学位論文要旨



No 121275
著者(漢字) 竹本,太郎
著者(英字)
著者(カナ) タケモト,タロウ
標題(和) 近現代日本における学校林をめぐる共同関係の変容過程
標題(洋)
報告番号 121275
報告番号 甲21275
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2988号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 森林科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 永田,信
 東京大学 教授 白石,則彦
 東京大学 助教授 石橋,整司
 東京大学 助教授 小田切,徳美
 東京大学 助教授 古井戸,宏通
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、近現代日本における学校林をめぐる共同関係の変容過程について、1)マクロな視点が中心となる政策史と、2)ミクロな視点が中心となる事例研究から明らかにし、3)森林利用形態論から学校林の理論的な位置づけを提示すること、を目的とした。

政策史

a)明治期における学校林の設置、b)大正期・昭和戦前期における学校林の変容、c)昭和戦後期・現代における学校林の再編、に時期を区分し、それぞれにおいて詳細な政策史を明らかにした。

a)明治期における学校林の設置

自然村と行政村の二重構造に着目し学校林設置を整理した。1889(明治22)年の市制町村制以前において自然村は学校設置主体であり学校林土地所有者であった。この段階では学校林は自然村有地と未分化だった。明治の町村合併により学校設置主体の中心は行政村に変わり、学校設置主体と学校林土地所有者の乖離が生じると、学校林は翌年の地方学事通則により学校基本財産として設置できるようになる。適当な土地を持たない行政村では容易に設置をみないが、それでも1895(明治28)年に牧野伸顕文部次官による学校樹栽日の導入で設置が奨励されると、学校林は少しずつ増加していく。この時期においても自然村有地を利用した学校林は多くみられるが、不要存置国有林野が小学校基本財産として売り払われはじめると、国から行政村へ所有権を移動した林野に設置される学校林が増加する。このような状況は、日露戦争を記念した設置においてより顕著になる。そして、日露戦後の地方改良事業においては、学区に部落有林野を統一して、学校林が設置されるようになる。これは、自然村の秩序を温存しつつ行政村の財政を強化するという地方改良事業の孕む理論的二面性に対して、自然村と行政村の中間領域にある小学校への部落有林野統一という妥協策が存在したことを実証するものである。本来、明治政府にとって、学校基本財産制度は、自然村の協力を得るための「言い訳」であったはずだが、それを契機とした学校林の設置や維持によって小学校を利用する複数の自然村が小学校中心の「財産共同関係」に再編成されていったといえる。

b)大正期・昭和戦前期における学校林の変容

二重構造下の組織の機能的、生成的特徴から「財産共同関係」の変容を説明した。学校林は、地方改良事業から御大礼記念林業までの時期において、地方行財政の改良手段として設置されたが、大正中期における文部、林野行財政の制度的変化によりその価値が低下し、衰退していく。ところが、同時期に統治下朝鮮半島においては記念植樹や学校林が積極的に実施され、今度はそれを参考にして愛林日が1934(昭和9)年から全国的に展開されるようになる。国家総動員体制下になると、普及した愛林思想を利用した学校林造成が国策として奨励され、皇紀2600年記念や戦争記念として学校林が造成された。この時期における愛林日実施や学校林造成は、国家資源の造成そのものよりも、勤労奉仕を通じて自然村の心理的基盤を国家の心理的基盤へと転化させることに主たる目的があったと思われる。国家はその方法として「愛郷=愛国」の論理を採択し、小学生や青年団、部落会に「愛郷」と「愛国」の心的距離を縮めさせる具体的手段として愛林日や学校林を位置づけた。そして「愛郷」が孕む地域エゴから免れるため、自然村から派生した自生的組織を官製的に再編し、国家のコントロール下の「愛郷」を生み出そうとした。急激な近代化に対する反動として「愛郷」を再評価する空気が蔓延していた農山村ではこのような国家の意図が受け入れられ、「愛郷」の精神が自生的組織から官製的組織へと拡がり、さらには行政村にも影響を及ぼした。

c)昭和戦後期・現代における学校林の再編

戦前期においていずれも天皇制と強く結びついていた愛林日と学校林は、GHQ/SCAP占領下に、林野官僚や関係団体の根回しによって定着する「緑化」イメージのもとで復活する。極端な地方財政危機のなかにあって、「愛国」の箍が外れた「愛郷共同関係」は自生的に紐帯を強化し、46,448haもの植林を実施した第1次学校植林や、新制中学の校舎建築の立役者となった。ところが、1953(昭和28)年に施行された町村合併促進法により、市制町村制で誕生した行政村は新市町村の一部となる。これに伴って学校林の所有権の移動が検討される。一般的にみれば部落有への分解か新市町村有への統一になるが、物理的基盤よりもむしろ心理的基盤を重視する「愛郷共同関係」は地区限定の公共利用という解決策を提示する。その方法が、財産区や生産森林組合、財団法人といった法人格の取得だった。このような制度的な外形が得られたとき「地区民の公共の福祉」としての学校林が残されたといえる。直轄利用形態から派生したこの森林利用形態を公共利用形態と名付けた。しかし、義務教育国庫負担法の復活など、補助金によって中央が新市町村をコントロールするようになると、もはや財産としての学校林を国策として奨励する必要はなくなる。残像としての「緑化」が以降の学校植林運動を牽引するものの、財産としての学校林は基金条例などにフェードアウトしていった。1980年代に入ると里山保全や環境教育の場としての学校林に対する関心が高まり、1990年代後半より2000年代前半にかけて市町村、都道府県、国レベルで「新しい学校林」に関する施策が開始される。飯田市における「学友林整備事業」はその典型例だといえるだろう。

事例研究

明治期から現在まで学校林が維持されていること、学校林を管理する共同関係が現在もあること、関連史料が十分に保存されていることを基準に、a)熊本県南小国町、b)佐賀県脊振村、c)長野県上松町、の3町村を選択した。

南小国町は行政村内の5学区すべてに主に部落ごとの篤志家の寄付により設置された学校林が点在し、自然村と行政村の二重構造のもとで学校林をめぐる「財産共同関係」が形成された。一方、脊振村は行政村の範域が狭いために学校基本財産よりも先に村基本財産が造成され、それに反駁した自然村が村基本財産から学校林をめぐる「財産共同関係」を分離させた。当然のことながら、村落二重構造と小学校区との関係は地域によって異なるが、そのバランスの如何によってその後の学校林の存続が決定されることになる。南小国は絶妙なバランスが現在まで維持されてきたといえるが、脊振村は自然村と行政村、小学校区が重なったことにより時間の経過とともに行政村の基本財産に吸収されていった。昭和戦前期における「愛郷共同関係」の形成については昭和10年代の上松町荻原における青年団による学校林作業を除くと3つの事例からはほとんど知ることができなかったが、政策史でみたように個別的−官製的共同関係へ学校林作業が拡大され、最終的には二重構造を超越した心理的な基盤が「愛郷=愛国」の論理によって地域社会に蔓延していったと考えられる。戦後になると国土復興に伴って学校植林運動が新制中学校の校舎建築と並行して全国的な盛り上がりをみせる。この運動は戦前に形成された「愛郷共同関係」の国土復興への動員とみなされるが、上松町における町有部分林、国有部分林からは財産としての学校林設置が戦後にも展開したことを知ることができた。3町村の事例はともに戦後の町村合併を免れているため、脊振村のように範域が重なることはあっても、合併を経験した地域に比べれば村落二重構造と小学校区のバランスが保たれ、財産としての学校林が存続しやすかったといえるだろう。それは一方で学校が廃校になれば上松町荻原のごとく学校林も消滅せざるをえないということでもある。現在、脊振村においては「遊々の森」制度により「新しい学校林」が設置されているが、村有林とともに大正期より維持されてきた学校林は昭和後期の中学校校舎建築への貢献を最後に消滅しており、両者の不連続性が指摘される。一方、南小国町や上松町においてもそれまでの利用が「新しい学校林」の利用へ移行しはじめているが、この場合には連続性がある。環境教育の要請や木材価格の低迷を理由に「新しい学校林」の設置や移行に施策を打つばかりではなく、本来、明治期に設置された学校林ならば南小国町のように80-100年生に育ち、伐採から十分な収益をあげられることを事実として受け止める必要もあるだろう。

理論的位置づけの提示

川島武宜らによれば「共同体」が総有する森林の利用形態は、「共同体」内における団体と構成員の矛盾統一が徐々に崩れることにより共同利用形態から直轄利用形態と分割利用形態へ転化するとされている。学校林をめぐる共同関係をみてくると当初は森林を直轄利用形態として小学校に提供する「財産共同関係」とみなされるが、戦時中や戦後の「愛郷共同関係」による精神的基盤の強化を経て、「地区民の公共の福祉」を目的に森林を公共利用形態として固定化する「公共体」へ変容していったと考えられる。その固定化の方法が財産区や財団法人といった法人格の取得であった。すなわち、学校林をめぐる共同関係が「公共体」への変容を遂げ公共利用形態を出現させたことは、「地区民の公共の福祉」の実現のために権利を取得し、行使する能力が地域社会に備わっていることを実証するものである。これを近代自由主義の軌道修正、すなわち第三の近代化として位置づけたい。国や地方公共団体に管理を移譲する第一の近代化でも、権利の私的な獲得を目的とする第二の近代化でもなく、権利の設定を是とするものの権利を手段とみなして「地区民の公共の福祉」の実現をめざす第三の近代化は、近代の産み落とした自由と公共の二律背反を克服した事例として高く評価されるべきであろう。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、近現代日本における学校林をめぐる共同関係の変容過程について、政策史と事例の研究から明らかにしたものである。

政策史(第1編)は、明治期における学校林の設置(第1部)、大正期・昭和戦前期における学校林の変容(第2部)、昭和戦後期・現代における学校林の再編(第3部)、に区分される。第1部では、自然村と行政村の二重構造に着目して学校林設置が整理される。明治の町村合併により学校設置主体の中心が自然村から行政村に変わると、学校林は学校基本財産として設置できるようになる。その後、牧野伸顕文部次官による学校樹栽日の導入で設置が奨励され、不要存置国有林野の小学校基本財産への売り払いや、日露戦争記念の設置などにより、学校林設置は増加した。日露戦後の地方改良事業においては、自然村の秩序を温存しつつ行政村の財政を強化するものとして、学校林設置は自然村と行政村の中間領域にある小学校への部落有林野統一という妥協策としての意義を持った。明治政府にとって学校基本財産制度は自然村の協力を得るための「言い訳」であったはずだが、それを契機とした学校林の設置や維持によって小学校を利用する複数の自然村が小学校中心の「財産共同関係」に再編成されたと結論付けた。第2部では、二重構造下の組織の機能的、生成的特徴からその「財産共同関係」の変容が説明される。学校林は、地方改良事業から御大礼記念林業までの時期において、地方行財政の改良手段として設置されたが、大正中期における教育費の国庫負担の充実によりその価値が低下し、衰退する。その後、1934(昭和9)年から全国的に展開した愛林日や、国家総動員法制定以降の皇紀2600年記念や戦争記念により学校林造成が増加する。小学生や青年団、部落会に勤労奉仕を通じて「愛郷=愛国」の論理を浸透させ、自然村の心理的基盤を国家へと転化させるものであった。急激な近代化に対する反動として「愛郷」を再評価する空気が蔓延していた農山村ではこのような政府の意図が受け入れられ、「愛郷」の精神が自生的組織から官製的組織へと拡がったと結論付けた。第3部では、戦前に天皇制と強く結びついて萌芽した「愛郷共同関係」が、戦後の「緑化」イメージのもとで実施された第1次学校植林を通じて自生的に紐帯を強化したことがまず指摘される。次に、昭和の町村合併に伴って学校林の所有権が移動する際に、一般的には部落有への分解か新市町村有への統一になるが、物理的基盤よりも心理的基盤を重視する「愛郷共同関係」は地区限定の公共利用という解決策を提示したことが指摘される。そして、財産区や生産森林組合、財団法人という制度的な外形を得た学校林のような森林利用形態は直轄利用形態から派生した公共利用形態である、と結論付けた。

事例研究(第2編)では、3町村における学校林の史的展開を明らかにした。村落二重構造と小学校区との関係は地域によって異なるが、そのバランスの如何によってその後の学校林の存続が決定されることになる。南小国(第1部)は絶妙なバランスが現在まで維持されてきたが、脊振村(第2部)は自然村と行政村、小学校区が重なったことにより時間の経過とともに行政村の基本財産に吸収されていった。戦後の学校植林運動は戦前に形成された「愛郷共同関係」の国土復興への動員とみなされるが、上松町(第3部)における町有部分林、国有部分林からは財産としての学校林設置が戦後にも展開したことが読み取れた。3町村の事例はともに戦後の町村合併を免れているため、村落二重構造と小学校区のバランスが保たれ、財産としての学校林が存続しやすかったといえる。

政策史と事例研究を踏まえて、学校林をめぐる共同関係は、当初は森林を直轄利用形態として小学校に提供する「財産共同関係」であったが、戦時中や戦後の「愛郷共同関係」による精神的基盤の強化を経て、「地区民の公共の福祉」を目的に森林を公共利用形態として固定化する「公共体」へ変容したと結論付けた。この変容は、国や地方公共団体に管理を移譲する第一の近代化でも、権利の私的な獲得を目的とする第二の近代化でもない、権利を手段とみなして「地区民の公共の福祉」の実現をめざす第三の近代化であると位置づけ、近代の産み落とした自由と公共の二律背反を克服する事例であると考察した。

以上を要するに本論文は、これまでほとんど等閑視されていた学校林を、林政学において最も蓄積がある入会林野や公有林野の研究対象に引き上げ、その意義を明らかにしたにとどまらず、小学校区コミュニティの形成過程論として、林政学分野を越えた村落社会学や経済史学においても十分に評価しうるものであり、応用上の貢献も少なくない。さらに法社会学における森林利用形態論では盲点となっていた学校林のような利用形態を公共利用形態として新たに位置づけたことは学術上の大きな貢献である。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として十分な価値を有するものと判定した。

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