学位論文要旨



No 121324
著者(漢字) 生見,尚子
著者(英字)
著者(カナ) ヌクミ,ナオコ
標題(和) 乳清酸性タンパク質の乳腺細胞に対する分子制御機構
標題(洋)
報告番号 121324
報告番号 甲21324
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3037号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用動物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 東條,英昭
 東京大学 教授 小野寺,節
 東京大学 助教授 松本,芳嗣
 東京大学 助教授 内藤,邦彦
 東京大学 助教授 山内,啓太郎
内容要旨 要旨を表示する

乳清酸性タンパク質(Whey acidic protein:WAP)は、齧歯類、有袋類、ラクダ、ブタなどの乳汁中に同定された乳清タンパク質であり、そのmRNAの発現は妊娠中期から泌乳中期に乳腺胞上皮細胞に特異的に認められ、非妊娠期と比較して約1000倍に上昇する。WAPは、4-DSCからなるWAPドメインを2つもち、立体構造がセリンプロテアーゼインヒビター様であるため何らかの生物学的機能をもつと考えられてきたが、その機能解析はin vivoによるものだけであった。WAPを全身性で恒常的に発現するトランスジェニック(CAG/WAP-Tg)マウスや乳腺胞においてのみ過剰発現するWAP/WAP-TgならびにMMTV/WAP-Tgマウスでは、乳腺胞の発達が抑制され、その結果、産仔の発達遅延が報告されている。これらの結果は、WAPが乳腺の発達を制御する一因子であることを強く示唆している。以上のような背景から、本研究は、細胞培養系を用いて乳腺細胞の増殖や分化、さらに乳癌細胞の増殖や浸潤に作用するWAPの分子制御機構を明らかにしたものである。

第一章 乳腺上皮細胞の細胞増殖におけるWAPの機能

WAPが、in vivoでの結果と同様に細胞培養系においても乳腺細胞の増殖を抑制するのかを調べるために、まず、マウス妊娠期乳腺胞由来上皮細胞株(HCll)と非乳腺細胞であるマウス線維芽細胞株(NIH-3T3)にpCX/WAP遺伝子を導入し恒常的にWAPを発現するクローン株(WAP株)を樹立した。細胞増殖能を測定した結果、HCll株のみで、WAP株が野生株より有意に増殖が抑制された。さらに、WAPを含む培養液でHCll野生株を培養した場合にも増殖が抑制され、またWAPが細胞膜周辺に局在することが免疫染色法により確認された。これらの結果から、WAPは乳腺上皮細胞に対し特異的に作用し細胞増殖を抑制することが示された。一般に細胞増殖抑制の要因としては、ネクローシス、アポトーシスあるいは細胞周期の遅延の3通りが推定される。そこでWAP発現株の細胞形態を観察したところネクローシスではないことが示唆された。つぎに、アポトーシスと細胞周期に対するWAP発現の影響を調べるため、BrdUの取り込み率の測定とFACSによる解析を行った。その結果、WAP発現株ではアポトーシスの顕著な変化はみられず、一方G1期細胞の増加とS期細胞群の減少がみられたことから、WAPがG1期からS期への移行を遅延させることが示唆された。そこでG1/S期移行を制御するcyclin DおよびE群のmRNAの発現量とタンパク質量を、半定量的RT-PCR及びWestern Blotで調べた結果、WAP発現株は野生株に比べてcyclin D1のmRNA量及びタンパク質量が有意に減少していた。

以上の結果から、WAPは、乳腺上皮細胞において、細胞外からオートクライン及びパラクライン的に細胞膜周辺で作用し、cyclin D1の発現抑制を介して細胞増殖を抑制することが明らかになった。また、マウス(MMT)およびヒト(MCF-7,MDA-MB-453)の乳癌細胞株においても、同様にWAPの発現がcyclin D1の発現量の減少を介して細胞増殖を抑制した。さらに、WAP-MCF-7株とmock-MCF-7株をヌードマウスの皮下に注入し、その後の腫 形成能を測定したところ、WAP発現株の腫 発達が有意に抑制され、また、血管新生因子の発現においても抑制傾向がみられた。

第二章 細胞外マトリックス(ECM)の分解におけるWAPの機能

細胞は通常、隣接する細胞あるいは細胞外マトリックス(Extracellular matrix:ECM)に接しており、ECMの分解は細胞の増殖や分化、さらに、癌細胞の浸潤や転移などを制御している。ECMを分解するプロテアーゼはセリンプロテアーゼとマトリックスメタロプロテアーゼの2種類に大別されWAPはセリンプロテアーゼインヒビター様であることから、ECMの分解を抑制している可能性が推察される。また、第一章の結果からWAPが、非乳腺細胞の細胞膜周辺には局在せず、乳腺上皮細胞の細胞膜周辺に局在し、細胞内へ取り込まれずに作用することが示唆されている。そこで、本章ではECM分解に対するWAPの作用を調べた。WAP-HCll株とmock-HCll株の細胞当たりのECM量を測定したところ、WAP株ではECMの蓄積量の増加がみられトリプシンによる細胞分離に要する時間が有意に増加した。そこで、WAPが作用するECMの成分を同定するために、ECMの構成物であるcollagen I,III,IV,gelatin,lamininをそれぞれ塗布した培養用シャーレ上で細胞を培養したところ、WAP発現株はlaminin上でのみ顕著に増殖が抑制された。また、WAP発現株の培養上清液に未分解のlamininが多く存在し、ECM中にIamininが多く蓄積していることが免疫染色法で確認された。Lamininの分解は、HCll細胞が機能的分化能を獲得する上で必須条件であることが報告されている。そこで、ラクトジェニックホルモン応答性について乳腺の分化マーカーであるβ-caseinの発現誘導を定量することにより検討した結果、WAP-HCll株はmock-HCll株よりも顕著に分化が抑制された。一方、乳癌細胞では、lamininの分解は浸潤において必須の過程である。そこで、浸潤の擬似的環境としてBoyden chamberの膜上に基底膜成分であるマトリゲルを塗布しWAP-およびmock-MCF-7株を培養し、膜を通過し下層シャーレに接着した細胞数を計測した。その結果、WAP発現株の浸潤細胞数はmock株の約1/5であり、また、マトリゲル内の残存laminin量が多かった。そこで、laminin分解活性をもつ3種のセリンプロテアーゼに対するWAPの阻害作用を検討した結果、WAPはlaminin分解において膵臓エラスターゼに対して特異的に阻害作用を示し、好中球エラスターゼやトリプシンのプロテアーゼ活性に対する影響を示さなかった。さらに、培養上清液中の膵臓エラスターゼ活性を特異的基質を用いて定量したところ、HCll株が膵臓エラスターゼ活性を示すタンパク質を産生すること、また、WAP-HCll株は、mock-HCll株よりもエラスターゼ活性が有意に減少していることが示された。

以上の結果から、WAPは乳腺上皮細胞が産生する膵臓エラスターゼ型セリンプロテアーゼの活性を抑制することによりlamininの分解を抑制し、その結果、乳腺上皮細胞の増殖および分化、さらに、乳癌細胞の増殖や浸潤を抑制することが示唆された。

第三章 MAPKの活性化におけるWAPの機能

LamininなどのECM成分が分解されると、ECMの構成が変化し、ECM中に捕捉されていた増殖因子が遊離して増殖因子受容体を活性化し細胞増殖を促すことが報告されている。また、増殖因子により活性化されるMAPKであるERK1/2のリン酸化はcyclin D1の発現を誘導することが報告されている。そこで、第三章ではlaminin分解によるMAPKカスケードの活性化に対するWAPの関与を調べた。膵臓エラスターゼをmock-HCll株に添加すると、添加量依存的に細胞増殖能を促進したが、WAP-HCll株では細胞増殖の促進が認められなかった。また、mock-HCll株およびWAP-HCll株に膵臓エラスターゼの特異的阻害剤であるエラスターゼインヒビターIを添加したところ、細胞増殖が抑制された。このことから、膵臓エラスターゼ型セリンプロテアーゼが乳腺細胞の増殖を促進し、そのインヒビターであるWAPが細胞増殖を抑制する機構が推察された。つぎに、MAPKの活性化に対する膵臓エラスターゼの関与を調べたところ、mock-HCll株では膵臓エラスターゼ添加後30-120分にERKl/2のリン酸化が検出されたが、WAP-HCll株ではそのリン酸化が僅少であった。また、EGFR(epidermal growth factor receptor,上皮増殖因子受容体)の活性化阻害剤AG1478を用いた実験により、膵臓エラスターゼはEGFRの活性化を介してERKl/2のリン酸化を誘導することが示唆された。さらに、EGF無添加の培養で検出されたWAP-HCll株の細胞増殖抑制作用は、EGFを添加することにより回復した。

以上の結果から、HCll株では膵臓エラスターゼ型セリンプロテアーゼが、EGFRの活性化を介してERKの活性化を誘導し細胞増殖を制御していると推測され、WAPはプロテアーゼ活性を抑制することにより、MAPKの活性化を抑制し、cyclin D1の発現を抑制して細胞増殖を抑制していることが示唆された。

本研究により、以下に示すwAPの乳腺細胞に対する分子作用機構が示唆された。

正常乳腺上皮細胞において、WAPは、乳腺上皮細胞に特異的に結合し、ECM中のlamininを分解する膵臓エラスターゼ型セリンプロテアーゼの活性を阻害する。Laminin分解の阻害はECM形態の変化によるEGFの放出を抑制し、EGFRの活性化を介するERK1/2の活性化を抑制する。その結果、cyclin D1の発現が抑制され、G1/S期移行が遅延し、細胞増殖が抑制される。また、WAPによるlamininの蓄積により、最終分化能の獲得が阻害される。一方、乳癌細胞においては、WAPは、上述の機構と同様に細胞増殖ならびに膵臓形成能が抑制され、さらにlamininの分解による癌細胞の浸潤が顕著に抑制される。

以上、WAPの分子作用機構が明らかになり、乳腺において、WAPが分化した乳腺上皮細胞から分泌され、周辺の増殖中の乳腺上皮細胞を制御することにより乳腺胞の発達を統率していると考えられる。さらに、乳腺上皮細胞が分化を逸脱した場合にその増殖を抑制する重要な因子として作用していることが推察される。

審査要旨 要旨を表示する

乳清酸性タンパク質(Whey acidic protein: WAP)は,齧歯類やブタなどの乳汁中に同定された乳清タンパク質である.WAPは,4-DSCからなるWAPドメインを2つもち,立体構造がセリンプロテアーゼインヒビター様であるため何らかの生物学的機能をもつと考えられてきた.WAPを乳腺で過剰発現するトランスジェニック動物では乳腺胞の発達が抑制され,その結果,産仔の発達遅延が報告されている.これらの結果は,WAPが乳腺の発達を制御する一因子であることを強く示唆している. 以上のような背景から,本研究は,細胞培養系を用い, WAPが乳腺細胞の増殖や分化,さらに乳癌細胞の増殖や浸潤に作用する分子制御機構を明らかにする目的で行ったものである.

第1章では,細胞培養系を用いてWAPの乳腺細胞の増殖抑制を調べた.まず,マウス腺胞由来上皮細胞株(HC11)とマウス線維芽細胞株(NIH-3T3)にpCX/WAP遺伝子を導入し恒常的にWAPを発現するクローン株(WAP株)を樹立した.細胞増殖能を測定した結果,HC11細胞のみで,WAP株が野生株より有意に増殖が抑制された. FACScanによる解析の結果,WAPがG1期からS期への移行を遅延させることが示唆された.そこで,cyclin DおよびE群のmRNAの発現量とタンパク質量を,半定量的RT-PCR及びウエスタン法で調べた結果,WAP発現株は野生株に比べてcyclin D1のmRNA量及びタンパク質量が有意に減少していた.また,マウス(MMT)およびヒト(MCF-7, MDA-MB-453)の乳癌細胞株においても同様に,WAPの発現がcyclin D1の発現量の減少を介して細胞増殖を抑制した.さらに,ヌードマウスを用いた実験から,WAPが腫瘍形成能を有意に抑制することが判明した.

WAPがセリンプロテアーゼインヒビター様タンパク質であることから,第2章では,ECM分解に対するWAPの作用を調べた.WAP-HC11株ではECMの蓄積量の増加がみられた.そこで,ECMの構成物であるcollagen I, III, IV, gelatin, lamininをそれぞれ塗布した培養用シャーレ上で細胞を培養したところ,WAP発現株はlaminin上でのみで顕著に増殖が抑制された. また,WAP発現株のECM中にlamininが多く蓄積していることが免疫染色法で確認された. さらに,WAP-HC11株は分化が顕著に抑制されていることが判明した.一方,乳癌細胞による浸潤実験で,WAP発現株の浸潤細胞数は顕著に減少し,また,マトリゲル内の残存laminin量が多かった. Laminin分解活性をもつ3種のセリンプロテアーゼに対するWAPの阻害作用を検討した結果,WAPはlaminin分解において膵臓エラスターゼに対して特異的に阻害作用を示した. 以上の結果から,WAPは膵臓エラスターゼ型セリンプロテアーゼの活性を抑制することによりlamininの分解を抑制し,その結果,乳腺上皮細胞の増殖および分化,さらに,乳癌細胞の増殖や浸潤を抑制することが示唆された.

ECM成分が分解されると捕捉されていた増殖因子が遊離して増殖因子受容体を活性化し細胞増殖を促すことが報告されている.また,増殖因子により活性化されるMAPKであるERK1/2のリン酸化はcyclin D1の発現を誘導することが報告されている.そこで,第三章では,laminin分解によるMAPKカスケードの活性化に対する膵臓エラスターゼの関与を調べた.その結果,WAP-HC11株ではERK1/2のリン酸化が僅少であった.また,EGFR (上皮増殖因子受容体)の活性化阻害剤AG1478を用いた実験により,膵臓エラスターゼはEGFRの活性化を介してERK1/2のリン酸化を誘導することが示唆された.

以上,本研究から,WAPの分子作用機構が明らかになり, WAPが分化した乳腺上皮細胞から分泌され,周辺の増殖中の乳腺上皮細胞を制御することにより乳腺胞の発達を制御していると考えられる.さらに,乳腺上皮細胞が分化を逸脱した場合にその増殖を抑制する重要な因子として作用していることが推察された.以上本研究の成果は,学術上貢献するところが少なくない.

よって,審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた.

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