学位論文要旨



No 121280
著者(漢字) 渡邊,国広
著者(英字)
著者(カナ) ワタナベ,クニヒロ
標題(和) 日本産アカウミガメの遺伝子流動と回遊生態に関する研究
標題(洋)
報告番号 121280
報告番号 甲21280
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2993号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 水圏生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 塚本,勝巳
 東京大学 教授 青木,一郎
 東京大学 教授 宮崎,信之
 東京大学 教授 西田,睦
 東京大学 助教授 佐藤,克文
内容要旨 要旨を表示する

1990年代、日本各地でアカウミガメ(Caretta caretta)の産卵が激減した。このため本種は絶滅危惧種に指定され、現在早急な保全対策が求められている。ウミガメ類では成熟雌の産卵行動や孵化幼体の降海行動など、産卵が行われる浜(以下、産卵浜)における生態の知見は多い。しかし、海洋における移動・分散・回遊に関する知見は乏しいため、身近な産卵浜での保全対策のみが先行して来た。特に孵化幼体の放流事業は実施例が多いにも関わらず、産卵浜を離れた後の行動や初期分散過程さえよくわかっておらず、その効果は疑問視されている。成体の摂餌場と産卵浜の間でおこなわれる産卵回遊に関しても、標識再捕やテレメトリー調査など個体レベルの研究は実施されてきたが、保全に不可欠な集団レベルの理解が欠けている。特に近年では遺伝学的視座から希少生物の保全・管理を行うことが重要視されるようになり、移動・回遊に伴う産卵浜間の遺伝子流動の把握が急務となってきた。

そこで本研究では日本産アカウミガメを対象に、まず(1)水槽実験と野外追跡調査から孵化幼体の初期分散過程を明らかにした。次に、(2)核DNAマイクロサテライトとmtDNA調節領域を用いて、同一産卵浜内で異なる摂餌域利用を示す産卵個体群間に遺伝的分化が生じているか否かを検討した。さらに、(3)日本産アカウミガメの産卵場全体を代表する5つの産卵浜を選び、それぞれに上陸する産卵個体群間の遺伝的差異を明らかにした。最後にこれらを総合して、(4)日本産アカウミガメにおける集団構造と遺伝子流動の実態を明らかにし、産卵回遊時の母浜回帰性の有無について考察した。

初期分散

Lohmann(1991)が提示した孵化幼体の地磁気定位仮説を検証するため、蒲生田(徳島県)において孵化脱出直後のアカウミガメ12個体(平均直甲長±標準偏差: 40.5±0.9 mm)を用いて水槽実験を実施した。まず、当地においては脱出後の孵化幼体が産卵浜から海へ向かって方位80°の針路をとる必要があるので、この方位へLEDを用いて条件付けした。これらの個体を視覚が全く効かない暗条件に置き、方位選択実験を行ったところ、あらかじめ条件付けされた方位付近に遊泳針路が集中することが明らかになった(平均選択方位 ± 95%信頼区間 115± 50°、r = 0.51、N=12、P < 0.05、Rayleigh test)。これによりLohmann(1991)の仮説が日本産アカウミガメでも確認された。

次に野外において孵化幼体の分散過程を明らかにするため、電波発信機と発光体を曳航させた計14個体の孵化幼体を蒲生田から放流し、1〜17時間追跡した。その結果、放流直後は全個体が東方向へ移動したが、うち11個体は次第に南東方向へ針路を変え、残りの3個体は東方向への針路を維持した。追跡と同時にGPSブイによる流況観測を実施した7個体中にも、針路を変更する個体と変更しない個体が見られたが、いずれの場合もブイと挙動が一致していた。これより、孵化幼体の移動は表層流と同じ方向に流された結果であると考えられた。特に産卵浜の南東にある蒲生田岬を抜けた後の南西方向への急速な移動(最大52.0 cm/s)は黒潮分枝流に乗ったためであることがGPSブイの軌跡からわかった。これらのことから、水槽実験で示された孵化脱出直後の地磁気による東向きの定位は、分散のごく初期の段階にのみ働き、その後外海に面した流れの強い海域では主に海流の影響を受けて分散していくものと考えられた。

産卵浜内の集団分化

日本産アカウミガメでは同一産卵浜で産卵する個体の中に、摂餌場として外洋域を利用する個体と沿岸域を利用する個体の存在が知られている。こうした生活史多型によって交尾時期・場所に違いが生じ、両者の間で遺伝子流動の抑制と分集団化が起こっている可能性が考えられる。そこで、既にこの生活史多型が報告されている屋久島(鹿児島県)と南部(和歌山県)に上陸・産卵する個体群について、分集団の存在の可能性を検討した。屋久島の産卵個体を、それぞれが産んだ卵の炭素と窒素の安定同位体比をもとに外洋グループと沿岸グループに分け、マイクロサテライト5領域(Cc7、Cc117、Cc141、Cm84、Ei8)を解析した。1999年に産卵した48個体(平均直甲長±標準偏差: 849 ± 44 mm, 範囲741-915 mm)のうちδ15Nとδ13Cがそれぞれ12‰と-18‰より低い値を示す8個体(平均826mm)を外洋グループに、これ以外の40個体(平均854mm)を沿岸グループに分類した。体サイズは外洋グループが若干小さかったが、両者に有意差はなかった(P > 0.05, Mann-Whitney test)。遺伝子解析の結果、両者のマイクロサテライトのどの領域についても遺伝子型出現頻度に差は認められなかった(P = 0.39-0.94、 G test)。またmtDNAの調節領域において認められた2つのハプロタイプの出現頻度に差はなく(Haplotype B:C = 7:1)、外洋と沿岸の両グループ間に遺伝的差異は認められなかった。さらに遺伝子型をもとにした分集団数推定(STRUCTURE2.0)でも、屋久島48個体内に明確な分集団の存在は認められなかった。南部についても、115個体(直甲長840±43mm, 755-952mm)のマイクロサテライト5領域を解析して分集団数推定をおこなったが、複数集団に分割できる可能性はほぼ0%と算出され、分集団は存在しないことが明らかになった。これにより地理的な集団構造を考える際に少なくとも各産卵浜を地域集団の最小単位として扱っても良いことが確認された。

産卵浜間の集団構造

日本におけるアカウミガメの総産卵回数の約半数近くが行われる南部、宮崎(宮崎県)、屋久島、吹上浜(鹿児島県)の4産卵浜に蒲生田を加えた計5産卵浜を対象に集団解析を行った。解析に先立ち、産卵個体数の少ない蒲生田においてもなるべく多くのサンプル数を確保するために、孵化幼体の血液あるいは産卵巣に残った死亡卵からDNAを抽出し、母親を判別する手法を開発した。2002年から2004年に蒲生田で産卵した7成熟雌に対応する7クラッチの産卵巣中の死亡卵47個と孵化幼体134個体(計181個体)からDNAを採取し、母親のマイクロサテライト3領域(Cc117、Cc141、Cm84)の遺伝子型推定を試みた。その結果、解析した7クラッチ21領域中の16領域で遺伝子型を推定でき、その全てが正しい母親の遺伝子型を含むことがわかった。これより本法は母親の判別に使用可能なことが明らかになった。

そこでこの手法を用いて2002年から2004年に蒲生田で採取した母親不明の28クラッチ482個体の死亡卵・孵化幼体を解析したところ、未知の母親13個体を特定できた。このうちの10個体に対応する孵化幼体のmtDNA調節領域約640bpの塩基配列を決定した。同時に、上陸した産卵個体から直接肉片を採取できた10個体についても、同様にmtDNAの塩基配列を決定した。これらに南部(n=102)、宮崎(46)、屋久島(89)、吹上浜(22)の既知のデータ計259個体分を加えて新たに集団解析を行ったところ、5つの産卵浜全体で強い遺伝的分化が示された(Fst = 0.093、P < 0.001)。2つの産卵浜間の比較では、5産卵浜内の組み合わせ計10組中5組においてハプロタイプ頻度に有意差が認められた。有意差のある組み合わせのうち最も産卵浜間の距離が小さかった屋久島-宮崎間(P < 0.05)の距離約180kmは、千葉から八重山諸島まで約2000kmにもわたる本種の産卵場分布と比較して非常に小さく、遺伝子流動の著しい抑制が示唆された。このような抑制は、幼期にカリフォルニア沿岸まで渡洋回遊する日本産アカウミガメの大きな回遊・分散能力や、アユやマダイのように本種とほぼ同様な地理分布範囲をもつ他分類群の遺伝的均一性を考慮すると、ウミガメの分散能力の不足や物理的な障壁がその原因となっているのではなく、むしろ成熟雌が産卵回遊において示す母浜回帰性によるものと考えられた。

同様に、雄による遺伝子流動の実態を明らかにするため、雄の遺伝的関与を反映する核DNAを解析した。南部(n=115)、蒲生田(10)、宮崎(46)、屋久島(91)、吹上浜(21)の5つの産卵浜から得た計283個体についてマイクロサテライト5領域を用いて集団解析した結果、5産卵浜全体の遺伝的分化(Fst = 0.002)はmtDNAによる解析値(Fst = 0.093)よりも大幅に低かったことから、雄が関与することで産卵浜間の遺伝子流動が促進されているものと考えられた。2003年に蒲生田で行われた父性解析の結果(酒井 2005)も、成熟雄が別の産卵浜で産卵した複数の雌と交尾することを示唆しており、本研究の結果を裏付ける。

一旦産卵のために上陸した砂浜を変更することが困難な雌のウミガメにとって、繁殖成功の実績のある母浜へ回帰することは未知の産卵浜を使うリスクや好適な産卵浜探索のコストを軽減させる大きな利点がある。しかしその一方で、母浜回帰性は産卵浜間の遺伝的な交流を分断する欠点もある。雄による産卵浜間の遺伝子流動は遺伝的に脆弱な小集団に個体群が分断化されるのを抑制する機構として日本産アカウミガメの繁殖生態の進化過程で備わったものと考えられた。

本研究の結果、アカウミガメの初期分散過程における地磁気定位能力と表層流の役割が初めて明らかになった。これは放流後の孵化幼体の生残や加入成功を考えるための重要な基礎知見となることが期待される。また、成体では遺伝子流動に性差があり、雄によって産卵浜間が遺伝的に連結されている証拠を日本産アカウミガメで初めて示すことができた。これらの知見は本種の個体群動態を考える上で重要なものであり、今後本種の保全対策の立案において新しい指針を提示するものと考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は、近年産卵回数の減少が報告され、絶滅危惧種にも指定されている日本産アカウミガメの集団構造と遺伝子流動を分子生物学的手法により明らかにし、繁殖期の回遊生態について理解を進めることを目的とした。さらに、水槽実験とトラッキングを併せて実施することで、これまで不明であった孵化幼体の初期分散過程を明らかにすることもねらいとした。論文は7章からなり、第1章の緒言に続いて、第2章から第7章では以下の結果を得た。

第2章では、徳島県蒲生田海岸において2002〜2004年の3年間に実施した102日間の産卵調査と122日間の孵化調査の結果をとりまとめた。産卵雌の上陸は34回確認され、このうち産卵に至ったのは19回であった。そのうち17回の産卵は10個体によるものであり、蒲生田の産卵個体群が過去の調査時に比べて大幅に減少していることが明らかとなった。また、同じ繁殖シーズン内に約20km西方の日和佐大浜に上陸した個体の産卵が蒲生田で確認され、産卵浜を変更する個体がわずかながら存在することも確認された。

第3章では本種の初期分散過程を水槽実験と野外追跡により検討した。まず、孵化脱出直後のアカウミガメ12個体を用いた方位選択実験により、暗条件下ではあらかじめ条件付けされた方位(80°)付近に遊泳針路が集中することが示された。これにより、地磁気定位仮説が日本産アカウミガメでも成立することが示唆された。次に電波発信機もしくは発光体を曳航させた計14個体の孵化幼体を蒲生田から放流し、1〜17時間追跡した。その結果、水槽実験で示された東方への遊泳は産卵浜周辺でのみ発揮され、その後外海に面した流れの強い海域では、主に海流の影響を受けて分散していくことが明らかとなった。

第4章では孵化幼体や死亡卵を集団解析に用いるために、マイクロサテライトマーカーを用いた新たな母性解析法を考案した。母親既知の産卵巣7クラッチを解析して有効性を検討したところ、従来の手法では14領域中6領域で母親の遺伝子型の誤推定が生じたのに対して、本手法では16領域を誤りなく推定でき、大幅な推定精度の向上が確認できた。次に母親未知の産卵数28クラッチを本手法で解析したところ、未知の母親13個体が検出され、集団解析で用いる標本数を増やすことができた。

第5章では同一産卵浜内で確認されている生活史多型の遺伝的変異を明らかにするために、南部(和歌山県)と屋久島(鹿児島県)で採取された産卵雌のマイクロサテライト5領域を解析した。屋久島の産卵雌では、それぞれが産んだ卵の炭素と窒素の安定同位体比をもとに分類された外洋グループ8個体と沿岸グループ40個体の間に遺伝的差異が検出されなかった。また、南部もその内部に分集団を持たないことが、ベイズ法を用いた分集団数推定法により示された。これらの結果より、日本産アカウミガメに見られる生活史多型は遺伝的基盤を持たないことが明らかとなり、集団解析では各産卵浜を最小の解析単位として扱えるものと考えられた。

第6章では南部、蒲生田、宮崎、屋久島、吹上浜(鹿児島県)の計5産卵浜を対象に集団解析を行った。蒲生田の産卵雌20個体についてmtDNA調節領域約640bpの塩基配列を決定し、南部、宮崎、屋久島、吹上浜の既知のデータを加えた計259個体分で集団解析したところ、5産卵浜内の組み合わせ計10組中5組においてハプロタイプ頻度に有意差が認められ、本種が母浜回帰性を持つことが示唆された。また、5産卵浜から採取した計283個体のマイクロサテライト5領域を解析したところ、産卵浜間の遺伝的分化程度(Fst=0.0025)はmtDNAによる値(Fst=0.0934)よりも大幅に低く、雄が関与することで産卵浜間の遺伝子流動が促進されているものと考えられた。

第7章では、これまでに得られた結果から、日本産アカウミガメの遺伝子流動と回遊生態について考察した。本個体群は雄が遺伝子流動を行うことで遺伝的に緩やかに連結されたメタ個体群を形成していることが示唆された。雌の母浜回帰性は約100km離れた産卵浜どうしを遺伝的に分化させる効果をもつが、雄による遺伝子流動は、雌による遺伝的分断化を抑制する機構として働いているものと推測された。産卵浜に縛られるウミガメ類の宿命的な産卵行動を補償するこの雄の繁殖生態は種の遺伝的多様性を保つシステムとして長い進化過程で備わったものと考えられた。

以上、本研究はこれまで不明であった日本産アカウミガメの集団構造をmtDNAと核DNAの双方から明らかにしたものである。さらに孵化幼体の初期分散過程を明らかにし、繁殖期と初期分散期の回遊生態について大きく理解を進めたものである。本研究で明らかにした集団構造や回遊生態は、本種の保全管理において、これまでと違った新しい指針を提示するものと考えられた。よって審査委員一同は、本論文が学術上、応用上寄与するところが少なくないと判断し、博士(農学)の学位論文としてふさわしいものと認めた。

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