を持つ系において比べることで、強相関電子系における不均一は遮蔽効果が弱いとされる絶縁相においては一般的に見られる現象であると考えられ、金属相においてはフィリング制御の系の方がバンド幅制御の系よりも不均一な電子状態が発現しやすいということが分った。

こうした結果は、従来の研究では個別に議論されていた「電子物性の平均的な特徴を表すバンド構造」と「強相関電子系固有の相の揺らぎ」という二つの情報が完全に同一の実験データから引き出されたものである。すなわち、本研究の試みはSTMという手法が電子物性の決定づける上でより本質的な情報をもたらすプローブであることを示しており、走査型トンネル顕微鏡の潜在能力の高さを明らかにした点でも重要な意味を持つと考えられる。

図1(a)パイライト型硫化物の結晶構造,(b)(100)へき開表面の構造

図2 (a1)-(a3)Ni0.85Co0.15S2のトポグラフ像(65Å×65Å), VSは測定時の電圧バイアス(b1)-(b3)は(a1)-(a3)のフーリエ変換像

図3(a)-(c)NiS1.55Se0.45のトポグラフ像(60Å×60Å),Vsは測定時のバイアス電圧

図4(a)Ni0.85Co0.15S2および(b)NiS1.55Se0.45におけるトポグラフ像のフーリエ成分強度比

図5(a1)Ni0.9Co0.1S2(反強磁性絶縁相),(a2)Ni0.85Co0.15S2(反強磁性金属相),(b1)NiS1.7Se0.3(反強磁性絶縁相)および(b2)NiS1.55Se0.45(反強磁性金属相)におけるトポグラフ像のヒストグラム

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、題目「強相関パイライト型硫化物のSTM/STSによる実空間スペクトロスコピー」に表現されるように、走査型トンネル顕微鏡による実空間像の分光学的観察をもとに、電子状態密度に対する各構成元素の寄与や元素間の混成の程度を定量的に評価する手法を提案し、これを用いてパイライト型Ni硫化物における強相関金属-絶縁体転移を考察したものである。論文は全五章からなる。

第一章では、研究の背景と目的が述べられている。強相関電子系における金属-絶縁体転移、その研究の舞台である強相関パイライト型Ni硫化物についての導入がなされている。電荷移動型絶縁体NiS2を母体として、NiS2-xSex ではバンド幅制御の金属-絶縁体転移がNi1-yCoyS2 ではフィリング制御の金属-絶縁体転移が実現する。金属−絶縁体転移のメカニズムを理解するうえで、構成元素の部分状態密度、混成、実空間の不均一などの情報が必要不可欠である。そのためのプローブとして走査型トンネル顕微鏡が極めて有用であるが、必要な情報を引き出すための方法論の開発が必要となる。本論文はそのための方法論の開発と強相関パイライト型Ni硫化物における実践を目的としている。

第二章では、実験方法、特に試料作製と測定手法に関して記述されている。まず、パイライト型Ni硫化物の高品質単結晶の育成方法と得られた結晶の構造・電気抵抗・磁化率などの評価結果が述べられている。さらに実空間電子分光プローブである走査型トンネル顕微鏡(STM)に関して、測定の原理や実験装置の構成、具体的な実験手順がまとめられている。特にポイントとなる探針の作製方法と測定表面の準備については、かなり詳しい記述が与えられている。

第三章では、STMを用いたパイライト型Ni硫化物の分光イメージングの測定結果が述べられている。実空間像の解析とトンネル状態密度を巧みに組み合わせることにより、NiやSの部分状態密度やp-d混成バンドを抽出することに成功した。この手法を「実空間フーリエ変換電子分光」と命名し、その応用としてパイライト型Ni硫化物の電荷移動型絶縁体から金属への電子状態の発達過程を明らかにした。

パイライト型Ni硫化物のSTM像は、占有状態においてはS原子の副格子に対応する周期aの一次元鎖成分が顕著になっており、非占有状態においてはNiの面心立方格子に対応する周期a/√2の正方格子成分が顕著になっている。占有状態が主にSの寄与から、非占有状態が主にNiの寄与からなる、電荷移動型絶縁体の特徴を体現している。金属相においては周期a/2の高調波成分に対応する微細構造が観察されており、占有状態と非占有状態の単純な重ねあわせとは異なりp電子とd電子の結合性が強くなっていることが示された。これらの実空間での特徴はフーリエ変換を行い、対応するピークの相対強度を用いて定量化することができる。そのエネルギー依存性を測定することにより、部分状態密度と混成についての指標を構築する。

これらの方法論をパイライト型Ni硫化物に適用することにより、電荷移動ギャップ中にp-dの強く混成した状態が発達し、これが金属的伝導を担うこと、さらにバンド幅制御型でも、フィリング制御型でも、基本的な電子状態は変わらないことが明らかとなった。

第四章では、パイライト型Ni硫化物における実空間での電子状態の不均一を表現する手法について述べられている。表面の凹凸の情報は基本的にエネルギー依存しないのに対して、電子状態の不均一は強くエネルギーに依存する。STM像のコントラストの場所依存性をヒストグラムで表現し、そのエネルギー依存部分を抽出することで、電子状態不均一を評価した。その結果、フィリング制御型とバンド幅制御型では電子状態不均一の程度が大きく異なること、そのスケール常にnmのスケールであることを見出した。この結果を強相関電子系に特有の、弱い電荷遮蔽効果によるものと解釈した。

第五章では、本論文でなされた研究の意義が総括されている。実空間フーリエ変換分光を他の分光学的手法と比較し、非占有・占有状態ともに部分状態密度が決定できること、混成の程度が評価できること、などの点で優れていると結論している。また、電子不均一の評価をもとに、強相関電子系の巨大応答デバイスの微細化の限界が数nmであると予測した。

以上、本論文は、走査型トンネル顕微鏡のトンネル分光データと実空間像のフーリエ変換像を組み合わせることで強相関電子系の基本要素である各原子の部分状態密度や混成状態を定量的に表現する手法を提案すると同時に、その応用としてNi硫化物の強相関金属−絶縁体転移の実空間、エネルギー空間での特徴を明らかにした。本論文は超伝導工学の基礎としての強相関物理学の進展に寄与するところ大であり、本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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