学位論文要旨



No 121283
著者(漢字) 金子,元
著者(英字)
著者(カナ) カネコ,ゲン
標題(和) シオミズツボワムシ Brachionus plicatilis 個体数変動の分子機構に関する研究
標題(洋)
報告番号 121283
報告番号 甲21283
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2996号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 水圏生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 渡部,終五
 東京大学 教授 阿部,宏喜
 東京大学 教授 塚本,勝巳
 長崎大学 教授 萩原,篤志
 東京大学 助教授 落合,芳博
内容要旨 要旨を表示する

自然界においては生物の個体数はときに数百倍の規模で変動するが、その機構解明は生態学における重要なテーマの一つである。しかしながら、自然条件下では複雑な環境要因がからむため個体群変動を解析することは従来の手法では困難で、モデル生物を用いた実験室レベルでの新たな手法の導入が期待されている。シオミズツボワムシBrachionus plicatilis(以下、ワムシと略記)は、水産養殖魚の初期餌料として重要なだけではなく、単為生殖による増殖や短い世代交代時間など個体数変動に関する研究のモデルとして多くの利点をもつ。今までの知見により、ワムシでは給餌量の低下が寿命延長および産仔数の減少をもたらし、個体数変動に影響を及ぼすことが示唆されているが、その分子機構は不明である。

本研究はこのような背景の下、ワムシ個体数変動の分子機構の一端を明らかにすることを目的とし、まず指数増殖期および定常期の個体群につき、寿命延長に関与すると思われるストレス耐性や、ストレスタンパク質および抗酸化酵素の発現様式を比較した。次に、上述した諸反応に及ぼす成熟段階、カロリー制限、およびインスリン様シグナル伝達経路の阻害剤の影響を調べた。得られた研究成果の概要は以下の通りである。

バッチ培養における個体数変動および遺伝子発現様式

12穴プレート中、1 mLに供試した10個体のワムシを、25℃で毎日7 x 106細胞/mLのクロレラを懸濁した新鮮な培地に移して培養したところ、シグモイド型の増殖曲線を示した。未成熟個体の割合は、培養開始後3日目(指数増殖期)および13日目(定常期)でそれぞれ約50および20%であった。次に、これらの個体群に50℃、5分間の熱処理(実測温度41.5℃)を加え、30分後の生残率を比較した。その結果、指数増殖期および定常期の生存率はそれぞれ47および91%で、定常期の熱ストレス耐性は明らかに高かった。

次に、ワムシからストレスタンパク質の熱ショックタンパク質(HSP)60、HSP70、HSP90、およびglucose regulated protein 94(GRP94)と、抗酸化酵素のマンガン型スーパーオキシドジスムターゼ(Mn SOD)およびカタラーゼをクローニングした。これら遺伝子につき、上記の熱処理の前(対照区)および30分後(50℃処理区)の発現様式を調べた。対照区では、指数増殖期のHSP70、GRP94、Mn SODおよびカタラーゼのmRNA蓄積量はそれぞれ定常期の3.7、2.5、0.3および0.4倍であった。HSP60およびHSP90のmRNA蓄積量は両増殖段階でほぼ同じであった。一方、50℃処理区では全てのストレスタンパク質のmRNA蓄積量が定常期で高く、指数増殖期のそれの1.4 - 4.3倍であった。Mn SODおよびカタラーゼのmRNA蓄積量も定常期で高く、指数増殖期の1.6および4.5倍であった。定常期では一定量の餌条件の下、増大した個体数から考えてワムシはカロリー制限状態にあると考えられる。また、個体群における成熟個体の割合は先述のように指数増殖期よりも定常期で高い。これらの指数増殖期および定常期のワムシ個体群の違いが熱ストレス耐性および遺伝子発現に影響したことが考えられた。

ストレス耐性に及ぼす成熟段階の影響

25℃で培養した指数増殖期の個体群における成熟および未成熟個体で、50℃、5分間の熱処理から30分後の生存率を調べたところ、それぞれ90および56%であった。また、0.4 mM過酸化水素を含む培地に移してからの成熟個体の生存時間は未成熟個体のそれの約2倍で、成熟個体のストレス耐性は明らかに高かった。

次に、50℃、5分間の熱処理の前(対照区)および30分後(50℃処理区)の成熟および未成熟個体につき、前節で記載したタンパク質のmRNA蓄積量を比較した。対照区では、HSP70およびGRP94のmRNA蓄積量は未成熟個体で成熟個体の約1.5倍と高かった。HSP60、HSP90、Mn SODおよびカタラーゼのmRNA蓄積量は両者でほぼ同じであった。一方、50℃処理区では全ての遺伝子でmRNA発現誘導がみられ、その蓄積量は成熟個体および未成熟個体でほぼ同じであった。

次に、対照区および50℃処理区におけるHSP60およびHSP70量を市販の特異抗体を用いてウエスタンブロットで調べた。対照区では、未成熟個体のHSP60およびHSP70量は成熟個体のそれぞれ約8倍および3分の1であった。前述のように未成熟個体のHSP70のmRNA蓄積量は成熟個体より高かったことから、両個体群のHSP70量の違いは翻訳効率の相違に基づくことが示唆された。50℃処理区では、いずれのタンパク質量とも成熟個体で未成熟個体の約10倍であった。

ストレス耐性に及ぼすカロリー制限およびインスリン様シグナル伝達経路の影響

25℃で個別培養を行い、1日に3時間のみ給餌したワムシ(カロリー制限区)および常に餌を供給して培養したワムシ(連続給餌区)につき、寿命、産仔数およびストレス耐性を調べた。カロリー制限区の寿命および産仔数は連続給餌区のそれぞれ約2倍および3分の1であった。次に、50℃、5分間の熱処理を加えてから30分後の生存率は、例えば2日齢のカロリー制限区および連続給餌区のワムシでそれぞれ96および49%であった。また、2日齢で0.4 mM過酸化水素を含む培地に移してからのカロリー制限区のワムシの生存時間は連続給餌区のそれの1.3倍で、ストレス耐性は前者で高かった。

そこで、2、4、6および8日齢のワムシにつき、上述のタンパク質のmRNA蓄積量を2試験区で比較した。HSP70、Mn SODおよびカタラーゼのmRNA蓄積量は、ほぼ全ての日齢においてカロリー制限区のワムシで高く、連続給餌区との差は統計的に有意であった。一方、HSP60およびGRP94のmRNA蓄積量は両試験区でほぼ同じであった。

次に、2日齢のカロリー制限区および連続給餌区のワムシを用いて、50℃、5分間の熱処理の前(対照区)および30分後(50℃処理区)における上述したタンパク質のmRNA蓄積量を調べた。まず、対照区では、カロリー制限区のHSP70、Mn SODおよびカタラーゼ遺伝子のmRNA蓄積量は連続給餌区のそれぞれ2.3、1.7 および2.8倍であった。HSP60、GRP94およびHSP90のmRNA蓄積量は両試験区でほぼ同じであった。次に、50℃処理区では、カロリー制限区および連続給餌区とも全ての遺伝子が顕著に発現誘導されたが、カロリー制限区のHSP70およびカタラーゼmRNA蓄積量は連続給餌区のそれぞれ3.3および2.5倍であった。逆に、連続給餌区のHSP90 mRNA蓄積量はカロリー制限区の2.1倍であった。HSP60、GRP94およびMn SODのmRNA蓄積量は両試験区でほぼ同じであった。

さらに、対照区および50℃処理区におけるHSP60およびHSP70量をそれぞれの特異抗体を用いて調べた。まず対照区では、カロリー制限区のHSP60およびHSP70量は連続給餌区のそれぞれ約2倍および約8分の1であった。次に、50℃処理区では、カロリー制限区のHSP60およびHSP70量はいずれも連続給餌区の約2倍であった。以上の結果から、50℃処理区のストレスタンパク質および抗酸化酵素のmRNA蓄積量および発現タンパク質量は、HSP90のmRNA蓄積量以外は全てカロリー制限区で高いか、もしくは両試験区で同程度であることが示され、ストレス耐性との関連が示唆された。

インスリン様シグナル伝達経路の制御因子の一つであるホスファチジルイノシトール3リン酸(PI3)キナーゼは、カロリー制限下では活性が抑制され、下流に存在する抗酸化酵素の転写を促進することが知られている。また、HSP70およびHSP90の発現も本経路の間接的な制御を受けていると考えられている。そこで、PI3キナーゼの阻害剤LY294002が寿命、産仔数および酸化ストレス耐性に及ぼす影響を調べたところ、1 nMで寿命が1.3倍になったが、産仔数は変化しなかった。また、この濃度で阻害剤を投与したワムシは、0.4 mM過酸化水素を含む培地に移した後の生存時間が1.1倍とわずかであるが有意に延長した。したがって、ワムシにもインスリン様シグナル伝達経路が存在し、寿命およびストレス耐性を制御している可能性が示された。

連続培養における個体数変動の解析

連続培養装置を用いて4 x 107細胞/mLの餌を毎日給餌した連続給餌区と、7 x 106細胞/mLを一日おきに給餌したカロリー制限区の個体数変動を、それぞれ25および42日間にわたって調べた。その結果、連続給餌区では250 - 800個体/mLで急激な増大および減少を示したのに対し、カロリー制限区では全培養期間を通じて300 - 600個体/mLと個体密度の変化は小さかった。また、携卵数と個体数から一日あたりの死亡率を算出したところ、連続給餌区では0.5以上増大する場合が4回みられ、全培養期間を通じた平均値は0.20であった。一方、カロリー制限区における死亡率は最大でも0.3と低く、平均値は0.03であった。

以上、本研究により、成熟段階およびカロリー制限がワムシ個体群のストレス耐性に影響を及ぼすことが示された。さらに、ストレスタンパク質、抗酸化酵素およびインスリン様シグナル伝達経路がストレス耐性に関与していることが示された。このように、本研究はワムシにつき、個体数変動の分子機構の一端をストレス耐性の点から明らかにしたもので、比較分子生物学および個体群生態学に資するところが大きいと考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

自然界においては生物の個体数はときに数百倍の規模で変動するが、その機構解明は生態学における重要なテーマの一つである。シオミズツボワムシBrachionus plicatilis(以下、ワムシと略記)は、水産養殖魚の初期餌料として重要なだけではなく、単為生殖による増殖や短い世代交代時間など個体数変動に関する研究のモデルとして多くの利点をもつ。これまでの知見により、給餌量の低下が寿命延長および産仔数の減少をもたらし、個体数変動に影響を及ぼすことが示唆されているが、その分子機構は不明である。そこで本研究では、ワムシ個体数変動の分子機構を明らかにすることを目的とした。

培養開始後3日目(指数増殖期)および13日目(定常期)の個体群に50°C、5分間の熱処理(実測温度41.5°C)を加えたところ、30分後の生存率はそれぞれ47および91%で、後者の熱ストレス耐性は明らかに高かった。そこで、熱ショックタンパク質(HSP)60、HSP70、HSP90およびglucose regulated protein 94(GRP94)と、抗酸化酵素のマンガン型スーパーオキシドジスムターゼ(Mn SOD)およびカタラーゼのmRNA蓄積量を上記の熱処理の前(対照区)および30分後(50°C処理区)で調べた。対照区では、指数増殖期のHSP70、GRP94、Mn SODおよびカタラーゼのmRNA蓄積量はそれぞれ定常期の3.7、2.5、0.3および0.4倍であった。HSP60およびHSP90のmRNA蓄積量は両増殖段階でほぼ同じであった。一方、50°C処理区では全ての遺伝子のmRNA蓄積量が定常期で高く、指数増殖期のそれの1.4 - 4.5倍であった。定常期では一定量の餌条件の下、増大した個体数から考えてワムシはカロリー制限状態にあると考えられる。また、個体群における成熟個体の割合は指数増殖期よりも定常期で高い。これらの違いが熱ストレス耐性および遺伝子発現に影響したことが考えられた。

そこで、50°C、5分間の熱処理から30分後の成熟および未成熟個体の生存率を調べたところ、それぞれ90および56%で、前者のストレス耐性が高いことが示された。しかしながら、熱処理の前(対照区)および30分後(50°C処理区)における成熟および未成熟個体の上記遺伝子群のmRNA蓄積量はほぼ同じであった。一方、成熟個体のHSP60およびHSP70タンパク質量は、対照区では未成熟個体のそれぞれ約8分の1および3倍であったが、50°C処理区ではいずれのタンパク質量とも未成熟個体の約10倍高く、ストレス耐性との相関がみられた。

次に、1日に3時間のみ給餌したワムシ(カロリー制限区)および常に餌を供給して培養したワムシ(連続給餌区)に50°C、5分間の熱処理を加え、30分後の生存率を調べた。例えば2日齢のワムシでは、生存率はそれぞれ96および49%で、カロリー制限によるストレス耐性の増大が観察された。また、2、4、6および8日齢のワムシのHSP70、Mn SODおよびカタラーゼのmRNA蓄積量は、ほぼ全ての日齢においてカロリー制限区のワムシで有意に高かった。HSP60およびGRP94のmRNA蓄積量は両試験区でほぼ同じであった。

2日齢の連続給餌区およびカロリー制限区のワムシに上記の熱処理を加え、30分後の上記遺伝子のmRNA蓄積量を調べたところ、HSP90のmRNA蓄積量以外は全てカロリー制限区で高いか、もしくは両試験区で同程度であった。また、熱処理後のカロリー制限区におけるHSP60およびHSP70量はいずれも連続給餌区のそれの約2倍と、ストレス耐性との関連が示唆された。さらに、インスリン様シグナル伝達経路の制御因子の一つであるホスファチジルイノシトール3リン酸(PI3)キナーゼの阻害剤による寿命の延長および酸化ストレス耐性の増大がみられ、これらに対する本経路の関与が示唆された。

次に、連続培養装置を用いて4 x 107細胞/mLの餌を毎日給餌した連続給餌区と、7 x 106細胞/mLを1日おきに給餌したカロリー制限区の個体数変動を、それぞれ25および42日間にわたって調べた。その結果、連続給餌区では250 - 800個体/mLで急激な増大および減少を示したのに対し、カロリー制限区では全培養期間を通じて300 - 600個体/mLと個体密度の変化は小さかった。また、携卵数と個体数から推定した1日あたりの死亡率の平均値は、連続給餌区およびカロリー制限区でそれぞれ0.20および0.03と、カロリー制限はワムシ個体群を安定化させることが示された。以上、本研究はワムシ個体数変動の分子機構の一端をストレス耐性の点から明らかにしたもので、学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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