学位論文要旨



No 121295
著者(漢字) 高橋,憲子
著者(英字)
著者(カナ) タカハシ,ノリコ
標題(和) 高 CO2濃度下における出穂期イネの穂のクチクラ・シリカ二重層形成に関する基礎研究
標題(洋) Fundamental Study on the Cuticle-silica Double Layer Formation of the Rice Panicle during the Flowering Stage under Elevated Atmospheric CO2 Concentration
報告番号 121295
報告番号 甲21295
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3008号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 生物・環境工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 蔵田,憲次
 東京大学 教授 磯貝,明
 東京大学 教授 小林,和彦
 東京大学 教授 大下,誠一
 東京大学 助教授 富士原,和彦
内容要旨 要旨を表示する

はじめに

イネは,ケイ酸を積極的に吸収し,他の植物と比較して多量に蓄積することからケイ酸植物と呼ばれている。イネの根から吸収された水溶性ケイ酸は,蒸散流とともに根から穂や葉身へ移動する(吉田ら,1962)。穂や葉身に移動したケイ酸は,穎や葉身の蒸散で表皮のクチクラと表皮細胞の間に蓄積し,クチクラ・シリカ二重層を形成する(吉田,1965)。穎や葉身の表皮に形成されたクチクラ・シリカ二重層は,穎や葉身での蒸散を抑制することが報告されており,特に,穎の表皮で主に蒸散を行う穂でのクチクラ・シリカ二重層による蒸散の抑制は,穂の水分保持に寄与することが示唆されている(Ma,1990;東江ら,1992)。また,稔実籾は不稔籾に比べて,クチクラ・シリカ二重層を形成するケイ酸を多く含み,より多くの水分を保持していたことから(徐ら,1982),穂におけるクチクラ・シリカ二重層の形成はイネの収量を左右する要因となりうると考えられる。

他方,大気CO2濃度(以下,[CO2])が年々増加する中で,[CO2]増加がイネの成長や収量に及ぼす影響を把握することは重要で,高[CO2]を作物生産の向上・安定に積極的に結びつけるための基礎,応用研究が求められている。それゆえに,高[CO2]が,イネの収量を左右する要因になりうると考えられる穎のクチクラ・シリカ二重層形成に及ぼす影響を明らかにすることは,[CO2]増加時の収量の予測に必要であると考えられる。しかし,上記の頴のクチクラ・シリカ二重層形成に関する既往の報告は,全て大気[CO2]下でのものである。

高[CO2]下では,イネ葉身の気孔閉鎖によりイネ個体の蒸散が抑制されることが知られているが(Kimball,1983),高[CO2]が穂の蒸散に及ぼす影響については不明である。もし,高[CO2]によって穂の蒸散が変化すれば,蒸散流で穂に移動するケイ酸の量や,穎の蒸散でケイ酸が堆積して形成されるクチクラ・シリカ二重層の厚さにも影響を及ぼすと考えられる。穂が葉鞘から完全に出た時(以下,出穂時)に穂の蒸散速度が最大となる(宮川ら,1999)。このことから,高[CO2]下で,出穂開始直後から出穂時までの期間(以下,出穂期)の穎のクチクラ・シリカ二重層の形成過程を把握することは,高[CO2]下における穎のクチクラ・シリカ二重層による穂の蒸散の抑制が,穂の水分保持,籾の稔性に果たす役割の解明とって必要になると考えられる。

そこで,本研究では,高[CO2]が出穂期の穂の穎のクチクラ・シリカ二重層形成に及ぼす影響を明らかにすることを目的とした。具体的には,i) 高[CO2]が,出穂時までに蒸散流で穂に移動するケイ酸の量に及ぼす影響と,これが出穂時の穂の蒸散流量に及ぼす影響を明らかにするために,高[CO2]下での出穂時の穂の蒸散流量と出穂時までに穂に移動したケイ酸の量の関係を調べ,ii) 高[CO2]下における出穂期の頴のクチクラ・シリカ二重層の厚さを明らかにするために,出穂段階別に穎の表皮に堆積したケイ酸の量を測定し,iii) 高[CO2]下における頴の着生部位による頴のクチクラ・シリカ二重層の厚さの違いを明らかにするために,出穂時の頴の着生部位別に穎の表皮に堆積したケイ酸の量を調べた。なお,本研究では,穎の表皮に堆積したケイ酸の量を表す指標として,穎の表皮のケイ酸濃度を用いた。高[CO2]が,出穂期の頴のクチクラ・シリカ二重層形成に及ぼす影響を明らかにすることは,穂の水分保持に寄与すると考えられる穂のクチクラ・シリカ二重層形成がイネの稔性に及ぼす影響を明らかにする手がかりとなると考える。

材料および方法

供試材料にはイネ(Oryza sativa L. cv. Akitakomachi)の穂を用いた。イネは水耕法で栽培し,播種から3週間後に光合成有効光量子束密度(PPFD)1040 μmol m-2 s-1,明期35 ・ 1 ・C,暗期28 ・ 1 ・C,明期12 h,暗期12 h,相対湿度50 ・ 10 %の大気[CO2]区(350 ・ 50 μmol mol-1)と高[CO2]区(700 ・ 20 μmol mol-1)の人工気象室内で出穂期まで成育させた。水耕液中のケイ酸濃度は,100 mg L-1(+Si区)と1 mg L-1以下(-Si区)とした。出穂時の穂の蒸散流量は,温度波法(櫻谷,1982)を用いて測定した。出穂時までに穂に移動したケイ酸量として,出穂時の穂のケイ酸含量(全ケイ酸;可溶性+不溶性)を測定した。穎の表皮のケイ酸濃度は,走査電子顕微鏡(SEM)とエネルギー分散型X線分光法(EDX)を用いて測定した。穂の出穂段階別の測定には,穂ばらみ期,穂がの1/3が葉鞘から出た出穂早期,穂の2/3が葉鞘から出た出穂中期,穂が完全に葉鞘から出た出穂後期のそれぞれの穂の上部に着生している穎を用いた。

実験結果

高CO2濃度下における出穂時の穂の蒸散流量と穂のケイ酸含量の関係

高[CO2]下で,出穂時の穂の蒸散流量は,大気[CO2]下の穂の蒸散流量と比べて減少していた(Fig. 1)。また,高[CO2]下でも水耕培地にケイ酸を添加することで,穂の蒸散流量が減少した。高[CO2]下で成育させた出穂時の穂のケイ酸含量は,大気[CO2]下で成育させた穂のケイ酸含量と比べて有意に減少していた(Table 1)。

大気[CO2]下では,出穂時の穂のケイ酸含量が増加すると,穂の蒸散流量が減少する線形関係がみられた(Fig. 2, r2 = 0.56)が,高[CO2]下では,相関はみられなかった(Fig. 2, r2 = 0.13)。

高CO2濃度下における出穂期の穎のクチクラ・シリカ二重層形成

大気[CO2]下で成育させた出穂段階別の穎の表皮のケイ酸濃度は,出穂が進むにつれて増加したが,高[CO2]下で成育させた穂では,出穂開始直後には,ほとんどケイ酸濃度の増加は見られず,その後,遅れて増加が始まっていた(Fig. 3)。出穂時に,[CO2]の違いによる穎の表皮のケイ酸濃度の差はみられなかったが,穎の断面でのクチクラ・シリカ二重層の厚さでは,高[CO2]下で成育させた頴のクチクラ・シリカ二重層の方が薄かった(Fig. 4)。

出穂時の穎の着生部位別の表皮のケイ酸濃度は,穂の上部に着生している穎で高く,穂の下部に着生している穎で低くなる傾向がみられた(Table 2)。また,高[CO2]下で成育させた穂では,大気 [CO2]下で成育させた穂と比べて下部に着生している穎の表皮のケイ酸濃度は低かった。

結論

本研究から,高[CO2]下が出穂期の頴のクチクラ・シリカ二重層形成に及ぼす影響が明らかになった。すなわち,高[CO2]下で成育させた穂では,大気[CO2]下で成育させた穂と比べて,i) 出穂時の穂の蒸散流量は減少する,ii) 出穂時までに穂に移動するケイ酸の量が減少する,iii) 出穂時の穎のクチクラ・シリカ二重層の厚さが薄くなることが明らかになった。以上の結果から,高[CO2]下では,穂の蒸散が抑制されたことで,出穂時までに穂に移動するケイ酸の量や頴の表皮に堆積するケイ酸の量が減少し,出穂時の頴のクチクラ・シリカ二重層の厚さが薄くなったと推定される。

また,高[CO2]下で成育させた穂では,大気[CO2]下で成育させた穂と比較して,出穂開始直後や,穂が葉鞘から出て間もない穂の下部に着生している穎の表皮でケイ酸の堆積量が有意に減少していた。このことから,高[CO2]は,特に,クチクラ・シリカ二重層形成の初期段階に影響を及ぼすことが明らかになった。

大気[CO2]下では,出穂時までに穂に移動したケイ酸の量が増加すると,出穂時の穂の蒸散流量が減少する負の相関が確認されたが,高[CO2]下ではこの関係はみられなかった。このことから,高[CO2]下では,穎のクチクラ・シリカ二重層以外の要因で,出穂時の穂の蒸散が抑制されていた可能性が示唆された。

Fig. 1 Transpiration rate of the panicle grown in culture solution with silica (+Si, SiO2; 100 mg L-1) or without silica (-Si, SiO2; < 1 mg L-1) under ambient [CO2] (350 μmol mol-1) or elevated [CO2] (700 μmol mol-1) at the flowering. Transpiration rate of the panicle was determined by measuring the amount of the transpiration stream at the panicle neck, and represent as that per panicle surface area measured by the leaf area meter. Vertical bars represent standard errors (n=4). Asterisk (*) indicates a significant difference at p = 0.05 according to t-test.

Table 1 Effects of elevated [CO2] on silica content of the panicle.

The rice plants were grown in the culture solution with silica (+Si, SiO2; 100 mg L-1) or without silica (-Si, SiO2; < 1 mg L-1) under ambient [CO2] (350 μmol mol-1) or elevated [CO2] (700 μmol mol-1) until the flowering stage. Data represent the means ・ standard errors (n=4). Asterisk indicates a significant difference between ambient [CO2] and elevated [CO2] determined by a paired t-test (**p < 0.01).

Fig. 2 The relationship between silica content and transpiration rate of the panicle under ambient [CO2] of 350 μmol mol-1 (・) or elevated [CO2] of 700 μmol mol-1(・) at the flowering. The rice plants were grown with the culture solution with silica (SiO2; 100 mg L-1) or without silica (SiO2; < 1 mg L-1). Regression line in : Ambient [CO2], y = -29.15x + 85.9, r2 = 0.56; Elevated [CO2], r2 = 0.13.

Fig. 3 Silica distributions on the husk epidermis at booting, early, middle, and late flowering stages under ambient [CO2] (350 μmol mol-1) or elevated [CO2] (700 μmol mol-1). Silica concentration on the husk epidermis was determined by comparing strength of Si peak with strength of Pt peak from a spectra using EDX analysis. Vertical bars represent standard errors of the means (n=6).

Table 2 Silica concentrations on the husk epidermis at the upper, middle and lower parts of the panicle under ambient [CO2] (350 μmol mol-1) or elevated [CO2] (700 μmol mol-1).

Fig. 4 Line (a, b) and mapping (c, d) images of silica distributions on the transverse sections of the rice palea determined by EDX analysis. The rice husks were obtained from the upper part of the panicle at the late flowering stage (when the panicle completely headed). Rice seedlings were grown hydroponically under ambient [CO2] (350 μmol mol-1) (a, c) or elevated [CO2] (700 μmol mol-1) (b, d). Bars = 300 μm.

審査要旨 要旨を表示する

イネは,ケイ酸を積極的に吸収する植物である。根から吸収された水溶性ケイ酸は、蒸散流とともに根から穂や葉身へ移動し、穎や葉身での蒸散で表皮のクチクラと表皮細胞の間に蓄積し、クチクラ・シリカ二重層を形成する。主に穎の表皮で蒸散を行う穂でのクチクラ・シリカ二重層は蒸散を抑制し、穂の水分保持に寄与することが示されている。また,既往の研究から、籾の水分保持は、稔性に深く関係し、穂におけるクチクラ・シリカ二重層の形成はイネの収量を左右する要因となりうると考えられる。他方,大気CO2濃度(以下,[CO2])が年々増加する中で,[CO2]増加がイネの成長や収量に及ぼす影響を把握する研究が進められている。しかし、高[CO2]が、穎のクチクラ・シリカ二重層形成に及ぼす影響に関する研究はみあたらない。

そこで,本研究では,高[CO2]が出穂期の穂の穎のクチクラ・シリカ二重層形成に及ぼす影響を明らかにすることを目的とした。本論文は5章からなる。

1章では、研究の背景と目的について述べた。

2章では、高[CO2]下における出穂時の穂の蒸散流量と穂のケイ酸含量の関係について解析した。高[CO2](700 ・ 20 μmol mol-1)下で,出穂時の穂の蒸散流量は,大気[CO2](350 ・ 50 μmol mol-1)下の穂の蒸散流量と比べて減少した。また,高[CO2]下でも水耕培地にケイ酸を添加することで,穂の蒸散流量が減少した。高[CO2]下で成育させた出穂時の穂のケイ酸含量は,大気[CO2]下で成育させた穂のケイ酸含量と比べて有意に減少した。大気[CO2]下では,出穂時の穂のケイ酸含量が増加すると,穂の蒸散流量が減少する線形関係がみられたが,高[CO2]下では,相関はみられなかった。

3章では、穎の表皮のケイ酸濃度分布を走査電子顕微鏡(SEM)とエネルギー分散型X線分光法(EDX)を用いて測定した。ケイ酸濃度は籾の基部から先端部にかけて上昇した。籾表面の毛の数は先端部にむけて多くなった。毛や突起部には高濃度のケイ酸が観察された。この籾表面のケイ酸濃度分布の不均一性は穂の下部で顕著であった。また、穂の上部のケイ酸濃度は下部に比べ有意に高かった。

4章では、高[CO2]下における出穂期の穎のクチクラ・シリカ二重層形成について調べた。大気[CO2]下で成育させた出穂段階別の穎の表皮のケイ酸濃度は、出穂が進むにつれて増加したが、高[CO2]下で成育させた穂では,出穂開始直後には,ほとんどケイ酸濃度の増加は見られず、その後、遅れて増加が始まった。出穂後期に、[CO2]の違いによる穎の表皮のケイ酸濃度の差はみられなかったが、高[CO2]下で成育させた頴のクチクラ・シリカ二重層は大気[CO2]下で成育させた穎のそれより薄かった。出穂時の穎の着生部位別の表皮のケイ酸濃度は,穂の上部に着生している穎で高く、穂の下部に着生している穎で低くなる傾向がみられた。また,高[CO2]下で成育させた穂では、大気 [CO2]下で成育させた穂と比べて下部に着生している穎の表皮のケイ酸濃度は低かった。

5章では、本研究を総括し、新たにみつかった問題点、今後の研究課題などについて論じた。

以上、本研究は高[CO2]下でのイネの収量予測に関する数多い研究で看過されてきた、高[CO2]が出穂期の穎のクチクラ・シリカ二重層形成に及ぼす影響について詳細な解析を行い、イネの収量を予測する上での重要性を明らかにしたもので、学術上および応用上、貢献するところが少なくない。よって、審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文に値するものと認めた。

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