学位論文要旨



No 121274
著者(漢字) 古川原,聡
著者(英字)
著者(カナ) コガワラ,サトシ
標題(和) 湛水耐性樹木の光合成産物の輸送と代謝
標題(洋)
報告番号 121274
報告番号 甲21274
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2987号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 森林科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小島,克己
 東京大学 教授 宝月,岱造
 東京大学 教授 丹下,健
 東京大学 助教授 高野,哲夫
 東京大学 講師 益守,眞也
内容要旨 要旨を表示する

土壌が湛水する環境では、酸素不足による根の好気呼吸の抑制が植物の生育にとって最も問題となるため、湿地造林では根の低酸素ストレス耐性が造林木に必須の性質として求められる。低酸素ストレスに対する代謝的適応として嫌気的呼吸である発酵の増大がよく知られている。発酵は好気的呼吸と比べて単糖あたりのエネルギー(ATP)生産効率が非常に低いために、低酸素濃度環境下でエネルギー状態を良好に保つためには光合成産物の供給維持が重要であると考えられる。根のエネルギー代謝への光合成産物の供給は、光合成とその産物の輸送および根での分解による単糖生成の3つの過程に分けられる。低酸素ストレスによって光合成が低下することはよく知られているが、低酸素ストレスが光合成産物輸送や単糖生成の過程に及ぼす影響についてはこれまで詳細な研究がない。本研究では、好湛水性樹種のMelaleuca cajuputi Powellと湛水耐性種のEucalyptus camaldulensis Dehnh.の低酸素ストレスに対する光合成と光合成産物輸送および単糖生成の反応を比較することにより、低酸素ストレス耐性を光合成産物の供給過程との関係において明らかにすることを目的とした。フトモモ科のM. cajuputiは熱帯泥炭湿地で純林を形成する樹種であり、湛水により成長が促進されることが知られている。同科のE. camaldulensisは熱帯の広範な地域で造林に用いられる樹種であり、湛水初期には成長が抑制されるという報告がある。この2種間には低酸素ストレスに対する根の代謝による適応反応に差があると考えられる。

1章では、植物の低酸素ストレス耐性の機構について、光合成産物の供給と分解の観点からこれまでの知見をまとめ、本研究の動機と目的を明らかにした。

2章では、低酸素ストレスのための実験系を確立し、成長解析によって2種の耐性の違いを確認した上で、低酸素ストレスが光合成と根のエネルギー状態に与える影響を2種間で比較した。水耕栽培の培養液に窒素を通気する低酸素処理と空気を通気する対照処理を設けたところ、培養液の酸素濃度がそれぞれ0.25 mg L-1と8.2 mg L-1になる実験系が確立された。両種とも低酸素処理下で根のアルコール脱水素酵素の活性が高く、両樹種の根に低酸素ストレスが負荷されていることを確認した。これらの実験系で24時間の低酸素処理をした根のエネルギー状態を調べたところ、M. cajuputiでは、エネルギー充足率が影響を受けなかったが、E. camaldulensisでは、エネルギー充足率が低下した。19日間の低酸素処理により、M. cajuputiでは、成長が全く阻害されなかったが、E. camaldulensisでは、処理直後から樹高成長が阻害され、処理終了時の個体乾燥重量が対照処理の40 %であった。M. cajuputiでは、低酸素処理により光合成がほとんど阻害されなかったが、E. camaldulensisでは、低酸素処理により光合成が時間経過とともに抑制され、気孔閉鎖を伴って処理5日目には対照処理の37%となり、処理終了時まで回復することはなかった。また、処理11日目にはCO2飽和条件下で測定した最大光合成速度が低下していた。E. camaldulensisでは、低酸素濃度環境下で根に輸送が可能な光合成産物の潜在的な量が減少することが示された。

3章では、13Cで標識した光合成産物の動態の把握し、葉と根の糖分析をすることにより、低酸素ストレスの光合成産物の輸送に対する阻害効果を明らかにした。13CO2を成熟葉に曝露して12時間後の光合成産物の個体内の移動を13Cの定量により解析したところ、M. cajuputiは根への光合成産物輸送が低酸素処理によって阻害されることがなく、光合成産物の主要な輸送形態であるスクロースの濃度も根において低酸素処理による変化がなかった。さらに、根に輸送された光合成産物の配分先を追跡したところ、低酸素処理によって構造性多糖類画分への配分が減少し、可溶性糖画分への配分が増加した。これは、低酸素濃度環境下で根に輸送された光合成産物がエネルギー代謝に使われやすい状態で多く存在していたことを示唆する。E. camaldulensisでは、光合成が低下する以前に、24時間の低酸素処理により根への光合成産物輸送が阻害され、光合成産物が葉に残留した。さらに3日経過すると葉に糖とデンプンが蓄積した。これらの結果から、光合成よりもその産物の輸送過程が低酸素濃度環境下の根に供給される光合成産物の量を制限することがわかった。また、E. camaldulensisの根には、低酸素処理によりスクロースが蓄積した。従って、低酸素ストレスによって光合成産物輸送が阻害されるものの、これは根のエネルギー代謝への光合成産物供給を制限する要因とはならないと考えられる。スクロースの輸送はそれ自体の濃度勾配が駆動力となるため、根のスクロース蓄積によって葉からの光合成産物の輸送が阻害されることが知られている。E. camaldulensisでは、低酸素ストレスにより根にスクロースが蓄積し、その結果、根への光合成産物の輸送が阻害されると考えられる。光合成産物輸送が阻害されている状況でのスクロースの蓄積は根でスクロースが分解されていないことを示唆しており、このことが、低酸素濃度環境下のエネルギー代謝への単糖の供給を制限する要因である可能性が考えられる。

4章では、スクロース分解による単糖生成の過程が低酸素濃度環境下でのエネルギー代謝を制限する可能性について検証した。まず、低酸素ストレスがスクロース分解酵素の活性に与える影響を調べた。根に輸送されたスクロースは、インベルターゼあるいはスクロースシンターゼによって分解されて様々な代謝の基質となる。本研究では、呼吸への単糖供給に関与するスクロース分解酵素として細胞壁インベルターゼと液胞インベルターゼおよび細胞質スクロースシンターゼの活性を測定した。M. cajuputiでは、いずれのスクロース分解酵素も4日間の低酸素処理によって活性が変わらなかった。このことは、低酸素濃度環境下で単糖の生成が維持されていたことを示す。E. camaldulensisでは、4日間の低酸素処理によって細胞壁インベルターゼと細胞質スクロースシンターゼの活性は変わらなかったが、液胞インベルターゼの活性が阻害された。E. camaldulensisでは、この阻害により単糖の生成が低下していたと考えられる。次に、低酸素濃度環境下でエネルギー代謝の第一段階である解糖系経路が制限される可能性を検証した。M. cajuputiでは、4日間の低酸素処理によりヘキソキナーゼ、ピロリン酸依存性ホスホフルクトキナーゼの活性は影響を受けなかったが、ATP依存性ホスホフルクトキナーゼとピルビン酸キナーゼの活性が誘導された。E. camaldulensisではいずれの酵素も低酸素処理の影響を受けなかった。両種とも低酸素濃度環境下で解糖系酵素の活性は阻害されず、M. cajuputiでは、むしろ活性が増大することがわかった。これまでの結果から、低酸素濃度環境下の根のエネルギー代謝は、解糖系経路ではなく、スクロース分解による単糖生成によって制限されていると推測された。この仮説を検証するために、根圏への糖添加実験を行った。4日間の低酸素処理をしたE. camaldulensisの根にグルコースを添加したところ、エネルギー状態が回復したが、スクロースを添加しても回復しなかった。以上の結果から、低酸素濃度環境下ではスクロース分解活性の阻害による単糖生成の低下がエネルギー状態を悪化させることが明らかとなった。M. cajuputiでは、糖を添加しなくても低酸素処理をした根のエネルギー状態が良好だったことから、根圏の低酸素濃度環境下で単糖生成の低下によるエネルギー代謝の抑制は起きていなかったと考えられる。また、解糖系酵素の誘導があったことから、エネルギー代謝において単糖の消費が高まっていたと考えられる。

5章では、2−4章で明らかとなったことを踏まえ、低酸素ストレス下におけるエネルギー代謝への光合成産物供給の各過程に与える影響の相互関係を考察し、根のエネルギー代謝への光合成産物供給が低酸素ストレス耐性に果たす役割について論じた。本研究では、根圏の低酸素濃度環境下で根の液胞インベルターゼ活性を維持することが低酸素ストレス耐性を獲得する上での鍵となることが明らかになった。液胞インベルターゼ活性が阻害されると、エネルギー代謝の基質生成が滞るだけでなく、根でのスクロースの蓄積を介して、葉から根への光合成産物輸送が阻害されることも解った。光合成の低下は、エネルギー状態の悪化した根が引き起こす水分ストレスを介した気孔閉鎖に起因する二次的な阻害であると考えられる。低酸素ストレスによる液胞インベルターゼ活性の阻害がないM. cajuputiは、根圏の低酸素濃度環境下でも充分に生成される単糖を解糖系と発酵系でより多く消費することにより良好なエネルギー状態を保っていると考えられる。そして、根が正常な機能を保つことによって光合成とその産物の根への輸送が維持され、これらが協調的に低酸素ストレス耐性に寄与していると推測した。これらの知見は、湿地造林で問題となり易い初期成長の阻害の軽減を考えるのに有効な情報になると考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、湛水による成長応答の異なる熱帯フトモモ科樹木のMelaleuca cajuputi PowellとEucalyptus camaldulensis Dehnh.を材料として、低酸素ストレスに対する光合成と光合成産物輸送および単糖生成の反応を比較することにより、低酸素ストレスによる障害の発生機構とそれへの耐性を光合成産物の供給過程との関係において明らかにしたものである。

本論文は、次の5章からなる。

1章では、植物の低酸素ストレス耐性の機構について、光合成産物の供給と分解の観点からこれまでの知見を総括し、本研究の位置づけを行っている。

2章では、実験系を確立し、低酸素ストレスが光合成と根のエネルギー状態に与える影響を2種間で比較している。M. cajuputiの根のエネルギー充足率は、24時間の低酸素処理によって影響を受けなかったが、E. camaldulensisの根ではエネルギー充足率が低下した。また低酸素処理により、M. cajuputiの光合成は阻害されなかったが、E. camaldulensisでは気孔閉鎖により光合成速度が低下することを明らかにした。

3章では、13Cで標識した光合成産物の動態の測定と、葉と根の糖分析により、低酸素ストレスによる光合成産物の輸送阻害の現象を見出している。M. cajuputiでは根への光合成産物輸送が低酸素処理によって阻害されず、また根に輸送された光合成産物の配分が構造性多糖類画分で減少し可溶性糖画分で増加した。これらの結果から、M. cajuputiではエネルギー代謝への光合成産物の供給が増加し、低酸素ストレスに適応している可能性を示唆している。これに対しE. camaldulensisでは、低酸素処理により光合成が低下する以前に根への光合成産物輸送が阻害され光合成産物が葉に残留したことから、根への光合成産物の供給量は光合成ではなく光合成産物の輸送により制限を受けていることを明らかにした。またこの時E. camaldulensisの根にはスクロースが蓄積していたことから、スクロース分解の阻害が光合成産物輸送の低下の原因であることを示唆している。

4章では、スクロース分解による単糖生成の過程が低酸素ストレス下でのエネルギー代謝を制限する可能性を検証している。M. cajuputiでは、スクロース分解酵素群の活性が低酸素処理によって低下せず単糖の生成が維持されていた。また解糖系の酵素群の活性も低下せず、ATP依存性ホスホフルクトキナーゼとピルビン酸キナーゼの活性が誘導された。E. camaldulensisでは、低酸素処理によって細胞壁インベルターゼと細胞質スクロースシンターゼの活性は変わらなかったものの、液胞インベルターゼの活性が低下したことから、低酸素ストレスによる液胞インベルターゼ活性の阻害により単糖の生成が低下することを示唆している。E. camaldulensisでは解糖系の酵素群の活性は低酸素処理の影響を受けなかった。これらの結果から、低酸素ストレス下の根のエネルギー代謝は、解糖系ではなくスクロース分解による単糖生成によって制限されていると仮説を提示し、糖添加実験によりその検証を行っている。E. camaldulensisの低酸素処理をした根にグルコースを添加したところエネルギー状態が回復したが、スクロースを添加しても回復しなかったことから、スクロース分解の阻害による単糖生成の低下が低酸素ストレス下でのE. camaldulensisの根のエネルギー状態を悪化させる原因であることを証明した。M. cajuputiでは、糖を添加しなくても低酸素処理をした根のエネルギー状態が良好だったことから、単糖生成の低下によるエネルギー代謝の抑制は起きていないことを示した。

5章では、2〜4章で明らかとなったことを踏まえ、根のエネルギー代謝への光合成産物供給について、低酸素ストレスがその各過程に与える影響とその相互関係を考察し、低酸素ストレス耐性に果たす役割について論じている。

本研究により、根圏の低酸素ストレスによる根の液胞インベルターゼ活性の阻害により、根でのスクロース分解の低下、スクロースの蓄積、根への光合成産物輸送の阻害、光合成の低下が引き起こされることが明らかになった。M. cajuputiは、根圏の低酸素ストレス下でもスクロース分解活性が維持されることにより、低酸素ストレスに対する高い耐性を持つことが解明された。これらの成果は、根の低酸素ストレスが個体の成長生理に及ぼす影響を統一的に説明したものであり、学術上重要な知見を与えるものである。また、湛水により苗木の活着や初期成長が阻害されるような場所、特に荒廃した熱帯湿地の環境造林技術の開発のための基礎となる先駆的な研究である。

よって、審査委委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文としてふさわしいものであると判断した。

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