学位論文要旨



No 121314
著者(漢字) 高川,晋一
著者(英字)
著者(カナ) タカガワ,シンイチ
標題(和) 土壌シードバンクを用いたアサザ個体群再生に関する保全生態学的研究
標題(洋)
報告番号 121314
報告番号 甲21314
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3027号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 生圏システム学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鷲谷,いづみ
 東京大学 教授 武内,和彦
 東京大学 教授 井出,雄二
 東京大学 助教授 加藤,和弘
 東京大学 客員教授 津村,義彦
内容要旨 要旨を表示する

近年、世界中で多くの植物種が絶滅の危機に瀕しており、その個体群再生の実践に寄与する保全生態学的知見の蓄積および具体的な技術や管理手法の確立が求められている。本研究は、霞ヶ浦において市民・行政・研究者の協働によって実施されている絶滅危惧植物アサザの個体群再生のとりくみと連携し、土壌シードバンクからの個体群および遺伝的多様性の再生の可能性やその手法を実践的、順応的に検討したものである。

第1章では、研究の背景となる絶滅危惧種の個体群の保全と再生に関わる保全生態・遺伝学的知見を整理した。

絶滅危惧植物の多くが個体群サイズの縮小した状態で残存しており、それらはさまざまな決定論的・確率論的要因が互いに絶滅を加速しあう「絶滅の渦」に巻き込まれている。個体群を再生して絶滅を回避するためには、個体群の存続に影響を及ぼす個体群統計学的要因と遺伝的要因の双方を理解することが欠かせない。絶滅危惧種の保全・再生は緊急性が高い一方で不確実性が高いため、現段階での最良の知見にもとづき実践を進め、それを通じて知見を蓄積していく順応的管理が有効であると思われる。また、絶滅危惧植物の個体群とその遺伝的多様性の再生の材料としては、地上個体群の消滅後も残存している可能性のある土壌シードバンクが有用であると期待される。

第2章では研究対象種のアサザの生態と、保全上の観点から日本における現状を整理した。

アサザは、かつては日本各地の湖沼やため池に広く分布していた多年性浮葉植物である。しかし、近年急速に衰退し、2003年の時点で確認された個体群数は全国でわずか67、その個体数は56ジェネットにすぎない。霞ヶ浦の個体群は、比較的多くのジェネットが残存し、有性繁殖に必要な長花柱花・短花柱花の両花型が全国で唯一確認される個体群である。しかし、この個体群も湖の水位操作が強化された1996年から急激な衰退が進行し、2000年までに局所個体群数は34から14に、残存クローン数は19にまで減少した。霞ヶ浦南西岸の江戸崎町「鳩崎地区」の湖岸には、かつて複数花型からなるアサザ個体群が存在していたが、1998年に消滅した。その後も土壌シードバンク(土壌中の休眠種子)から実生が出現しているが、これらはすべて定着に失敗している。個体群の絶滅を回避し、その遺伝的多様性を維持するには、有性繁殖に関わる各生活史段階の環境要求性を明らかにし、その条件を保障することで個体数の回復を促す必要がある。その際、遺伝的な現状を把握し、遺伝的側面も配慮した再生計画を立案することがのぞまれる。

第3章では、土壌シードバンクからの個体群の再生の前提となる、アサザのセーフサイトの環境条件を小規模な再生実験によって検討した。

アサザの発芽と実生定着に必要な「セーフサイト」は、その発芽特性と過去の霞ヶ浦の水位変動パターンから、「春先の季節的水位低下で湖岸に露出する裸地的環境」であると推測されている。2002年に鳩崎地区の湖岸において、この仮説を検証しつつ実際に実生更新を促す目的で小規模な再生実験を実施した。現在の湖岸では利水を目的とした水位操作により春先の水位低下が生じないため、仮説上のセーフサイトの条件を含むように波浪条件や冠水頻度、光条件の変異幅を人為的に拡張し、導入した実生の生存と成長を比較することで仮説を検証した。その結果、実生の生存には冠水期間と光条件の両方が強く影響し、調査期間中の冠水期間が30%以下、相対光量子密度が50%以上の環境でのみ、75%以上の実生が定着した。このことは、アサザのセーフサイトは春先の水位低下で出現する裸地的環境であるという仮説を支持するものであり、自然の実生更新のためには過去の季節的水位変動パターンの回復が重要であることが示唆された。また実験を通じて計136個体を定着させることに成功し、個体群再生の材料としての土壌シードバンクの有効性が強く示唆された。

第4章では、土壌シードバンクから再生される実生集団における近交弱勢を、遺伝解析と栽培実験によって検討した。

再生実験により実生定着を促すことができたが、個体群の消滅直前に生産された種子がシードバンクに大きく寄与している場合には、最後まで残存していた等花柱花ジェネットの自殖子孫の比率が大きいはずである。そこで、2003年に土壌シードバンクから出現した実生(n=190)を湖岸3ヶ所(鳩崎・古渡・稲荷鼻)から採取し、(1)受粉実験により作成した自殖および他殖由来の子孫を対照として、それらの実生の生活史初期段階における適応度成分を定量的に評価し、(2)遺伝マーカーを用いた解析によりシードバンクを生産した親個体の数や交配時の自殖・近親交配の程度を推定することで、再生される個体群における近交弱勢の影響を評価した。

遺伝解析の結果からは、実生集団はわずか2から8個体の親に由来し、2つの集団において等花柱花ジェネットの自殖に由来する実生が圧倒的に優占(古渡86.8%、稲荷鼻94.7%)していることが判明した。しかし、地上部個体群から既に失われている対立遺伝子をもつ実生も59個体(全体の31%)確認された。主に自殖由来と考えられるそれらの実生の乾重量や相対成長率などの適応度成分は、自殖子孫と同程度であった。このことから、縮小した個体群の再生にあたってはボトルネックに起因する遺伝的悪影響を十分に考慮することの重要性が示された。

第5章では、アサザの個体群再生の実践に先だって必要な各生活史段階における基礎的な生態学的知見を得るための研究について記した。

残存する土壌シードバンクは、個体群サイズ(第3章)や遺伝的多様性(第4章)の回復の材料として有効であることが示された。局所個体群が近年消滅した湖内の他の湖岸においてもシードバンクを活用した再生の可能性を、各地点の湖岸における実生発生密度とその経年変化を調査することで検討した。湖岸での実生発生密度は2ヶ所(鳩崎・古渡)を除いて極めて低かった。また、鳩崎での実生発生密度は個体群消滅直後の1999年の43.4個体/m2から2005年には1.1個体/m2まで指数関数的に減少した。古渡では第3章と同様の手法でシードバンクの活用が可能であり早急に再生を実施する必要があること、他の場所では遺伝的多様性を保存するために実生を採取して系統保存する必要があること示された。

現在の水位条件でも実生定着を促すことができるものの(第3章)、定着後には季節的な水位上昇が生じない。水位条件が定着後の成長に及ぼす影響を評価するため、野外実験池における異なる水位条件での定着個体の成長を比較した。その結果、非冠水条件では走出枝伸長や成長が強く抑制された。定着後のクローン成長には冠水条件での生育が必須であることが示された。

霞ヶ浦における残存シードバンクは等花柱花の自殖子孫が優占的であり(第4章)、次世代以降における等花柱花の優占が懸念される。栽培実験により各花型の自殖子孫とシードバンク由来の個体の花型比を調査した。シードバンク由来の個体での等花柱花個体の優占が認められた。このことから再生される個体群における異型花柱性の崩壊が懸念される。

第6章では、霞ヶ浦の湖岸植生帯緊急保全対策事業の一環として2000年から鳩崎地区の湖岸で実施されているアサザ個体群の再生事業において、仮説検証のための科学的実験と位置付けて事業を実施する「順応的管理」を適用することで、アサザ個体群の再生・維持に必要な科学的知見を蓄積しつつ個体群の再生をすすめた研究の成果をまとめた。

実生定着セーフサイトとして推測される「波浪や冠水の影響の少ない裸地的環境」が、湖岸200mの範囲に土木工学的に整備された。一方で、事業の不確実性に備えて実生の系統保存がおこなわれた。2002年には267個体の定着個体が確認されたが、定着後の水位上昇が生じないことや抽水植物の優占による裸地的環境の消失により、2年後には生存数は65個体まで減少した。

第5章で得られた知見にもとづいて、(1)適度な波浪により定着個体が生育する場の比高の低下を促す処理および、(2)系統保存株の湖への移植という手法により、冠水条件での定着後の定着を実現する新たな管理を2004年から実施した。その結果、(1)の手法では地形変化は限定的であり浮葉型での生育を実現できなかったが、(2)の手法では、全ての個体が生残して開花に十分なサイズまで成長し、種子生産とともに近隣の湖岸での実生の出現が確認された。

生活補完アプローチを順応的管理の下で実施したことで、アサザの各生活史段階の環境要求性に関する知見が得られ、一部ではあるが実生更新を実現させることができた。しかし、自立的に有性繁殖が可能な個体群の再生には、霞ヶ浦本来の水位変動パターンの回復をまたなくてはならない。

第7章では本研究から得られた絶滅危惧植物の個体群再生に寄与する知見を総合的に整理した。

本研究では、アサザの生活史の各段階における制限要因と生活史全体の環境要求性を解明するとともに、有性繁殖のプロセスを人為的補助手段により補完することで、部分的に個体群を再生することに成功した。また、本研究を通じて、絶滅危惧植物の個体群サイズと遺伝的多様性の回復の材料としての土壌シードバンクの有効性や、このような再生の実践における順応的なとりくみの有効性、個体群の再生における遺伝的要因の重要性が明らかにされた。

審査要旨 要旨を表示する

申請者の研究は、市民・行政・研究者の協働によってアサザ個体群再生の取り組みがすすめられている霞ヶ浦において、土壌シードバンクからの個体群再生に必要な生態学的・遺伝学的諸条件の解明により当該事業の科学的推進に寄与することをめざして実施されたものである。

アサザは、かつては日本各地の湖沼やため池に広く分布していた水草である。近年、急速に衰退し、霞ヶ浦の個体群が唯一、複数のジェネットを含み有性生殖が可能な個体群である。しかし、利水計画にもとづく水位管理が強化された1996年頃から急速に衰退し、2000年までに残存ジェネット数19にまで減少した。江戸崎町の鳩崎地区の湖岸にみられた自殖能のある等花柱花モルフを含む個体群も1998年に消滅した。土壌シードバンク(土壌中の生存種子集団)からの実生の出現が観察されるが、その定着は認められていない。セーフサイト(実生の定着に必要な環境条件)が存在しないためと推測され、個体群再生のためにはセーフサイトを解明し、実生の定着を促すことが必須である。

申請者は、アサザのセーフサイトは、「春先の季節的水位低下で湖岸に露出する裸地的環境」であるとの仮説をたててそれを検証する実験を実施した。小規模な土木工事と植生管理によって波浪条件、冠水頻度、光条件のレンジを拡張し、導入した実生の生存と成長を追跡したところ、冠水頻度の低い比較的明るい(相対光量子密度が50%以上)条件で良好な実生定着が認められ、仮説が検証された。

次に、申請者は、土壌シードバンクから再生される実生集団における近交弱勢を、遺伝解析と栽培実験による適応度の測定によって検討した。近交弱勢が危惧されるのは、この場所に最後まで残存していた等花柱花ジェネットの自殖子孫が土壌シードバンク中で優占していると推測されるからである。そこで土壌シードバンクから出現した190の実生を湖岸の3ヶ所から採集し、遺伝解析によって親個体と交配時の自殖の可能性を推定するとともに、それら実生の生活史初期段階における適応度成分を系統保存株の人工授粉による自殖および他殖由来の子孫を対照として評価した。2つの実験的手法を組み合わせることで、近交弱勢が評価・予測が可能となり、個体群再生の過程において近交弱勢が大きな問題となる可能性が示唆された。すなわち等花柱花ジェネットの自殖に由来する実生が圧倒的に優占しており、実生の適応度も自殖の子孫と同程度に低いものであった。しかし、地上個体群から失われている対立遺伝子をもつ実生が確認されたことから、近交弱勢の発現に十分に留意しながら実生の確立をはかることで、個体群の大きさとともに遺伝的多様性の回復が期待できることが示唆された。

申請者はこれらの知見を順応的管理のための基礎情報とし、事業の一部を仮説検証のための科学的実験と位置付けて実施することで、再生に向けたより具体的な科学的知見を蓄積した。発芽・実生定着セーフサイトについての仮説にもとづき、国土交通省により「波浪や冠水の影響の少ない裸地的環境」を創成する土木工事が湖岸200mにわたって実施された。不確実性に備えて、市民団体および学校と協力して数百の実生をビオトープ池で系統保存した。2002年には事業地において267個体の定着個体が確認された。しかし、定着後の水位上昇が生じないこと、抽水植物が優占して裸地的環境が失われたことにより、2年後には生存数は65個体まで減少した。この実践の結果およびアサザの生態に関する研究成果にもとづき、2004年からは定着個体に冠水の機会を与えるための地盤低下を促す土木的処理および系統保存株の湖への移植が試みられた。計画した地形変化が十分でなく、定着個体の浮葉型への誘導には至らなかったが、湖内に導入した株はすべてが生残し、その多くが開花して、種子が生産された。またそれに由来すると考えられる実生の出現が近隣の湖岸で確認された。これらの結果を踏まえて次の段階の実践が計画されつつある。

このように、申請者は、生態学的・遺伝学的な研究成果を順応的管理に活用することで個体群再生に必要な知見を蓄積するとともに、実生更新を一部実現させて事業の成功に貢献した。また、近交弱勢とその影響の予測に関して総合的な実験アプローチを提案することで、保全生態学のみならず繁殖生態学や進化生態学に対する学術的な寄与を果たした。

申請者の研究は、自然再生事業の実践的な課題に応えるという応用面と絶滅リスクの遺伝的理解の深化という学術面の両面で、保全生態学の発展に寄与するものである。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値のあるものと認めた。

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