学位論文要旨



No 121257
著者(漢字) 伊藤,紗弥
著者(英字)
著者(カナ) イトウ,サヤ
標題(和) 遺伝学的アプローチによる核内レセプター新規転写共役因子の機能解析
標題(洋)
報告番号 121257
報告番号 甲21257
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2970号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用生命工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 加藤,茂明
 東京大学 教授 秋山,徹
 東京大学 教授 高橋,直樹
 東京大学 教授 多羽田,哲也
 東京大学 教授 渡邊,嘉典
内容要旨 要旨を表示する

第一章 序論

高等真核生物において高度に保存された遺伝情報の発現は、主として遺伝子発現の転写レベルで調節されている。転写は無数の制御因子により連続的かつ不可逆的に調節され、染色体構造調節・修飾を伴う。転写を制御する因子群は、標的遺伝子プロモーターに直接結合するDNA結合性転写因子群、基本転写因子群、及びこれらを仲介する転写共役因子群が知られている。近年、これら転写共役因子群の機能の一つは標的遺伝子周辺の染色体構造を認識結合し、ヒストンを修飾することであると明らかにされつつある。これらアセチル化、リン酸化、メチル化等のヒストン化学修飾はヒストンテールの特定のアミノ酸残基に入ることで染色体機能状態を規定・維持することが知られている。ユークロマチン領域では、ヒストンリジン残基のアセチル化による転写の活性化を示す構造を形成するが、一方、ヒストンリジン残基のメチル化は転写不活性化状態であるヘテロクロマチン構造を形成することが知られている。更にこれらユークロマチンとヘテロクロマチン間の状態変換には、SWI/SNF複合体等のクロマチンリモデリング複合体群、ヒストン置換・輸送を担うヒストンシャペロン、ヘテロクロマチン化誘導因子HP1(Heterochromatin protein 1)等の因子群が必須であることが知られている。従って、染色体構造変換を伴う転写開始段階は転写共役因子群と染色体構造変換制御因子群各々が独立した複合体として協調的に機能すると考えられていた。しかしながら、これら転写共役因子群や染色体構造変換制御因子群の同定は、各々相互作用を指標とした探索やこれらの活性を指標とする複合体精製による生化学的手法が主流であったことから、両者を繋ぐ因子や機能的相互作用の分子基盤の大部分は依然として不明である。

そこで本研究では既知因子複合体群を仲介する新しいクラスの転写共役因子の取得を目指し、分子遺伝学的なアプローチを用いた。これまでショウジョウバエを用いた分子遺伝学的アプローチにより、ヒト核内ステロイドレセプターの機能的転写制御系の構築に成功してきた1)。核内レセプターはリガンド依存的に転写活性を発揮するため転写誘導の同調が整えられ、かつリガンド依存的に相互作用する転写共役因子群の同定・機能解析に有用である。更にショウジョウバエ既知転写共役因子はヒトホモログ同様、核内レセプターを転写共役することから、ハエでのヒト核内レセプター転写制御解析系は哺乳動物の生体内機能を反映することを示唆してきた2)。本研究は、特に染色体構造変換機構に連続した転写共役因子による新たな転写制御能の解明を目的とし、ヒト核内レセプターの転写活性を指標とした新規転写共役因子の探索・同定を試みた。

第二章 ショウジョウバエを用いた核内レセプター新規転写共役因子の遺伝学的探索

個眼特異的に発現するヒトアンドロゲンレセプター(AR)の転写活性をGFP蛍光で観察可能なトランスジェニック系統を用い、ARの転写活性を指標とした新規転写共役因子の遺伝学的スクリーニングを行った。約1200系統の遺伝子過剰発現及び機能欠損系統(GS lines)とAR転写制御系統を交配した次世代3齢幼虫の個眼原基のGFP蛍光強度を観察し、AR転写活性制御を判断した。その結果、約10の遺伝子変異系統で著しくARの転写活性強度が変動し、変異の生じた遺伝子から発現する因子がAR転写共役因子として機能することが示唆された。さらに、これら同定したAR転写共役候補因子のうちヒトホモログが機能未知である4つの因子に関してヒト培養細胞におけるレポーターアッセイを行い、ARに対するヒトホモログの転写制御能を検討した。その結果、1つの因子では転写活性の変動が見られなかったものの、2つの因子で転写促進、1つの因子で転写抑制が確認された。そこで核内レセプターの転写活性を強力に抑制する転写共役因子であるCG32529について以下詳細な解析を行うこととした。CG32529のヒトホモログは機能未知因子BAHD1(Bromo adjacent homology domain containing 1)であり、C末端にBAH(Bromo adjacent homology)ドメインが保存されている。BAHドメインの分子機能は明らかにされていないが、クロマチンリモデリング活性をもつSWI/SNF複合体の構成因子であるBAF180やヒストンテールの特異的なリジン残基をメチル化するTrithorax複合体を構成するASH1もこのドメインを有することから、BAHD1が染色体構造変換を担う因子であることが推測された。そこで、ショウジョウバエでPEV(Position Effect Variegation)を用いた解析を行い、BAHD1のショウジョウバエホモログCG32529の染色体構造変換能を検討した。PEVとは、赤眼を呈するWhite遺伝子がクロマチン構造のゆらいだユークロマチンとヘテロクロマチンの境界領域に導入されると、細胞ごとに遺伝子発現強度に差異が生じて赤と白の斑眼を呈する現象を指す。PEVにおいて赤眼を呈する遺伝子変異系統では、White遺伝子の発現が亢進しており境界領域の染色体構造がユークロマチン化していると判断できる。一方、白眼を呈する遺伝子変異系統は境界領域の染色体構造がヘテロクロマチン化していると判断することができる。CG32529遺伝子機能欠損変異系統は赤眼を呈したことから、CG32529はヘテロクロマチン化能を有することが見出された。以上の結果より、BAHD1が転写制御及び染色体構造変換制御を担う負の調節因子であることが推測された。

第三章 新規転写共役因子BAHD1の生理学的機能の解析

Northern blottingにより、ヒトBAHD1 mRNAは副腎でのみ顕著に発現することを見出した。副腎の発生・分化は生殖腺と共通の原基から始まり、転写因子を中心とした各種因子群により段階的に制御されている。代表的な転写因子としてWT-1(Wilms' tumor 1)、Ad4BP/SF-1(Ad4 binding protein/steroidogenic factor 1)、DAX-1(Dosage-sensitive sex reversal-adrenal hypoplasia congenita critical region on the X chromosome, gene 1)等が知られている。成熟した副腎組織は皮質、髄質からなる2層構造をとっており、外側の皮質では多種のステロイド合成酵素を介してグルココルチコイドやミネラルコルチコイド、副腎アンドロゲン等のステロイド合成を行うことが知られている。BAHD1が副腎における発生・分化さらにステロイド合成系に及ぼす影響を検討するため、マウス副腎皮質由来Y1細胞を用いたRT-PCR法によりBAHD1依存的に発現量の変動する因子を探索した。その結果、核内レセプターSF-1及びSF-1により発現誘導される核内レセプターDAX-1がBAHD1存在下で発現抑制された。さらに、球状帯・束状帯・網状帯の3帯から成る副腎皮質の中でマウスBAHD1の発現は球状帯に限局しており、SF-1、DAX-1の発現部位と一部重複が見られたことからもBAHD1とSF-1、DAX-1との機能的相互作用の可能性が強く示唆された。一方、ヒトBAHD1は細胞増殖を促進することが明らかとなり、SF-1、DAX-1が制御を担う分化に対し抑制的に作用する可能性が示された。以上の結果より、BAHD1はSF-1、DAX-1の発現抑制を介した発生・分化制御の一端を担うことが推測された。

第四章 BAHD1の性状解析

次に、BAHD1の転写抑制能を詳細に解析した。ヒト培養細胞を用いたレポーターアッセイにより、ARを始めとする各種核内レセプター及び転写因子VP16に対しBAHD1はいずれも転写共役抑制因子として機能することが確認された。さらに、免疫染色法と免疫沈降法によりヒト培養細胞内でBAHD1は常に核内に存在し、AR、エストロゲンレセプターα (ERα)と相互作用することが明らかとなった。また、BAHD1はN末端領域及びBAHドメインに隣接したN末側領域の2箇所を介してAR、SF-1、ERαと直接結合することがGST pull-down法により判明した。

近年、転写抑制状態のクロマチン構造の指標となるヒストンテールの修飾としては、主にヒストンH3-K9のメチル化、H3-K27のメチル化、H4-K20のメチル化が観察されている。そこで、BAHD1による転写抑制の場でこれらヒストン修飾が生じているか否かを検討した。免疫染色を行った結果、H3-K9のジメチル化部位とBAHD1の局在が一致していた。H3-K9はメチル化酵素Suv39hによりジ・トリメチル化され、ヘテロクロマチン化誘導因子HP1を誘導することでヘテロクロマチンを形成することが知られている。そこで、BAHD1の転写抑制能がSuv39h及びHP1との相互作用を介したクロマチン構造変換を伴い発揮される可能性を検討した。ヒト培養細胞から抽出したクロマチン画分を用いた免疫沈降法より、BAHD1はSuv39h1及びHP1α、β、γとの相互作用に加え、SWI/SNF型クロマチンリモデリング複合体構成因子であるATPase活性酵素 Brg1とも会合することが判明した。さらに、BAHドメインを欠失したBAHD1変異体はこれら因子と相互作用しなかったことから、BAHD1を介したクロマチン構造変換においてBAHドメインが必須であることが示唆された。さらに、in vitroクロマチン再構築系を用いて実際にBAHD1を含む複合体がクロマチン構造変換を担うか否かを確認したところ、ATP依存的にヌクレオソーム配列を変動させることが示された。以上の結果より、核内レセプターを含む一部の転写因子の転写活性を抑制するBAHD1が、BAHドメインを介して染色体構造変換因子群を誘導するアンカー因子である可能性が推察された。

第五章 総合討論

新規転写共役因子BAHD1の同定と機能解析

本研究では、ショウジョウバエ分子遺伝学を用いた核内レセプター転写共役因子の探索により、転写抑制を担う機能未知因子BAHD1を見出した。一方、BAHD1はSuv39h1、HP1、Brg1とBAHドメインを介して結合しヘテロクロマチン化を誘導することが示された。以上の結果から、BAHD1が染色体構造変換制御と連動して標的遺伝子の転写抑制制御を担う機能を有することが推測された。すなわち、BAHD1は転写共役因子群と染色体構造変換制御因子群を仲介するアンカー因子である可能性が考えられた。このように従来の生化学的手法では、同定困難であったアンカー因子を、本研究で用いた分子遺伝学的手法により初めて同定することに成功した。さらに本研究では、機能が不明であったBAHドメインがSuv39h1、HP1、Brg1の結合誘導に必須なドメインであること、さらにヘテロクロマチン化誘導因子HP1とクロマチンリモデリング酵素Brg1が協調的に作用し染色体構造変換を担う可能性を示すことができた。一方、BAHD1はマウス副腎での発現部位が限局しており、発生・分化段階の転写制御の時期・組織特異性を規定する因子である可能性が推測された。

今後の展望

今後、BAHD1による転写抑制とHP1、Brg1による染色体構造変換が同時に進行することを同一染色体上で証明することは必須であると考えられる。そのためBAHD1の直接的な標的遺伝子の同定、標的遺伝子上での転写因子依存的な染色体構造変換制御を解析する予定である。これらの成果は、副腎分化における時期・部位特異的な遺伝子発現制御の理解に繋がるものと期待される。さらにBAHD1ノックアウトマウスを作出することにより、副腎及び生殖腺におけるBAHD1の分化制御を始めとした生体内高次機能を明確にする予定である。

以上、本研究では転写活性を指標とした遺伝学的アプローチを用いることで、染色体構造変換を伴う新しいクラスの核内レセプター転写共役因子の同定に成功した。本研究は、染色体構造変換因子群による核内レセプター転写制御機構への関与を解明した新たな試みであり、生体内での時期・組織特異的な転写制御における染色体構造変換機構の理解に繋がるものであると期待される。

Takeyama, K. et al. Androgen-dependent neurodegeneration by polyglutamine-expanded human androgen receptor in Drosophila, Neuron, 35, 855-864 (2002)Ito, S. et al. In vivo potentiation of human oestrogen receptor alpha by Cdk7-mediated phosphorylation, Genes Cells., 9, 983-992 (2004)
審査要旨 要旨を表示する

高等真核生物の染色体におけるクロマチンと呼ばれるDNAの高次構造は、転写を介して遺伝情報を正確に発現する上で重要な働きを担っている。クロマチン構造状態は転写反応の促進しているユークロマチン状態と転写反応が抑制されたヘテロクロマチン状態の二つに大別することができ、この二つの状態を変換することで転写を制御すると考えられている。しかしながら、これまでクロマチン構造変換と転写の二つの現象を繋ぐ断定的な報告はなく、転写制御における詳細な機構は不明であった。本研究は、クロマチン構造調節因子と転写共役因子を繋ぐ新しいクラスの転写共役因子の同定及び機能解析により、クロマチン構造変換に連動した転写制御機構の解明を試みている。

第一章の序論に引き続き、第二章ではショウジョウバエを用いて、新規転写共役因子の遺伝学的同定を試みている。具体的には、本研究室で構築したヒトアンドロゲンレセプター転写制御系を用い、遺伝子変異ショウジョウバエ系統における転写活性強度を指標に新規転写共役因子を探索した。その結果、顕著な転写抑制を担う機能未知因子BAHD1を同定した。また、ショウジョウバエPEV解析により、BAHD1はヘテロクロマチン化を担うことが示唆された。従って、BAHD1がクロマチン構造調節能と転写制御能を併せ持つ因子であることが示された。

第三章では、BAHD1の生理学的意義を解明するため、ノザンブロッティング法を用いてBAHD1 mRNAの発現組織を検討している。その結果、BAHD1はヒト副腎皮質で顕著に発現することを明らかにした。また、副腎皮質由来Y1細胞におけるコロニーフォーメーションアッセイにより、BAHD1の機能の一つは副腎における細胞増殖であることを示した。さらに、Y1細胞を用いたRT-PCR法によりBAHD1が副腎の発生・分化制御を担う転写因子SF-1やDAX-1の発現を抑制することを示唆した。従って、BAHD1は副腎における細胞増殖及び発生段階においては分化抑制制御を担うことが推測された。

第四章では、BAHD1の転写制御能及びクロマチン構造調節能を分子レベルで詳細に解析している。第一に、レポーターアッセイ法によりBAHD1がSF-1及びARの転写を抑制することを見出した。第二に、細胞免疫染色法によりBAHD1がジメチル化ヒストンH3K9領域特異的に局在することが示され、この領域でクロマチン構造調節に関わることが知られているHP1α、Suv39H1さらにBrg1がBAHD1を相互作用することを免疫沈降法により示唆した。さらに、BAHD1複合体がクロマチン構造変換能を有することをIn vitro MNase assayにより証明した。

本論文は転写活性を指標とした遺伝学的アプローチを用いることで、クロマチン構造変換を伴う新しいクラスの核内レセプター転写共役因子の同定に成功した。本研究は、クロマチン構造変換因子群による核内レセプター転写制御機構への関与を解明した新たな試みであり、生体内での時期・組織特異的な転写制御における染色体構造変換機構の理解に繋がるものであると期待される。よって審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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