No | 121303 | |
著者(漢字) | 矢田,実 | |
著者(英字) | ||
著者(カナ) | ヤダ,ミノル | |
標題(和) | 酸素脱リグニン条件下におけるクラフトリグニンの分解挙動に関する分光学的解析 | |
標題(洋) | Spectroscopic studies on successive degradation process of kraft lignin under the condition of oxygen delignification | |
報告番号 | 121303 | |
報告番号 | 甲21303 | |
学位授与日 | 2006.03.23 | |
学位種別 | 課程博士 | |
学位種類 | 博士(農学) | |
学位記番号 | 博農第3016号 | |
研究科 | 農学生命科学研究科 | |
専攻 | 生物材料科学専攻 | |
論文審査委員 | ||
内容要旨 | 多くの化学パルプは、クラフト蒸解とそれに続く様々な漂白工程によって生産されている。従来はクラフト蒸解の次工程として塩素を用いた漂白工程が採用されていたが、環境意識の高まりから現在では分子状塩素を使わない漂白工程への移行が進められている。この移行の中で、生産ライン全体を通して見た脱リグニンへの寄与からみると、分子状酸素を用いた漂白法は明らかな中核技術であり、現在、ほとんどの工場でクラフト蒸解の次工程として採用されている。このため、この工程は前漂白工程としてとらえられ、酸素脱リグニンと呼ばれている。 酸素脱リグニンは効果的な工程ではあるが、ここでの脱リグニンは50 %程度に留まる。これは、それ以上を目指すと、多糖の分解が激しくなってしまうためであり、結果的にパルプの物理的強度の低下を引き起こす。確かに50 %という値は(脱リグニン)vs.(多糖の分解)という観点から導かれた最適なバランスであろうが、もしパルプ強度を保ちつつさらに脱リグニンを進めることができれば、続く漂白工程での試薬使用量の減少につながり、コスト面からみても環境負荷の面からも非常に好ましい。このような酸素脱リグニンの技術開発には、リグニンがどのような構造変化を伴いながら脱リグニンに寄与していくのかを考えることが不可欠である。酸素脱リグニンの限界は、パルプ強度の低下だけに原因があるのではなく、リグニンが反応の進行とともに脱リグニンされにくい化学構造を獲得するためだとも考えられる。このような化学構造の変化がどのようにして起こるのかを議論することが重要であり、これに基づいて酸素脱リグニンの技術開発を行うことが必要である。 本研究では酸素脱リグニン過程において、どのようなリグニン化学構造の変化がどのようにもたらされるのかを調べることを目的とし、そのモデルケースとして、クラフト蒸解履歴を有するリグニンとしてクラフトリグニンを取り上げ、これをアルカリ性酸素処理(酸素脱リグニンに準じた反応条件)に供した場合の構造変化を、各種スペクトルの経時変化として観測した。 アルカリ性酸素処理は、分子状酸素のみならず副次的に生成してくる様々な活性酸素種がかかわる複雑な反応系である。リグニン化学構造の複雑さにも原因はあるが、この反応系の複雑さゆえ、個々の酸素種によるリグニンの構造変化を個別に議論することは困難である。しかし、すべての酸素種群がリグニンの構造変化に大きくかかわるとは考えられず、また、複数の酸素種が同時に生成し、同様に消滅していくという場合も予想される。酸素種群の生成・消滅挙動をいくつかのグループに近似できるとすれば、詳細な化学反応論は困難であるとしても、現象論的にはリグニンの化学構造の経時変化を比較的シンプルに、数個のパターンに分けることができると考えられる。さらに、酸素種群の挙動は反応速度論に従うと考えられ、それに伴うリグニン化学構造の経時変化も反応速度論から導かれる形の関数として表現されると期待できる。したがって本実験では、酸素種群の生成・消滅の議論を避け、リグニン化学構造の経時変化を代表するような関数(時間変化関数と定義)を導き出し、それに基づいてリグニンの化学構造の変化を議論するという方法を、反応系をシンプルにとらえる手法として一貫して用いた。 時間変化関数を導き出すためには紫外・可視吸収スペクトルを使用した。この手法は得られるスペクトル強度の再現性が格段に良く、吸光度の経時変化を全波長領域にわたって満たす時間変化関数はかなり信頼性が高い。そこで、スペクトル全波長領域での経時変化を満たす関数を探し、最適化およびフィッテイングの結果、アルカリ性酸素処理に伴う紫外・可視スペクトルの経時変化は次式で表現するのが最適であることが明らかとなった。 [t分における波長λnmでの吸光度]= A1(・)・F1(t) + A2(・)・F2(t) + A3(・) ここで時間変化関数はF1(t (分)) = 1−(1+(t /182))−1 、F2(t (分)) = 1−(1+(t /473))−1として定義された。この式は、A1(・)というスペクトルパターンが比較的“速い変化”(182分で半分が進行)に従って、パターンA2(・)が“遅い変化”(473分で半分が進行)に従って増減することを示している。また、A3(・)は未反応のクラフトリグニンのスペクトルを表現している。A1(・)は350 nm付近のバンドが増加することを示しており、またA2(・)は紫外領域全体が減少することを示していた。 時間変化関数は他の分析から得られた定量値の経時変化にも適用できるはずである。1H-NMRから得られた芳香核および不飽和プロトンの合計量、イオン化示差スペクトルの300 nmでの吸光度差(pH11.5 - 5.5)およびメトキシル基量のそれぞれの経時変化に対して時間変化関数の適用を試みた(図1)。その結果、経時変化は次式のように記述された。 [t分におけるプロトン合計量 (mmol/l)]= − 26.8(0.035 F1(t)+0.965 F2(t))+45.1 [t分における300 nmでの吸光度差]= −0.175(0.771 F1(t)+0.229 F2(t))+0.163 [メトキシル基量 (mmol/l)]= −14.6(0.753 F1(t)+0.247 F2(t))+18.4 芳香核および不飽和プロトンの合計量に関する式は、この種のプロトンが“速い変化”では変化せず、遅い変化のみで減少していくことを示した。300 nmでの吸光度差およびメトキシル基量では“速い変化”、“遅い変化”に対する寄与率はほぼ同じであり、実際この2つの定量値は非常に高い正の相関(R=0.9993)を示していた。300 nmでの吸光度差は非共役型フェノールの濃度に比例すると考えられるため、この高い相関は非共役型フェノールの減少とメトキシル基の脱離が同時に起こる可能性を示すものと考えた。芳香核および不飽和プロトンの合計量は“速い変化”では減少しないので、“速い変化”で起こっている主要な化学構造の変化としては、非共役型フェノールが環開裂を伴ってムコン酸型構造を生成する変化や、o-キノンの生成反応が考えられた。どちらも、すべての芳香核プロトンは不飽和プロトンに変化し、またメトキシル基の脱離が起こる。 赤外スペクトルの経時変化にも時間変化関数の適用を試みた(図2(a))。(赤外スペクトルはATRを用いて水溶液中で定量的に測定したものであり、測定手法は本論文に詳述した。)その結果、経時変化は次式のように記述できた。 [t分における波数νcm-1での吸光度]= A1(・)・F1(t) + A2(・)・F2(t) + A3(・) ここで“速い変化”に対応するスペクトルパターンA1(・)はカルボキシル基が増加していることを示しており、“速い変化”でムコン酸型構造が生成していることを強く支持した(図2(b))。フェノールからのムコン酸型構造の生成は、分子状酸素とフェノーレートアニオンとの反応、および続くフェノキシラジカルとスーパーオキサイドアニオンラジカルとの反応で生成すると考えられ、本研究で定義した“速い変化”はこの分子状酸素による反応とスーパーオキサイドアニオンラジカルによる反応で起こる一連の構造変化を代表していると考えた。 もちろん“速い変化”に含まれる反応はムコン酸型構造の生成だけではない。紫外・可視スペクトル上では350 nm 付近のバンドの増加が“速い変化”として観測されたが、これはムコン酸型構造の生成では説明できない。350 nm付近のバンドはその後の検討により、pKa 8.0程度と比較的低いpKaを持つフェノールであり、これにはα−カルボニル型フェノールが相当すると考えられた。α−カルボニル型フェノールはバニリンに代表されるように、酸素処理に対し高い抵抗性を示すと考えられる。この生成は“速い反応”に含まれ、分子状酸素による反応とスーパーオキサイドアニオンラジカルによる反応の一連の反応で生成した可能性が高い。これら酸素種との反応でα−カルボニル型フェノールを与えるクラフトリグニン中の起源構造としては、エノールエーテル型やo−,p−スチルベン型構造が挙げられる。 本研究では、分子状酸素とスーパーオキサイドアニオンラジカルとの一連の反応で、脱リグニンの観点からして好ましい反応と、好ましくない反応が同時に起こることを示唆することができた。前者は非共役フェノールからのムコン酸型構造の生成であり、この反応は酸性基の導入によりリグニンの可溶化に大きく寄与するといえる。後者は酸素処理に抵抗性を有するα−カルボニル型フェノールの生成である。今後、反応条件の検討によって、これら二種の反応を制御することができれば、酸素脱リグニン法の改良につなげることが出来ると考えている。 図1 芳香核および不飽和プロトンの合計量(a)、300nmにおける吸光度差(b)およびメトキシル基量(c)の経時変化。(d)は吸光度差とメトキシル基量の相関を示す。 図2 赤外スペクトルの経時変化(a)および時間変化関数を用いた解析により得られたスペクトルパターン。(b)、(c)、(d)はそれぞれ“速い変化”、“遅い変化”および未反応クラフトリグニンのパターン。 | |
審査要旨 | 緒言 化学パルプの漂白法において、分子状酸素を用いた酸素脱リグニンはコスト的にも、また環境に対する負荷の観点からも明らかに中核的技術であり、現在、ほとんどの漂白パルプ製造工場においてクラフト蒸解の次工程として採用されている。 酸素脱リグニンは効果的な工程ではあるが、ここでの脱リグニンは50 %程度に留まり、それ以上の脱リグニンはセルロ−スの劣化ために困難であるとされている。したがって、パルプ強度を保ちつつ、さらに脱リグニンを進めることができれば、続く漂白工程の負荷の低減につながり、極めて有益であるといえる。このような酸素脱リグニン工程の技術開発には、この工程におけるリグニン構造の変化と脱リグニンとの関連について明らかにすることが不可欠であるといえる。 アルカリ性酸素処理によるリグニン分解過程の各種スペクトルによる解析 本研究では酸素脱リグニン過程において、どのようなリグニン化学構造の変化がどのようにもたらされるのかを明らかにすることを目的とし、クラフトリグニンのアルカリ性酸素処理(酸素脱リグニンに準じた反応条件)による構造変化を、各種スペクトルの経時変化として観測した。アルカリ性酸素処理は、分子状酸素のみならず副次的に生成する様々な活性酸素種がかかわる複雑な反応系であり、また、リグニン化学構造の複雑さのために、個々の酸素種によるリグニンの構造変化を個別に議論することは困難である。そこで本研究では、酸素種群の生成・消滅の議論を避け、リグニン化学構造の経時変化を代表する関数(時間変化関数)を導出し、それに基づいてリグニン化学構造の変化を議論するという方法により、反応系の全体をとらえることを試みている。 時間変化関数の導出には紫外・可視吸収スペクトルを使用し、スペクトル全波長領域での経時変化を満たす関数の探索、最適化、およびフィッテイングの結果、アルカリ性酸素処理に伴う紫外・可視スペクトルの経時変化が次式で表現されることを明らかにしている。 [t分における波長λnmでの吸光度]= A1(・)・F1(t) + A2(・)・F2(t) + A3(・) ここで時間変化関数はF1(t (分)) = 1−(1+(t /182))−1 、F2(t (分)) = 1−(1+(t /473))−1として定義された。この式は、A1(・)というスペクトルパターンが比較的“速い変化”(182分で半分が進行)に従って、パターンA2(・)が“遅い変化”(473分で半分が進行)に従って増減することを示している。また、A3(・)は未反応のクラフトリグニンのスペクトルを表現している。 時間変化関数は1H-NMRから得られた芳香核および不飽和プロトンの合計量、イオン化示差スペクトルの300 nmでの吸光度差(pH11.5 - 5.5)およびメトキシル基量のそれぞれの経時変化に対しても同様に適用されることを明らかにしており、その結果から、酸素処理の“速い変化”では、非共役型フェノールの環開裂によるムコン酸型構造の生成、およびo-キノンの生成反応が考えられるとした。 赤外スペクトル変化に対する時間変化関数の適用 赤外スペクトルを水溶液試料についてATR法によって測定するとともに、酸素処理によるその経時変化にも同様の時間変化関数が極めて良好に適用できることを明らかにしている。また、その解析結果が他の分析法に基づく結果と符合することを確認している。 “速い変化”として紫外・可視スペクトルの350 nm 付近の吸収帯の増加が観測されたが、これはムコン酸型構造の生成では説明できず、赤外スペクトルを含む各種のスペクトルの解析からα−カルボニル型フェノールの生成がこれに相当すると考察した。α−カルボニル型フェノールはバニリンに代表されるように、酸素処理に対し高い抵抗性を示すと考えられ、その生成はその後の酸素処理による脱リグニンの阻害要因になり得るといえる。また、クラフトリグニン中におけるその起源構造としては、エノールエーテル型やo−,p−スチルベン型構造の可能性を指摘している。 以上、本研究は、パルプの酸素処理過程においては、分子状酸素とスーパーオキサイドアニオンラジカルとの一連の反応により、脱リグニンの観点から好ましい反応と、好ましくない反応の両者が同時に起こることを示すとともに、それらの個々の反応についても考察を展開している。これらの成果は、酸素脱リグニン工程の改善に極めて有益であるばかりでなく、リグニン化学に対する貴重な基礎的知見を提供するものである。よって、審査委員一同は、本申請者が博士(農学)に相応しいと認めた。 | |
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