学位論文要旨



No 121288
著者(漢字) 水田,貴信
著者(英字)
著者(カナ) ミズタ,タカノブ
標題(和) ナメクジウオの生殖と脊椎動物型性ステロイドに関する研究
標題(洋)
報告番号 121288
報告番号 甲21288
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3001号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 水圏生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 窪川,かおる
 東京大学 教授 會田,勝美
 東京大学 教授 渡邊,良朗
 東京大学 教授 西田,睦
 広島大学 教授 安井,金也
内容要旨 要旨を表示する

ナメクジウオ(Branchiostoma belcheri)は脊索動物門頭索動物亜門に属し、無脊椎動物から脊椎動物への進化の過程を研究する上で、大変に重要な動物である。例えば、無脊椎動物から脊椎動物への進化の過程において2度の全ゲノム重複が起こったとされるが、これはナメクジウオの形態形成に関与する遺伝子群の解析から明らかになったことである。そして、脊椎動物の形態形成に関与する転写調節遺伝子と相同なナメクジウオの遺伝子が次々と得られ、研究されてきた。それらの遺伝子の発現パターンは、ナメクジウオの発生過程で脊椎動物のものと比較され、その相同性または相違性が次々と明らかになった。このように、脊椎動物への進化の背景にある、形態形成過程の制御の理解が飛躍的に進んできた。しかしながら、それらの遺伝学的研究の知見の蓄積に比べて、ナメクジウオの行動・生理現象を制御する生体内調節機構に関する研究報告は非常に少ない。

日本近海に生息するナメクジウオは6月下旬から8月を年1回の繁殖期とし、集団で1繁殖期に数回の産卵をおこなっていることは知られていたが、1個体の産卵回数と繁殖期中での再成熟の有無、そして野外での産卵行動に関する知見は欠如していた。また、配偶子形成や成熟の制御にかかわる内分泌要因に関しても未知であり、繁殖行動とホルモンとの関係の解析もなされていない。わずかに、ナメクジウオの生殖腺に性ステロイドが含まれるという不確実な研究と、脊椎動物の生殖を制御するホルモンの投与がナメクジウオの生殖腺でのステロイド合成を促進したという報告がある程度であった。私は脊椎動物型性ステロイドに着目し、ナメクジウオの生殖腺でも性ステロイドが合成され、そこから分泌されているという可能性の検証を試みた。これが認められれば、脊椎動物以外の動物群に性ステロイド系が機能している証明となり、ナメクジウオの系統進化学的位置付けを生体機能の面からも確認するものである。

はじめに、序論では1世紀以上の歴史があるナメクジウオの研究史を簡単に辿り、本研究を始めるに至った経緯とその価値を説明する(第一章)。実施した研究は、次のようである。まず生息地での繁殖生態調査と飼育下での産卵行動の観察と解析を行った(第二章)。次に、集団としての配偶子成熟の同調性の制御要因や生殖行動の開始要因として考えられる、脊椎動物型性ステロイドに注目し、生殖腺中での存在を検証した(第三章)。次に、生殖腺中から存在が確認された性ステロイドの生合成経路で重要な役割をするステロイド代謝酵素の遺伝子の探索、単離および発現解析をおこなった(第四章)。さらに、卵巣中での諸種のステロイド代謝産物の同定とステロイド代謝酵素の活性を測定し、性ステロイド合成が確実に行われているかを検証した(第五章)。最後に、本研究で得られた結果を総合し、ナメクジウオの生殖腺における生殖内分泌機構と、無脊椎動物から脊椎動物への生殖内分泌機構の進化について考察した(第六章)。

第二章 ナメクジウオの繁殖生態および飼育下での産卵様式

ナメクジウオを繁殖期に渥美半島沖で採集調査し、その分布、生殖腺の成熟度を調べた。小個体群がパッチ状に分布し、同一パッチ内で個体の成熟度に差があることがわかった。採集した個体を飼育し、夜間の暗視野撮影をすることにより、水槽内での産卵行動を観察した。産卵は必ずオスの放精から始まり、雌雄は別々に砂中から泳ぎ上がって産卵するが、最初の放精から2時間までに集中して産卵が行われる時間帯が不規則に現れた。5年間の飼育下での産卵の観察では、約2ヶ月間にわたる繁殖期内に1〜11日間の産卵期間が数回見られた。こうした繁殖期内または産卵日内での同調的な産卵を行うためには、各小集団内での配偶子形成と成熟、そして最終成熟が同調的であることが必要である。そこで、内分泌的要因としての可能性がある性ステロイドの有無と機能を検証することにした。

第三章 ナメクジウオ卵巣中の性ステロイドの同定

卵巣および精巣抽出物に対し、多くの脊椎動物の生殖腺で合成分泌されるプロゲステロン(P4)、テストステロン(T)、エストラジオール-17・(E2)の有無を、放射免疫測定法(RIA)を利用した定性的解析法で明らかにした。卵巣あるいは精巣の抽出物と標準曲線との平行性から、試料中のP4の存在が示された。また、繁殖期でのP4濃度は非繁殖期より有意に高く、繁殖期にP4合成を含む性ステロイド合成系が活発化していることが示唆された。E2は存在するものの、RIAの測定系では夾雑物が混入しているか、E2に似た他種のエストロゲンが存在している可能性がみられた。Tは検出されなかった。

さらに、HPLCおよびGC/MSを用いた解析では、プレグネノロン(P5)とE2が検出された。P5は脊椎動物のステロイド合成経路での最初の代謝物である。これらP5、P4、E2の存在は卵巣でのステロイド合成経路の存在を強く支持するものである。

第四章 ナメクジウオの性ステロイド代謝酵素の探索、単離、発現解析

ナメクジウオ卵巣から脊椎動物の性ステロイド代謝酵素であるCYP11A、CYP17、17・-HSD8のホモログをクローニングした。リアルタイムPCRで、産卵前と放卵中における卵巣中の各酵素遺伝子の発現量を定量したところ、CYP17 、17・-HSD8の発現量が放卵中に有意に増加したことから、性ステロイドが産卵に関与し、かつそのステロイドはTやE2以外である可能性が強く示唆された。

遺伝子を得ていない3・-HSD、CYP19は、魚類の3・-HSD、CYP19に対する抗体で探索を行った。3・-HSDは免疫組織化学では濾胞上皮層に陽性シグナルが得られ、ウェスタンブロッティングでは、既知の脊椎動物のホモログの分子量である45kDaのタンパク質に陽性のシグナルを得た。CYP19はこれらの検出法のいずれでも陰性であった。

第五章 ナメクジウオ卵巣での性ステロイド合成能

卵巣中の性ステロイド代謝物を調べ、代謝経路を明らかにするために、14C標識のP5、P4、17・-ヒドロキシプロゲステロン (17・-P4 )、アンドロステンジオン(AD)、Tを基質として代謝実験を行った。その結果、ナメクジウオの卵巣には、第四章では存在が確認できなかったCYP19活性を含む、脊椎動物型性ステロイドの代謝経路が存在することを明らかとした。特に、17・, 20・-DHPの合成から新たに20・-HSDの存在が明らかにされ、ある種の魚類では最終成熟誘起ステロイドとして知られるように、17・, 20・-DHPがナメクジウオでも、作用は未知であるが重要な働きをする可能性が示唆された。

ナメクジウオの研究は、発生過程の遺伝子調節機構の研究とフィールドでの生態学的研究の両極においておもに進められてきた。私は、これらをもとにした上で遺伝子と生理現象を結ぶ研究、すなわち、生体の生理機能を遺伝子の存在と発現とで説明することが、ナメクジウオに関する研究の次の段階であるべきであると考えてきた。

本研究の結果を総合すると次のようになる。本研究では、飼育条件下の観察からナメクジウオの繁殖集団が1年の繁殖シーズン中に2〜3回のまとまった産卵をすると推定したが、これは生態調査からの推定と一致する。さらに、生息地の個体群にはさまざまな成熟度の個体が含まれ、1個体は1回だけ産卵する。産卵行動は同調せずにペアを組まないが、ある時間帯に集中的に産卵をする。こうした繁殖生態、産卵様式をもつナメクジウオでは、集団内での配偶子形成とその成熟、さらに放卵前の配偶子の最終成熟の同調が、産卵準備として必須である。すなわち、体外と体内の両方の産卵開始の誘発要因の存在が示唆される。この体内要因の有力候補である脊椎動物型性ステロイドの合成分泌系の立証が本研究の成果である。すでに性ステロイドそのものの存在の可能性はわずかに報告されていたものの、本研究では新たに代謝実験から同定した性ステロイドを含めて、脊椎動物型性ステロイドの存在を確認した。また、これらの性ステロイドの合成に必須な代謝酵素の遺伝子を得、または間接的にその存在を明らかとし、卵巣における脊椎動物型性ステロイド代謝経路のマップをほぼ完成させた。さらには放卵中の代謝酵素の遺伝子発現量の増加から、配偶子の最終成熟に性ステロイド合成分泌系が関与するという可能性を支持する結果を得た。

本研究は分類上で貴重な位置にあるナメクジウオを研究対象とすることから、進化、系統、内分泌、産卵行動における研究上の意義は大きい。かつては比較形態学的研究、最近では遺伝子解析による分子発生学的研究から、ナメクジウオ(頭索動物)が脊索素動物にもっとも近い無脊椎動物であるとされてきた。本研究はナメクジウオにおける脊椎動物型性ステロイドの合成分泌系の研究を行い、その存在を確定し、さらにそれが生理機能に関与する可能性を示した。すなわち、生理機能的現象からもナメクジウオが脊椎動物に非常に近い無脊椎動物であることが明らかにされた。遺伝子の解析による系統学的研究と、形態による分類学的研究が、動物によっては必ずしも一致しない場合がある。生理機能と系統との関係という動物群の比較における新しい面から、このナメクジウオに関しては、生理機能の面でも現在の系統説が正しいことを示したといえる。

審査要旨 要旨を表示する

脊椎動物は脊索動物門の一亜門であり、その脊索動物門の祖先は化石記録から5億3千万年前のカンブリア紀に出現したと考えられる。その祖先化石に外見が似る脊索動物門頭索動物亜門ナメクジウオは終生脊索を持ち、無脊椎動物から脊椎動物への進化の過程を残す原生動物として大変に重要な動物である。近年のゲノム研究では、無脊椎動物およびナメクジウオの形態形成遺伝子群に重複がなく、脊椎動物になって2度の全ゲノム重複が起こったことが明らかとなり、その重要性は増している。それらの遺伝学的研究の知見の蓄積に比べ、ナメクジウオの生体調節機構に関する研究報告はまれであり、その生命現象の進化と適応とをナメクジウオをもってして論じることは難しかった。さらに日本では絶滅の危機にあるとされ、その採集と飼育は絶望的でさえあった。本論文はこうした背景のもとに、日本のナメクジウオの生息地の調査と飼育を確立させ、さらには水槽内での自然産卵に成功した。次には産卵現象の解明を手掛け、脊椎動物固有の生殖を制御する性ステロイド代謝系がナメクジウオ生殖腺に存在することを発見し、その代謝経路と性ステロイドの同定をほぼ完成させた。これらからナメクジウオの生殖機構への新たな展開と進化学的考察を進めたものである。

本論文は5章から構成されている。第1章は序論である。ナメクジウオの進化上の重要性をよく理解し、ナメクジウオの研究史を辿りながら、本研究を始めるに至った経緯を述べている。

第2章では、まず渥美半島沖の生息地での繁殖生態調査で、生殖腺発達度のヘテロな小集団からなるパッチ状分布であることを示している。次に飼育下での産卵行動を初めてビデオ撮影し、その解析から雌雄の一斉産卵の実態を明らかにしている。

第3章では、生殖内分泌要因の一つである脊椎動物型性ステロイドに注目している。卵巣および精巣抽出物を用いた放射免疫測定法(RIA)、卵巣のHPLC精製物のガスクロマトグラフ/質量分析法(GC/MS)を行い、精巣と卵巣でエストラジオール17β(E2)とプロゲステロン(P4)が、卵巣ではさらにプレグネノロン(P5)が存在することを明らかにしている。

第4章では、生殖腺でその存在が確認された性ステロイドの生合成経路に必須な性ステロイド代謝酵素の遺伝子の探索、単離および発現解析を卵巣でおこなっている。性ステロイド代謝酵素であるCYP11A、CYP17、17β-HSD8の遺伝子をクローニングし、特にCYPの2種の酵素は脊椎動物以外では初の存在である。さらにCYP17 と17β-HSD8の遺伝子発現量が放卵中に増加することから、放卵への性ステロイドの関与が示唆される。他の動物由来の抗3β-HSD抗体を使った免疫組織化学では、卵細胞周囲の濾胞上皮層にステロイド代謝活性が得られている。本章では性ステロイド合成の重要な部分を明らかにしたと論じている。

第5章では、実際に卵巣中の性ステロイド代謝産物を調べるために、14C標識の性ステロイド基質を使い、代謝経路のほぼ全体を明らかにしている。その中で、魚類では放卵・放精を促す17α、20β-DHPの存在が示されている。ここではナメクジウオの性ステロイドの役割にまで考察している。

第6章では、以上の研究結果を総括している。性ステロイドに関する成果は、人工催熟、人工産卵への利用が期待され、さらなる実験系の確立が可能となると述べている。そして最後に2006年春に公開されるゲノム配列を他の動物と比較解析することにより、さらなる生体調節現象の解明がなされると締めくくっている。

以上のように本論文は、これまでほとんど行われてこなかったナメクジウオの生殖現象を、克明な生殖活動の記録と綿密な実験計画により新しい事実を明らかにした点で価値が認められる。 さらに、遺伝子、酵素、性ステロイドという主たる生体物質の情報を最新の分子生物学的方法および確立された従前の方法の両者を的確に使用して体系的に研究を進めている。またこれまでフィールドの研究のみであったナメクジウオの生殖行動について、飼育実験から克明に生殖活動を記録して、これまで知られていなかったいくつかの事実を明らかにした点でも価値が認められる。これらの成果は生理機能、ホルモン、遺伝子のつながりをナメクジウオの生殖機構で初めて明示したものであり、すなわち現段階では生理機能的にもナメクジウオが脊椎動物に近い系統を示唆する結果となっている。このように遺伝子の解析による系統学的研究と形態による分類学的研究に加えて、生理機能と系統との関係という新しい局面で脊椎動物への進化を研究した点は、これからの繁殖研究、生体機能研究、進化研究、さらには生命科学全般の発展に大きく貢献するものと評価される。したがって、審査委員一同は博士(農学)の学位を授与できるものと認める。

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