学位論文要旨



No 121317
著者(漢字) 山田,晋
著者(英字)
著者(カナ) ヤマダ,ススム
標題(和) 谷津田地域における植物相保全・再生のための緑地生態学的研究
標題(洋) Landscape ecological studies for the conservation and restoration of the floristic diversity in Yatsuda agro-ecosystem
報告番号 121317
報告番号 甲21317
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3030号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 生圏システム学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 武内,和彦
 東京大学 教授 鷲谷,いづみ
 東京大学 教授 大森,博雄
 東京大学 教授 大澤,雅彦
 東京大学 助教授 加藤,和弘
内容要旨 要旨を表示する

我が国の代表的な里地の一つに,台地や丘陵地,低山地の開析谷に分布する水田とその周辺の里山林などから構成される谷津田地域が挙げられる。ここは草原生や湿地生の植物種の宝庫であったが,営農条件の悪い谷津田における水田の耕作放棄に伴って,こうした植物相の減少が問題となっている。

谷津田を構成する水田や畦畔,水田に接する斜面林の下端に位置する刈り取り草地(以下,裾刈り草地と呼ぶ)は,上記の植物相の主要な生育立地である。これら立地の規模や土壌水分・光条件などは,谷津田の位置する地形域,たとえば丘陵地と台地で大きく異なることが知られ,成立する植物相は,そうした環境条件の違いに応じて異なることが予想される。そのため,失われつつある谷津田地域の多様な植物相を維持するには,谷津田景観の構造をふまえ,草原生・湿地生種を中心とした保全・再生すべき植物相と生育条件を十分に理解しておかなければならない。

そこで本研究では,全国でも谷津田景観が広く分布する関東地方を対象に,畦畔や裾刈り草地の環境条件を考慮した谷津田景観の類型化を行い,抽出された景観類型ごとに選んだ対象地で,水田,畦畔,裾刈り草地に成立する植物相とその立地を精査した。各立地に成立する植物相を景観類型間および景観類型内で比較することで,谷津田景観の構造に応じた植物相と生育条件の関係について把握した。さらに,農業管理が放棄された谷津田景観の一つで,農業活動再開による植物相再生実験を行い,草原生・湿地生種を中心に,谷津田景観の典型的な植物相の再生可能性を検討した。

関東地方における谷津田景観の類型化

谷津田の湿地生・草原生種の生育立地に影響する環境条件を規定する要因として,畦畔法面の長さを規定する谷底縦断面の傾斜と,谷津田周辺の環境傾度の大きさを決定する,台地の段丘面および丘陵地・山地の尾根と谷底との比高に注目し,谷津田景観の類型化を行った。およそ5km四方のグリッドを解析単位とし,標高データと植生図を用いて地理情報システムによる解析を行った。幅がおよそ300m以下で,縦断面比高が2〜60mの谷底面に水田が位置した場合を谷津田と定義し,それが解析単位に5%以上確認できたものを谷津田景観として抽出した。

その結果,関東地方の谷津田景観は,比高および谷底面の縦断面傾斜が,小さいものから大きくなる順に,台地に分布するもの,小起伏丘陵地に分布するもの,大起伏丘陵地・小起伏山地に分布するものに分けられ,畦畔法面や裾刈り草地の規模はこの順に大きくなると予測された。大起伏丘陵地と低起伏山地は,比高および谷底面の縦断面傾斜の点で一つにまとめられると考え,谷津田景観を,台地,小起伏丘陵地,および大起伏丘陵地と小起伏山地を1つにまとめた3つに類型化して捉えることとした。

台地の谷津田(以下,台地型谷津田と呼ぶ)は,第四紀の隆起帯に位置する,開析が進んだ台地にみられ,小起伏丘陵地の谷津田(同,丘陵地型谷津田)は,第四紀前・中期更新世の堆積物に覆われる地域にみられた。大起伏丘陵地,低起伏山地(同,低山地型谷津田)は第三紀の堆積物や基盤岩に覆われる地域にみられた。

3つの谷津田景観に成立する植物相の把握

上記の3つの景観類型から,台地型谷津田の典型として下総台地の谷津田,丘陵地型谷津田として多摩丘陵の谷津田,低山地型谷津田として八溝山地の谷津田を選び,谷津田で営農が行われている小流域を各1カ所ずつ調査対象地とした。水田,畦畔,裾刈り草地において植生調査を行い,種組成の特徴を景観類型間と立地間で比較した。その際,植物社会学の分類体系におけるクラスレベルの標徴種群の出現状況に注目しながら,全出現種を最適生育立地タイプに分類し,タイプ間の比較も行った。

その結果,すべての景観類型で,水田,畦畔,裾刈り草地の順に出現種数は多くなった。景観類型ごとに各立地に出現した種を比較したところ,水田と裾刈り草地の場合,いずれの景観類型でも,他の立地にはみられない特異な種(以下,立地特異種と呼ぶ)が多かった。畦畔の立地特異種は,裾刈り草地と共通する種が多いことから,いずれの景観類型でも種数が限られた。

立地ごとに景観類型間で種組成の類似性を比較したところ,いずれの立地でも同様にばらついたが,最適生育立地タイプの出現割合は地域間で異なった。水田の場合,すべての景観類型で,出現種のほとんどがイネクラス標徴種をはじめとする湿地生種で構成された。畦畔では,台地型谷津田にはシロザクラスをはじめとする畑地生種が卓越した。丘陵地型谷津田には,台地型谷津田の種に加えてススキクラス標徴種をはじめとする草原生種がみられるようになり,さらに,低山地型谷津田には,上記の畑地,草原生種に加え,ノイバラクラス標徴種などの林縁生種が出現した。これは,畦畔法面のほとんど存在しない台地型谷津田から,長い畦畔法面を持つ低山地型谷津田への,谷津田をとりまく環境条件の違いに対応する変化であると考えられた。裾刈り草地は,いずれの景観類型でも草原生および林縁生種が卓越する立地であり,台地型谷津田,丘陵地型谷津田,低山地型谷津田の順に草原生種が増加した。また,台地型谷津田では畑地生種が多く確認され,さらに,丘陵地型谷津田では,水田とは異なる湿地生種が多く出現した。

裾刈り草地における植物多様性とそれを規定する立地条件

裾刈り草地は,いずれの景観類型においても最も種多様性が高く,立地特異種も多いことが確認され,谷津田地域における植物相保全にとって重要な立地であることが示された。そこで,裾刈り草地における種多様性を規定する要因について,光や土壌水分条件,斜面上部に出現する植生と関連させながら,さらに詳細な調査を行った。

その結果,景観類型いずれも,裾刈り草地に設置した植生調査区ごとの種組成は,光,土壌水分条件,斜面上部の植物種組成に対応した。すなわち,主として南向き斜面で相対日射量が概ね40%以上の地点には,草原生種が卓越する群落が成立し,主に北向き斜面では,林縁生・樹林生種が草原生種を上回る群落が成立した。

一方,景観類型ごとの特徴もみられた。すなわち,台地型谷津田で畑地に接する裾刈り草地では,日射量の大小に関わらず,畑地生種が多く生育した。また,丘陵地型谷津田では,帯水層となる砂層最下部が丘陵地斜面下部に直接露出する過湿な裾刈り草地には,湿地生種が卓越した。

放棄された谷津田における農業活動再開による植物相再生実験

丘陵地型谷津田を事例として,農業活動再開による谷津田の植物相再生可能性を評価した。前述の丘陵地型谷津田の調査地に隣接する約10年間放棄された地区において,水田や畦畔の復元を行った。その後,伝統的な手法による水田耕作と畦畔管理,裾刈り草地では年2〜3回の刈り取り管理実験を行った。前述の調査と同様に,3つの立地それぞれで,再生実験開始後8年目にモニタリングを行った。得られたデータを前述の同景観類型のものを対照地として比較し,植物相再生可能性を評価した。

モニタリングの結果,水田では,耕作の再開によって,出現種数,水田雑草の種組成ともに,対照地の水田と同様の植物相が再生された。畦畔も,畦畔を特徴づけるオオジシバリ−ミゾカクシ群落の構成種が確認されたことから,再生可能性が高いことがわかった。一方裾刈り草地では,優占種や光・土壌水分条件の類似した対照地と種組成の特徴を比較した結果,その類似性は低く,同様の立地条件にある裾刈り草地に出現する種の過半を占める半地中植物の割合が,再生地では明らかに低く,とくに,林縁生種に比べ,草原生種の欠落傾向が認められた。

また,水田雑草を保全する際の適切な水田耕作の頻度を明らかにするために,耕作を再開した後,再び3年間耕作を停止した区画を設け,継続的に調査を行った。その結果,耕作を停止した実験区では,休耕1年目には周辺の耕作水田以上の水田雑草がみられたが,2年目以降は急激に減少した。したがって,水田耕作は2年間に一度以上行う必要があることが明らかになった。

総合考察:谷津田地域における保全すべき立地とその再生可能性

本研究では,谷津田景観を地形特性に応じて,台地型谷津田,丘陵地型谷津田,低山地型谷津田に類型化したが,これらの景観類型は,畦畔や裾刈り草地が成立する立地特性の違いを反映し,植物相も大きな差異を呈することが明らかとなった。したがって,この景観類型は,谷津田地域における植物相保全の検討に際して,有用な分類基準であると考えられる。水田の植物相は,人為による管理の影響を強く受けた結果,谷津田景観の構造に関係なく同様な種組成の特徴を示した。一方,畦畔の植物相は,台地型から低山地型谷津田に向かって谷底面の縦断面勾配が大きくなり,草原生種数や林縁生種数が顕著に増加した。裾刈り草地の植物相は,台地型谷津田から低山地型谷津田に向かって,谷底面から段丘面・尾根までの比高が大きくなり,草原生種数が増加する。また,表層地質の影響を受け,とくに,帯水層と難水層の互層によって形成される丘陵地型谷津田では過湿な立地に特異な湿地生種が生育しており,景観類型ごとの植物相の特性が,最も顕著に表れた。さらに,水田や畦畔と比較すると立地特異種も多かったことから,裾刈り草地は,谷津田地域全体の植物相を保全する際に,高い優先度が与えられるべき立地と判断された。

谷津田の植物相再生に関する本研究の成果から,すべての景観類型で水田に出現した種組成の特徴は類似したため,水田の植物相は丘陵地型谷津田以外の景観類型でも同様に再生できると考えられる。畦畔と裾刈り草地については,景観類型ごとで立地特性と植物相が大きく異なることから,丘陵地型谷津田における事例を他の景観類型へ適用することは難しいと判断される。とくに,裾刈り草地に関しては,再生実験による植物相の再生が不十分であったことから,他の景観類型においても実験を行うと同時に,現在の実験と植物相再生モニタリングを長期継続する必要がある。

審査要旨 要旨を表示する

日本の代表的な里地の一つである谷津田は,台地や丘陵地,低山地の開析谷に分布する水田とその周辺の里山林などから構成される。この谷津田が多数分布する谷津田地域では,農業管理の粗放化に伴って,近年,草原生・湿地生植物の著しい減少がみられる。これらの植物の主要な生育立地である水田や畦畔,水田に接する斜面林の下端に位置する刈り取り草地(以下,裾刈り草地と呼ぶ)等の立地の規模は,谷津田の位置する地形によって大きく異なることが知られている。それゆえ,そこに生育する植物相を維持するには,谷津田景観の構造をふまえ,保全・再生すべき植物相と生育条件との関係を理解しなければならない。そこで本研究では,谷津田景観が広く分布する関東平野を対象に,環境条件を考慮した谷津田景観の類型化を行い,抽出された景観類型ごとに選んだ対象地に成立する植物相とその立地を精査した。さらに,農業管理が放棄された谷津田景観の一つで,農業活動再開による植物相再生実験を行い,草原生・湿地生種など,谷津田景観の典型的な植物相の再生可能性を検討した。

まず,畦畔法面の長さを規定する谷底縦断面の傾斜と,谷津田周辺の環境傾度の大きさを決定する,台地の段丘面および丘陵地・山地の尾根と谷底面との比高に注目し,谷津田景観の類型化を行った。その結果,関東平野の谷津田景観は,比高および谷底面の縦断面傾斜が,小さいものから大きくなる順に,台地に分布するもの(以下,台地型谷津田と呼ぶ),小起伏丘陵地に分布するもの(同,丘陵地型谷津田),大起伏丘陵地・小起伏山地に分布するもの(同,低山地型谷津田)の3つに類型化できることがわかった。

つぎに,台地型谷津田,丘陵地型谷津田,低山地型谷津田の典型として,下総台地,多摩丘陵,八溝山地から,営農が行われている小流域を各1カ所ずつそれぞれ選び,水田,畦畔,裾刈り草地において植生調査を行った。その結果,水田の構成種は,すべての景観類型で湿地生種が優占した。畦畔では,台地型谷津田には畑地生種が優占し,丘陵地型谷津田には,台地型谷津田の種に加えて草原生種がみられるようになり,さらに,低山地型谷津田には,畑地・草原生種に加え,林縁生種が出現した。これは,畦畔法面のほとんど存在しない台地型谷津田から,長い畦畔法面を持つ低山地型谷津田への,谷津田をとりまく環境条件の違いに対応する変化であると考えられた。裾刈り草地では,台地型谷津田,丘陵地型谷津田,低山地型谷津田の順に草原生種が増加した。また,台地型谷津田では畑地生種が多く確認され,さらに,丘陵地型谷津田では,水田とは異なる湿地生種が多く出現した。一方,すべての景観類型で,水田,畦畔,裾刈り草地の順に出現種数は多くなった。景観類型ごとに各立地に出現した種を比較したところ,水田と裾刈り草地では,いずれの景観類型でも,他の立地にはみられない特異な種(以下,立地特異種と呼ぶ)が多かった。

以上の結果を踏まえて,種多様性,立地特異種の観点から,植物相保全にとって重要な立地であることが示された裾刈り草地における種多様性を規定する要因について,光や土壌水分条件,斜面上部に出現する植生と関連させながら,さらに詳細な調査を行った。その結果,景観類型いずれにおいても,裾刈り草地に設置した植生調査区ごとの種組成は,光・土壌水分条件,斜面上部の植物種組成に対応した。草原生植物の出現種数は南向きの明るい立地に多く見られた。台地型谷津田で畑地に接する裾刈り草地では,畑地生種が多く生育した。また,丘陵地型谷津田では,帯水層となる砂層最下部が丘陵地斜面下部に直接露出する過湿な裾刈り草地には,湿地生種が卓越した。

さらに,丘陵地型谷津田を事例として,農業活動再開による谷津田の植物相の再生可能性を,前述の丘陵地型谷津田の調査地に隣接する約10年間放棄された地区において,伝統的な農業管理を再開することで検証した。その結果,水田雑草,畦畔植物の種数から判断すると,水田,畦畔では,耕作の再開による植物相の再生可能性が高いことがわかった。一方裾刈り草地では,草原生種の欠落傾向が認められた。

本研究で行った景観類型は,畦畔や裾刈り草地が成立する立地特性の違いを反映し,植物相にも大きな差異をもたらしていることが明らかとなった。したがって,この景観類型は,谷津田地域における植物相保全の検討に際して,有用な分類基準であると考えられる。裾刈り草地は谷津田地域全体の植物相を保全する際に,高い優先度が与えられるべき立地であり,なかでも各景観類型中で最も多くの草原生植物を育んでいた南向きの明るい立地は,谷津田地域全体の植物相を保全する際に,高い優先度が与えられるべきであると判断された。また,表層地質の影響を受け,帯水層と難透水層の互層によって形成されるため,特異な湿地生種が生育する丘陵地型谷津田は,景観類型ごとの植物相の特徴が最も顕著に現れ,とくに高い優先度が与えられるべきであると考えられる。谷津田の植物相再生に関する実験結果から,水田の植物相はすべての景観類型で,同様に再生できると考えられるものの,畦畔と裾刈り草地については,景観類型ごとで立地特性と植物相が大きく異なることから,他の景観類型についても同様の実験を行う必要があると判断される。

以上要するに本研究は,地形量を指標とした谷津田景観の類型化を行い,その類型に応じた谷津田地域の植物相保全・再生の可能性を提示した研究として評価できる。よって審査委員一同は,博士(農学)の学位を与えるに十分値する論文であると判断した。

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