学位論文要旨



No 121337
著者(漢字) 長濱,正太郎
著者(英字)
著者(カナ) ナガハマ,ショウタロウ
標題(和) バランス麻酔の概念に基づいた犬における全動脈麻酔法確立のための薬物動態学的および薬力学的研究
標題(洋)
報告番号 121337
報告番号 甲21337
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 博農第3050号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 獣医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 佐々木,伸雄
 東京大学 教授 尾崎,博
 東京大学 教授 局,博一
 東京大学 助教授 西村,亮平
 東京大学 助教授 堀,正敏
内容要旨 要旨を表示する

麻酔には長い歴史があるが、麻酔の概念がある程度はっきりしたのは比較的近年のことである。麻酔とは広義には薬剤の作用によって可逆的に意識が消失した状態を指すが、手術時の麻酔では意識消失、侵害刺激遮断および筋弛緩が十分達成されていることが重要である。近年これらの作用をそれぞれ異なる薬剤に担わせるというバランス麻酔法の概念が発達してきた。このバランス麻酔の概念に基づいて麻酔を実施すれば、理想的には必要最低限の薬剤を使用すればよいので、安全で速やかな覚醒が得られやすく、血圧低下などの有害作用も軽減させることが可能となる。特に吸入麻酔薬を使用しない全静脈麻酔は、各薬剤の役割分担がより明確であり、これらの概念を実現しやすい。

一方、このような麻酔を適正に行うためには、常に目的の効果を維持する必要があるが、近年これに対して薬剤投与法と薬剤の効果の評価法が発達してきた。このような背景から、ヒトにおいては全静脈麻酔を中心としたバランス麻酔法が広く行われつつあるが、犬においてはほとんど行われていない。そこで本研究では、バランス麻酔の概念に基づいた全静脈麻酔法を犬において確立することを目的として、プロポフォール(意識消失;第2章、第3章)、フェンタニル(侵害刺激遮断;第4章)およびベクロニウム(神経筋遮断;第5章)を使用した麻酔法について、薬物動態学的および薬力学的な面から検討を行った。

まず第2章と第3章では、意識消失について検討した。第2章では、ビーグル犬を用いて、Besthらが報告した犬のプロポフォールの薬物動態パラメータに基づき、コンピュータ制御されたシリンジポンプを用いてプロポフォールのtarget-controlled infusion(TCI)を行うことにより、目標とする血中濃度が安定して維持できるか検討した。その結果、TCIの目標血中濃度を、意識を消失させる最低限の濃度よりも若干高いと考えられる6〓g/mlとしたとき、投与開始45、75、105、135、165、および195分後の平均実測血漿中濃度(±標準偏差)は、5.9(±1.0)、5.8(±1.0)、6.2(±1.1)、6.4(±1.1)、7.1(±1.0)、および7.3(±1.0)〓g/mlであり、投与開始135分後までは目標とする血中濃度と非常に近似した値が得られた。一方、投与開始165と195分後では血漿中濃度が軽度に上昇した。ただしこの間、プロポフォールの持続投与量(±標準偏差)は23.5(±0.43)から20.8(±0.04)mg/kg/hrまで徐々に低下しており、constant-rate infusion(CRI)を行った場合に比べれば、血中濃度の上昇は抑えられたと考えられる。このことより、2時間程度までなら、Besthらの薬物動態パラメータを適用したTCIは、CRIよりも一定の血中濃度を維持するのに優れていると考えられた。しかし、より長時間になったときには、より適切な薬物動態パラメータを用いる必要があると考えられた。これらの結果に基づいて、臨症例において同様の検討を行ったところ、投与開始約40分後において、実測血漿中濃度がTCIの目標血中濃度よりも24.2%高くなることが明らかになった。特に、年齢が高い例で実測血漿中濃度が高くなりやすいことが明らかになり、さらに体温と性別も一つの要因となっている可能性が考えられた。従って臨床応用する上で、より正確なTCIを行うためには、これらの条件を加味した薬物動態パラメータを今後求めていく必要があると考えられた。

第3章では、ビーグル犬を用いて、脳波から算出される平坦脳波の0から覚醒時脳波の100の数値として表されるBispectral Index(BIS)が意識消失のモニターとして有用であるか、また有用であるならどの程度の値に維持するのが望ましいのか検討した。その結果、まずプロポフォールの血中濃度に依存してBISが低下する傾向が認められたため、意識消失のモニターとして有用と考えられた。また、BISが80前後のとき、プロポフォールの実測血漿中濃度が、意識消失が得られる最低限の濃度と考えられる3〜4〓g/ml程度の比較的狭い範囲に集中していたため、プロポフォールを意識消失が得られる最低限の濃度とするためには80程度のBISが目安になると考えられた。これらの結果に基づいて、犬臨床例において同様の検討を行ったが、80程度のBISを目安にしながらプロポフォールの予測血中濃度を調節すると、プロポフォールの実測血漿中濃度が3〜5〓g/ml程度の低濃度で比較的狭い範囲に調節することが可能であった。このことより、80程度のBISは、臨症例においても、プロポフォールを意識消失が得られる最低限の濃度とするための目安になると考えられた。

次に第4章では、侵害刺激遮断について検討した。侵害刺激遮断についてはリアルタイムな評価法が確立されていないこと、また一般に麻薬性鎮痛薬は投与量が過剰となっても臨床上大きな問題となりにくいことなどから、十分な侵害刺激遮断を行うために必要な鎮痛薬の投与量を検討した。すなわち全静脈麻酔下で手術を行った犬臨床例を用いて、麻薬性鎮痛薬のフェンタニル20〓g/kgを一回注入後、20〓g/kg/hrで持続投与を行ったときの侵害刺激遮断について、血漿中コルチゾール濃度の変化から評価を行った。その結果、麻酔導入直前、手術開始直前、手術開始30分後、および手術開始60分後の血漿中コルチゾール濃度の中央値(四分位範囲)は、5.7(3.1〜6.1)、3.8(2.7〜4.4)、5.5(4.0〜6.8)、および6.8(4.8〜8.5)〓g/dlであり、鎮痛薬を投与しなかった場合の過去の報告と比較して上昇が大きく抑制されたため、良好な侵害刺激遮断が得られたと考えられた。さらに、同量のフェンタニルに少量のケタミン(0.5mg/kg一回注入後、0.6mg/kg/hr持続投与)とリドカイン(2mg/kg一回注入後、3mg/kg/hr持続投与)を併用すると、麻酔導入直前、手術開始直前、手術開始30分後、および手術開始60分後の血漿中コルチゾール濃度の中央値(四分位範囲)は、5.1(4.2〜6.1)、4.0(2.9〜5.0)、3.5(2.4〜4.6)、および3.8(2.5〜8.5)〓g/dlと上昇がほぼ完全に抑制された。また、手術開始直前、手術開始30分後、および手術開始60分後の平均動脈血圧の平均(±標準偏差)は、ケタミンとリドカインを併用しなかった場合には78.1(±13.4)、100.3(±14.4)(n=12)、および92.2(±22.1)mmHgであり、ケタミンとリドカインを併用した場合には78.0(±14.5)、85.4(±9.3)(n=8)、および80.7(±14.1)(n=9)mmHgであった。手術開始直前の値がほぼ同じであり、手術開始30分後と60分後の血圧上昇がより軽度な傾向が認められたため、ケタミンとリドカインを併用しても顕著な血圧低下が起こらず、かつより安定した循環動態を維持できると考えられ、本方法はより優れた鎮痛剤投与法であると考えられた。

最後に第5章で、神経筋遮断について検討した。神経筋モニター法は既に確立されているため、この方法を用いて、ビーグル犬を用いて、一定の神経筋遮断を維持するのにベクロニウムの持続投与法は有用であるか、また有用であるならその持続投与量の目安はどのくらいか、吸入麻酔の場合と比較しながら検討した。その結果、ベクロニウムを持続投与することにより、外科的な軽度の神経筋遮断が安定して得られ、その平均持続投与量は吸入麻酔の場合の約2倍の0.22(±0.04)mg/kg/hrであった。また、プロポフォールとフェンタニルによる全静脈麻酔では、吸入麻酔よりも統計学的に有意にベクロニウムの必要量が多かったにもかかわらず、持続投与終了後に神経筋遮断からの最低限および十分な回復の基準まで回復するのに要した時間は7.9(±2.7)および10.2(±3.4)分であり、吸入麻酔の場合よりも有意に短かった。このことより、全静脈麻酔ではベクロニウムをより安全に用いることができると考えられた。これらの結果に基づいて、全静脈麻酔下の犬臨症例においても同様の検討を行ったが、外科的な軽度の神経筋遮断を維持するための至適持続投与量は約0.09mg/kg/hrと実験犬の約半分であった。体温の低下がその理由の一つであると考えられ、その他に犬種、疾患、および麻酔薬の用量なども関係している可能性があると考えられた。これらの結果から、神経筋遮断薬の投与時には以上の要因に注意し、かつ画一的な用量で持続投与することは避け、神経筋モニターに基づいて各個体ごとに持続投与量を調節することが望ましいと考えられた。

以上の結果から、犬においても、血圧低下などの大きな問題がなく安全であり、体動や循環動態の変動がほとんどなく安定しており、ほぼ完全な侵害刺激遮断を得た全静脈麻酔を実施することが可能であることが明らかとなった。そのためには、プロポフォールの目標血中濃度を80程度のBISを目安にしながら調節し、フェンタニル、ケタミン、およびリドカインを本研究の方法で持続投与し、ベクロニウムを0.09mg/kg/hrを目安に神経筋モニターに基づきながら持続投与する必要があると考えられた。今後の課題としては、犬のプロポフォールの薬物動態に影響を与える要因をより明らかにし、それらの要因を加味した薬物動態パラメータを求めていく必要があると考えられた。

審査要旨 要旨を表示する

手術に必要な全身麻酔では、確実な意識消失に加え、侵害刺激遮断および筋弛緩が十分達成されていなければならない。近年これらの作用をそれぞれ異なる薬剤に担わせるというバランス麻酔法の概念が発達してきた。この概念を背景として、ヒトにおいてはいくつかの薬剤を併用する全静脈麻酔がバランス麻酔法として広く行われつつあるが、犬においてはほとんど行われていない。そこで本研究では、犬においてバランス麻酔の概念に基づいた全静脈麻酔法を確立することを目的として、プロポフォール(意識消失)、フェンタニル(侵害刺激遮断)、およびベクロニウム(神経筋遮断)を用いた麻酔法について、薬物動態学的および薬力学的な面から検討を行った。

第1章の序論に続き、第2章と第3章では、意識消失について検討した。第2章では、ビーグル犬を用いて、コンピュータ制御されたシリンジポンプを用いたプロポフォールのtarget-controlled infusion(TCI)を行うことにより、目標とする血中濃度が安定して維持できるか検討した。その結果、2時間程度までなら、TCIはconstant-rate infusion(CRI)よりも一定の血中濃度を維持するのに優れていたが、より長時間では、より適切な薬物動態パラメータを用いる必要があった。また、臨症例において同様の検討を行ったところ、投与開始約40分後に、実測血漿中濃度がTCIの目標血中濃度よりも24.2%高くなることが明らかになった。年齢と体温等がこれらの差異の要因である可能性があり、臨床応用する上で、より正確なTCIを行うためには、これらの条件を加味した薬物動態パラメータを今後求めていく必要があると考えられた。

第3章では、ビーグル犬を用いて、脳波を基に平坦脳波の0から覚醒時脳波の100の数値として表されるBispectral Index(BIS)が意識消失のモニターとして有用であるか、また有用である場合どの程度の値に維持するのが望ましいかを検討した。その結果、BISは意識消失のモニターとして有用であり、80程度の値が目安になると考えられた。さらに、犬臨床例においても、意識消失が得られる最低限のプロポフォール濃度(3〜5〓g/ml)とするための目安になると考えられた。

第4章では、侵害刺激遮断について検討した。全静脈麻酔下で手術を行った犬臨床例を用いて、麻薬性鎮痛薬のフェンタニル20〓g/kgを一回注入後、20〓g/kg/hrで持続投与を行ったときの侵害刺激遮断について、血漿中コルチゾール濃度の変化から評価を行った。その結果、鎮痛薬を投与しなかった場合の過去の報告と比較して、血漿中コルチゾール濃度の上昇が大きく抑制された。さらに、同量のフェンタニルに少量のケタミン(0.5mg/kg一回注入後、0.6mg/kg/hr持続投与)とリドカイン(2mg/kg一回注入後、3mg/kg/hr持続投与)を併用すると、血漿中コルチゾール濃度の上昇がほぼ完全に抑制された。また、ケタミンとリドカインを併用しても顕著な血圧低下が起こらず、かつより安定した循環動態を維持できたため、本方法はより優れた鎮痛剤投与法であると考えられた。

第5章では、神経筋遮断について検討した。既に確立されている神経筋モニター法を用い、一定の神経筋遮断を維持するのに必要なベクロニウムの持続投与量について、吸入麻酔と比較しながら検討した。その結果、ベクロニウムを持続投与することにより、外科的な軽度の神経筋遮断が安定して得られ、また、プロポフォールとフェンタニルによる全静脈麻酔では、吸入麻酔よりも有意にベクロニウムの必要量が多かったにもかかわらず、持続投与終了後の神経筋遮断からの回復に要した時間は吸入麻酔の場合よりも有意に短かった。さらに、全静脈麻酔下の犬臨症例においても同様の検討を行ったが、外科的な軽度の神経筋遮断を維持するための至適持続投与量は約0.09mg/kg/hrと実験犬の約半分であった。体温の低下がその理由の一つであると考えられ、その他に犬種、疾患、および麻酔薬の用量なども関係している可能性があると考えられた。

以上の結果から、犬においてもこれらの薬剤を用いた全静脈麻酔は、血圧低下などの大きな問題がなく、体動や循環動態の変動がほとんどなく安定しており、ほぼ完全な侵害刺激遮断を得るすぐれた麻酔法であると考えられた。またその具体的な実施法としては、プロポフォールの目標血中濃度を80程度のBISを目安にしながら調節し、フェンタニル、ケタミン、およびリドカインを本研究の結果を基に持続投与し、ベクロニウムを0.09mg/kg/hrを目安に神経筋モニターに基づきながら持続投与することが最良と考えられた。

以上要するに、本研究は従来十分な検討がなされていなかった犬の全静脈麻酔法を確立したものであり、臨床応用上その貢献するところは少なくない。よって審査委員一同は本論文が博士(獣医学)として価値あるものと認めた。

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