学位論文要旨



No 121323
著者(漢字) 中村,佳代
著者(英字)
著者(カナ) ナカムラ,カヨ
標題(和) 攻撃行動発現に関わる個体識別の役割
標題(洋)
報告番号 121323
報告番号 甲21323
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3036号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用動物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 森,裕司
 東京大学 教授 西原,真杉
 東京大学 教授 千田,和広
 東京大学 助教授 高橋,伸一郎
 東京大学 助教授 武内,ゆかり
内容要旨 要旨を表示する

地球上の多くの動物にとって、においは最も重要な情報伝達手段の一つであり、情報収集を視覚に頼ったヒトでさえも、配偶者選択などにおけるにおいコミュニケーションの重要性が、近年明らかになりつつある。繁殖相手、資源の確保や、子孫保護のために縄張りを保持する動物は、縄張り周囲に自分自身のにおいによるマーキングを行うことによって縄張りを誇示し、群れの仲間以外の侵入者に対しては攻撃行動を発現することで、これを排除しようとする。この縄張り性攻撃行動は、雌や若い個体に対しても発現されるが、雄に対するものと比較すると少ない。雄間の縄張り性攻撃行動の発現には、少なくとも二つのシグナルが関与していると考えられる。一つは雄としてのにおいであり、もう一つは仲間意識に関わるシグナルである。雄マウスの尿中には、攻撃行動を誘発する攻撃フェロモンが含まれており、去勢された雄や雌に対する攻撃行動は、これらフェロモンの減少によって、抑制されると考えられている。また、縄張り性の攻撃行動の目的は、侵入者を追い払うことであるため、群れの仲間と侵入者を見分ける個体識別も、攻撃行動発現に重要な役割を持つ。本研究では実験室でも再現可能な縄張り性の攻撃行動を指標とし、雄を雌及び、去勢雄とともに群飼育し、交尾経験のある通常雄の縄張り性攻撃行動を指標として、その攻撃行動発現に関与する雄のにおいと仲間意識、特に尿中のにおい情報との関連について検討した。

第一章は緒言であり、攻撃行動の種類と、雄のにおい及び、仲間意識と縄張り性攻撃行動発現の関係等について解説し、個体識別とにおいとの関連についてのこれまでの研究背景について概略し、本研究の目的を述べた。

第二章では、本研究を遂行するにあたっての、マウス群飼育の条件設定について検討を行なった。実験1では、より自然状態に近い飼育条件とするため、通常雄(resident)、通常雌、そして去勢雄(cage-mate)の3頭での縄張り作製方法を検討した結果、縄張り作製のためには、cage-mateの去勢は8週齢以前、すなわち性成熟以前に行なう必要のあることが示された。さらに、residentは4.5週齢以降に去勢した見知らぬ去勢雄(UFC)に対しては攻撃行動を示すのに対し、3.5週齢に去勢したUFCに対する攻撃行動発現は減少することが示された。以上の結果から、本研究を遂行するにあたり最適な群作製のため、cage-mateとUFCはいずれも4.5週齢時に去勢手術を行うこととした。実験2では、cage-mateに対する攻撃行動発現について検討した。攻撃行動試験10分前に、cage-mate、雌そしてその仔をホームケージから取り出し、residentのみとなったケージに、見知らぬ通常雄(intact)、UFC、あるいはcage-mateをそれぞれ10分間導入し、residentの攻撃行動を観察した。ResidentはUFCに対しては、intactに対するものと同様の攻撃行動を示したのに対し、cage-mateに対する攻撃行動は抑制された。この結果から、residentは同一近交系内においても、cage-mateとUFCの個体識別が可能であり、攻撃フェロモンなど、雄のにおいが攻撃行動を発現するというよりはむしろ、仲間の個体であると認知することによって攻撃を抑制していることが示唆された。

Residentは、cage-mateとUFCを、何を手がかりに用いて識別しているのだろうか。マウスでは口唇、唾液、包皮腺、尿、糞、膣分泌物、耳, 足腺などがにおい源とされているが、特に尿には年齢、性別、生理状態、生殖状態など、様々な個体情報が含有され、縄張りの誇示に利用されていると考えられている。そこで第三章ではresidentがcage-mateを識別する情報は尿中にあると仮定し、尿添付による攻撃行動の変化を三種類の実験を行い検討した。実験1では、第二章と同様の方法で攻撃行動試験を行ない、UFCにcage-mateの尿を添付してホームケージに導入したところresidentの攻撃行動は抑制されたが、UFCの尿添付によっての抑制効果は認められなかった。以上の結果から、cage-mateの尿はUFCへの攻撃行動を抑制することが示唆された。一方、intactにcage-mateの尿を添付しても攻撃行動の抑制効果は認められなかったことから、cage-mateの尿の効果は、去勢雄のみに限られ、通常雄ではおそらく攻撃フェロモンなど雄由来のにおいが強く作用するために、個体情報による攻撃行動抑制が起こらないのであろうと推測された。

続いて、実験2ではcage-mateの尿による攻撃行動抑制効果の要因が、現在慣れ親しんでいる群れのにおいによるものか、あるいはその個体特有のにおいによるものかという点について検討した。食物は尿のにおいに影響を及ぼすことが知られている。縄張り内の個体は同じ食物を摂取しており、したがって尿中成分を共有している可能性が高い。そこで、食物を変更することにより、cage-mateの尿のにおいを変化させ、食物変更以前のcage-mate尿による攻撃行動抑制効果を検討した。餌をラット、マウス用の餌からミニ豚用の餌に変更し、1週間後に餌変更以前にcage-mateから採取した尿を、UFCに添付し、residentに提示したところ、攻撃行動抑制の効果が認められた。このことから、residentは、今現在共有しているにおい情報ではなく、cage-mateの尿中に存在する、おそらく食物変化には影響を受けない個体特有の情報を元にcage-mateであると判断し、攻撃行動発現を抑制していることが示唆された。

さらに実験3では、同一近交系であるcage-mateとUFCの間において個体特有の情報の違いが決定される時期の候補のひとつとして、胎生期に着目した。母親の受けるストレスは、胎内の仔の出生後の行動や、内分泌反応などに大きな影響を及ぼすなど、胎内環境が仔に与える影響は大きいことが知られている。そこで、胎内環境を共有した個体、つまり同腹子間では、行動や内分泌反応と同様においも、異腹の個体と比較してより似ているのではないかとの仮設を立て、cage-mateと同腹の個体(UFCL)に対する攻撃行動を調べた。すると、見知らぬ個体であるにもかかわらず、UFCLに対する攻撃行動は抑制される傾向が認められ、さらにUFCLの尿を実験1と同様にUFCに添付したところ、UFCに対する攻撃抑制効果が認められた。以上の結果から、同腹子の個体同士は、異腹の個体と比較して、尿中に含まれる攻撃抑制に関与する個体情報が似通っていることが示唆された。以上、第三章の結果から、cage-mateとUFCを識別するにおいの手がかりは尿中にあることが明らかとなった。さらにそのにおいは食物変化など環境変化にはあまり影響を受けない個体特有の情報であること、residentはその情報を記憶し個体識別に利用していることが示唆された。また、その個体識別に関する情報は、同腹子間では似通っていることも推察された。

マウスの尿中に含まれる個体識別に関与する物質として、主要組織適合性抗原複合体遺伝子群(major histocompatibility complex : MHC)由来の成分と、マウス尿中主要タンパク複合体(major urinary proteins : MUPs)が知られている。MHCは一連の細胞膜結合型糖たんぱく質をコードする遺伝子の複合体で、免疫細胞の自己―非自己の識別に関与している一方、仔の認知や配偶者選択におけるにおい情報にも大きな影響を与えている。MUPはマウスやラット(ラットの場合はalpha(2U)-globulins)の尿中に存在する18−22KDaのリポカリンで、マウスにおいては一日に20−40mgが分泌される。また、MUP由来のにおいは、縄張り防衛や個体識別情報の提供に関与しているとされている。第四章では、前章までに示された攻撃行動抑制に関与する尿中の個体識別情報が、MUP関連の物質であるか否かを明らかにするため、cage-mateの尿を分子量3000Da以下の低分子物質と、3000Da以上の高分子物質とに分画し、それぞれの画分添付による攻撃行動抑制効果を比較検討した。その結果、低分子画分を添付されたUFCに対する攻撃行動は、高分子画分を添付されたUFCに対するものと比較し、有意に減少した。尿中に多量に含まれ、マウス個体識別に関与するといわれてきたMUPは低分子画分には認められなかった。今回の実験結果から、MUPに結合している低分子物質、もしくはMUPとは関わりのない低分子のペプチド、酸、不揮発性物質、揮発性物質などが、攻撃行動抑制に関与する個体情報源であることが示唆された。

第五章は総合考察であり、本研究の結果を要約するとともに、去勢雄に対しても攻撃行動が認められたことの生物学的意義、個体識別に関わる尿中成分、攻撃行動抑制の脳内メカニズム等について考察を行ない、今後の研究展望を述べた。

以上、本研究の結果から、(1)去勢雄であっても攻撃行動を受けること、(2)攻撃行動を抑制する個体情報は尿中に含まれ、それは同一近交系内であっても識別可能であること、(3)尿中の個体識別情報は食物による影響は受けないこと、(4)尿中の個体情報は同腹子間では似通っていること、(5)尿中の個体識別情報は3000Da以下の低分子物質であることが示唆された。今後、さらなる研究により、攻撃抑制に関与する個体情報の解明及び、攻撃抑制のメカニズム二ついて明らかになることが期待される。

審査要旨 要旨を表示する

繁殖相手や資源の確保、子孫保護等のために縄張りを保持する動物は、群れの仲間以外の侵入者に対しては攻撃行動を発現することで、これを排除しようとする。この雄間の縄張り性攻撃行動の発現には、少なくとも二つのカテゴリーのシグナル、すなわち雄のにおいと仲間の認識に関わるシグナルが関与していると考えられる。本研究では、雄マウスを雌および去勢雄とともに群飼育し、雄の縄張り性攻撃行動を指標として、その攻撃行動発現に関与する雄のにおいと仲間の認識とくに尿中のにおい情報との関連について検討が行われた。本論文は5章から構成され、第1章において本研究の背景と目的が論じられた後、第2章から第3章では本研究で実施された各実験について記述され、第5章において本研究で得られた結果をもとに総合考察が行なわれている。

第2章では、まず本研究を遂行するにあたってのマウス群飼育の条件設定についての検討が行なわれた。より自然な状態に近い飼育条件とするため、雄(resident)、雌、そして去勢雄(cage-mate)の3頭での縄張り作製方法が検討された結果、residentが4.5週齢時に群飼育を開始し、cage-mateおよび見知らぬ雄(UFC)の去勢を4.5週齢時に行なうことで安定した縄張りが成立し、UFCに対する攻撃行動発現が観察されることが示された。residentは、UFCに対してはintactに対するのと同様の攻撃行動を示したのに対し、cage-mateに対する攻撃行動は抑制された。この結果から、residentは同一近交系内においても個体識別が可能であり、雄のにおいによる攻撃行動発現というメカニズムに加えて、仲間の個体との認識によって攻撃性が抑制されるメカニズムの存在が示唆された。

続く第3章ではresidentがcage-mateを識別する情報は尿中にあると仮定の上で、尿添付による攻撃行動の変化について検討された。第2章と同様の方法で攻撃行動試験を行ない、UFCにcage-mateの尿を添付してホームケージに導入したところresidentの攻撃行動は抑制されたが、UFCの尿添付によっては抑制が認められなかった。一方、intact雄にcage-mateの尿を添付しても攻撃行動抑制は認められなかったことから、cage-mateの尿の効果は去勢雄に限られることが示唆された。さらに尿添付による攻撃行動抑制効果の要因について検討するため、食物変更によりcage-mateの尿のにおいを変化させたのち、食物変更以前のcage-mate尿による攻撃行動抑制効果が検討された。餌をラット、マウス用の餌からミニ豚用の餌に変更し、1週間後に餌変更以前にcage-mateから採取した尿をUFCに添付しresidentに提示したところ、攻撃行動抑制の効果が認められた。このことから、residentは、cage-mateの尿中に存在する、おそらく食物変化には影響を受けない個体特有の情報をもとに個体識別を行い、攻撃行動発現を抑制していることが示唆された。続いてcage-mateと同腹の個体(UFCL)に対するresidentの攻撃行動を調べたところ、見知らぬ個体であるにもかかわらずUFCLに対する攻撃行動は抑制される傾向が認められ、さらにUFCL尿の添付により攻撃行動発現は減少した。以上の結果から、同腹子の個体同士は、異腹の個体と比較して、尿中に含まれる攻撃抑制に関与する個体情報が似通っていることが示唆された。この結果から、個体識別の手がかりは尿中のにおいにあることが明らかとなり、そのにおいは食物変化など環境要因にはあまり影響を受けない個体特有の情報であること、そしてresidentはその情報を記憶し識別に利用していることが明らかとなった。また、その個体識別に関する情報は、同腹子間では類似していることも示された。

第4章では、前章までに示された攻撃行動抑制に関与する尿中の個体識別情報の物性を探るため、まずcage-mateの尿を分子量3000Da以下の低分子物質(LMW)と、3000Da以上の高分子物質(HMW)とに分画し、それぞれの画分添付による攻撃行動抑制効果が比較検討された。その結果、LMWを添付されたUFCに対する攻撃行動は、HMWを添付されたUFCに対するものと比較し有意に減少し、さらにLMWをエーテル抽出したところ攻撃抑制効果は水溶性区画分に認められた。これらの結果から、同居個体の尿中の水溶性低分子物質が見知らぬ個体に対する攻撃行動発現を抑制する効果をもち、それは食物変化による影響を受けず、同腹子ではより類似したものであることが示唆された。

以上、本研究ではまず、マウスの縄張り性攻撃行動を指標とした個体識別能力の評価系が開発され、これを用いて雄マウスの攻撃性発現には相手が仲間かどうかの識別が関与していることや、その手がかりとなるにおいは遺伝的基盤をもつ個体特有のものであり低分子で水溶性の物質であることなどが見出された。こうした研究の成果は、哺乳類における個体識別やそれに関連する社会行動発現のメカニズムを理解する上で重要な知見であり、学術上貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は申請者に対し博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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