学位論文要旨



No 121336
著者(漢字) 清川,泰志
著者(英字)
著者(カナ) キヨカワ,ヤスシ
標題(和) フェロモンを介した情動伝達機構に関する研究
標題(洋)
報告番号 121336
報告番号 甲21336
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 博農第3049号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 獣医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 森,裕司
 東京大学 教授 西原,真杉
 東京大学 教授 千田,和広
 東京大学 助教授 桑原,正貴
 東京大学 助教授 武内,ゆかり
内容要旨 要旨を表示する

情動と称される恐怖、驚き、怒り、悲しみや喜びといった感情の動きは通常きわめて主観的な経験であるため、外部より正確に窺い知ることは困難である。動物の心的状態は、例えばその動物の姿態や表情、音やにおいといった、その動物が発する様々な信号に反映されるが、嗅覚が発達した動物種ではフェロモンを含む嗅覚信号が主に用いられている。たとえば危機状況においてラットは特異的な嗅覚信号を放出することが知られているが、この嗅覚信号は、受容した同種他個体に特異的な反応を引き起こす物質であるため、警報フェロモンと定義されている。警報フェロモンに暴露されたラットは様々な反応を示し、そのなかには、Freezing、Walking、Sniffingの増加およびRestingの減少といった行動反応と、Stress-induced hyperthermia(SIH)の増強といった自律機能反応が含まれることを近年当研究室にて明らかとした。

本研究は、ラットが警報フェロモンを介して情動を他個体に伝達する機構を解明することを目的としたものであり、上記の行動反応および自律機能反応を生物検定指標として用いることで、警報フェロモンをテストステロンへの依存性により2種類に分類し、それぞれの放出部位を特定するとともに、フェロモンを水中に捕捉する方法について検討したものである。本論文は以下の様に7章から構成されている。

第1章は総合緒言であり、フェロモンの定義及びその分類に関する先行研究を概観した上で警報フェロモン研究の背景について解説し、本論文の目的を述べた。

第2章では、警報フェロモンを放出するドナーラットにおけるテストステロンの役割を検討した。無処置雄ラット、去勢雄ラットおよび去勢した後にプロピオン酸テストステロンを皮下移植したラットという3種類のドナーを準備し、それぞれのドナーを実験箱に導入しfoot shockを負荷することで警報フェロモンを放出させた。その後、それぞれの箱にレシピエントを導入し行動反応及び自律機能反応を生物指標として観察することで、3種類のドナーのフェロモン放出能力を評価した。レシピエントに自律機能反応を引き起こすフェロモンを放出する能力はテストステロンの有無に影響を受けない一方で、行動反応を引き起こすフェロモンを放出する能力は去勢により著しく減少し、テストステロン処置により完全に回復した。以上の結果より、雄ラットが放出する警報フェロモンは、その放出のテストステロン依存性によって2つのカテゴリーに分類できることが示唆された。

第3章では、警報フェロモン放出の部位を検討するとともに、"警報フェロモンが2つのカテゴリーに分類できる"という前章で立てた仮説について検証した。実験箱内にて麻酔したドナーの頬部、頚部、腰部もしくは肛門周囲部に対して局部電気刺激を行うことで部位特異的なにおいを放出させ、その後実験箱に導入されたレシピエントの行動反応および自律機能反応を観察することで、それぞれの部位より放出されたにおいのフェロモン活性を判定した。肛門周囲部への電気刺激に伴って放出されたにおいはレシピエントにSIHの増強を引き起こし、一方、頬部への電気刺激に伴って放出されたにおいはレシピエントに行動反応を引き起こすことが明らかとなった。以上の結果より、第2章で立てた仮説通り、雄ラットが放出する警報フェロモンは2種類に分類することができ、レシピエントに行動反応を引き起こすものはドナーの頬部より、自律機能反応を引き起こすものはドナーの肛門周囲部より、それぞれ放出されることが示唆された。

第4章では、ドナーの肛門周囲部より放出される警報フェロモンに着目し、その受容に関わる脳内領域の解析を行った。実験箱内にて麻酔したドナーの頚部あるいは肛門周囲部を局部電気刺激することにより、頚部由来のにおい及び警報フェロモンの放出をそれぞれ促した箱を作成した。その後、それぞれの箱にレシピエントを導入することで対照臭もしくは警報フェロモンに60分間暴露し、脳内の26領域におけるFos蛋白質の発現を観察した。その結果、分界条床核吻側部内側および外側、視床下部室傍核、視床下部背内側核、扁桃体内側核吻側部背側扁桃体外側核、扁桃体外側基底核、中脳水道周囲灰白質外腹側部、手綱核背外側核および青斑核において、警報フェロモン暴露によるFos蛋白質発現の増加が観察された。以上の結果より、警報フェロモン受容には、扁桃体、視床下部および脳幹といった、ストレス反応に関わる領域が関与していることが示唆された。

第5章では、"警報フェロモンは水溶性の物質である"という仮説を立て、これを検討した。前章までの実験箱とは異なる小さな箱を用意し、麻酔したドナーの頚部あるいは肛門周囲部を局部電気刺激することにより、頚部由来のにおい及び警報フェロモンの放出をそれぞれ促した。その後、それぞれの天井より水滴を回収することで、中にドナーを導入しない対照箱からのサンプルと合わせて計3種類の水サンプルを用意した。それぞれの水サンプルをHome cage内にて濾紙に染み込ませてレシピエントに提示し、その後の行動反応、自律機能反応および嗅球におけるFos蛋白質の発現を観察することで、各サンプルのフェロモン活性を評価した。その結果、警報フェロモンを放出させた箱から回収した水サンプルを提示すると、レシピエントはSIHの増強を示すとともに副嗅球におけるFos蛋白質発現の増加を示した。この様に、前章までに観察された反応を、警報フェロモンを放出させた箱から回収した水サンプルを提示することにより再現できたことから、警報フェロモンは水溶性であり、水をフェロモン吸着剤として使用可能であることが示唆された。

第6章では、"警報フェロモンは警報の意味を持ち、フェロモン暴露による自律機能反応はレシピエントの不安が上昇した結果である"という仮説を立て、これを検証した。前章までの実験で、警報フェロモンに暴露されたレシピエントはSIHの増強を示したが、この反応は警報フェロモンが不安を惹起した結果であると解釈される。しかし一方で、このフェロモンは特に警報の意味を持たず、単に受容個体の体温を上昇させるフェロモンであるという可能性も否定できない。そこで、前章で作成した警報フェロモン含有水を、より詳細な行動学的解析が可能である変形オープンフィールドにおいてレシピエントに暴露することで、上記の仮説を検討した。

第5章の方法で作成した警報フェロモン含有水もしくは溶媒対象水を濾紙に染み込ませて提示し、"Hiding box"設置後の行動反応を観察した。警報フェロモン暴露により、防御行動や危険評価行動が増加する一方で、探索行動およびGroomingが減少することが明らかとなった。以上の結果より、このフェロモンが警報の意味を持ち不安の上昇を引き起こすことが示された。

第7章では総合考察を行った。本研究により、雄ラットがfoot shockを受けたことにより放出する警報フェロモンは2種類のカテゴリーに分類され、1つは頬部よりテストステロン依存性に放出されてレシピエントに行動反応を引き起こし、もう1つは肛門周囲部よりテストステロン非依存性に放出されてレシピエントに自律機能反応を引き起こすものであることが明らかとなった。また、後者のフェロモンは水中に捕捉することが可能であり、レシピエントの不安を惹起する作用を持つことが示唆された。

本研究の結果より、警報フェロモンはモジュレーターフェロモンとしての機能を持つことが示唆された。濾紙に滴下した警報フェロモン含有水という同一の刺激によって、SIHの増強および防御行動と危険評価行動の増加といった、2つの異なる不安関連反応を引き起こしたことを勘案すると、このフェロモンの第一義的な作用はおそらく不安の惹起であり、その結果としてレシピエントは状況に応じた反応を示すことが予想される。しかしながら本研究の結果のみからは、警報フェロモン暴露により引き起こされた2つの反応が不安の上昇によって引き起こされたのかは断定できないため、例えば抗不安薬を用いた薬理学的研究という様な、さらなる研究が今後必要であると考えられる。

警報フェロモン暴露されたラットでは副嗅球を含む鋤鼻系の神経核におけるFos蛋白質発現が増加したことより、フェロモン受容における鋤鼻系の関与が示唆された。しかしながら、Fos蛋白質の発現という結果は間接的な証拠でしかないことから、警報フェロモンが主嗅覚系もしくは鋤鼻系のいずれの嗅覚系で受容されているかは未だ不明である。そのため、今後の研究として鋤鼻系を破壊した動物へのフェロモン暴露とった、より直接的な研究が必要であると考えられる。また、フェロモン受容系に加え、警報フェロモン分子がどのような物質であり、どのような経路により合成され、また体表のどのような分泌器官や細胞から分泌されるのかというような、フェロモンの合成、放出経路に関する問題も課題として残されている。今後、哺乳類におけるフェロモンを介した情動伝達機構の全容について理解を深めるためには、上記のような課題を解決していくことが重要と考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

情動の変化は、姿態や表情、音やにおいといった、その動物が発する様々な信号に反映されることが知られている。嗅覚が発達した動物種ではフェロモンを含むにおいが主たる信号として用いられており、たとえば危機状況においてラットは警報フェロモンを放出することが示唆されていた。本研究は、ラットがfoot shockを負荷された時に放出する警報フェロモンを研究モデルとし、フェロモンに暴露されたレシピエントが示す自律機能反応及び行動反応を生物検定の指標に用いることで、フェロモンを介して情動を他個体に伝達する機構を解明することを目的としたものである。本論文は7章から構成されており、第1章で警報フェロモン研究の背景と本論文の目的が論じられた後、第2章から第6章では本研究で実施された各実験について記述され、最後の第7章では本研究で得られた成果をもとに総合的な考察が行われている。

第2章では、警報フェロモンを放出するドナーラットにおけるテストステロンの役割が検討された。無処置雄ラット、去勢雄ラットおよび去勢した後にテストステロン処置したラットという3種類のドナーを準備し、そのフェロモン放出能が評価された。レシピエントに自律機能反応を引き起こすフェロモンの放出能はテストステロンの有無に影響を受けないが、その一方で、行動反応を引き起こすフェロモンの放出能は去勢により著しく減少し、またテストステロン処置により完全に回復した。この結果より、雄ラットが放出する警報フェロモンは、その放出のテストステロン依存性と作用によって2つのカテゴリーに分類できることが示唆された。

第3章では、警報フェロモン放出の部位が検討されるとともに、前章で立てられた仮説について検証が行われた。麻酔したドナーの頬部、頸部、腰部もしくは肛門周囲部への局部電気刺激に伴って放出される物質について、それぞれのフェロモン活性が評価された。肛門周囲部由来のにおいはレシピエントに自律機能反応を引き起こし、一方、頬部由来のにおいはレシピエントに行動反応を引き起こすことが明らかとなった。この結果より、雄ラットが放出する警報フェロモンは2種類に分類されることが明らかとなり、レシピエントに行動反応を引き起こすフェロモンはドナーの頬部より、また自律機能反応を引き起こすフェロモンはドナーの肛門周囲部より、それぞれ放出されることが示された。

第4章では、ドナーの肛門周囲部より放出される警報フェロモンに着目し、レシピエントの脳内26領域におけるFos蛋白質の発現を解析することで、フェロモン受容に関わる脳内部位の特定が行なわれた。その結果、分界条床核吻側部内側および外側、視床下部室傍核、視床下部背内側核、扁桃体内側核吻側部背側、扁桃体外側核、扁桃体外側基底核、中脳水道周囲灰白質外腹側部、手綱核背外側核および青斑核において、警報フェロモン暴露によるFos蛋白質発現の増加が観察された。この結果より、警報フェロモン受容には、扁桃体、視床下部および脳幹といった、ストレス反応に関わる脳内領域が関与していることが示唆された。

第5章では、これまでの結果に基づいた“警報フェロモンは水溶性の物質である”という仮説について検証が行われた。小さな箱の中に麻酔したドナーを導入し、頸部由来のにおい及び警報フェロモンの放出をそれぞれ促した後、それぞれの天井より水滴を回収することで溶媒対照と合わせて計3種類の水サンプルを用意し、各サンプルのフェロモン活性を評価した。その結果、警報フェロモンを放出させた箱から回収した水サンプルを提示すると、レシピエントは自律機能反応を示すとともに副嗅球におけるFos蛋白質発現の増加を示した。このことから、警報フェロモンは水溶性であり、水をフェロモン吸着剤として使用可能であることが示唆された。

第6章では、“肛門周囲より放出されるフェロモンは警報の意味を持ち、フェロモン暴露による自律機能反応はレシピエントの不安が上昇した結果である”という仮説が検証された。変形オープンフィールドにおいて、第5章の方法で作製したフェロモン含有水もしくは溶媒対照水を提示し、レシピエントの行動反応を観察した。その結果、フェロモン暴露により防御行動や危険評価行動が増加する一方で、探索行動およびGroomingが減少することが明らかとなった。この結果より、このフェロモンが警報の意味を持ち不安の上昇を引き起こすことが示された。

以上、本研究ではまず、ラットの警報フェロモンについて自律神経系の反応と行動反応を指標とした生物検定系が確立され、これを用いて警報フェロモンの産生部位とホルモン依存性が明らかにされ、また中枢作用に関わる神経核が同定されるとともに、フェロモン分子が水溶性であることが見出された。こうした研究の成果は、哺乳類におけるフェロモンを介する情報伝達機構の全容を理解することにつながると期待され、学術上貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は申請者に対し博士(獣医学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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