学位論文要旨



No 121281
著者(漢字) 鬼塚,年弘
著者(英字)
著者(カナ) オニツカ,トシヒロ
標題(和) 相模湾長井におけるトコブシの繁殖生態と初期生態に関する研究
標題(洋)
報告番号 121281
報告番号 甲21281
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2994号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 水圏生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 河村,知彦
 東京大学 教授 日野,明徳
 東京大学 教授 黒倉,寿
 東京大学 教授 渡邊,良朗
 東京大学 助教授 山川,卓
内容要旨 要旨を表示する

小型のアワビ類であるトコブシHaliotis diversicolorは、関東以南の太平洋岸や九州沿岸を中心に古くから重要な漁業資源となっている。種苗放流事業も各地で行われているが、天然における生態に関する研究例は少なく、特に生活史初期の成長や生残に関する知見はほとんどない。

本研究では、再生産に係わるトコブシ天然個体群の繁殖生態と初期生態の解明を目的とした。調査を実施した相模湾長井沿岸にはトコブシのほか3種の大型アワビ類(クロアワビ、マダカアワビ、メガイアワビ)が生息しているが、これらの初期稚貝(殻長≦2.5 mm)や稚貝(2.5 mm<殻長≦35.0 mm)の判別は困難とされていた。そこでこれら4種について呼水孔の形成・閉鎖過程を詳細に比較し、トコブシの初期稚貝・稚貝を他の3種と判別する方法を確立した。長井沿岸において採集したトコブシ成貝の生殖腺指数、肥満度の変化を調べ、卵巣の組織学的観察を行うとともに、着底直後の初期稚貝の出現状況を調査し、産卵・放精が行われた日を推定した。推定された産卵・放精日前後の海況の変化(海面気圧、波高階級、月齢、潮汐、海水温)を詳細に分析することで、産卵・放精を誘発した要因を考察した。発生した各コホートの密度の変化および成長過程を追跡し、調査点における水温、流速、堆積物量などの環境と比較することにより、浮遊幼生の着底・変態および変態後の初期稚貝と稚貝の成長、生残に影響を及ぼす要因を抽出した。また、成長に伴う歯舌の形態変化を調べ、既に生活史を通じた食性がわかっているエゾアワビの歯舌形態の変化と比較することにより、トコブシの生活史初期における食性の推定を試みた。生活史初期の主な餌料と考えられる付着珪藻について、トコブシ初期稚貝に対する珪藻の種による餌料価値の相違について検討し、歯舌形態の変化とあわせて初期稚貝期における詳細な食性の変化を解析した。

トコブシ稚貝の判別手法

人工生産されたトコブシと大型アワビ類3種の初期稚貝および稚貝について、殻長の増加に伴う呼水孔総数(呼水孔とその閉鎖痕の合計数)の変化を調べた。その結果、トコブシと他の3種では、殻長1.5 mm以降同一殻長時の呼水孔総数が明確に異なることがわかった。2001年4月に長井沿岸で採集したアワビ類稚貝41個体(殻長7.5〜46.0 mm)について、呼水孔総数と殻長の関係に基づき、トコブシと他の3種の判別を試みた。同一の標本について、モノクローナル抗体を用いた手法により種判別を行い、その結果と呼水孔総数による判別結果を照合したところ、全ての個体について結果が完全に一致した。このことから、呼水孔総数による判別結果は信頼性が高いものと考え、以下の調査ではこの手法を用いてトコブシ初期稚貝・稚貝を判別した。

成貝の成熟と産卵・放精誘発要因

2001〜2004年に2〜4週間に1回の頻度で長井地先で漁獲されたトコブシ成貝雌雄を購入し、生殖腺重量指数(GSI)、生殖腺成熟度指数(GI)および肥満度の変化を調べた。2002年と2003年に採集された成貝雌の卵巣については組織学的な観察を行った。また、長井沿岸の2ヶ所の調査点(Stn. 1および2)において、同期間の産卵期を中心に1〜2週間に1回の頻度で、浮遊幼生の好適着底基質と考えられる無節サンゴモに覆われた人頭大の転石を採取し、サンゴモ上に付着した着底直後のトコブシ初期稚貝を採集して実際に産卵・放精が行われた日を推定した。

2001年12月〜2002年3月には、成貝のGSI、GIは低い値で推移し、卵巣は未熟な成熟段階にあった。4月以降にはGSI、GIともに急激に増加し始め、肥満度が低下したことから、大部分の個体が成熟を開始したものと考えられた。6月には、卵黄蓄積の進んだ卵黄球後期の卵巣(卵黄球後期の卵母細胞が優占している卵巣)を持つ個体が優占し、ほぼ全ての個体が産卵可能な状態にあったと考えられた。GSI、GIは6月以降も上昇し続け、9月に最高値を記録し、10月上旬の台風通過後に急激に減少した。台風の通過前にはほぼ全ての個体が卵黄球後期の卵巣を有していたが、台風通過直後には未熟な卵母細胞を持つ個体しか認められなかった。台風通過に伴い大部分の個体が成熟した卵母細胞群を体外に放出したと考えられる。2003、2004年も成貝のGSI、GIは夏季に最高値に達し、台風の通過後に急激に減少した。2003年の台風通過直後は未熟な卵母細胞を持つ個体が優占していたが、約1ヶ月後にはほとんどの個体が卵黄球後期の成熟した卵巣を持っていたため、成熟した卵母細胞群が放出された後1ヶ月程度で次の卵母細胞群が産卵可能な成熟段階に達するものと推察される。

着底初期稚貝(着底後数日以内と考えられる殻長500 ・m以下の初期稚貝)が採集されたのは2001年8月下旬と9月中旬、2002年10月上旬、2003年8月中旬、2004年9月上旬の5回のみであり、いずれも台風の通過直後であった。前述したように、台風通過後には成貝雌雄のGSI、GIが急激に減少しており、台風の通過時に産卵・放精が行われたと考えられる。着底初期稚貝が採集された日前後の月齢、潮汐に一定の傾向は認められず、顕著な水温変化も観察されなかった。これらの結果から、トコブシの産卵・放精は台風の通過もしくはそれにより生じた大規模な時化によって誘発されたと考えられる。

浮遊幼生の着底・変態と初期稚貝および稚貝の成長、生残

2001〜2004年に、Stn. 1と2においてトコブシ着底初期稚貝、初期稚貝、稚貝を継続的に採集し、発生したコホート毎に着底密度、生残率、成長速度を求めた。また、2004〜2005年の夏季に、両調査点において砂泥の流入・堆積量、流速、転石の移動距離と転石表面の磨耗の程度を継続的に測定した。

いずれの年にも、転石上の堆積砂泥量が多かったStn. 2では堆積砂泥量が少なかったStn. 1に比べて幼生の着底密度が低かった。そこで砂泥に代わる2種類の物質(カオリンとアサリ貝殻パウダー)を用いた室内実験を行い、これらの堆積量が浮遊幼生の着底・変態に与える影響を検討した。浮遊幼生は堆積物のない無節サンゴモ上に高率で着底・変態したが、堆積物が存在する場合にはその量が多いほど着底・変態率が有意に低下した。また、その影響は貝殻パウダーよりも粘性の高いカオリンで大きかった。着底基質となるサンゴモ上に堆積する砂泥の量や質は浮遊幼生の着底・変態に大きな影響を及ぼすことが明らかになった。

着底後の初期稚貝の生残率は、最大流速の大きかったStn. 1でStn. 2よりも低かった。Stn. 1では転石の移動距離がStn. 2に比べて長く、転石表面が激しく磨耗していたことから、初期稚貝が流れにより剥離されたり、転石の横転により死亡する割合が高かったものと考えられる。 

着底後1ヶ月間の平均成長速度には、産卵期前半に着底したコホートほど速い傾向が認められた。各コホートが経験した水温履歴を比較した結果、高い水温を経験したコホートほど成長速度が速かったことがわかり、着底後の成長速度は主に水温により規定されたと考えられる。

2001年8〜9月に長井沿岸で発生したコホートは、発生から1年後には殻長17〜32 mmに、2年後には30〜55 mmに達した。また、このコホートの大部分の個体が受精から23ヶ月経った2003年7月には高いGIを示し、雌個体の多くが卵黄球後期の卵巣を持っていた。長井沿岸では、トコブシは発生から約2年後に再生産に加入すると推察される。

初期稚貝期における食性変化

人工生産されたトコブシ初期稚貝、稚貝および天然から採集した成貝から摂餌器官である歯舌を摘出し、走査型電子顕微鏡を用いて形態の観察を行った。その結果をエゾアワビの歯舌の形態変化と比較することにより、トコブシの成長に伴う食性変化を推定した。エゾアワビでは、着底直後〜殻長1 mmに大きく湾曲した歯舌歯を有することから珪藻などが分泌する粘液物質を主な餌料としているとされ、歯が起立してくる殻長1 mm前後から基質に強固に付着した珪藻を剥ぎ取って摂食できるようになると考えられている。トコブシでも着底直後の初期稚貝は湾曲した歯を持ち、殻長500 ・mから3 mmにかけてそれが徐々に起立する傾向が見られた。しかし、歯の湾曲の程度はエゾアワビに比べれば小さく、歯の角度から判断すると殻長500 ・mでも基質に強固に付着した珪藻を剥ぎ取って摂食できると考えられた。また、殻長1.5 mm前後で外側の側歯が大型化し先端が鋭くなることから、この頃から大型海藻の幼芽を切り取って摂食できるようになると考えられる。

殻長500〜1200 ・mのトコブシ初期稚貝にエゾアワビ初期稚貝に対する餌料価値の異なる4種の付着珪藻を与えて成長速度を比較し、歯舌の形態変化から推定した食性を検証した。その結果、殻長800 ・m未満では与えた珪藻種による成長速度の違いは認められなかったが、それよりも大きい初期稚貝では珪藻種間で成長速度が有意に異なった。殻長約1 mmの初期稚貝について上記4種の珪藻の摂食による細胞殻分解率を調べた結果、トコブシ初期稚貝はエゾアワビと同様に、摂食した珪藻細胞を消化管内では破壊できず、摂食の際に細胞殻を破壊できた珪藻の細胞内容物のみを栄養源として利用できると考えられた。殻長800 ・m以上のトコブシ初期稚貝が良好に成長するためには、珪藻の細胞内容物を摂取する必要があると推察される。付着力の強い珪藻は、初期稚貝が基質から剥ぎ取ることさえできれば、その際に殻が壊れやすく、餌料価値が高いと考えられる。歯舌の形態変化からは殻長500 ・m前後で付着力の強い珪藻を剥離できると考えられたが、実際にそれらを摂食し始めたのは殻長800 ・m前後であった。この食性の変化には、歯舌の形態変化だけではなく歯舌歯の強度の変化など他の要因も関係していると考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

小型のアワビ類であるトコブシHaliotis diversicolorは、日本各地で古くから重要な漁業資源となっており、種苗放流も行われているが、天然における生態に関する研究例は少なく、特に生活史初期の成長や生残に関する知見はほとんどない。本研究では、相模湾長井沿岸におけるトコブシ天然個体群の繁殖生態と初期生態の解明を目的とした。

第1章では、トコブシを含むアワビ類の生態に関するこれまでの知見を整理し、本研究の目的を明示した。長井沿岸にはトコブシのほか3種の大型アワビ類(クロアワビ、マダカアワビ、メガイアワビ)が生息しているが、これらの初期稚貝や稚貝の判別は困難とされていた。そこで第2章では、これら4種について呼水孔の形成・閉鎖過程を詳細に比較した。その結果、トコブシと他の3種では、同一殻長時の呼水孔総数(呼水孔とその閉鎖痕の合計数)が明確に異なることが明らかとなり、トコブシ初期稚貝・稚貝を他種と区別することが可能となった。

第3章では、2001〜2004年に長井沿岸において採集したトコブシ成貝の生殖腺指数と肥満度の変化を調べ、卵巣の組織学的観察を行うとともに、着底直後の初期稚貝の出現状況を調査し、産卵・放精が行われた日を推定した。その結果、長井沿岸のトコブシ成貝は4月頃に成熟を開始し、6〜10月に産卵が可能となることが明らかになった。産卵により成熟した卵母細胞群が放出された後、1ヶ月程度で次の卵母細胞群が産卵可能な成熟段階に達すると考えられた。生殖腺指数はいずれの年においても台風通過後に急激に減少した。台風通過に伴い大部分の個体が成熟した卵母細胞群を体外に放出したと考えられる。2001〜2004年に着底後数日以内の初期稚貝が採集されたのは5回のみであり、いずれも台風の通過直後であった。着底初期稚貝が採集された日前後の月齢、潮汐に一定の傾向は認められず、顕著な水温変化も観察されなかった。トコブシの産卵・放精は台風の通過もしくはそれにより生じた大規模な時化によって誘発されたと考えられる。

第4章では、長井の2調査点(Stn. 1と2)における2001〜2004年に発生した各コホートの密度の変化および成長過程を追跡し、水温、流速、堆積物量などの環境と比較することにより、浮遊幼生の着底・変態および変態後の初期稚貝と稚貝の成長、生残に影響を及ぼす要因を抽出した。いずれの年にも、転石上の堆積砂泥量が多かったStn. 2で砂泥量が少なかったStn. 1より幼生の着底密度が低かった。砂泥に代わる2種類の物質(カオリンとアサリ貝殻パウダー)を用いた室内実験を行った結果、浮遊幼生は堆積物のない無節サンゴモ上に高率で着底・変態したが、堆積物が存在する場合にはその量が多いほど着底・変態率が有意に低下した。また、その影響は貝殻パウダーよりも粘性の高いカオリンで大きかった。着底基質となるサンゴモ上に堆積する砂泥の量や質は浮遊幼生の着底・変態に大きな影響を及ぼすと考えられる。着底後の初期稚貝の生残率は、最大流速の大きかったStn. 1でStn. 2よりも低かった。Stn. 1では転石の移動距離がStn. 2に比べて長く、転石表面が激しく磨耗していたことから、初期稚貝が流れにより転石から剥離し、転石の横転等により死亡する割合が高かったものと考えられる。着底後1ヶ月間の初期稚貝の成長過程を調べた結果、産卵期前半に着底したコホートほど平均成長速度が高く、初期稚貝の成長速度は主に水温により規定されたと考えられる。また、長井沿岸では、トコブシは発生から約2年後に再生産に加入すると推察された。

第5章では、成長に伴う歯舌の形態変化を調べ、既に生活史を通じた食性がわかっているエゾアワビの歯舌形態の変化と比較した。また、初期稚貝期の主餌料と考えられる付着珪藻について、トコブシ初期稚貝に対する珪藻の種による餌料価値の相違について検討し、歯舌形態の変化とあわせて初期稚貝期における詳細な食性の変化を解析した。その結果、トコブシ初期稚貝の食性はエゾアワビとほぼ同様であり、殻長約0.8 mmと1.5 mmに食性が大きく変化することが明らかとなった。

第6章の総合考察では、第2章から第5章までの結果をあわせて長井におけるトコブシの新規加入量の変動要因を考察した。1歳貝の新規加入量は、主に成貝の分布密度(資源量)と台風の通過時期によって決まると推察された。

以上、本研究は、4年間にわたる継続した野外調査と室内実験により、相模湾におけるトコブシの繁殖生態と初期生態を解明し、産卵・放精が台風の通過時に起こり、台風の通過時期がその年の稚貝発生量を決定する重要な要因になっていることを明らかにした。本研究の結果は、資源生物として重要なトコブシの生態を明らかにし、その資源管理に必要な情報を提供するばかりでなく、アワビ類の資源変動機構の解明につながる先駆的な重要な知見である。よって審査委員一同は本論文が学位(農学)に値するものと判断した。

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