学位論文要旨



No 121223
著者(漢字) 新田,尚
著者(英字)
著者(カナ) ニッタ,ナオ
標題(和) リガンド応答性細胞動態の高次解析
標題(洋)
報告番号 121223
報告番号 甲21223
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第6313号
研究科 工学系研究科
専攻 先端学際工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 油谷,浩幸
 東京大学 教授 玉井,克哉
 東京大学 助教授 藤井,輝夫
 東京大学 教授 北村,俊雄
 東京大学 教授 塩田,邦郎
内容要旨 要旨を表示する

細胞が特定の因子の濃度勾配に従って移動する現象を細胞走化性と呼ぶ。細胞走化性のメカニズムは方向性の識別及び極性形成に始まり細胞の移動に到るまでの複雑なプロセスより成り、その全貌は完全には明らかとなっていない。細胞走化性はリウマチやアレルギーなど炎症性疾患時における炎症性細胞の動員や、リンパ球のホーミング、癌の転移、発生、分化、形態形成などのさまざまな生命現象にも関連することが知られており、基礎研究のほか医薬品スクリーニングや診断など医薬品/医療目的への応用が可能な走化性計測技術を確立する意義は大きい。

細胞走化性を実験的に評価、観察する技術としては、これまでにボイデンチャンバー法のほかアンダーアガロース法やZigmondチャンバー法、Dunnチャンバー法などが用いられてきた。また我々の研究グループは、リガンド濃度勾配に対する細胞走化性を測定する目的でTAXIScan装置を開発した。この装置は、微細加工技術および濃度勾配の乱れを低減させる連通管構造を組み合わせることによって微量な細胞を用いた走化性試験を高い再現性で実現し、さらにその細胞の様子を直接画像観察することを可能としたものである。このようにこれまでに種々の走化性解析技術が開発されてきたが、従来の細胞走化性の評価手法は移動中の細胞の観察のほか、定量的な手法としては移動細胞の数や割合、移動後の細胞の分布、移動速度、移動距離などを指標としたものに限られていた。このような背景のもと、本研究では、細胞走化性の特徴を高い再現性で的確に数値化する新規な定量化手法の確立を目的とした研究を実施した。

前述のように細胞走化性とは細胞が濃度勾配を識別して移動する現象である。本研究では細胞走化性の計測にはTAXIScan装置を用いるため、走化性を詳細に解析するにあたっては本装置が形成する濃度勾配の特性を把握する必要があった。そのためここでは第一に、TAXIScanが形成する濃度勾配を評価する研究を行なった。濃度勾配の評価には蛍光物質でラベルした化合物を用い、その拡散の様子を撮影した画像を解析することによって行なった。蛍光物質が発する蛍光強度は、励起光の照明ムラや蛍光物質の退色などの影響を受けるため、蛍光強度と実際の化合物濃度との関係を補正する必要がある。そのため、ここでは蛍光画像から各地点での蛍光強度とその時間変化を自動的に数値化し、さらに照明ムラや退色の効果を補正することによって各時間、各地点での化合物濃度を算出するプログラムを構築した。これを用いてTAXIScanが形成する濃度勾配を評価した結果、濃度勾配を再現性よく形成できることが確認された。

本研究では第二に、濃度勾配中の細胞運動を定量化する技術を開発した。ここでは細胞の移動速度および移動方向の濃度勾配方向に対する特異性を評価する手法としてVelocity-Direction (VD) plotを確立し、さらにリガンド投入から細胞反応までに要する応答時間を解析するChemotactic Response Time (CRT) analysis、走化性反応の持続時間を対象とするChemotaxis Lifetime (CLT) analysisを開発した。これら解析手法の確立によって、細胞走化性の解析において従来頻繁に使用されてきたボイデン法などでは不可能であった多面的な解析が実現した。さらに本解析技術の評価を行なうため、ここでは白血球の一種である好酸球を用いた走化性試験を行なった。各種の走化性因子に対する好酸球の走化性を解析した結果、因子の種類によって運動パターンに差異があることを見出すことができた。さらに本手法が診断などに応用されることを想定して、健常人およびアレルギー、アトピー、ぜんそく患者より得た好酸球について走化性の解析を行なった。それらを比較した結果、疾患グループ間において走化性パターンに有意な差異が認められた。特にぜんそく患者においてはプロスタグランディンD2に対する反応性が高い上に、移動を開始した細胞の移動継続時間も長い傾向が認められた。アレルギー、アトピー及びぜんそくなどの炎症性疾患は、疾患の重症度によって中間的な症状もしばしば見受けられ、従来の診断法では症状を厳密かつ客観的に区別することは困難であった。今回開発した手法は定量的に患者の状態を示すものであり、疾患の診断やモニタリングに非常に有用であると期待される。

走化性の計測技術は、細胞をターゲットとした創薬等のスクリーニング目的でも有用であると考えられた。このことから本研究では第三に、未知の新規薬剤を探索する目的での利用を想定した解析技術を開発した。スクリーニングの目的で用いる技術としては、解析は全自動で行ない、また走化性について複数の視点から多面的に評価できることが望ましい。ここでは画像処理技術によって細胞運動の方向性や速度、運動中の細胞形態などを自動的に数値化するソフトウェアを開発し、その結果を統計的に処理する手法を確立した。さらに本手法を用いてJurkat細胞の走化性について解析を行なった。数種類のシグナル伝達物質阻害剤を細胞へ作用させた際の走化性の様子を解析した結果、走化性に関する多面的な情報を全自動で取得することに成功し、また薬剤の種類によって異なる走化性阻害パターンを見出すことができた。本技術は細胞走化性に対する薬剤の作用を多面的に評価できる新規な薬剤スクリーニングシステムとして機能するものと考えられ、その活用が期待される。

第四の研究として、濃度勾配を利用したマスト細胞脱顆粒反応の評価技術を開発した。TAXIScan技術は元来、細胞走化性を評価する目的で開発されたものであるが、リガンドの濃度勾配を形成して細胞へ作用させ、そこでの細胞の挙動を経時的に撮影し解析する本技術は、走化性以外の細胞機能測定への応用も有用であると考えられた。ここでマスト細胞に対して各種脱顆粒刺激剤の濃度勾配処理を行ない、細胞の様子を観察したところ、細胞応答の濃度勾配に対する極性などが観察できた。さらに、細胞は脱顆粒剤の濃度勾配中に配置されているため、その位置によって異なる濃度の脱顆粒剤刺激を受けていることになる。このことを解析に反映すれば、複数の濃度条件下での細胞の様子を一度の実験で評価することが可能となると考えられた。ここではTAXIScan中のマスト細胞脱顆粒反応を自動的に検出して、細胞の位置と脱顆粒割合との関係を数値化する専用のソフトウェアを開発した。これを用いた評価試験を実施した結果、マスト細胞が各種の刺激剤に対して示す脱顆粒反応と、それに対する阻害剤の効果とを定量化することに成功した。マスト細胞の脱顆粒はアレルギー反応に直接関わっていることから、この活性を制御することはこれら疾患の診断や治療法の開発などに役立つものと考えられる。本技術は、アレルギーなどに対する治療薬開発などへの応用が期待される。

以上の研究成果から、安定的に形成されたリガンド濃度勾配環境下での細胞の挙動を、細胞走化性、および脱顆粒反応について解析する技術を確立することに成功した。細胞走化性の解析については、ぜんそくなど疾患の峻別に効果的な定量化技術に加えて、全自動で多面的な情報を取得する技術も確立することができた。これらの新規技術は、細胞走化性を指標とした診断や薬剤探索、また基礎研究の目的において、広く活用されることが期待される。またマスト細胞については、脱顆粒反応の刺激剤濃度依存性を一度の実験で計測することに成功した。一般にこのような濃度依存性解析は濃度ごとに独立に試験を行なう必要があるため多量なサンプルを要するが、本手法を用いれば少量の細胞でも試験が可能であり、マスト細胞のような大量に採取することが困難な細胞の機能評価には極めて有用であるといえる。

さらに、各種の物質が細胞に与える効果を、濃度勾配を利用することによって多点の濃度条件について一度に評価するこの方法は、マスト細胞の脱顆粒反応に留まることなく、広く細胞の活性を評価するうえで非常に有用であると考えられる。本研究では濃度勾配の安定形成技術と、そこでの細胞の挙動を様々な観点から定量化する画像処理技術とを組み合わせることによって、細胞走化性およびマスト細胞脱顆粒反応の解析技術を確立した。この技術をさらに発展させることによって、さまざまな細胞活性を対象とした効果的な解析技術が実現することも考えられ、本研究の成果はその基礎として極めて重要なものである。

審査要旨 要旨を表示する

細胞が特定の因子の濃度勾配に従って移動する現象を細胞走化性と呼ぶ。細胞走化性のメカニズムは方向性の識別及び極性形成に始まり細胞の移動に到るまでの複雑なプロセスより成り、その全貌は完全には明らかとなっていない。細胞走化性はリウマチやアレルギーなど炎症性疾患時における炎症性細胞の動員や、リンパ球のホーミング、癌の転移、発生、分化、形態形成などのさまざまな生命現象にも関連することが知られており、基礎研究のほか医薬品スクリーニングや診断など医薬品/医療目的への応用が可能な走化性計測技術を確立する意義は大きい。

細胞走化性を実験的に評価、観察する技術としては、これまでにボイデンチャンバー法のほかアンダーアガロース法やZigmondチャンバー法、Dunnチャンバー法などが用いられてきた。また我々の研究グループは、リガンド濃度勾配に対する細胞走化性を測定する目的でTAXIScan装置を開発した。この装置は、微細加工技術および濃度勾配の乱れを低減させる連通管構造を組み合わせることによって微量な細胞を用いた走化性試験を高い再現性で実現し、さらにその細胞の様子を直接画像観察することを可能としたものである。このようにこれまでに種々の走化性解析技術が開発されてきたが、従来の細胞走化性の評価手法は移動中の細胞の観察のほか、定量的な手法としては移動細胞の数や割合、移動後の細胞の分布、移動速度、移動距離などを指標としたものに限られていた。このような背景のもと、本研究では、細胞走化性の特徴を高い再現性で的確に数値化する新規な定量化手法の確立を目的とした研究を実施した。

前述のように細胞走化性とは細胞が濃度勾配を識別して移動する現象である。本研究では細胞走化性の計測にはTAXIScan装置を用いるため、走化性を詳細に解析するにあたっては本装置が形成する濃度勾配の特性を把握する必要があった。そのためここでは第一に、TAXIScanが形成する濃度勾配を評価する研究を行なった。濃度勾配の評価には蛍光物質でラベルした化合物を用い、その拡散の様子を撮影した画像を解析することによって行なった。蛍光物質が発する蛍光強度は、励起光の照明ムラや蛍光物質の退色などの影響を受けるため、蛍光強度と実際の化合物濃度との関係を補正する必要がある。そのため、ここでは蛍光画像から各地点での蛍光強度とその時間変化を自動的に数値化し、さらに照明ムラや退色の効果を補正することによって各時間、各地点での化合物濃度を算出するプログラムを構築した。これを用いてTAXIScanが形成する濃度勾配を評価した結果、濃度勾配を再現性よく形成できることが確認された。

本研究では第二に、濃度勾配中の細胞運動を定量化する技術を開発した。ここでは細胞の移動速度および移動方向の濃度勾配方向に対する特異性を評価する手法としてVelocity-Direction (VD) plotを確立し、さらにリガンド投入から細胞反応までに要する応答時間を解析するChemotactic Response Time (CRT) analysis、走化性反応の持続時間を対象とするChemotaxis Lifetime (CLT) analysisを開発した。これら解析手法の確立によって、細胞走化性の解析において従来頻繁に使用されてきたボイデン法などでは不可能であった多面的な解析が実現した。さらに本解析技術の評価を行なうため、ここでは白血球の一種である好酸球を用いた走化性試験を行なった。各種の走化性因子に対する好酸球の走化性を解析した結果、因子の種類によって運動パターンに差異があることを見出すことができた。さらに本手法が診断などに応用されることを想定して、健常人およびアレルギー、アトピー、ぜんそく患者より得た好酸球について走化性の解析を行なった。それらを比較した結果、疾患グループ間において走化性パターンに有意な差異が認められた。特にぜんそく患者においてはプロスタグランディンD2に対する反応性が高い上に、移動を開始した細胞の移動継続時間も長い傾向が認められた。アレルギー、アトピー及びぜんそくなどの炎症性疾患は、疾患の重症度によって中間的な症状もしばしば見受けられ、従来の診断法では症状を厳密かつ客観的に区別することは困難であった。今回開発した手法は定量的に患者の状態を示すものであり、疾患の診断やモニタリングに非常に有用であると期待される。

走化性の計測技術は、細胞をターゲットとした創薬等のスクリーニング目的でも有用であると考えられた。このことから本研究では第三に、未知の新規薬剤を探索する目的での利用を想定した解析技術を開発した。スクリーニングの目的で用いる技術としては、解析は全自動で行ない、また走化性について複数の視点から多面的に評価できることが望ましい。ここでは画像処理技術によって細胞運動の方向性や速度、運動中の細胞形態などを自動的に数値化するソフトウェアを開発し、その結果を統計的に処理する手法を確立した。さらに本手法を用いてJurkat細胞の走化性について解析を行なった。数種類のシグナル伝達物質阻害剤を細胞へ作用させた際の走化性の様子を解析した結果、走化性に関する多面的な情報を全自動で取得することに成功し、また薬剤の種類によって異なる走化性阻害パターンを見出すことができた。本技術は細胞走化性に対する薬剤の作用を多面的に評価できる新規な薬剤スクリーニングシステムとして機能するものと考えられ、その活用が期待される。

第四の研究として、濃度勾配を利用したマスト細胞脱顆粒反応の評価技術を開発した。TAXIScan技術は元来、細胞走化性を評価する目的で開発されたものであるが、リガンドの濃度勾配を形成して細胞へ作用させ、そこでの細胞の挙動を経時的に撮影し解析する本技術は、走化性以外の細胞機能測定への応用も有用であると考えられた。ここでマスト細胞に対して各種脱顆粒刺激剤の濃度勾配処理を行ない、細胞の様子を観察したところ、細胞応答の濃度勾配に対する極性などが観察できた。さらに、細胞は脱顆粒剤の濃度勾配中に配置されているため、その位置によって異なる濃度の脱顆粒剤刺激を受けていることになる。このことを解析に反映すれば、複数の濃度条件下での細胞の様子を一度の実験で評価することが可能となると考えられた。ここではTAXIScan中のマスト細胞脱顆粒反応を自動的に検出して、細胞の位置と脱顆粒割合との関係を数値化する専用のソフトウェアを開発した。これを用いた評価試験を実施した結果、マスト細胞が各種の刺激剤に対して示す脱顆粒反応と、それに対する阻害剤の効果とを定量化することに成功した。マスト細胞の脱顆粒はアレルギー反応に直接関わっていることから、この活性を制御することはこれら疾患の診断や治療法の開発などに役立つものと考えられる。本技術は、アレルギーなどに対する治療薬開発などへの応用が期待される。

以上の研究成果から、安定的に形成されたリガンド濃度勾配環境下での細胞の挙動を、細胞走化性、および脱顆粒反応について解析する技術を確立することに成功した。細胞走化性の解析については、ぜんそくなど疾患の峻別に効果的な定量化技術に加えて、全自動で多面的な情報を取得する技術も確立することができた。これらの新規技術は、細胞走化性を指標とした診断や薬剤探索、また基礎研究の目的において、広く活用されることが期待される。またマスト細胞については、脱顆粒反応の刺激剤濃度依存性を一度の実験で計測することに成功した。一般にこのような濃度依存性解析は濃度ごとに独立に試験を行なう必要があるため多量なサンプルを要するが、本手法を用いれば少量の細胞でも試験が可能であり、マスト細胞のような大量に採取することが困難な細胞の機能評価には極めて有用であるといえる。

さらに、各種の物質が細胞に与える効果を、濃度勾配を利用することによって多点の濃度条件について一度に評価するこの方法は、マスト細胞の脱顆粒反応に留まることなく、広く細胞の活性を評価するうえで非常に有用であると考えられる。本研究では濃度勾配の安定形成技術と、そこでの細胞の挙動を様々な観点から定量化する画像処理技術とを組み合わせることによって、細胞走化性およびマスト細胞脱顆粒反応の解析技術を確立した。この技術をさらに発展させることによって、さまざまな細胞活性を対象とした効果的な解析技術が実現することも考えられ、本研究の成果はその基礎として極めて重要なものである。

よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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