学位論文要旨



No 121291
著者(漢字) 有本,寛
著者(英字)
著者(カナ) アリモト,ユタカ
標題(和) 発展途上期日本の地主小作関係と村落 : 開発ミクロ経済学的アプローチ
標題(洋)
報告番号 121291
報告番号 甲21291
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3004号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 農業・資源経済学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 本間,正義
 東京大学 教授 岩本,純明
 東京大学 教授 泉田,洋一
 東京大学 助教授 齋藤,勝宏
 一橋大学 教授 黒崎,卓
内容要旨 要旨を表示する

現代の発展途上国では,「教育,仕事,食料,保健医療,飲料水,住居,エネルギーなど最も基本的な物・サービスを手に入れられない状態」という貧困の問題が依然として残っている.しかし,このような発展途上国が直面する貧困・開発問題は,何も現代に特有なものではなく,先進国もかつて発展途上であった時期に同様の問題を抱えていた.例えば現代のタイの農民が天候に気を揉むように,日本もかつて東北地方を中心に幾度の飢饉に見舞われ,ダッカで見られるような残飯屋が大正時代の東京でも陸軍宿舎を商品の調達源として繁盛していた.日本のような先進国はかつてどのようにしてこれらの問題を解決し,経済発展を成し遂げてきたのだろうか.その経験を現代の発展途上国の貧困削減と経済発展に活かすことができないだろうか.

本研究の目的は,日本がかつてどのような貧困・開発問題に直面し,それにどう対処し,なぜ経済発展を成し遂げることができたのか,その歴史的パターンのミクロ的な特徴を「取引統治」と「取引の制度化」という観点から見いだすことである.そのために,本研究は,歴史的な文脈に留意しつつ,日本の経済発展・開発の経験をミクロ経済学的に分析する.具体的な対象としては,発展途上期日本の,特に農村における制度である.戦前期(昭和初期)の地主小作関係と小作契約,および近世江戸時代の村請制と呼ばれる徴税制度と農村金融制度を取り上げる.本研究の具体的な課題は,第1に,地主小作関係と近世の村請制や信用取引を取り巻く制度がどのような経済的な特徴を持ち,それが取引統治の問題や,貧困・開発問題に対してどのような影響を与えたのかを明らかにすることである.そして,それぞれのトピックと制度のなかから共通点を見いだし,特に取引を統治し制度化する母体となった共同体の役割に注目しながら,日本の経済発展のミクロ的なパターンや特徴を抽出する.これが第2の課題である.最後に,第3の課題は,そのパターンに基づいて,現代の発展途上国に応用可能な教訓を見つけ出すことである.

本研究の独創性は,発展途上期の日本の制度を開発ミクロ経済学的な問題関心と枠組みで分析したことである.この分析を通して,日本の経験を開発経済学の分野で共有可能にし,また経済発展における村落の役割と,その形成過程に関する新たな視点を提示したことが貢献である.

第1章では,本研究の特徴である「日本」,「歴史」,「ミクロ分析」という3つの側面から,開発経済学における研究蓄積を選択的にレビューする.そして,日本の経済発展を対象とした開発ミクロ経済学分析は,開発経済学上の真空地帯となっていることを示す.

第2章では,戦前期日本の地主小作関係について,日本に特徴的な減免契約という小作契約の経済的な特徴を理論的に明らかにする.農村の地主小作関係における小作契約は,形態によって小作人に与えるインセンティブが異なり,農業生産上の効率性に影響を与える.さらに,収穫物を地主と小作人間でどのように分配するかは,リスク分散や消費の効率性にも影響を及ぼす.地主小作関係と小作契約は,以上のような農業生産の効率性と,生産物の分配と消費の効率性に関わる制度であり,発展途上経済の特に農村において重要な意味を持つ.

世界各地で通常見られる小作契約の原型は,定額小作か刈分小作であるが,戦前期日本では両者の折衷型と言うべき,不作時の小作料を減免する慣行が付いた定額契約(減免契約)が主であった.この章では,当時の地主小作関係や小作契約,減免の実態などについて概観した後,契約理論の枠組みに基づいて減免契約をリスク分散とインセンティブの付与というトレード・オフの観点から分析する.そして,減免契約が農業生産上のリスクやそれへの対処がさほど問題とならないような状況において,定額や刈分契約よりも効率的であることを示す.したがって,日本の地主小作関係は,定額や刈分を採用した各国の関係よりも,生産上も分配上も効率性が高かったと言えるのである.では,なぜ日本以外では効率的な減免契約が一般的には見られなかったのだろうか.

第3章では,減免契約を履行するときにかかる取引費用に注目しながらこの問題を考察し,戦前期岩手県における刈分小作の分布の決定要因を,リスクと取引費用の観点から定量的に検証する.減免は,地主と小作人の利害が明確に対立するため,減免の発動条件が明確に定められ,契約が法的な根拠を持たない場合は,減免履行の是非や率を巡る煩雑な交渉を要し,取引費用が高くなる可能性があった.このため,この取引費用の大きさによっては,減免契約を採用するよりは,定額や刈分小作の方が望ましくなる.日本の場合は,小作料減免を村落の集団的な地主小作関係のなかに内包するかたちで制度化したことが,取引費用の高騰を抑制し,減免契約の普及を後押ししたひとつの要因であったことを論じる.そして,全国でも刈分小作が多かった岩手県において,それが特にやませによる冷害の影響を受けて収量変動が大きい地域に集中しており,リスクに対する耐性が契約選択の主要な決定要因であったことを実証する.以上の分析は,日本では村落が減免にかかる取引費用を下げ,農業生産上の効率性を高めていたことを示唆する.つまり,ある社会がどの程度効率的な経済活動を実現できるかは,村落などの社会的な背景に大きく依存することを示している.では,なぜ日本では,村落がこのような役割を果たす一方で,現代の発展途上国の一部ではそれができないのだろうか.

第4章では,日本の村落の歴史的なルーツと経緯に目を向け,近世江戸時代の課徴税制度である村請制を経済学的に理解し,それが日本の農村社会と経済発展にどのような影響を与えた可能性があるかを議論する.村請制は,年貢が個別家計ではなく村に課せられ,その皆済に村が連帯責任を負うという特徴を持っていた.村請制の検討は,連帯責任とチーム生産に関する統治問題を浮き彫りにする.この章の第1の論点は,村請制の連帯責任は,年貢の徴収率などを高めるという利点を持つ一方で,農民間でモラル・ハザードや履行強制の問題を招き,常に破綻の危険性を帯びているということである.第2の論点は,村によって関与・管理された質地を介した年貢立替・融通の制度が,この問題を軽減したということである.また,質地金融が所得変動のリスクを分散し,消費を平準化する保険としての役割を持っていたことも議論する.そして,第3の論点は,村請制の連帯責任が,年貢負担の融通と村落の維持という2つの大きな課題とインセンティブを村落に与えることで,村落独自の制度を誘発し,それを維持する統治体制を形成させ,村落社会全体の構造を規定する契機となったのではないかということである.言い換えれば,村請制は村落が農村における取引を自ら統治し,取引の効率性を高めるという,日本のミクロ的な経済発展パターンを形成する最初の発端となったことを主張する.この論点は,村落や共同体などの民間組織が取引を統治するという認識を踏まえたうえで,それがどのように組織され,統治を果たすようになるのかに関する歴史的な過程とメカニズムを説明する試論としての位置づけにある

以上の概要のように,本研究は戦前期の地主小作関係と小作契約を入り口に,日本の経済発展パターンのミクロ的な特徴を,歴史的な視点から分析する運びとなっている.本研究の事例を踏まえ,経済発展という大きな視点から見た場合に浮かび上がる日本の特徴は,農村において村落が取引を統治するうえで重要な役割を果たしたということである.つまり,村落が取引統治の担い手として,個人の行動を規律づけ,秩序を保ち,様々な在来の制度を供給することで貧困・開発問題の軽減と経済発展に寄与した.この意味において,本研究では,特に農村部における日本のミクロ的な経済発展パターンは,村落によって先導された「共同体に基づく発展」であったことを主張する.これが,本研究の第1のメッセージである.

発展途上経済において,村落やコミュニティが市場の取引の不確実性を下げ,経済主体の行動を規律づけ,取引を統治するという意味において,市場を補完する位置づけにある.市場と村落,共同体などの民間組織の補完的な関係を踏まえると,政策的な課題としては,いかにしてその補完機能を発揮させるような共同体を育成するかが問題となってくる.この点について,本研究は,日本の事例から示唆される経済発展における政府の役割として,私的所有権の保護や法体系の整備,公共財の供給といった社会基盤の整備の他に,政府では統治しきれない経済活動を民間部門が自ら統治するよう誘導することであることを主張する.これが本研究の第2のメッセージである. すなわち,政府・市場・共同体の役割について,これまでの議論は「市場の失敗」を補完するような資源配分に関する政府と市場の役割分担を巡るものであった.しかし,資源配分には取引統治が必要である.本研究の新たな視点は,そのような民間組織の取引統治機能を誘発させるという点において,政府が一定の役割を果たす必要があり,取引統治について政府と共同体の間での役割分担の議論の必要性を提示するものである.すなわち,経済的な取引は市場が,市場で供給しきれない公共財の供給を政府が,取引統治にかかるフォーマルな法体系などの大枠を政府が,インフォーマルな制度などのミクロレベルでの取引の統治と制度化を共同体がそれぞれ担うという役割分担が示唆される.

審査要旨 要旨を表示する

本研究の目的は、日本がかつてどのような貧困・開発問題に直面し、それにどう対処し、なぜ経済発展を成し遂げることができたのか、その歴史的パターンのミクロ的な特徴を「取引統治」と「取引の制度化」という観点から見いだすことである。そのために、本研究では、歴史的な文脈に留意しつつ、日本の経済発展・開発の経験をミクロ経済学的に分析している。具体的な分析対象としては、発展途上期日本の農村における制度である戦前期(昭和初期)の地主小作関係と小作契約、および近世江戸時代の村請制と呼ばれる徴税制度と農村金融制度を取り上げている。本研究の課題は、第一に地主小作関係と近世の村請制や信用取引を取り巻く制度がどのような経済的特徴を持ち、それが取引統治の問題や、貧困・開発問題に対してどのような影響を与えたのかを明らかにすること、第二にそれぞれのトピックと制度のなかから共通点を見いだし、特に取引を統治し制度化する母体となった共同体の役割に注目しながら日本の経済発展のミクロ的なパターンや特徴を抽出すること、そして第三にそのパターンに基づいて、現代の発展途上国に応用可能な教訓を見つけ出すことである。

第1章では、「日本」、「歴史」、「ミクロ分析」という3つの側面から、開発経済学における研究蓄積の選択的レビュー行われ、日本の経済発展を対象とした開発ミクロ経済学分析は、開発経済学上の真空地帯となっていることが示されている。

第2章では、戦前期日本の地主小作関係について、日本に特徴的な減免契約という小作契約の経済的な特徴を理論的に明らかにしている。世界各地で通常見られる小作契約の原型は、定額小作か刈分小作であるが、戦前期日本では両者の折衷型と言うべき、不作時の小作料を減免する慣行が付いた定額契約(減免契約)が主であった。この章では、当時の地主小作関係や小作契約、減免の実態などについて概観した後、契約理論の枠組みに基づく減免契約がリスク分散とインセンティブの付与というトレード・オフの観点から分析されており、減免契約が農業生産上のリスクやそれへの対処がさほど問題とならないような状況において、定額や刈分契約よりも効率的であることが示されている。したがって、日本の地主小作関係は、定額や刈分を採用した各国の関係よりも、生産上も分配上も効率性が高かったと指摘されている。

第3章では、減免契約を履行するときにかかる取引費用に注目しながら、戦前期岩手県における刈分小作の分布の決定要因が、リスクと取引費用の観点から定量的に検証されている。減免は、地主と小作人の利害が明確に対立するため、減免の発動条件が明確に定められ、契約が法的な根拠を持たない場合は、減免履行の是非や率を巡る煩雑な交渉を要し、取引費用が高くなる可能性があった。このため、この取引費用の大きさによっては、減免契約を採用するよりは、定額や刈分小作の方が望ましくなる。日本の場合は、小作料減免を村落の集団的な地主小作関係のなかに内包するかたちで制度化したことが、取引費用の高騰を抑制し、減免契約の普及を後押ししたひとつの要因であったことが示されている。さらに、全国でも刈分小作が多かった岩手県において、それが特にやませによる冷害の影響を受けて収量変動が大きい地域に集中しており、リスクに対する耐性が契約選択の主要な決定要因であったことが実証されている。

第4章では、日本の村落の歴史的なルーツと経緯に目を向け、近世江戸時代の課徴税制度である村請制を経済学的に理解し、それが日本の農村社会と経済発展にどのような影響を与えた可能性があるのかが検討されている。村請制は村落が農村における取引を自ら統治し、取引の効率性を高めるという、日本のミクロ的な経済発展パターンを形成する最初の発端となったことが示されている。この論点は、村落や共同体などの民間組織が取引を統治するという認識を踏まえたうえで、それがどのように組織され、統治を果たすようになるのかに関する歴史的な過程とメカニズムを解明する手がかりとなるものである。

以上ように、本研究は、戦前期の地主小作関係と小作契約を入り口に日本の経済発展パターンのミクロ的な特徴を歴史的な視点から分析しており、経済発展という大きな視点から見た場合、農村において村落が取引を統治するうえで重要な役割を果たしたということを明らかにしており、学術上かつ応用上の価値が高い。よって審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位を授与するにふさわしいと判断した。

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