学位論文要旨



No 121262
著者(漢字) 佐藤,大介
著者(英字)
著者(カナ) サトウ,ダイスケ
標題(和) 分子動力学シミュレーションを用いたミニタンパク質のフォールディング機構の解明
標題(洋)
報告番号 121262
報告番号 甲21262
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2975号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用生命工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 清水,謙多郎
 東京大学 教授 正木,春彦
 東京大学 助教授 北尾,彰朗
 東京大学 特任助教授 寺田,透
 東京大学 助教授 中村,周吾
内容要旨 要旨を表示する

タンパク質のフォールディング

生命現象の担い手であるタンパク質は、固有の立体構造(天然状態)に折り畳まれることで、その生化学的機能を発揮する。タンパク質の配列からの天然状態の立体構造の予測、また天然状態に至る経路を求める問題は、一般にフォールディング問題と呼ばれ、分子生物学の分野における未解決問題の一つである。このタンパク質のフォールディング問題を解決することは、タンパク質分子の機能発現の機構を解明すると同時に、創薬、特定の生化学的機能を持った人工タンパク質の設計開発、アルツハイマー病などのタンパク質の誤ったフォールディングに由来するとされる病理の解明へと直接つながると期待される。

フォールディングシミュレーション

Christian AnfinsenによるRibonuclease Aの巻き戻し実験によって、タンパク質のフォールディングは配列情報のみによって決定されることが示唆された。一方で計算機技術・資源の充実にもかかわらず、配列情報のみを用いた計算機シミュレーションによる立体構造の予測は依然として困難な問題である。タンパク質のフォールディングシミュレーションを実現する上での困難は主に2点ある。第一は構造探索の問題である。熱力学的仮説によればタンパク質の天然構造は溶媒環境を含めた自由エネルギー最小状態に対応する。しかしながらタンパク質分子の内部自由度が膨大なため、構造探索を行う際、無数に存在するエネルギー極小状態にとどまり自由エネルギー最小状態に到達できないという問題がある。第二は溶媒効果の膨大な計算量である。タンパク質分子は生体内において溶液環境にある。シミュレーションの系において明示的に水分子を配置した際、その原子数の2乗に比例して計算量が増大することになる。よって、タンパク質のフォールディングシミュレーションを実現するためには、構造探索手法の改良と効率的な溶媒効果の計算手法の両立が要求される。本研究では、こうした困難に挑戦し、1)タンパク質分子の配列情報のみに基づいた立体構造予測に有効な全原子シミュレーション法を確立し、2)タンパク質のフォールディングに重要とされる配列上離れた残基同士による水素結合・疎水コア形成のメカニズムを原子レベルで解明することを目指した。

方法

計算手法

従来型の定温分子動力学シミュレーションでは構造探索範囲が初期構造近傍に限定されてしまい自由エネルギー最小状態に到達することが困難であるという問題が知られている。この問題を解決するための構造探索手法の一つとして、拡張アンサンブル法が提案されている。拡張アンサンブル法ではエネルギー軸上をランダムウオークすることでエネルギー極小状態から効率良く抜け出し、自由エネルギー最小状態へ到達することを目指す。本研究では拡張アンサンブル法の一種であるマルチカノニカル分子動力学法を適用した。マルチカノニカル分子動力学法では、一度広域な構造探索を行った後、reweightingと呼ばれる操作を施すことで任意の温度でのカノニカル分布を得られるという特徴を持っている。この特徴により、最終的な立体構造予測だけにとどまらず、多様な変性状態やフォールディング中間体を含む自由エネルギー地形を得ることができる。

また、本研究では、溶媒効果として連続誘電体モデルの一種であるGB/SAモデルを適用した。GB/SAモデルを適用することにより、溶媒効果の計算の際に生ずる膨大な計算コストを節約し、現実的な計算資源の範囲内で、溶媒効果の考慮と十分な構造探索を両立可能とした。

次に、分子動力学シミュレーションから得られた軌跡から「とりやすい構造」を抽出するために、クラスタリング解析を行った。クラスタリング解析は以下の手順で実行した。まず、存在確率の高い順番に構造を選択する。次に、全重原子RMSD値が2.0Å以内の構造を選択し、選択された構造から平均構造を算出しこれをクラスタ中心とする。算出されたクラスタ中心から全重原子RMSDで2.0Å以内の構造を選択し、平均構造を算出しクラスタ中心を更新する。クラスタ中心位置が収束するまでこの手続きを繰り返す。

Chignolin

Chignolin(GYDPETGTWG)は、protein GのB1ドメインの45〜52残基のアミノ酸配列に基づいて人工的に設計・合成された10アミノ酸から構成されるポリペプチド鎖である。現在までに、水溶液中においてβ-hairpinを安定に形成することが、核磁気共鳴(NMR)法、円偏光二色性(CD)分散の実験によって確かめられている。また、温度変化に伴い可逆的かつ協同的な2状態構造転移を示すことから、現在までのところ「最小のタンパク質」と呼ばれている。本研究ではまず、chignolinに対するフォールディングシミュレーションを実行し、配列上離れた残基同士による水素結合・疎水コア形成のメカニズムを含むフォールディング過程を原子レベルで解明することを目指した。具体的には、chignolinに対して完全に伸展した構造を初期構造としてマルチカノニカル分子動力学計算を行い、フォールディング過程における構造分布の解析を行った。

GPM12

Chignolinの設計構造鋳型であるprotein GのB1ドメインの45〜52残基のアミノ酸配列に対応するGPM12(GYDDATKTFG)と呼ばれる分子は、chignolinと同じ実験条件下において、水溶液中でランダム様構造をとっているとの報告がなされていた。本研究ではchignolinと同様の計算プロトコルを用いたフォールディングシミュレーションを実行し、chignolinとのフォールディング自由エネルギー地形の比較を試みた。

WW domain

WW ドメインは、リガンド分子やジスフィルド結合の助けなしで、安定した3本の逆平行βシート構造を形成することのできる約40残基のミニタンパク質である、両末端近傍に保存されたトリプトファンを持つのが特徴で、プロリンを多く含むリガンドと結合することで、シグナル伝達に関与している。現在までに構造決定されているWWドメインのうち、peptidyl-prolyl cis/trans isomerase(Pinl)由来のもののフォールディング過程は2状態遷移であり、formin-binding protein(FBP)由来のものは、30番目のトリプトファンをアラニンに置換することによって、そのフォールディング過程を3状態転移から2状態転移へ調節可能であることが実験的に確かめられている。本研究では、WW ドメインを対象としたフォールディングシミュレーションを行い、より巨大なタンパク質に対するフォールデイングシミュレーションの手順を確立すると同時に、逆平行βシート構造の形成メカニズムを原子レベルで解明することを目的とした。

結果と考察

Chignolin

180nsのマルチカノニカル分子動力学シミュレーションを行った結果、290Kから700Kのエネルギー領域を覆うマルチカノニカルアンサンブルを得た。得られた構造アンサンブル中に、実験構造に対する主鎖CαRMSD値が0.5Å以下、またNMR実験の際に用いられた拘束条件を99%を満たす構造群を見出すことに成功した。引き続き行ったクラスタリング解析からは、これらの構造群が高い存在確率を伴って構造空間中でクラスタを形成しており、天然構造安定化に重要な主鎖間水素結合、芳香環側鎖の配向を再現していることが確認された。シミュレーション中における変性状態(CαRMSD〓4.0 A)から天然状態(CαRMSD〓1.0Å)へ至るフォールディングイベントは159回に及んだ。

GPM12

Chignolinと同様の手法で180nsのマルチカノニカル分子動力学シミュレーションを実行し、300Kから700Kのエネルギー領域を覆うマルチカノニカルアンサンブルを得た。得られた構造アンサンブル中に、protein Gの実験構造に対する主鎖CαRMSD値が0.33Åの構造を見出すことに成功した。引き続き行ったクラスタリング解析では、存在確率の高いクラスタに多様な2次構造傾向が観察され、GPM12が水溶液中で特定の構造を保持しないという実験と一致する結果が得られた。またchignolinと比較して、GPM12においてはAsp4とLys7間の相互作用によってβ-hairpin形成が不安定化されていることが明らかとなった。

WW domain

完全に伸展した構造を初期構造として、マルチカノニカル分子動力学シミュレーションを実行した。FBPのW30A変異体、およびPinlの系に対する130nsのシミュレーションから、700Kから350Kのエネルギー領域を覆うマルチカノニカルアンサンブルを得た。得られた構造アンサンブル中に、FBPのW30A変異体Pinlともに、ループ部を除いたNMR構造とのRMSDで約3.7Åの構造を見出すことに成功した。

結論

水溶液中で安定なβ-hairpin構造を形成維持できるタンパク質であるchiglolinに対して完全に伸展した状態を初期構造としたフォールディングシミュレーションを実行し、NMR実験構造に対するCαRMSD値が0.5Å以下、また構造決定の際に用いられた拘束条件を99%を満たす構造群を見出すことに成功した。また、同じ計算手法をGPM12に適用したところ、計算の軌跡に対するクラスタリング解析から、Chignolinと同じ実験条件下で特定の構造を保持しないという配列依存性を再現する結果を得ることができた。さらに、水溶液中で安定した3本の逆平行βシート構造を形成することのできるより配列の長いWW domainに対してこの計算手法を適用したところ、実験構造に対してRMSD値が約3.7Åの構造を見出すことに成功した。今後は、現在手がけている他の様々な配列種に対するフォールディングシミュレーションを通して、Anfinsenによって示唆されたタンパク質立体構造形成の配列依存性の解明が期待される。

審査要旨 要旨を表示する

生命現象の主な担い手であるタンパク質は、固有の立体構造に折り畳まれることではじめて、その生化学的機能を発揮することができる。タンパク質の配列からの天然状態の立体構造の予測、また天然状態に至る経路を求める問題は、一般にフォールディング問題と呼ばれ、分子生物学の分野における未解決問題の一つである。このタンパク質のフォールディング問題を解決することは、タンパク質分子の機能発現の機構を解明すると同時に、創薬、特定の生化学的機能を持った人工タンパク質の設計開発、アルツハイマー病などのタンパク質の誤ったフォールディングに由来するとされる病理の解明へと直接つながると期待される。本研究は、第一に、ミニタンパク質のフォールディングを計算機シミュレーションによって再現することで手法の妥当性を示し、第二に、点変異体に対するシミュレーションを通してフォールディング機構の配列依存性を原子レベルで解明することを試みている。本文は5章より構成されている。

第1章では本研究の背景と意義について述べたうえで、タンパク質のフォールディングシミュレーションを実現する上での現状の問題点を具体的に示している。第2章では、第1章で述べられたフォールディングシミュレーションを実現する上での困難を解決するために用いられた研究手法が述べられている。具体的には、構造探索手法として拡張アンサンブル法の一種であるマルチカノニカル分子動力学法を適用し、溶媒効果を連続誘電体モデルの一種であるGB/SAモデルによって考慮した。また、シミュレーションから得られた軌跡から「とりやすい構造」を抽出するためのクラスタリング解析について述べられている。

第3章では研究対象となった分子と具体的な計算手順について述べられている。chignolin(GYDPETGTWG)は、protein GのB1ドメインの45〜52残基のアミノ酸配列に基づいて人工的に設計・合成された10アミノ酸から構成されるポリペプチド鎖である。現在までに、水溶液中においてβ-hairpinを安定に形成することが、核磁気共鳴(NMR)法、円偏光二色性(CD)分散の実験によって確かめられている。本研究ではまず、chignolinに対するフォールディングシミュレーションを実行し、フォールディング機構を原子レベルで解明することを目指した。具体的には、chignolinに対して完全に伸展した構造を初期構造としてマルチカノニカル分子動力学計算を行い、フォールディング過程における構造分布の解析を行った。次に、chignolinと同じ実験条件下において、水溶液中でランダム様構造をとっているとの報告がなされているGPM12(GYDDATKTFG)に対してchignolinと同様の計算プロトコルを用いたフォールディングシミュレーションを実行し、chignolinとのフォールディング自由エネルギー地形の比較を試みた。最後に、より長い配列に対するフォールディングシミュレーションの手法の確立と、逆平行βシート構造の形成メカニズムの解明を目的として、機能ドメインであるWW domainを対象としたフォールディングシミュレーションを行った。

第4章では、結果と考察が述べられている。まず、chignolinの計算からは、得られた構造アンサンブル中に、NMR実験構造に対する主鎖CαRMSD値が0.5 〓以下、またNMR実験の際に用いられた拘束条件の99 %を満たす構造群を見出すことに成功した。引き続き行ったクラスタリング解析からは、これらの構造群が高い存在確率を伴って構造空間中でクラスタを形成しており、天然構造安定化に重要な主鎖間水素結合、芳香環側鎖の配向を再現していることが確認された。シミュレーション中における変性状態(CαRMSD 〓 4.0 〓)から天然状態(CαRMSD 〓 1.0 〓)へ至るフォールディングイベントは159回に及んだ。次に、GPM12のフォールディングシミュレーションと引き続き行ったクラスタリング解析から、存在確率の高いクラスタに多様な2次構造傾向が観察され、GPM12が水溶液中で特定の構造を保持しないという実験と一致する結果が得られた。また、追加的に行った点変異体に対するシミュレーションから、chignolinと比較してGPM12においてはAsp4とLys7間の塩橋によってβ-hairpin形成が不安定化されていることが実証された。最後に、WW domainの計算からは、得られた構造アンサンブル中に、ループ部を除いたNMR構造とのRMSDで約3.7 〓の構造を見出すことに成功した。

第5章では、本研究の結論が述べられている。本研究では、水溶液中で安定なβ-hairpin構造を形成維持できるタンパク質であるchignolinに対して完全に伸展した状態を初期構造としたフォールディングシミュレーションを実現し、NMR実験構造に対するCαRMSD値が0.5 〓以下、また構造決定の際に用いられた拘束条件の99 %を満たす構造群を見出し、フォールディングの鍵となる相互作用を同定することに成功した。また、同じ計算手法をGPM12に適用したところ、計算の軌跡に対するクラスタリング解析から、chignolinと同じ実験条件下で特定の構造を保持しないという配列依存性を再現する結果を得ることができた。さらに、水溶液中で安定した3本の逆平行βシート構造を形成することのできるより配列の長いWW domainに対してこの計算手法を適用したところ、NMR構造に対してRMSD値が約3.7 〓の構造を見出すことに成功した。

以上、本論文では、タンパク質のフォールディングを計算機実験により再現し、タンパク質の折りたたみ機構とその配列依存性を原子レベルで明らかにすることに成功した。その研究の成果は学術上・応用上の価値がきわめて高く、今後、同様の研究アプローチによって、誤ったフォールディングによって引き起こされるとされる疾患の分子機構解明、特定の機能を持った新規タンパク質のデザインに大きく貢献するものと期待される。よって、審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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