学位論文要旨



No 121327
著者(漢字) 松橋,珠子
著者(英字)
著者(カナ) マツハシ,タマコ
標題(和) マウス着床遅延モデルを用いた着床期胚の活性化機構に関する研究
標題(洋)
報告番号 121327
報告番号 甲21327
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 博農第3040号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 獣医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 酒井,仙吉
 東京大学 教授 東條,英明
 静岡大学 教授 森,誠
 東京大学 助教授 内藤,邦彦
 東京大学 助教授 青木,不学
内容要旨 要旨を表示する

着床期になると、胚はそれまでの内在的にプログラム化された遺伝子発現から、外部シグナルに依存した遺伝子発現へとその制御機構を大きく切り替える。着床前の胚盤胞に対し、卵巣の除去などによりE2の作用がない環境を作ると、胚は着床直前で胚発生を停滞し、いわば休眠状態に至る。しかしその後、母体にE2を投与すると、休眠状態の胚は再び胚発生を開始する。これは、この時期のE2に由来する外部からのシグナルがその後の胚発生には必須であることを意味する。しかし、何故E2の作用がない状態では胚発生が停止するのか。休眠状態の胚はどのような状態にあるのか。そしてE2の投与により何故胚発生が再開し、E2はその後の胚発生に対してどのように関与するのか、そのメカニズムは全くわかっていない。そこで本研究では、着床期胚の発生調節機構を明らかにするために、妊娠マウスの卵巣除去とE2投与によって人為的に胚の休眠状態と活性化状態を誘導できる着床遅延モデルを用い、特に胚の細胞増殖能と遺伝子発現制御機構に着目した実験を行った。

まず、着床期胚の胚発生におけるE2の作用を調べた。卵巣除去によりE2の作用を阻害して休眠胚を作成し、細胞増殖の変化を調べたところ、交配後3.5日目頃に卵巣除去を行った場合、胚は交配後5日目までほぼ等比級数的に細胞数を増加させ、その後は細胞増殖をほとんど停止した状態で維持されることがわかった(図1a)。子宮内にある休眠胚に対し、母体に投与することでE2を作用させて細胞のDNA合成活性を調べたところ、休眠胚では活性はほとんど検出されなかったのに対し、E2投与後12時間後にはDNA合成活性を示した細胞数は明確に増加し、E2投与後16時間後から20時間後の間に胚のおよそ30%の細胞でDNA の合成が検出された(図1b)。一方、胚の細胞数や細胞周期がM期にある細胞の割合は増加しなかったことから、休眠胚はG1期で細胞周期を停止していることがわかった。胚の総転写活性は、休眠胚では交配後4日目の胚と比較して明確に低下していた(図1c)。活性化胚では、総転写活性は再び上昇し交配後4日目の胚以上のレベルに達した。これらのことから、E2の分泌が無い場合、着床期の胚は着床やその後の胚発生を行わずに細胞周期をG1期で停止して細胞増殖を抑え、総転写活性も低下した状態に移行すること、その一方でこの胚は、E2の刺激を受けた場合に急速に総転写活性を回復させ、細胞周期の進行を迅速に開始することが明らかとなった。そこで次に、胚の細胞増殖および遺伝子発現の制御機構に対するE2の作用を明らかにするために、この時の細胞周期の制御に関わる因子と、遺伝子発現の変化を制御するエピジェネティックな修飾とを明らかにすることを試みた。

初期胚における細胞周期の制御機構は未だ解明されていない部分が多い。4細胞期以降の胚発生では、細胞はサイクリンD-pRb系を欠いており、ほぼM期とS期のみの繰り返しによる内在的にプログラム化された遺伝子発現と細胞増殖を繰り返す。これに対し着床期以降の胚では、細胞は外部環境とのコミュニケーションを開始し、胚の中の細胞同士あるいは胚と母体組織間でシグナルを交換しあい、互いの細胞増殖の速度や時期を調整し合いながら、より複雑な構造を形成していくと考えられる。しかし、このような一般の体細胞の持つ細胞増殖機構を胚がいつから獲得するのかは不明な点が多い。そこで本研究では、着床期の胚盤胞における細胞周期制御因子の発現の変化を明らかにすると共に、E2の刺激の有無がこれらの因子の発現に与える影響を調べた。休眠胚はG1期で細胞周期を停止していること、E2由来の刺激はMAP-サイクリンD系を経由して細胞増殖に関与する可能性が高いことから、G1期の進行を制御する因子の変化に着目した。その結果着床期の胚では、それ以前から発現されているサイクリンD3やサイクリンEの他に、サイクリンD1の発現の開始が観察された(図2a)。休眠胚ではサイクリンD及びサイクリンEの発現はいずれも低下しており、一方p21の発現の上昇が見られ、G1サイクリンの機能抑制状態にあることが明らかとなった(図2b-d)。これに対し活性化胚では、サイクリンDとサイクリンEはいずれも発現が急増し、p21の発現量は低下して、G1サイクリンの機能が活発な状態に移行していた。

E2の有無によって生じる休眠胚と活性化胚では、総転写活性の変化に代表されるように、細胞周期制御因子だけでなく複数の遺伝子の発現が大きく変化していることが明らかとなっている。しかしこの様な遺伝子の発現を制御する主要なメカニズムである、エピジェネティックな修飾の変化は、着床期の胚においてはほとんど明らかになっていない。そこで本研究では、エピジェネティックな修飾の中でも比較的研究が盛んに行われ、遺伝子発現への関与と機能の多様性が明らかになりつつある、ヒストンH3及びH4のアセチル化修飾とメチル化修飾、そしてヒストン変異体の置換に着目して、E2の作用に関連する修飾の探索を試みた。交配後4日目の胚および休眠胚と活性化胚でヒストン修飾を検出したところ、それぞれの修飾は胚の種類や部位によって様々な量で存在していることが明らかとなった。内部細胞塊(ICM)と栄養外胚葉(TE)では複数の修飾で修飾量が大きく異なる傾向があった。多くの修飾は活性化に伴う胚の総転写活性の変化に関わらず、明確な修飾量の変化を示さなかったが、H3K9のジメチル化修飾とH3.1の変異体であるH3.3への置換量は胚の休眠化や活性化に伴う転写活性の変化に相関した変化を示した。すなわち、H3K9のジメチル化修飾は休眠胚のICMで高い修飾レベルを示し、H3.3は交配後4日目の胚および活性化胚で核小体に強く検出された(図3)。休眠胚のICMで検出されたH3K9のジメチル化修飾の上昇は、この修飾が着床期胚の発生進行に関わる遺伝子の発現を抑制していることを示唆しており、ヒストンH3.3の核小体への局在は、このヒストンがrRNA合成を促進することで、活性化胚における翻訳効率を増加させていることを示唆している。

卵巣から分泌されるE2は子宮から複数のシグナル因子の発現を誘導し、これらの因子は胚へ作用して胚の着床能獲得に寄与する。EGFやGM-CSFは子宮側から発現するシグナル因子で、胚側は受容体を発現してこのシグナル因子を受容し、遺伝子発現を変化させることが報告されている。また、卵巣から分泌されるE2は、子宮内膜において代謝型の4-OH-E2となり、これが胚に作用して胚の着床能獲得に関与することが報告されている。これらの外因性シグナル因子が存在しないin vitroの胚培養系では胚発生は胚盤胞の時期までしか進行できないことから、in vitro胚でも着床期以降の胚発生には母体側から分泌されるこれらの様なシグナル因子が必要となると考えられる。そこで次に、胚培養系においてもin vivoにおける胚の休眠化と活性化と同様の状態が再現されるか調べた。まず、胚培養系で外部から着床能獲得の指標として頻繁に用いられるout growth現象と、細胞周期制御因子の遺伝子発現の変化を胚の活性化の指標として用い、KSOM中で胚を培養し、増殖因子等を何も添加しない状態およびこれらの因子を添加した時の胚の活性化の有無を調べた。その結果、培養液中に何も添加しない場合、胚は胚盤胞までは正常に細胞分裂を繰り返し胚発生を進行したが、受精後4日目の透明体から脱出後はout growth現象を起こさず、胚発生をほとんど停止したままの状態を数日間維持した。また、受精後5日目にEGF、GM-CSF、E2、4-OH-E2を添加した場合は、単独で培養液に添加した場合も、EGFとE2や4-OH-E2を同時に添加した場合も、活性化の指標である胚のout growth現象や、サイクリンやG3PDH等の遺伝子発現に明確な変化は見いだせなかった。そこで、単一の因子のみでは胚の活性化を誘導できない可能性を考慮し、次に複数のシグナル因子を含有していると考えられるFBSを用いた。受精後5日目に培養液中にFBSを添加した場合には胚のout growth現象が観察された。また、FBS無添加下では、受精後5日目の胚に対し7日目の胚の遺伝子発現は、サイクリンDやサイクリンEの発現が低下し、休眠胚と類似した遺伝子発現の変化を示した。さらに受精後7日目の胚にFBSを投与すると、受精後8日目にはサイクリンDやサイクリンEの発現の上昇が確認され、また受精後10日目にはout growth現象が確認され、in vivoでの胚の活性化と類似した状態が再現できた。この様に培養胚においても、休眠胚と同様の機構により細胞増殖が停止し、外因性因子によって活性化胚と同様の機構で細胞増殖が開始されることが示された。その一方で、in vivoでは胚の活性化に伴って修飾量の変化が見られたH3K9ジメチル化修飾やH3.3の置換はin vitroでFBSにより活性化させた胚においては同様の修飾パターンは示されず、E2の作用のうち細胞周期制御因子の発現を上昇させる作用など、その一部のみを代償できる因子がFBSには含まれていたと考えられる。

以上のことから、胚は着床期に遺伝子発現のメカニズムを大きく転換するが、E2由来の外因性シグナルはこの転換期以降の遺伝子発現の進行に不可欠であり、サイクリンD1やサイクリンE等のG1期サイクリンを介して細胞周期の進行に関わり、またエピジェネティックな修飾を変化させることが示された。活性化後の胚では、シグナル伝達や代謝に関わる遺伝子の発現が大きく上昇することが報告されており、胚はE2の刺激による遺伝子発現調節機構の転換により、着床期以降の急激な細胞増殖を可能とする新たな遺伝子発現パターンを生み出すものと考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

着床期になると、胚はそれまでの内在的にプログラム化された遺伝子発現から、外部シグナルに依存した遺伝子発現へとその制御機構を切り替える。卵巣からのエストロジェン(E2)分泌がない環境下では、胚は着床直前で発生を停滞し休眠状態に至る。しかし母体にE2を投与すると、胚は再び発生を開始する。これはE2に由来する外部シグナルが着床期以降の胚発生に必須であることを意味する。しかし、このような胚の休眠化と活性化が起こるメカニズムは全くわかっていない。そこで本研究では、着床期胚の発生調節機構を明らかにするために、妊娠マウスの卵巣除去と母体へのE2投与によって人為的に胚の休眠状態と活性化状態を誘導できる着床遅延モデルを用い、特に胚の細胞増殖能と遺伝子発現制御機構に着目した実験を行った。

まず、着床期胚の胚発生におけるE2の作用を調べた。交配後3.5日目に卵巣除去を行いE2の作用を阻害して胚の細胞増殖を調べた結果、交配後5日目まで等比級数的に細胞数が増加し、その後は細胞増殖が停止することがわかった。この休眠胚に対しE2を作用させて細胞のDNA合成活性を調べたところ、休眠胚では活性はほとんど検出されなかったのに対し、E2投与後16時間後には胚のおよそ30%の細胞でDNA の合成、すなわちS期への進行が検出された。一方、M期にある細胞の割合は増加せず、休眠胚はG1期で細胞周期を停止していることが示唆された。胚の総転写活性は、休眠胚では交配後4日目より有意に低下し、活性化胚では休眠胚より有意に上昇した。以上よりE2の作用が無い場合、胚は総転写活性を低下させ細胞周期をG1期で停止すること、E2の作用を受けると総転写活性が上昇し、細胞周期の進行を開始することが明らかとなった。

次に、胚の細胞増殖および遺伝子発現の制御機構に対するE2の作用を明らかにするため、細胞周期の制御に関わる因子の発現と、遺伝子発現を制御するエピジェネティックな修飾の変化を明らかにすることを試みた。休眠胚はG1期で細胞周期を停止することから、G1期の進行を制御する因子に着目した。その結果、着床期の胚ではサイクリンD1の発現が開始し、E2がこれを誘導することが示された。休眠胚ではG1期サイクリン発現は低下し、p21の発現は上昇していた。活性化胚では、G1期サイクリンの発現が上昇しp21の発現は低下した。これより、胚の細胞増殖調節機構は着床期に変換し、E2は変換後の細胞周期進行を開始させる役割を担っていることが示唆された。

また、ヒストンH3及びH4のアセチル化修飾とメチル化修飾、そしてヒストン変異体の置換に着目して、交配後4日目の胚および休眠胚と活性化胚でE2の作用に関連する修飾の探索を試みた。その結果、多くの修飾は活性化に伴う胚の総転写活性の変化に関わらず、明確な修飾量の変化を示さなかったが、ヒストンH3 Lysine 9(H3K9)のジメチル化修飾とH3.1の変異体であるH3.3への置換量は総転写活性に相関した変化を示した。H3K9のジメチル化修飾は休眠胚のICMで高く、着床期胚の発生進行に関わる遺伝子の発現を抑制していること、H3.3は交配後4日目胚および活性化胚で核小体に強く検出され、rRNA合成促進による活性化胚の翻訳効率増加に関与していることが示唆された。

さらに本研究では、胚培養系を用い因子添加の有無によるin vitro休眠化・活性化胚作製系の確立を試みた。胚活性化の指標として着床能獲得の指標に用いられるoutgrowth現象を用いた。因子無添加の場合、胚は胚盤胞までは正常に発生したが、受精後4日目の透明帯から脱出後はoutgrowth現象を起こさず、胚発生を停止して休眠化状態となった。受精後5日目にEGF、E2、4-OH-E2を単独あるいは2種類添加した場合、胚のoutgrowth現象は見いだせなかったが、FBSを添加した場合にはoutgrowth現象が観察され、活性化状態となった。しかし、これらのin vitro休眠・活性化胚では一部の遺伝子発現とヒストン修飾がin vivoの休眠・活性化胚と異なっており、outgrowthを指標として再現した今回のin vitroモデルは、in vivoの遺伝子発現制御機構や細胞周期制御機構を完全には再現していないことが明らかとなった。

本研究から、胚は着床期に遺伝子発現のメカニズムを大きく転換し、E2由来の外因性シグナルは転換期以降の遺伝子発現や細胞周期進行に重要な役割を担っていることが明らかとなった。以上の成果は、学術上、応用上貢献するところが少なくない。審査委員一同は、本論分が博士(獣医学)の学位論文として価値あるものと認めた。

UTokyo Repositoryリンク