学位論文要旨



No 121315
著者(漢字) 津田,吉晃
著者(英字)
著者(カナ) ツダ,ヨシアキ
標題(和) 異なる地理的スケールにおけるウダイカンバの遺伝構造に関する研究
標題(洋) Study on genetic structure of Betula maximowicziana in various geographical scales
報告番号 121315
報告番号 甲21315
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3028号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 生圏システム学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 井出,雄二
 東京大学 教授 梶,幹男
 東京大学 教授 鷲谷,いづみ
 東京大学 助教授 石田,健
 森林総合研究所 生態遺伝研究室長 吉丸,博志
内容要旨 要旨を表示する

近年、森林の開発や伐採、大気汚染、気候変動などにより、世界的規模で森林における生物多様性が脅かされており(Ledig, 1988; Geburek, 1997; Newton et al., 1999)、保全の必要のある樹木種が多数認められている(Newton et al., 1999)。その様な背景にあって、種の進化に必要な潜在的な適応能力を決定付け、生態系維持にとっての本質的な要素である (M〓ller-Starck, 1995)とされる遺伝的多様性の保全も、その必要性が広く認識されるようになってきている(Cavers et al., 2003)。

そこで本研究では、ウダイカンバ(Betula maximowicziana)に着目し、その保全遺伝学研究をおこなった。ウダイカンバは、先駆樹種である一方長命であり、極相優占種となるため、冷温帯の生態系維持にとって極めて重要な樹種である。また経済的に価値が高い天然資源であり、伐採圧も高い。特に、最近ではウダイカンバ種苗の産地を考慮しない流通の動きもみられ、遺伝子撹乱が危惧されており、本種の遺伝的多様性の地理的構造および進化的歴史を考慮した保全単位設定が急務である。

本研究では、ウダイカンバの分布範囲を、広域 (wide scale)、地域 (local scale)、林分 (fine scale)の3つの地理的スケールに分け、その遺伝的多様性について主として分子マーカーを用いて調査した。広域スケールではフェノロジー形質として開葉および黄葉の地理的変異を調査した。そして各スケールで遺伝構造の形成機構について議論した。さらに、それらの情報に基づきウダイカンバ天然林の管理および保全に資する、保全単位の提案を行った。

広域スケールにおける遺伝構造

種の保有する遺伝的多様性は、その分布変遷や地域集団の隔離程度によって決定されている。そのため、遺伝的多様性の保全のためには、現在の遺伝構造を生じさせたプロセスそのものを保全する必要がある。そこで、分布域を網羅した範囲(広域スケール)を対象に、ウダイカンバが維持している遺伝的変異を評価した。

まず、本州中部の3集団および北海道の1集団、計4集団についてRAPDマーカーを用いて遺伝的多様性について調べ、集団間分化の有無を確認した。次いで、核ゲノムにおける遺伝的多様性の詳細を調べるために、分布域を網羅するよう設定した25集団について、核SSR11遺伝子座を用いて解析を行なった。また、葉緑体ゲノムの遺伝的多様性についても、PCR-RFLPを用いた解析を行った。これらの分子マーカーは一般に選択に対し中立と考えられる。

一方、種の遺伝的多様性を総合的に評価するには適応的形質に関する情報も欠かせない。そこで、全国11集団(地域)のウダイカンバ埋土種子あるいは実生を採取し、東京大学秩父演習林影森苗畑において発芽、生育させ、2005年秋に黄葉フェノロジーの地域間差について観察した。さらに、北海道立野幌森林公園に1961年に設定されたウダイカンバ産地試験林において21産地の開葉フェノロジーを2005年春に観察した。

RAPDマーカーを用いた分析の結果、集団内変異はどの集団も同程度であるが、集団間変異では、本州中部3集団は互いに遺伝的に似ており、北海道集団とはやや分化していた。

また、25集団の遺伝的多様性について、核SSRマーカーを用いて分析した結果、対立遺伝多様度は北の集団ほど低い値を示す傾向がみられた。しかし、集団間の遺伝的分化程度を示すFST(Weir and Cockerham, 1984)は0.060であり、核ゲノムからみた集団間の遺伝的分化程度は比較的低いことが示された。一方、集団間の遺伝的関係について、Nei et al. (1983)およびPritchard et al. (2000)などの複数の方法により評価したが、いずれの方法でも東北地方南部を境にその南北で北方型と南方型の2つの集団グループに分かれる傾向が検出された。

葉緑体DNAの解析では、岩手県岩泉集団以北の集団は北方ハプロタイプに、それより南の集団は南方ハプロタイプにほぼ固定されており、核SSRマーカーにより分けられた2つのグループは、より明確に判別された。また北上山地に位置する岩泉集団でのみ、北方型と南方型のハプロタイプが検出され、さらに岩泉集団固有のハプロタイプが検出された。葉緑体ゲノムでの集団間の遺伝的分化程度を示すGSTは0.950であり、ウダイカンバ集団は葉緑体DNAゲノムレベルでは非常に分化していることがわかった。

フェノロジーの調査結果も、紅葉および開葉いずれも北の集団ほど進行が早い傾向がみられ、分子マーカーで検出された北方型と南方型のグループをおおよそ支持する結果を得た。

これらの結果については、最終氷河期以降あるいはそれ以前の地史的イベントにより、東北地方中部以南と東北地方北部〜北海道では、それぞれ全く異なる創始者集団が分布拡大したことによると考えられる。特に、核SSRマーカーの稀な対立遺伝子多様度は東北地方のいくつかの集団で高かったことから、東北地方北部にも最終氷期最盛期にレフュージアがあったことが示唆された。

以上からウダイカンバの遺伝的多様性には地理的構造があることが明らかとなり、産地を考慮しない種苗の流通はHufford and Mazer(2003)らが指摘するように、持ち込まれた個体による創始者効果、遺伝的浸食、遠交弱勢などの負の影響につながると示唆された。

地域スケールにおける遺伝構造

種子や花粉による遺伝子流動を妨げる何らかの障壁が存在すると、集団間の遺伝的分化は促進され、遺伝構造が形成される。そこで、数10〜数km程度の地理的スケール(地域スケール)での集団間分化を把握することにより、ウダイカンバの遺伝的多様性保全に資する情報を取得することを目的に、秩父山地の実生1集団を含む14集団について核SSR11遺伝子座を用いて解析をおこなった。

その結果、集団内の遺伝的多様性はどの集団も同程度であった。集団間の遺伝的分化程度 FSTは0.020であり、比較的狭い範囲にもかかわらず、遺伝的分化が認められた。遺伝距離(Reynolds et al. 1983)を用いたクラスター分析では、秩父山地の2000mを超える稜線をはさんだ南西側2集団は北東側12集団とは遺伝的にやや分化していた。さらに北東側12集団間には遺伝的空間構造が検出されないが、南西側2集団を加えると空間構造が検出された。このことから、高い稜線が集団間の遺伝的障壁になっていることが示唆された。逆に、高い稜線などの障壁がなければ、地域内の集団間では活発な遺伝的交流がおこることが明らかになった。

林分スケールにおける遺伝構造

遺伝的多様性保全の最小単位は数100〜数10mの範囲に個体が分布する個別林分(林分スケール)に求められる。そこでウダイカンバ集団内の遺伝構造を明らかにすることで、各林分がどのような遺伝的多様性維持機構を持つのかについて考察した。

東京大学秩父演習林18林班の調査区内の成木27個体の遺伝構造について核SSR16遺伝子座を用いて調べた。マルチローカス遺伝子型の空間自己相関係数r (Smouse and Peakall, 1999)を用いて評価したところ、20m程度のごく短い距離階級で有意な遺伝構造が検出されたが、r値は比較的低く、また他の距離階級では有意な遺伝構造は検出されなかった。このことから、林分スケールにおける遺伝構造は弱いことが示唆された。この結果については、種子および花粉を介した高い遺伝子流動能力、高い他殖率といった木本樹種の一般的特徴に加え、強い自己間引きおよび埋土種子形成などのウダイカンバの種特性により、遺伝子の空間分布の偏りが打ち消されるためと考えられた。

総合考察

異なる地理的スケールにおけるウダイカンバの遺伝構造解析から、異なる進化的歴史背景をもつ系統の混合あるいは高標高の稜線などの遺伝的障壁により、遺伝構造は形成される一方、種子および花粉を介した高い遺伝子拡散能力、自己間引きあるいは埋土種子形成などの種特性により、遺伝的多様性が維持されていることが示唆された。

これら得られた結果をもとに、北海道、東北地方北部、北上山地、東北地方南部および本州中部の5つの保全単位を広域スケールにおいて提案した。核SSRマーカーによる25集団総当りのFSTはほとんどが統計的に有意だったため、各集団をそれぞれ1つの管理単位として扱うことが重要であるが、必要がある場合でも保全単位間の種苗の流通は控えるべきである。一方、地域スケールにおける遺伝的多様性維持のためには地形と遺伝子流動の実態に配慮した管理が必要であることが示唆された。さらに林分スケールでは、遺伝構造が弱いことから、過度の伐採をおこなわなければ、残存個体の他殖率低下や残存個体間の近親交配など伐採による負の影響は小さいことが示唆された。

以上、本研究ではまずウダイカンバが種として維持している遺伝的多様性を、広域スケールにおける複数の方法を用いた解析により総合的に評価できた。さらに異なるスケールにおける遺伝構造を体系的に評価できた。

日本では戦後の拡大造林の失敗や林業の不振から、近年広葉樹施業が注目されているにも関わらず、日本産広葉樹種の遺伝的多様性については、ブナなど一部樹種を除いてはほとんど研究されていない。また既往の研究では、分子マーカーなどの中立形質および適応的形質の評価など複数の方法による、遺伝構造についての体系的な考察はほとんどなされていない。それ故、本研究は木本樹種における保全遺伝学だけでなく、系統地理学などにも先駆的研究として貢献するものといえる。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は、冷温帯生態系の重要樹種であるウダイカンバ(Betula maximowicziana)の保全遺伝学研究を行ったものである。ウダイカンバの分布範囲を、広域、地域、林分の地理スケールに分け、その遺伝的多様性について分子マーカーあるいはフェノロジー形質を用いて調査した。そして各スケールで遺伝構造の形成機構について議論し、その情報に基づいてウダイカンバ天然林の管理および保全に資する、保全単位の提案を行った。

種の遺伝的多様性は、分布変遷や地域集団の隔離程度により決定される。そこでまず、分布域を網羅した広域スケールを対象に、ウダイカンバが維持している遺伝的変異を評価した。本州中部および北海道の4集団についてRAPDマーカーを用いて遺伝的多様性について調べ、集団間分化の有無を確認した。その結果、集団内変異はどの集団も同程度であるが、集団間では、本州中部3集団と北海道集団とはやや分化していた。次いで、分布域全体に設定した25集団について、核SSR11遺伝子座の解析を行なった。その結果、対立遺伝子多様度は北の集団ほど低い値を示す傾向がみられたが、集団間の遺伝的分化程度は比較的低かった。集団間の遺伝的関係は、東北地方南部を境に北方型と南方型の2分される傾向にあった。さらに、葉緑体ゲノムの遺伝的多様性について、PCR-RFLPによる解析を行った。その結果、ウダイカンバ集団は葉緑体ゲノムレベルでは非常に分化しており、核SSRマーカーにより分けられた2グループは、より明確に判別された。一方、種の遺伝的多様性の総合評価には適応的形質の情報も欠かせない。そこで、全国11集団の苗木について、黄葉フェノロジーの地域間差を観察した。さらに、ウダイカンバ産地試験林において21産地の開葉フェノロジーを観察した。その結果、黄葉、開葉いずれも北の集団ほど進行が早い傾向がみられ、分子マーカーで検出された2グループをおおよそ支持する結果を得た。これらは、地史的イベントにより、東北地方中部以南と東北地方北部〜北海道では、それぞれ全く異なる創始者集団が分布拡大したことによると考えられる。以上からウダイカンバの遺伝的多様性には地理的構造があることが明らかとなり、産地を考慮しない種苗流通は、在来集団へ負の影響を与えることが示唆された。

遺伝子流動を妨げる障壁が存在すると、集団間の遺伝的分化は促進され、遺伝構造が形成される。そこで、数〜数10kmの地域スケールでの集団間分化の把握を目的に、秩父山地の14集団について核SSR11遺伝子座の解析をおこなった。その結果、集団内の遺伝的多様性はどの集団も同程度であったが、集団間の遺伝的分化が認められた。また、2000mを超える稜線をはさんだ南西側2集団は北東側12集団とは遺伝的にやや分化していた。さらに北東側集団間には遺伝的空間構造は検出されなかった。このことから、高い稜線が集団間の遺伝的障壁になっていることが示唆され、逆に、障壁がない地域内の集団間の活発な遺伝的交流が明らかになった。

遺伝的多様性保全の最小単位は個別林分に求められる。そこで最後に、林分スケールでの遺伝構造を明らかにし、その遺伝的多様性維持機構について考察した。東京大学秩父演習林の成木27個体からなる林分の遺伝構造について核SSR16遺伝子座により調べたところ、20m程度のごく短い距離階級で有意な遺伝構造が検出されたが、自己相関係数は比較的低く、また他の距離階級では有意な遺伝構造は検出されなかった。このことから、林分スケールの遺伝構造は弱いことが示唆された。

これらの結果をもとに、広域スケールにおいては、北海道、東北地方北部、北上山地、東北地方南部および本州中部の5つの保全単位を提案した。一方、地域スケールにおける遺伝的多様性維持のためには地形と遺伝子流動の実態に配慮した管理が必要であることが示唆された。さらに林分スケールでは、遺伝構造が弱いことから、過度の伐採を行わなければ、残存個体の他殖率低下や残存個体間の近親交配など伐採による負の影響は小さいことが示唆された。

以上、本研究ではウダイカンバが種として維持している遺伝的多様性を、広域スケールにおける複数の方法を用いた解析により総合的に評価し、さらに異なるスケールにおける遺伝構造も体系的に評価した。日本では広葉樹種の遺伝的多様性については、ほとんど研究されていない。また既往の研究では、中立形質および適応的形質の評価など複数の方法による、遺伝構造についての体系的な考察もほとんどなされていない。それ故、本研究は木本樹種における保全遺伝学だけでなく、系統地理学などにも先駆的研究として貢献するものといえ、学術上、応用上寄与するところが大きい。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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