学位論文要旨



No 121331
著者(漢字) 内野,雅浩
著者(英字)
著者(カナ) ウチノ,マサヒロ
標題(和) 嘔吐発現における末梢求心性情報の役割と中枢統合に関する研究
標題(洋)
報告番号 121331
報告番号 甲21331
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 博農第3044号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 獣医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 局,博一
 東京大学 教授 西原,真杉
 東京大学 助教授 西村,亮平
 東京大学 助教授 山内,啓太郎
 東京大学 助教授 桑原,正貴
内容要旨 要旨を表示する

嘔吐は異物の排除を目的とする生体防御機構のひとつと考えられている。しかし、嘔吐は本当に必要なのだろうか。ヒトやイヌのように嘔吐をする動物とウマや齧歯類などの嘔吐をしない動物が存在する。また嘔吐をする動物種においても、個体差、性差および年齢差がある。同一の嘔吐刺激下で嘔吐を発現した個体と発現しなかった個体とでは自律神経系機能の変化が異なることが報告されており、自律神経系機能に関する研究が嘔吐の生理学的意義の説明や嘔吐機構の解明に重要であると考えられる。

嘔吐の中枢メカニズムは、「嘔吐中枢」の存在を中心に考えられてきた。しかし、明確に定義される「嘔吐中枢」の存在は否定され、代わりに「延髄に散在する自律神経系反応に関与するコントロールシステムが協力して嘔吐反応を作り出す」という考えが提唱された。そして、それらを統合する「嘔吐pattern generator」が延髄腹外側網様体領域のB〓tzinger complex(疑核および後顔面神経核領域)に存在することが明らかになり、嘔吐の遠心性メカニズムが解明されつつある。その一方で、嘔吐の求心性メカニズムは未だ明らかにされていない。嘔吐は、胃の機械的・化学的刺激、振動刺激、血中化学物質および大脳からの刺激によって誘発される。これらの刺激は、異なる経路を介して延髄に入力されるにもかかわらず、同様の嘔吐反応を引き起こすことから、嘔吐刺激を統合する領域の存在が示唆される。

そこで本研究は、嘔吐における呼吸・循環器系反応を中心とした自律神経系機能の変化の詳細な解析を通じて、嘔吐機構における末梢求心性情報の役割とその延髄における統合様式を明らかにすることを目的とした。また、本研究は、催吐剤であるベラトリンに対する感受性の差異により選抜、作出された2系統のスンクスを使用した。これらは系統として確立された唯一の嘔吐モデル動物であり、嘔吐発現の個体差や動物種差の説明に欠かせない自律神経系機能に関する研究において有用な動物と考えられる。

第二章

本研究は、自律神経作用薬が振動刺激および胃機械的・化学的刺激誘発性嘔吐に与える影響について検討し、交感神経活動が優位な状態では嘔吐が誘発されにくく、反対に副交感神経活動が優位な場合に誘発されやすくなることを明らかにした。特に、交感神経作動薬であるノルアドレナリンとイソプロテレノールとで振動刺激誘発性嘔吐に与える影響が異なったことから、ノルアドレナリンによる血圧上昇が圧受容器反射を介して副交感神経活動を亢進させ、嘔吐を促進すると考えられた。実際、胃伸展刺激存在下におけるフェニレフリン投与は、血圧上昇を引き起こした直後に嘔吐を誘発した。よって、自律神経系機能の変化が嘔吐反応およびその前兆反応としての心血管系反応に重要な役割を果していることが明らかとなった。

第三章

嘔吐の発現やその前兆反応における圧および化学受容器反射の関与を明らかにするために、圧および化学受容器入力の遮断(内頸動脈結紮、頚動脈小体除神経および大動脈神経切断)が胃伸展刺激誘発性嘔吐に与える影響について検討した。また、これら受容器の求心性線維である大動脈減圧神経(ADN)および頸動脈洞神経(CSN)の電気刺激を胃伸展刺激のない状態あるいは胃伸展刺激開始30秒後に行い、嘔吐反応におけるこれら求心性線維の役割についても検討した。内頸動脈結紮および頚動脈小体除神経は、それぞれフェニレフリン投与に対する圧受容器反射およびシアン化ナトリウムによる化学受容器反射を消失させ、嘔吐潜時を有意に延長させた。一方、ADN切断は、圧および化学受容器反射に影響を与えず、嘔吐反応やその前兆反応にも有意な変化がみられなかった。胃伸展刺激のない状態では、ADNおよびCSN電気刺激は反射性の徐脈および低血圧を引き起こしたが、胃伸展刺激存在下におけるCSN電気刺激は、これら心血管系反射を伴って嘔吐を誘発した。その一方で、胃伸展刺激存在下におけるADN電気刺激は、反射性徐脈も嘔吐反応も引き起こさなかった。これらの結果から、大動脈弓よりは、むしろ頸動脈洞に存在する圧および化学受容器が、嘔吐反応および迷走神経反射において重要な役割を果たしていることが示唆された。

第四章

本章では、胃からの求心性入力と圧および化学受容器からの入力との相互作用による嘔吐発現の調節について検討を加えた。麻酔下のスンクスにおいて、内臓神経および腹部迷走神経切断後、胃伸展刺激による嘔吐誘発および胃伸展刺激存在下におけるADNおよびCSNの電気刺激を行った。内臓神経切断は、嘔吐に伴う呼吸・循環器系反応を消失させたが、嘔吐誘発までの潜時に影響はみられなかった。また、胃伸展刺激によるADN刺激誘発性心血管系反射の抑制を消失させたが、嘔吐は誘発しなかった。一方、迷走神経切断は、嘔吐を消失させたが、胃伸展刺激による呼吸・循環器系反応を消失させなかった。胃伸展刺激存在下のCSN電気刺激は、無処置下と同様な徐脈および低血圧を引き起こしたが、嘔吐は誘発しなかった。以上の結果から、ADN入力は嘔吐誘発には直接関与しないが、内蔵神経入力による抑制が嘔吐反応に伴う呼吸・循環器系反応に重要であることが示唆された。一方、CSN入力は、単独では催吐性がないが、迷走神経入力との相互作用により嘔吐発現を調節すると考えられた。

第五章

CSN入力と嘔吐発現の関連性を明らかにするために、CSNをコレラトキシンBサブユニット(CTB)により逆行性標識し、その投射ニューロンにおける嘔吐誘発時のc-fos発現を免疫組織化学的に検討した。胃伸展刺激により嘔吐が誘発された群(嘔吐群)におけるFos 陽性細胞は、延髄背内側の孤束核(NTS)から腹外側網様体領域にかけての広範な領域で認められたのに対し、嘔吐が誘発されなかった群(非嘔吐群)ではNTSとその近傍でのみ発現が認められた。また、NTSにおいては、嘔吐群でのみNTS背内側領域におけるFos発現が認められ、この領域にCSNからの投射が確認された。これらの結果から、CSNからの投射を受けるNTSニューロンが嘔吐発現に関与することが明らかとなり、そのニューロンが嘔吐の中枢メカニズムにおいて嘔吐発現の閾値を調節していると考えられた。また、嘔吐群で発現が認められた腹外側網様体領域は、嘔吐の中枢メカニズムにおける出力の中心と考えられ、これまで電気生理学的な報告から嘔吐pattern generatorと考えられている領域と一致した。

CSNおよび迷走神経はNTSに投射し、その神経伝達物質はいずれもグルタミン酸であることが知られている。そこで、グルタミン酸受容体であるAMPA受容体のサブユニット(GluR2/3)およびNMDA受容体のサブユニット(NMDAR1)の免疫染色を行った。NTSにおけるGluR2/3 およびNMDAR1陽性細胞は、胃伸展刺激を与えなかった対照群と比較して、嘔吐群および非嘔吐群で有意に多く認められた。さらに、嘔吐群のGluR2/3陽性細胞数は、非嘔吐群と比較して有意に大きかったが、NMDAR1陽性細胞については嘔吐群と非嘔吐群とで有意な差はみられなかった。これらの結果から、グルタミン酸受容体、特にNMDA受容体の発現は胃伸展刺激により増加し、嘔吐発現よりはむしろ悪心などの前兆反応に関与することが示唆された。一方、AMPA受容体の発現は、嘔吐発現に伴って増加し、NTSから嘔吐pattern generatorの存在する腹外側網様体への嘔吐シグナル伝達に関与すると考えられた。よって、AMPA受容体の発現が強く認められたNTS腹側および腹外側領域が嘔吐反応のスイッチであると考えられた。

第六章

CSN入力は、迷走神経入力と相互作用し嘔吐発現を調節するが、他の嘔吐刺激に対しても相互作用するのだろうか。また、胃伸展刺激は内臓神経を介してADN入力を抑制するが、もし迷走神経だけを刺激したら、あるいは内臓神経が関与しない他の刺激を与えたら、ADN入力も嘔吐発現を調節しないのだろうか。これらの疑問に答えるために、ADNおよびCSNを切断したスンクスで、迷走神経節を刺激するベラトリン投与および振動刺激により嘔吐反応を誘発した。ADN切断は、無処置と比較して、振動刺激およびベラトリン誘発性嘔吐反応に影響を与えなかったのに対し、CSN切断は嘔吐潜時を有意に延長させ、嘔吐回数も有意に減少させた。また、CSN切断群におけるc-fos発現は、CSN投射領域であるNTS背内側領域では認められなかった。これらの結果から、NTSにおいてCSN入力は迷走神経入力だけでなく、前庭神経入力と共に統合され、嘔吐発現を調節することが明らかとなった。

総括

以上のように、腹外側網様体領域が嘔吐の遠心性メカニズムの中心であるのに対し、NTSはその求心性メカニズムにおいて、消化管、前庭器官および圧・化学受容器からの情報統合に重要であると考えられた。CSN入力は、単独では催吐性がないが、NTSにおいて迷走神経刺激および前庭神経刺激などの嘔吐刺激とともに統合され、嘔吐発現を調節することが明らかになった。また、嘔吐はNTSで統合・加算された嘔吐刺激が腹外側網様体領域へ伝達されることによって起こると考えられ、そのスタートであるNTS腹側および腹外側領域が嘔吐反応のスイッチであることが示唆された。さらに、NTS腹側および腹外側ニューロンにおけるGluR2/3発現が、嘔吐発現に伴って増加したことから、AMPA受容体がNTSから嘔吐pattern generatorへの嘔吐シグナル伝達に関与することが示された。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は、嘔吐における呼吸・循環器系反応を中心とした自律神経系機能の変化の詳細な解析を通じて、嘔吐機構における末梢求心性情報の役割とその延髄における統合様式を明らかにすることを目的として行われた。

第1章では、嘔吐という現象の生理学的意義や国内外の研究の状況を詳述した上で、本研究を行うことの意義ならびに重要性を述べた。また本研究では嘔吐を誘発させる実験動物としてスンクスを用いているため、本動物種の特徴を概説した。

第2章では、振動刺激および胃の機械的・化学的刺激で誘発された嘔吐反射に与える各種の自律神経作用薬の影響について実験を行った結果、交感神経活動が優位な状態では嘔吐が誘発されにくく、反対に副交感神経活動が優位な場合に誘発されやすくなることを明らかにした。特に、ノルアドレナリンによる血圧上昇が圧受容器反射を介して副交感神経活動を亢進させ、嘔吐を促進すると考えられた。自律神経系機能の変化が嘔吐反応およびその前兆反応としての心血管系反応に重要な役割を果していることが明らかとなった。

第3章では、嘔吐の発現やその前兆反応における圧および化学受容器反射の関与を明らかにした。内頸動脈結紮、頚動脈小体除神経、大動脈神経(AND)、頸動脈洞神経(CSN)の切断およびそれらの神経の電気刺激と、フェニレフリン投与、シアン化ナトリウム(化学受容器反射の消失)の投与を組み合わせて行った結果。大動脈弓よりも頸動脈洞に存在する圧および化学受容器が、嘔吐反応および迷走神経反射において重要な役割を果たしていることが示唆された。

第4章では、胃からの求心性入力、すなわち内臓神経および腹部迷走神経からの入力と、圧および化学受容器からの入力との相互作用による嘔吐発現の調節について検討を行った。その結果、ADN入力は嘔吐誘発には直接関与しないが、内蔵神経入力による抑制が嘔吐反応に伴う呼吸・循環器系反応に重要であることが示唆された。一方、CSN入力は、単独では催吐性がないが、迷走神経入力との相互作用により嘔吐発現を調節すると考えられた。

第5章では、CSN入力と嘔吐発現の関連性を免疫組織化学的手法を使って明らかにした。その結果、CSNからの投射を受けるNTSニューロンが嘔吐発現に関与することが明らかとなり、そのニューロンが嘔吐の中枢メカニズムにおいて嘔吐発現の閾値を調節していると考えられた。また、嘔吐群で発現が認められた腹外側網様体領域は、嘔吐の中枢メカニズムにおける出力の中心と考えられ、これまで電気生理学的な報告から嘔吐pattern generatorと考えられている領域と一致した。CSNおよび迷走神経はNTSに投射し、その神経伝達物質はいずれもグルタミン酸であることが知られている。そこで、グルタミン酸受容体であるAMPA受容体のサブユニット(GluR2/3)およびNMDA受容体のサブユニット(NMDAR1)の免疫染色を行った。その結果、グルタミン酸受容体、特にNMDA受容体の発現は胃伸展刺激により増加し、嘔吐発現よりはむしろ悪心などの前兆反応に関与することが示唆された。一方、AMPA受容体の発現は、嘔吐発現に伴って増加し、NTSから嘔吐pattern generatorの存在する腹外側網様体への嘔吐シグナル伝達に関与すると考えられた。よって、AMPA受容体の発現が強く認められたNTS腹側および腹外側領域が嘔吐反応のスイッチであると考えられた。

第6章では、振動刺激(前庭刺激)による嘔吐誘発がCSN入力の支配を受けているかどうかを明らかにした。その結果、NTSにおいてCSN入力は迷走神経入力だけでなく、前庭神経入力と共に統合され、嘔吐発現を調節することが明らかとなった。

以上を要するに、本論文は人や動物の臨床医学上、重要な問題になっている嘔吐に関して、自律神経系機能による修飾機構と、延髄弧束核を中心にした嘔吐発現の統合機構を明らかにした点で極めて重要な発見を成しており、その成果は学術上、応用上寄与するところが少なくない。よって、審査委員一同は本論文が博士(獣医学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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