学位論文要旨



No 121299
著者(漢字) 吉川,夏樹
著者(英字)
著者(カナ) ヨシカワ,ナツキ
標題(和) 熱帯水田流域における窒素循環に関する研究
標題(洋) Nitrogen cycle in a tropical watershed with predominant land use of paddy field
報告番号 121299
報告番号 甲21299
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3012号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 生物・環境工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 塩沢,昌
 東京大学 教授 田中,忠次
 東京大学 教授 宮,毅
 東京大学 教授 大政,謙次
 東京大学 教授 山路,永司
内容要旨 要旨を表示する

はじめに (第1章−第2章)

化成窒素肥料の導入は,農業生産性の飛躍的な向上をもたらし,増加し続ける人口を支えている.その反面,多量の窒素肥料の投入による環境への負荷が大きな問題となっている.人間活動は現在,生物由来の窒素固定と同量の窒素を固定しており,その約50%が化成肥料生産によるものとされている.その為,欧米や日本等の先進国では早くから農地への過剰な窒素肥料の投入が硝酸態窒素の溶脱をまねき,地下水や河川水の汚染,湖沼や内湾などの閉鎖性水域の富栄養化の問題を引き起こしている.現在,急速に窒素肥料の消費が伸びているのが熱帯アジアモンスーン地域であり,世界窒素肥料の約23%がこの地域で消費されている.環境への影響が最も懸念されている地域であると言える.ただし,畑作中心の欧米と違い,アジアモンスーン地域では水田農業が広く行われており,窒素循環の機構は異なっていると考えられる.また,日本等の温帯と比べ,熱帯は気象条件も違う.しかし,この地域の窒素循環に関する研究はあまり進んでおらず,全球スケールでの窒素動態を考える上でも不確実性要素として扱われる事が多い. そこで,本研究では熱帯水田流域を対象とし,窒素循環を定量的に把握し,その特徴を明らかにすることとした.

流域の特徴と調査の概要 (第3章)

研究対象地はインドネシア,ジャワ島のチダナウ流域である.本流域はジャワ島西北端部に位置し,流域面積は約220km2,周囲を数百mから千mを越える山々によって囲まれたカルデラ地形である.流域面積の約28%(61km2)が水田として利用され,流域の北東部には約21 km2の湿地帯がある.熱帯季節風気候に属し,平均降水量は約2600mmで,雨季(11〜3月)と乾季(4〜10月)が明瞭であるが,年変動は大きい.気温は年間を通じて26〜28℃である.主要河川であるチダナウ川は流域南東部山麓地帯を源流とし,湿地帯を通って流域北西部の河口から海に流出する.河口付近では水道会社(KTI)の取水・浄水設備があり,チダナウ川の水を,近郊工業地帯やチレゴン市へ工業用水及び飲料水として供給している.

2003年10月から2005年7月までに計6回の現地調査を行い,雨水,河川水の全窒素(TN)濃度及び河川流量を測定した.また,聞き取り調査によって,水田の単位面積当たりの肥料投入量,収穫量を把握した.地理データ,統計データは官庁より入手した.さらに,2004年10月には,衛星画像分析の為のグランドトゥルースデータを取得した.

衛星画像による水田作付面積の推定(第4章)

熱帯流域においては気温による水田作付けへの制約がない.したがって,水が確保できる所では,多期作が可能であり,多様な生育段階の稲が混在するという状況にある.本章では,衛星画像を用いてそのような状態の水田における作付面積を推定することを試みた. 1991年から2004年までのLandsat TM及びETMの8シーンを取得し,現地調査ではグランドトゥルースデータを水田内の異なる土地被覆項目,稲の生育段階項目毎に取得した.グランドトゥルースデータ地点の反射特性は対応する衛星画像から抽出し,グランドトゥルースの項目別にNDVIと中間赤外の平均値を算出した.Landsat画像のピクセルを,教師無し分類法で15クラスに分類し,それぞれのクラスの土地被覆の決定は,NDVIと中間赤外平均値に閾値を設け,NDVIで植生,中間赤外で水面を判定した.分類結果から稲と水面と判別された項目を積算して作付面積とし,電子地形図上の水田における作付け割合を算出した.

先行積算降水量が水田作付面積に与える影響 (第5章)

熱帯地域では気温の制約条件がなく,水源さえ確保できれば年間を通して3期の水田作付けが可能である.したがって,作付面積は主に利用可能な用水量によって規定される.また,用水量は降水量と流域の流出特性によって決まる.本章では,水田作付面積を衛星リモートセンシングデータから推定し90日間の先行積算降水量との関係を分析した.

本分析では,まず全流域水田を対象に,現地水稲の植え付け期間である90日間の積算降雨量を説明変数(x),作付け割合を被説明変数(y)として最小自乗法で回帰分析を行った.その結果,作付面積と積算降水量は高い相関(R2 = 0.96)を示した.回帰式 y = 0.00027x + 0.42は,積算降雨量が100mm増加すると,作付面積が2.7%増加するということを意味している.

次に,地形を考慮し流域を7ゾーンに分割し同様の回帰分析を行った.ゾーン2,3では先行降雨への依存性が低く,ゾーン4,5では高い.前者は火山山麓の湧水を起源とする豊富で安定した流量の農業用水に依存しているのに対し,後者は地下水供給量が少なく,作付けは降雨に大きく依存している事が考察できる.

これらの結果を元に,年間の総作付面積(TP)の算出を行った.

ここでj = 各年の通し日数,Ri = 90 日積算降雨量,fi(Rj)は,各ゾーンの回帰関数,Ai は,各ゾーンの地形図上の水田面積である.

年間作付面積は日毎の作付面積の総和を播種から収穫までの日数である120日で除する事によって求められる.これによって,本流域の年間の作付面積は9,650haから14,560haであり,総水田面積6,070haから約1.5期作から2.4期作で,平均2.1期作行われているという結果を得られた.

流域の窒素循環と収支 (第6章)

流域の窒素循環・収支を,調査で取得した河川水サンプル,流量データ,気象データ,聴き取り調査結果,現地統計データ,及び第5章で行った水田作付面積の推定値を元に算出した.図1は対象流域における窒素収支の概念図である.流域外から流域へのインプットは,降雨と肥料投入で,流域から流域外へのアウトプットは,収穫物の持ち出し,河川流出及び残渣と薪の焼却,そして,インプットとアウトプットの残差が生化学的大気放出である.

本流域では,食料が流域外から持ち込まれず流域内で生産されている.また,家畜や養殖魚に関しても,飼料は流域内で供給され,肉魚は食料として流域内で消費されている.したがって,流域窒素収支に人間や家畜の排出を考える必要がない.化学肥料の流入,米の持ち出し,焼却以外の人間活動による窒素循環が流域内で生じていることは,我が国の流域窒素循環との大きな違いである.

流域の窒素収支結果を図2に示した.但し,ここで生化学的大気放出は,ネット値である.即ち,脱窒及びアンモニア揮散の大気へのアウトプットと生物的窒素固定と窒素の乾性沈着等の大気からのインプットがこの項に含まれている.

生化学的大気放出がインプットに対して大きい(全流域56%)という結果が得られた.わが国の農業流域おいて大気放出が占める割合は10%程度であるという報告がある.本流域窒素循環の大きな特徴として,雨水のTN濃度(0.75mgN L-1)と比較して,河口における河川濃度(平均0.46mgN L-1),地下水濃度(0.47mgN L-1)が低いという事が挙げられる.この河川水濃度はわが国の水田地帯の河川水濃度の1/5〜1/2程度である.蒸発散による濃縮考えれば,肥料投入があるにもかかわらず,河川から流出する窒素量が降雨で与えられる窒素量を下回ることは明らかである.熱帯に属する本流域では平均気温が日本より11℃高く,それだけ微生物活動が活発である為に,流域の全体において脱窒及びアンモニア揮散による窒素損失の割合が我が国のような温帯よりも大きいと考えられる.

湿地と水田の窒素循環と収支 (第7章)

ラワダナウ湿地(1550ha)と水田のみで構成されるエリア(890ha)を対象に,第6章同様,インプット及びアウトプットを項目別に算出し,その残差を生化学的大気放出とした.図3図4に結果を示す.ラワダナウ湿地では,人間活動が無いため,収支は河川による移動と降雨からのインプットだけで求めた.河川水の窒素はラワダナウ湿地を通過する事で約11kgN ha-1 y-1除去されているという結果となった.また,大気放出は全インプットの54%と大きい.湿地では肥料投入がないので,大気放出は主に脱窒によるものと考えられる.

水田においては,肥料投入が全インプットの約90%を占めており,アウトプットは収穫物持ち出しによるもの(44%)が最も大きく,稲藁の焼却(12%),河川への負荷(流出と流入の差)は12.9kgN ha-1 y-1小さい.残差である生化学的大気放出は36%であり,その割合は全流域を対象とした場合(56%)と比較して小さいが,量では57.2kgN ha-1 y-1で,全流域の29.6 kgN ha-1 y-1の2倍弱という結果になった.これは,肥料投入直後のアンモニア揮散が主要因であると考えられる.

流域内水質測定による河川への排出原単位の推定 (第8章)

第7章では,窒素の主な面源である水田,負の面源である湿地,及び点源である人口の排出原単位を,最小自乗法によって推定した.流域を調査時毎に14〜17の副流域に分割し,各副流域の水田面積率,湿地面積率,人口密度を説明変数,流出河川の比負荷量から流入河川の比負荷量を差し引いた,「差し引き比負荷量」を被説明変数とした.河川の負荷量は,調査毎に広域に亘って取得した河川水サンプルのTN濃度データと各河川流量の推定値を使って求めた.モデルは以下のようになる.

ここで,α1,α2,α3がそれぞれ水田,人口,湿地の排出原単位である.ILUnは,小流域nからの流出窒素比負荷量(kgN ha-1y-1),Pdnは小流域nにおける水田面積率,Ppopnは人口密度,Swnは湿地面積率である. 水田の排出原単位は6.1〜21.9kgN ha-1 y-1 人口は0.1〜0.9kgN person-1 y-1 湿地は-6.9〜-20.9kgN ha-1 y-1 という結果となり,調査時毎に大きく変動している.雨期に大きく乾期に小さい事から,排出負荷原単位を流量平均し,得た原単位が以下の式である.

となる. 即ち,水田の排出負荷原単位は16.9kgN ha-1y-1人間は0.6kgN person-1 y-1 湿地は-13.8kgN ha-1 y-1という結果が得られた.更に,対象流域の水田面積率(26.8%),人口密度(4.54 person-1 ha-1),湿地面積率(9.4%)を[3]式に代入すると,6.04kgN ha-1 y-1となる.

図1 流域窒素収支概念図

図2 流域窒素収支

図3 湿地窒素収支

図4 水田窒素収支

審査要旨 要旨を表示する

窒素は全ての生物の体に必須の成分であり、土壌中の窒素の量は植物の生長を規定する。化成窒素肥料の導入は,農業生産性の飛躍的な向上をもたらした反面,多量の窒素肥料の投入による環境への負荷が、地下水や河川水の汚染,閉鎖性水域の富栄養化の問題を引き起こし、大きな問題となっている.人間活動は現在,生物由来の窒素固定と同量の窒素を固定しており,その約50%が化成肥料生産によるものとされている.現在,急速に窒素肥料の消費が伸びているのが熱帯アジアモンスーン地域であり、環境への影響が最も懸念されている地域である.水域への窒素流出を予測しその低減策を評価することは、流域の環境管理の大きな課題である。河川や湖沼への窒素流出を測定したり、これをモデル化する研究は数多いが、窒素流出の予測やモデル化の前提となる流域スケールでの窒素収支に関する研究は、特に水田が農業的土地利用の中心となるアジアモンスーン流域においてほとんどない。流域の窒素収支項目には、測定できるものと生化学的大気放出(脱窒など)のように流域スケールでは測定できず、他の主なの収支項目の全てが得られてはじめて残差として求まるものがある。本研究は熱帯水田流域において、窒素収支と窒素循環を明らかにしたものである。

対象流域と調査

研究対象地はインドネシア,ジャワ島西北端部のチダナウ流域で、流域面積220km2で28%(61km2)が水田として利用されている。2003年10月から2005年7月までに計6回の現地調査を行い,雨水,河川水の全窒素(TN)濃度及び河川流量を測定し、また,聞き取り調査によって,水田の単位面積当たりの肥料投入量,収穫量を把握した.地理データ,統計データを官庁より入手した.さらに,2004年10月には,衛星画像分析の為のグランドトゥルースデータを取得した.

衛星画像による水田作付け面積の推定

流域の肥料投入量や米の収穫量は窒素収支の最重要項目であるが、その統計データも耕作水田面積のデータもないため、まず、リモートセンシングを利用して作付け水田面積を推定した。しかし、稲の生育段階が水田間で均一は温帯流域とは異なり、気温が高く一定な熱帯流域においては、水が利用できる限りいつでも稲作ができ、多期作が可能であるため、多様な生育段階の稲の水田が地域内に混在する。多様な生育段階が混在する流域で衛星画像を用いて作付け水田面積を推定することは新しい試みである。1991年から2004年までのLandsat TM及びETMの8シーンについて、Landsat画像のピクセルを,教師無し分類法で機械的に15クラスに分類し,それぞれのクラスの土地被覆の決定は,NDVIと中間赤外平均値に閾値を設け,NDVIで植生(生育した稲)を抽出し、中間赤外で水面(稲が初期生育の作付け水田)を裸地(不耕作水田)と区分した.分類結果から積算して作付面積とし,電子地形図上の水田における作付け割合を算出した.グランドトゥルースと比較して、精度の高い推定ができたことが確認されたが、得られた作付け割合は季節によっても年によっても大きく異なるものであり、作付け割合は先行降雨によって変動することが示唆された。

降雨データによる作付け面積変動の推定

そこで、Landsat の8シーンから得られた作付け割合と流域における90日間の先行積算降水量との関係を分析したところ、強い一次の相関が見られ、この回帰式を使って、先行積算降水量から作付け水田割合と作付け水田面積を推定することにした。これによって1991年から2004年の日降雨データから推定した流域の作付け割合を使って計算した年間の平均作付け回数は、年によって約1.5期作から2.4期作で,平均2.1期作となった。

流域窒素収支

上記で推定した作付け水田面積と聞き取り調査で得た単位面積あたりの収量、肥料投入量、稲ワラ焼却割合を使って、流域への窒素(N)インプットである肥料投入によるNを計算し、Nアウトプットである米の流域外への持ち出しを収穫量から流域内消費を引いてもとめ、籾とワラおよび薪の焼却によるNの大気放出も計算した。測定した降雨および河川水の全窒素(TN)濃度と雨量および河川流量データから、降雨によるNインプットと河川からの Nアウトプットが計算された。この結果、Nインプットは肥料が2/3を占め、アウトプットは自然の大気放出が56%で、河川流出の10%をはるかに越えることがわかった。

ラワダナウ湿地(1700ha)と水田エリアの窒素収支

また、ラワダナウ湿地(1700ha)と水田のみで構成されるエリア(890ha)を対象に,窒素収支を項目別に算出し,その残差を生化学的大気放出とした.湿地の脱窒による窒素除去機能が明らかになった。

流域内水質測定による河川への排出原単位の推定

窒素の主な面源である水田及び点源である人口の排出原単位を,最小自乗法によって推定した.流域を調査時毎に14〜17の副流域に分割し,各副流域の水田面積率,湿地面積率,人口密度を説明変数,流出河川の比負荷量から流入河川の比負荷量を差し引いた,「差し引き比負荷量」を被説明変数とした.河川の負荷量は,調査毎に広域に亘って取得した河川水サンプルのTN濃度データと各河川流量の推定値を使って求めた.

以上、本研究は、算定が容易ではない流域窒素収支を、衛星画像の解析と現地土地被覆調査による水田作付け面積の推定、農民への精力的な聞き取り調査、流域河川水のサンプリングと水質分析を駆使することによって明らかにしたものである。その結果は、脱窒を主体とする自然の大気放出が予想外に大きく重要であることがわかった。このように流域窒素収支と循環を示したことは学術上、応用上の価値が高い。よって、審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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