学位論文要旨



No 121230
著者(漢字) 雑賀,啓明
著者(英字)
著者(カナ) サイカ,ヒロアキ
標題(和) 冠水条件下におけるイネ葉鞘及び茎葉部の伸長機構に関する研究
標題(洋)
報告番号 121230
報告番号 甲21230
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2943号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 生産・環境生物学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 中園,幹生
 東京大学 教授 長戸,康郎
 東京大学 教授 大杉,立
 東京大学 教授 堤,伸浩
 東京大学 助教授 高野,哲夫
内容要旨 要旨を表示する

現在進行している地球規模の気候変動は気温の上昇や干ばつ、局所的な豪雨などの異常気象をもたらしているため、農業生態系に対し甚大な影響を与えている。特に、洪水によってもたらされる作物の冠水害・湿害についての対策は、干ばつ対策と同様に重要な農業課題であるにも関わらず、その基礎的研究はほとんど進んでいない。本研究では、モデル作物であるイネを用いて、冠水条件下における子葉鞘や茎葉部の伸長に着目し、その分子機構の解明を試みた。

冠水条件下での子葉鞘伸長が抑制されるreduced adh activity(rad)変異体の解析

冠水条件下で発芽したイネは、シュノーケルの役割を果たす器官である子葉鞘を特異的に伸長させる。子葉鞘の伸長は湛水直播栽培におけるイネの苗立ち性を向上させるための重要な因子であり、その伸長機構を解明することは重要な課題である。そこで本研究においては、冠水中で発芽しても子葉鞘が伸長しないrad変異体を用いて解析を行った。

rad変異体の子葉鞘において、これまでシュートや根で報告されていた結果と同様に、ALCOHOL DEHYDROGENASE 1(ADH1)遺伝子のmRNA量は野生型と大差ないのにもかかわらず、ADHタンパク質の量は野生型に比べて減少していた。次に、rad変異体の原因遺伝子を調べた。これまでの結果から、rad変異体では、ADH1タンパク質が減少していることから、ADH1遺伝子に変異が生じていることが予想された。そこで、野生型とrad変異体におけるADH1遺伝子の塩基配列を決定したところ、翻訳開始点から106番目の塩基であるGがAに置換しており、それによって、推定アミノ酸配列の36番目のグルタミン酸がリジンに変化することが示された。また、遺伝子タイピング実験及び相補性実験の結果から、rad変異体の原因遺伝子はADH1遺伝子であることが示された。

また、rad変異体の子葉鞘においては、ATP含量が野生型と比較して大きく減少していた。冠水条件下におけるエタノール発酵系の役割の1つとして解糖系への補酵素のリサイクルが挙げられる。解糖系では、補酵素のリサイクルによってATP合成を円滑に行うことができると考えられている。したがって、rad変異体では、子葉鞘におけるADH1タンパク質が減少することで、解糖系のATP合成効率が低下し、子葉鞘の伸長が抑制されている可能性が考えられた。

さらに、ADH活性が減少した子葉鞘において、遺伝子発現に変化が生じているかを調べた。Laser Microdissectionを利用して吸水後2日目のイネ種子から子葉鞘を単離し、そこから抽出したRNAを用いてマイクロアレイ解析を行った。その結果、野生型に比べてrad変異体の方が、mRNA量が3倍以上増加していた遺伝子は40個あった。その中に、カルシウムを結合する能力を持つEF-handを含むタンパク質をコードする遺伝子や発現抑制ドメインを持つエチレン応答性転写因子をコードする遺伝子が確認できた。したがって、ADH1遺伝子に変異が生じたrad変異体の子葉鞘においては、ADH活性の減少に伴いATPが減少するだけでなく、遺伝子発現も変動していることが要因となり、伸長が抑制されるということが予想された。

冠水条件下における三量体Gタンパク質の働き

イネは冠水中に茎葉部が伸長するが、短期間の冠水では伸長を抑制する方がエネルギーの浪費を抑えることができるため、その後の生存率が高いことが示されている。植物ホルモンの1つであるジベレリン(GA)は、冠水中の伸長を促進する働きをもっており、GA処理によって冠水抵抗性が低下することが知られている。いくつかの品種を用いて冠水抵抗性及び冠水中の伸長量を調べたところ、GA応答性の変異体で三量体Gタンパク質αサブユニットが欠失した大黒(d1変異体)では、冠水中の伸長量が野生型に比べて小さいにも関わらず、冠水抵抗性が低いことが明らかとなった。

これまでの研究から、三量体Gタンパク質は遺伝子発現のシグナル伝達に関与していることが知られている。このことから、三量体Gタンパク質は冠水条件下における遺伝子発現を調節している可能性が考えられた。よって、d1変異体においては、冠水条件下での遺伝子発現が変化していることが示唆された。そこで、冠水条件下における冠水誘導性遺伝子の発現をd1変異体と野生型とで比較した。その結果、冠水処理を施したd1変異体におけるADH遺伝子、PYRUVATE DECARBOXYLASE(PDC)遺伝子のmRNAの蓄積量は、野生型よりも少ないことが明らかになった。また、冠水条件下におけるADHタンパク質、PDCタンパク質の蓄積量は、mRNAと同様に、d1変異体の方が野生型と比較して蓄積量が少なかった。それに対し、冠水誘導性遺伝子の1つであるALDEHYDE DEHYDROGENASE 2a(ALDH2a)遺伝子の発現を調べたところ、mRNA量、タンパク質量ともに野生型とd1変異体との間に大きな差はみられなかった。

この結果から、三量体Gタンパク質は、冠水条件下におけるADH遺伝子、PDC遺伝子の発現を制御しているが、ALDH2a遺伝子の発現調節には関与していないことが示された。また、ADHやPDCは植物の嫌気ストレス耐性に不可欠な酵素であるので、d1変異体の冠水抵抗性が低い原因の1つとしてエタノール発酵系の機能が低下していることが考えられた。

冠水条件下におけるABA EIGHT-PRIME HYDROXYLASE 1(AEH1)遺伝子の発現解析

浮稲や非浮稲性水稲において、冠水中の伸長に関しては、少なくともエチレン、GA、アブシジン酸(ABA)の3つの植物ホルモンが関与していることが知られている。これらの植物ホルモンの量は、冠水初期に大きく変動する。気体であるエチレンに関しては、拡散効率の低下によりイネ体内のエチレン濃度が一過的に上昇するといわれている。次いで、冠水直後にABA量が減少するのに対し、GA量は増加することが知られている。本研究では、あまり研究がなされていなかった冠水時のABAの減少に関して、その分子機構を明らかにすることを試みた。

まず、冠水条件下におかれた日本晴の幼植物体において、内在性ABAがどのように変化するかを調べた。その結果、冠水処理1時間という短時間で日本晴幼植物体における内在性ABA量が減少することが示された。また、ABAの主要代謝産物であるファゼイン酸(PA)が冠水処理1時間で増加していることが明らかになった。このことから、冠水条件下での日本晴の幼植物体において、内在性ABAが短時間で減少するという現象に、ABAをPAに代謝することができるABA8位水酸化酵素が関与していると予想された。そこで、冠水条件下におけるイネABA8位水酸化酵素遺伝子であるABA EIGHT-PRIME HYDROXYLASE(AEH)遺伝子のmRNA量を調べた。その結果、AEH1遺伝子に関しては、冠水処理後30分という短期間にmRNA量が大量に蓄積していることがわかった。それに対し、AEH2遺伝子はmRNA量が冠水処理によって徐々に増加することがわかった。また、AEH3遺伝子は冠水処理30分後にmRNA量が数倍に上昇するが、ノーザンブロット解析の結果からmRNA量が非常に少ないと考えられた。このことから、冠水条件下における内在性ABA量の減少、PA量の増加には、AEH1遺伝子のmRNA量増加が寄与していることが示唆された。また、AEH1 cDNAのクローニングを行い、細胞内局在と酵素活性を調べた。その結果、AEH1は小胞体に局在し、ABAの8位を水酸化する酵素活性があることが示された。

次に、冠水条件下のAEH1遺伝子の発現を誘導している因子について調べた。冠水条件下での浮稲において、エチレンは直接節間伸長に関わっているわけではなく、伸長促進シグナルとして作用していることが知られており、ABA量を制御していることが知られている。そこで、気体の植物ホルモンであるエチレンに着目した。まず、日本晴にエチレンの前駆体である1-aminocyclopropane-1-carboxylic acid(ACC)処理を施したところ、冠水処理時と同様に、1時間で内在性ABA量が半分程度に減少したのに対し、PA量は増加していた。また、ACC処理またはエチレン処理を施した日本晴の葉においては処理後30分でAEH1遺伝子のmRNA量が一過的に増加していることが示された。さらに、エチレンのレセプターを阻害する薬剤である1-methylcyclopropene(1-MCP)を6時間前処理した後、冠水処理を施したときのAEH1遺伝子の発現を調べたところ、1-MCP処理を施したイネでは、処理していないイネに比べて、AEH1遺伝子のmRNA量が半分程度に抑えられていることが分かった。このことから、エチレンがAEH1遺伝子の発現を制御していることが示された。

この結果から、冠水条件下におかれたイネの葉においては、エチレン濃度が一過的に上昇することで、ABA水酸化酵素遺伝子であるAEH1のmRNA量が増加することが示された。増加したAEH1が急激なABA量の減少に寄与することが考えられた。

本研究により、冠水条件下におけるイネの子葉鞘及び茎葉部の伸長機構に関わる分子機構の一端を明らかにすることができた。いずれの研究からも冠水中の伸長はエネルギー代謝と関わっていることが示唆された。よって、冠水条件下においてエネルギーの合成と分解をいかに適切に制御するかがその後の生存に関わることを示唆していた。冠水条件下における各器官のエネルギー代謝を調節することが、抵抗性を付与する1つの方法となりうると考えられた。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は、冠水条件下におけるイネの子葉鞘や茎葉部の伸長に着目し、その分子機構の解明を試みたものであり、次の3つの章から構成されている。

冠水条件下での子葉鞘伸長が抑制されるreduced adh activity(rad)変異体の解析

冠水条件下で発芽したイネは、シュノーケルの役割を果たす器官である子葉鞘を特異的に伸長させる。湛水直播栽培において、子葉鞘の伸長はイネの苗立ち性を向上させるための重要な因子であり、その伸長機構を解明することは重要である。本研究では、冠水中で発芽しても子葉鞘が伸長しないrad変異体を用いて解析を行った。

rad変異体の子葉鞘において、これまでシュートや根で報告されていた結果と同様に、ALCOHOL DEHYDROGENASE 1(ADH1)遺伝子のmRNA量は野生型と大差ないのにもかかわらず、ADHタンパク質の量は野生型に比べて減少していた。このことから、rad変異体のADH1遺伝子に変異が生じていることが予想された。そこで、野生型とrad変異体におけるADH1遺伝子の塩基配列を決定したところ、ADH1遺伝子内に一塩基置換が生じていた。また、遺伝子タイピング実験及び相補性実験の結果から、rad変異体の原因遺伝子はADH1遺伝子であることが示された。さらに、rad変異体の子葉鞘では、ATP含量が野生型に比べて低下していた。また、Laser Microdissectionを利用して吸水後2日目のイネ種子から子葉鞘のみを単離し、そこから抽出したRNAを用いてマイクロアレイ解析を行ったところ、野生型とrad変異体との間でmRNA量に3倍以上の差がある遺伝子が65個あった。

したがって、ADH1遺伝子に変異が生じたrad変異体の子葉鞘においては、ADH活性の減少に伴いATPが減少するだけでなく、遺伝子発現も変動していることが要因となり、伸長が抑制されるということが示唆された。

冠水条件下における三量体Gタンパク質の働き

冠水条件下におけるイネ茎葉部の伸長量は冠水耐性にかかわる重要な形質である。いくつかの品種を用いて冠水耐性及び冠水中の伸長量を調べたところ、ジベレリン(GA)応答性の変異体で三量体Gタンパク質αサブユニットが欠失したd1変異体では、野生型に比べて冠水中の伸長量が小さいにも関わらず、冠水耐性が低いことが明らかとなった。

これまでの研究から、三量体Gタンパク質は冠水条件下における遺伝子発現を調節している可能性が考えられた。そこで、冠水条件下における冠水誘導性遺伝子の発現をd1変異体と野生型とで比較した。その結果、冠水処理を施したd1変異体におけるADH遺伝子、PYRUVATE DECARBOXYLASE(PDC)遺伝子のmRNA量、タンパク質量は、野生型よりも少ないことが明らかになった。それに対し、冠水誘導性遺伝子の1つであるALDEHYDE DEHYDROGENASE 2a(ALDH2a)遺伝子では、mRNA量、タンパク質量ともに野生型とd1変異体との間に大きな差はみられなかった。

この結果から、三量体Gタンパク質は、冠水条件下におけるADH遺伝子、PDC遺伝子の発現を制御しているが、ALDH2a遺伝子の発現調節には関与していないことが示された。

冠水条件下におけるABA EIGHT-PRIME HYDROXYLASE 1(AEH1)遺伝子の発現解析

イネにおいて、冠水中の伸長には、少なくともエチレン、GA、アブシジン酸(ABA)の3つの植物ホルモンが関与している。本研究では、冠水時のABAの減少に関して、その分子機構を明らかにすることを試みた。

まず、冠水条件下におかれたイネ幼植物体において、内在性ABA量の変化を調べた。その結果、冠水処理1時間という短時間で内在性ABA量が減少し、ABAの主要代謝産物であるファゼイン酸(PA)が冠水処理1時間で増加していることが明らかになった。このことから、冠水条件下におけるABA量の減少には、ABAをPAに代謝するABA8位水酸化酵素が関与していると予想された。そこで、冠水条件下におけるイネABA8位水酸化酵素遺伝子であるABA EIGHT-PRIME HYDROXYLASE(AEH)遺伝子のmRNA量を調べた。イネには3コピーのAEH遺伝子が存在しているが、冠水条件下でのABA量の減少にはAEH1遺伝子が関与していることが示唆された。そこで、AEH1遺伝子に着目し、機能解析を行った。その結果、AEH1は小胞体に局在し、ABAの8位を水酸化する活性があることが示された。また、冠水条件下のAEH1遺伝子の発現を誘導している因子としてエチレンに着目し、解析を行った。日本晴にエチレンの前駆体である1-aminocyclopropane-1-carboxylic acid(ACC)処理を施したところ、冠水処理時と同様に、内在性ABA量の減少、PA量の増加がみられた。また、ACC処理またはエチレン処理を施すことでAEH1遺伝子のmRNA量が一過的に増加していることが示された。さらに、エチレンのレセプターを阻害する薬剤である1-methylcyclopropene(1-MCP)を前処理することで、冠水条件下におけるAEH1遺伝子のmRNA量が処理しない場合と比較して半分程度に抑えられていることが分かった。このことから、エチレンがAEH1遺伝子の発現を制御していることが示された。

したがって、冠水条件下におかれたイネの茎葉部においては、エチレン濃度が一過的に上昇することで、ABA8位水酸化酵素遺伝子であるAEH1のmRNA量が増加することが示された。

以上、本研究は冠水条件下におけるイネ子葉鞘・茎葉部の伸長に関わる因子を複数同定することに成功しただけではなく、将来的な冠水耐性イネの作出の可能性を示すことができ、学術上、応用上価値が高い。従って、審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値があるものと認めた。

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