学位論文要旨



No 121313
著者(漢字) 天野,達也
著者(英字)
著者(カナ) アマノ,タツヤ
標題(和) 農地管理がマガンによる脂肪蓄積と農業被害に及ぼす影響を予測する : 行動ベースモデルの利用
標題(洋) Predicting the impact of agricultural management on fat deposition and grazing damage by white-fronted geese: a use of behavioural-based model
報告番号 121313
報告番号 甲21313
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3026号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 生圏システム学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 樋口,広芳
 東京大学 助教授 宮下,直
 東京大学 助教授 高槻,成紀
 立教大学 教授 上田,恵介
 国立環境研究所 プロジェクトリーダー 椿,宜高
内容要旨 要旨を表示する

1章 序論

野生動物の生息環境が急激に改変されている近年、人間の活動が野生動物に与える影響を定量的に評価することは、その損益を考慮して政策を決定していくために多くの保全管理現場で必要とされている。特に、取り扱う時空間スケールが大きく実験的手法が困難な場合、予測モデルの活用が有効な手段となる。なかでも1990年代後半から動物の行動を基盤とした予測モデル(行動ベースモデル)が有効性が示されてきた。行動ベースモデルは、適応度の最大化という動物の普遍的な意思決定則を予測の基盤としているため、特に変化する環境下において動物の応答を正確に予測することができる。

人間の活動が野生動物に与える影響のなかでも、農地管理の影響はこれまで広く研究が行われてきた。農地には多くの生物が生息地を依存しているため、生物の保全と農業生産の両立を可能とする管理手法が強く求められている。農地では、農業活動と農業被害を介して野生動物と人が互いの利益に影響を及ぼし得る。そのため、様々な農業活動が動物個体群に与える影響のみならず、農業被害を介して人の利益にもたらす影響をも同時に評価することで、初めて動物、農業双方の観点から最適な農地管理手法を決定できるものと考えられる。この農地管理が動物に与える影響の損益評価はこれまでほとんど行われてこなかったが、行動ベースモデルを利用した予測によって可能になると考えられる。

主に農地で越冬するガン類は、この農業と野生動物の関係を顕著に表している。北海道宮島沼ではここ15年の間、マガンAnser albifronsによる小麦食害が大きな問題となってきた。マガンは通常宮島沼周辺の田で落ち籾を採食しているが、特定の時期に小麦食害を起こし実際に減収につながる大きな問題となっている。田の耕起、藁集めなど生産性を高めるための農業活動は、落ち籾の減少を通してマガンの採食だけでなく食害程度にも影響を及ぼすと考えられる。一方、この地域は日本に渡来するマガンの多く(約6万羽)が利用する渡り中継地で、2002年には国際的に重要な湿地としてラムサール条約にも登録された。東アジアの他の国ではマガンは減少しているため、この地域で農業とマガンの軋轢を解消することは、東アジアのマガン個体群を保全するうえで重要であると考えられる。

そこで本研究では、まずこの地域でのマガンの採食時における意思決定則を明らかにし、それに基づいて行動を予測する行動ベースモデルを構築した。完成したモデルを用いて、様々な農地管理がマガンによる採食の成功と農業被害の程度に与える影響を予測することで、両者の共存を目指すために最適な農地管理手法について考察することを目的とした。

2章 調査地と対象種

調査は宮島沼の周辺10km圏内の農地で行った。この地域での主要作物は水稲であるが、農地面積の約30%は小麦に転作されている。マガンはこの地域を渡り途中の中継地として利用し、9月下旬から10月下旬、3月下旬から5月上旬のそれぞれ約1ヶ月間滞在することで、渡りや繁殖のために必要な脂肪を蓄積する。滞在期間中マガンは夜間宮島沼にねぐらをとり、日の出とともに採食地に分散、日没に合わせてねぐらに戻る。この地域ではマガンによる小麦食害を軽減するために、4月下旬に一部圃場に人為的に落ち籾を散布してマガンを誘引するという代替採食地の設置が試験的に行われている。

3章 情報が不完全な採食者による採食パッチ選択と放棄

マガンの主要な食物である落ち籾は収穫後に残された藁の中に混入しているため、採食前に量や分布を推定することが困難だと考えられる。本章では、このように採食パッチの質について不完全な情報しかもたないマガンが、どのような採食パッチ選択、放棄を行っているのかに注目した。

全ての滞在期間を通して採食パッチにおける落ち籾密度はマガンによる採食パッチ選択に対して正の影響を与えておらず、マガンが採食効率の高い採食パッチを選択できていないことが示唆された。一方で、過去の採食地やねぐらに近く、面積が広く、防風林に囲まれていない、という性質の採食パッチがマガンによってより選択されやすいということが明らかになった。

一方でマガンによる各採食パッチでの採食量は、初期落ち籾密度が高いほど多くなっていた。さらに、生息地全体の平均落ち籾密度が高い時期ほど、採食パッチ放棄後に残された落ち籾密度は高くなっていた。これらの結果から、マガンは採食パッチ選択時における情報の不足を、落ち籾密度の低い採食パッチは早く放棄し、落ち籾密度の高い採食パッチには長く滞在することで補っていることが示唆された。

4章 群れ採食の利益と不利益

本章では、マガンが採食時に群れを形成することの利益と不利益に注目した。個体の行動時間配分の観察から、群れサイズが大きくなるほど個体が警戒に費やす時間は減少し、その結果採食に費やす時間が増加することが明らかになった。このことから、警戒時間の減少がマガンにとって群れを形成することの利益であると示唆された。一方で、群れ形成の不利益と考えていた、群れサイズ増大に伴う威嚇時間の増加は観察されなかった。そこで、群れ形成における不利益が別の形で存在しないかを検証するために、食物量の多い秋の群れサイズ、食物量の少ない春の群れサイズ、春に人為的に食物量を増加させた代替採食地での群れサイズをそれぞれ比較した。その結果、秋に対して春は群れサイズが小さくなっていたが、代替採食地での群れサイズは春の他の群れサイズよりも大きくなった。これらの結果から、群れ形成の際の不利益として資源消費型競争が働いている可能性が示唆された。

5章 採食地の質について情報が不完全な群れ採食者の意志決定則

動物は採食パッチの質についての不完全な情報しかもっていない場合が多いが、採食時の群れ形成を説明するこれまでのモデルはこの現実的な前提条件を考慮してこなかった。そこで本章では、情報が不完全な群れ採食者における意思決定則を新たに考案し、その意思決定則に基づいた予測モデルが実際のマガンの採食地における空間分布や採食成功度を再現できるかを検証した。比較のため、採食パッチの質についての情報の有無と、損益を考慮した群れ採食の有無、という2点について前提の異なる他の3つのモデルも構築し、上記のモデルと合わせて計4つのモデルの予測を実測値と比較した。

情報が不完全な群れ採食を前提としたモデルによる予測は、5つの空間分布パターン及び脂肪蓄積程度の全てにおいて、野外データによる実測値と最も近い値を示した。損益を考慮した群れ形成を前提としなかったモデルは季節間での群れサイズ変化を再現できず、採食パッチの質についての個体の完全な情報を前提としたモデルでは、群れサイズやねぐらから近いパッチの利用、及び落ち籾に対する小麦の利用について過大評価が見られた。

これらの結果から、情報が不完全な群れ採食者のモデルによってマガンの採食行動がうまく説明できることが示された。これまで情報が不完全な群れ採食者における意思決定則についてはほとんど研究がなかったため、ここで構築したモデルは今後他の理論研究や実証研究においても有用なものとなるであろう。一方で、4つのモデルの比較から、採食パッチの質について情報が不完全な個体は情報が完全な個体に対して採食の効率が大きくばらつくという結果も得られたため、個体の採食成功度を正確に理解するためには、採食パッチの質についての情報の有無を考慮することが重要であることが示された。

6章 様々な農地管理手法がマガンによる脂肪蓄積と農業被害に与える影響を予測する

5章で構築した、情報が不完全な群れ採食者のモデルを用いたシミュレーションによって、様々な農地管理がマガンの脂肪蓄積と農業被害の程度に与える影響を評価した。影響を評価した農地管理は、現在考えられている農業被害対策として代替採食地の設置と小麦畑での組織的な追い払い、また新たに考案した農業被害対策として落ち籾量を減らす農業活動の規制と小麦畑のねぐらから遠い位置への配置転換である。さらに、マガンの渡来個体数が増減した場合にこれらの農地管理の影響がどうなるかについても評価した。

シミュレーションの結果、代替採食地の設置は設置数と採食地あたりの籾散布量を適切に設定すれば効果的であるものの、大きな被害減少にはつながらないこと、また組織的な追い払いも被害を減らすことはできないことが明らかになった。一方で、落ち籾量を減らす農業活動の規制と小麦畑の配置転換は、マガンによる脂肪蓄積に大きな影響を与えずに被害面積を大きく減少させられることが予測された。また、これらの対策は渡来個体数が増減した場合でも、幅広い個体群サイズにおいて被害面積を減少させ、また一方でさらなる個体数の増加や減少の増長につながらないことが示唆された。以上の結果から、落ち籾を減らす農業活動の規制と小麦畑のねぐらから遠方への配置転換は、マガンへの影響を最低限にしながら被害を減らすために最適な農地管理手法であると考えられる。

7章 総合考察

日本においてマガンの個体数は近年増加してきたが、ねぐらとなる湿地の減少や減反政策による水田の減少によって、現在その渡来地は非常に限られている。そのため残された渡来地で農業とマガンの共存を目指していくことが重要である。その中で本研究では、農業とマガンの軋轢を軽減するための方策を具体的に提示することができた。ここで提示した農地管理手法は他の渡来地にも応用可能であると考えられ、今後は今回構築した予測モデルを利用した他の農業活動の影響評価も可能であろう。また、欧米と比較して日本ではガン類を含めた鳥類と農業との相互作用の研究が非常に少なく、農地での生物の保全を考えるうえでその必要性が強く指摘されてきた。本研究は農地に生息するマガンと農業活動の因果関係を定量的に評価したことで、今後の野生動物と農業に関する研究に対し、よい事例を示すことができたと考えられる。

一方で本研究を通して、農地に依存して生息する野生動物の保全管理問題において行動ベースモデルを利用することの有効性を、次の2つの観点から示すことができた。まず初めに、人為的な環境改変の多い農地に生息する野生動物の空間分布やその結果としての採食成功度を理解するためには、個体の意思決定則や採食時の制約を明らかにし、その知見に基づいたモデルの利用が有効であるという点。特に本研究では、採食地の質について個体の情報が不完全であるという前提の重要性が示された。次に、農業と野生動物の軋轢を効果的に軽減するためには、食料生産と野生動物との間の利害関係の定量的な評価が重要であるという点。本研究では様々な対策の実施など新しい環境下での動物の反応を定量的に予測することができた。これらの理由から、行動ベースモデルは他の農業と野生動物の軋轢を解消するためにも有効な手法であると考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

野生動物の生息環境が急激に改変されている近年,人間活動が野生動物に与える影響を定量的に評価することが重要な課題になっている.人間活動の損益と野生動物の保全という,一見矛盾する活動の両立が可能になるからである.この定量的評価にあたって,対象とする時空間スケールが大きく実験的手法が困難な場合,予測モデルの活用が有効な手段となる.中でも行動ベースモデルは,適応度最大化という普遍的な意思決定則を予測基盤としているため,変化する環境下での動物の応答を正確に予測することができる.

北海道宮島沼周辺に広がる農地では,ここ15年間,同地域を渡り中継地として利用するマガンAnser albifronsによる小麦食害が大きな問題となっている.マガンは宮島沼周辺の田で落ち籾を採食するが,特定の時期に小麦を食害し,減収につながる大きな問題を引き起こしている.この地域は日本に渡来するマガンの大多数が利用する渡り中継地で,2002年には国際的に重要な湿地としてラムサール条約にも登録された.東アジアの他国ではマガンは減少しているため,この地域で農業とマガンの軋轢を解消することは,東アジアのマガン個体群を保全する上で重要である.

本研究では,この北海道宮島沼のマガンを対象に採食時における意思決定則を明らかにし,それに基づいて行動ベースモデルを構築した.そして,そのモデルを用いて,異なる農地管理がマガンによる採食成功と農業被害の程度に与える影響を予測することで,マガンと農業の共存を目指すために最適な農地管理手法の提言を行なった.

本論文ではまず,マガンの採食パッチ選択のあり方を解明した.食物となる落ち籾の密度は,マガンによる採食パッチ選択に対して正の影響を与えておらず,マガンが採食効率の高いパッチを選択できていないことが示唆された.一方,各採食パッチでの採食量は,初期落ち籾密度が高いほど多くなっていた.さらに,生息地全体の平均落ち籾密度が高い時期ほど,パッチ放棄後に残された落ち籾密度は高くなっていた.これらの結果から,マガンが採食パッチ選択時における情報不足を,落ち籾密度の低い採食パッチは早く放棄し,落ち籾密度の高いパッチには長く滞在することで補っていることが示唆された.また,マガンが警戒に費やす時間は群れサイズが大きくなるほど減少し,その結果,採食に費やす時間が増加することも明らかになった.このことから,警戒時間の減少がマガンにとっての群れ形成の利益であることが示唆された.さらに,秋に比べて春は群れサイズが小さくなっていたが,実験的に食物量を増やした代替採食地での群れサイズは,春のほかの群れサイズよりも大きくなった.群れ形成の不利益として,資源消費型競争が働いている可能性がある.

つぎに,解明された意思決定測にもとづいて行動ベースモデルを新たに構築した.この中で,情報が不完全な群れ採食を前提としたモデルによる予測は,空間分布および脂肪蓄積のパターンにおいて,得られた野外データと最も近い値を示した.つまり,情報が不完全な群れ採食者のモデルによって,マガンの採食行動がうまく説明できることが明らかになった.また,採食パッチの質について不完全な情報しか持たない個体は、完全な情報をもつ個体よりも採食効率が大きくばらつくという結果も得られた.このことから,個体の採食成功を正確に理解するためには,個体が採食パッチの質に関してどれくらい情報を得ているかを考慮することも重要であるといえる.

最後に,上記の行動ベースモデルを用いたシミュレーションによって,異なる農地管理がマガンの脂肪蓄積と農業被害の程度に与える影響を評価した.その結果,代替採食地の設置は大きな被害減少にはつながらないこと,また追い払いも被害を減らすことはできないことが明らかになった.一方,落ち籾量を減らすような規制と小麦畑の配置転換は,マガンによる脂肪蓄積に大きな影響を与えずに被害面積を大きく減少させられることが予測された.また,これらの対策は渡来個体数が増減した場合でも被害面積を減少させ,個体数増減の増長につながらないことも示唆された.

以上より,本研究は,農地に生息する野生動物の保全管理問題に対する行動ベースモデルの重要性を,以下の2つの観点から示していると考えられる.(1) 環境改変の多い農地での野生動物の空間分布と個体の採食成功の予測には,個体の意思決定則と採食時の制約を明らかにし,その知見に基づいたモデルを用いることが有効である.(2) 農業と野生動物の軋轢を効果的に軽減する対策立案には,食料生産と野生動物との利害関係を定量的に評価できるモデルを用いることが有効である.本研究の成果は,農業とマガンの軋轢を軽減するための方策を具体的に提示しているだけでなく,ほかのマガン渡来地,さらには農地に生息する他種の保全管理問題にも応用可能だと考えられる.したがって,本研究は野生動物の保全管理上,貢献するところが大きく,審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた.

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