学位論文要旨



No 121339
著者(漢字) 穂積,裕幸
著者(英字)
著者(カナ) ホヅミ,ヒロユキ
標題(和) 摂食制御における成長ホルモンの役割に関する研究
標題(洋)
報告番号 121339
報告番号 甲21339
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 博農第3052号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 獣医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 西原,眞杉
 東京大学 教授 局,博一
 東京大学 教授 尾崎,博
 東京大学 助教授 高橋,伸一郎
 東京大学 助教授 山内,啓太郎
内容要旨 要旨を表示する

近年、生活習慣病の主要なリスクファクターとなる肥満が社会的な問題となっている。肥満の原因の一つとしてエネルギーの過剰摂取、すなわち過食が挙げられるため、摂食制御機構の解明は肥満の予防や治療法の開発にとって重要な課題である。現在までに、摂食に異常を生じる様々なモデル動物を用いた研究により、摂食制御機構に関する知見が集積してきている。それらの多くは単一遺伝子の変異により摂食異常を発症するものであるが、実際には単一遺伝子の変異により摂食障害が生じることは稀であり、遺伝的素因に加えて、栄養、運動、ストレスなど種々の要因が複合して生じることが多い。そのため、単一遺伝子の変異により摂食異常を生じるモデル動物は、摂食異常が生じる機序を解明するうえでは必ずしも適切ではない。

成長ホルモン(GH)はその名のとおり、成長期に体成長を促進させるホルモンとして広く知られているが、体成長促進作用以外にも筋におけるタンパク質合成などの同化作用や、脂肪分解による遊離脂肪酸の放出などの異化作用を担っており、代謝の恒常性を維持するホルモンとしても機能している。GH欠損症(GHD)の患者では低身長とともに肥満が現れることも多く、GHDの中でも特にPrader-Willi syndrome(PWS)の患者では摂食が亢進する症例が多く見られる。このことは、GHのもつ代謝の恒常性維持作用には摂食の制御も包含されていることを示唆しているが、摂食制御機構におけるGHの生理的意義については明らかではない。

筆者らの研究室で作出されたヒトGH(hGH)遺伝子を導入したトランスジェニックラット(TGラット)は、通常のパルス状のGH分泌が消失しており、さらに遺伝子導入したhGHの血中濃度も低値であるため、GH作用の低下が見られる。興味深いことに、このTGラットでは、体長は野生型ラット(WTラット)とほぼ同程度であるにも関わらず、離乳直後から著しい肥満と過食を呈する。このTGラットは脳内で摂食制御に直接関わる因子の変異ではなく、hGH遺伝子の導入により結果としてGH作用が低下したラットであることから、GH分泌の低下に起因する摂食異常の発現機序や、GHが正常な摂食制御の維持に関わる機構を解明するために有用なモデル動物と考えられる。そこで本研究では、近年、ラットおよびヒトの胃から単離・同定されたGH分泌促進作用と摂食促進作用を併せ持つ末梢性ペプチドのグレリンと、グレリンによって制御されていると考えられている摂食促進因子である視床下部のニューロペプチド Y(NPY)に焦点を当て、TGラットで生じている過食の発症機序の解明を行うこととした。両因子に着目することで、GH 分泌異常で生じる過食に末梢と中枢がどのように関与しているのかが明らかになると期待できる。

第一章では、TGラットの体重及び摂食量の変化を確認し、さらに摂食制御に関わる因子の動態とその作用機序の解明を試みた。現在までに行われたTGラットを使用した研究の多くは雄を用いたものであるため、雌における体重と摂食量の加齢による変化を確認したところ、雌においても雄同様に離乳直後より体重の増加と摂食量の増大が生じていた。また、TGラットでは体表面積当たりおよび代謝重量当たりの摂食量もWTラットに比べて上昇していた。性ステロイドによる摂食制御機構への影響を除外するために、以後の実験には卵巣摘出処置を行ったラットを用いた。14週齡の雌を用いて、2時間毎に24時間摂食量を測定したところ、暗期開始(19時)とともに摂食量が著増するという日内変動はTGラットでも維持されており、また明期12時間、暗期12時間、さらに24時間の総摂食量はいずれもTGラットで有意な高値を示した。血中グレリン(活性型グレリン)濃度の日内変動をELISA法により測定した結果、TGラットではWTラットと明らかに異なる動態を示した。すなわち、WTラットでは血中グレリン濃度は暗期開始前(17時)に有意に上昇し、その後ただちに減少したが、TGラットでは暗期開始前に上昇したまま、暗期開始後も高値を維持していた。これらの結果から、TGラットにおける過食には、摂食の亢進する時間帯である暗期開始後に血中グレリン濃度が高値に維持されることが関与しているものと考えられた。

強力な摂食促進因子であるNPYを産生するニューロンは、細胞体が視床下部弓状核に存在し、軸索を室傍核に投射している。グレリンの摂食促進作用はNPYにより仲介されていると考えられているため、WTラットとTGラットの弓状核および室傍核におけるNPYの動態をRIA法により解析した。その結果、両群ともに弓状核、室傍核のNPY含有量は、暗期開始前(17時)に有意に増加し、暗期開始とともに減少するという動態を示した。しかし、TGラットの弓状核内NPY含有量は、すべての時間帯でWTラットに比べて有意に低値であったのに対し、TGラットの室傍核におけるNPY含有量は17時の時点でWTラットに比べて有意に上昇していた。視床下部におけるNPY遺伝子発現量には両群間に差が無いことから、TGラットの弓状核におけるNPY含有量の低下はNPY産生の低下によるものではなく、NPYニューロンの興奮性の増大によりWTラットに比べて弓状核から室傍核へのNPYの軸索輸送が亢進している結果であると考えられた。

NPY受容体はY1からY5まで存在するが、そのうちY1受容体とY5受容体が摂食の促進に関与していることが知られている。そこで、次にNPYの軸索輸送の亢進に加え、TGラットではこれらの受容体を介したNPY作用の発現にも変化が生じている可能性について検討するために、Y1受容体およびY5受容体の拮抗剤投与実験を行った。その結果、Y1受容体拮抗剤によりTG、WTラットともに摂食量が減少したが、TGラットではWTラットに比べてより低用量で有意な効果が発現した。一方、Y5受容体拮抗剤はWTラットの摂食量には影響を与えなかったが、TGラットの摂食量を有意に減少させた。これらより、TGラットではY1受容体を介した摂食促進作用の亢進に加え、Y5受容体に依存した摂食亢進が新たに生じていることが明らかとなった。

以上、第一章の実験より、hGH遺伝子を導入したTGラットでは、暗期開始後の血中グレリン濃度が高く維持されるためにこの時間帯のNPYニューロンの興奮性が増大し、Y1受容体およびY5受容体を介したNPYの摂食促進作用の増強により、過食が起こっていることが示唆された。

続く第二章では、TGラットで見られた血中グレリンや視床下部NPYの変化がGHの分泌低下によるものかどうかを検証するために、パルス状に分泌されるGHの分泌動態を模する目的でTGラットに対してリコンビナントhGHを明期に4時間毎に1日4回、7日間にわたって投与する実験を行った。このGHの間欠投与により、TGラットの摂食量は徐々に減少し、投与5日後には無処置TGラット群に比べて有意な低値を示し、7日後にはWTラットの摂食量と差がなくなった。さらに、GH投与最終日のグレリンの胃における遺伝子発現量を半定量的RT-PCR法により、血中濃度をRIA法により測定したところ、遺伝子発現量、血中濃度ともに、無処置TGラットに比べて有意に減少していた。また、TGラットにおける弓状核内NPY含有量も、GHの間欠投与によってWTラットと同程度まで回復した。以上の結果から、TGラットにおける血中グレリン濃度の上昇および視床下部NPY含有量の低下は、本ラットにおけるGHの分泌低下によるものであることが明らかとなった。

次に、GHが胃におけるグレリンの産生に対して直接的に作用するかどうかを知る目的で、WTラットの胃を用いて器官培養を行い、GH添加のグレリン遺伝子発現に対する影響を検討した。その結果、GH添加後4時間という比較的短い時間で胃におけるグレリンmRNA発現量が有意に低下した。しかし、胃におけるグレリン産生細胞とGH受容体発現細胞の分布をそれぞれに対する抗体を用いた二重免疫蛍光組織化学法により調べたところ、両者を共発現する細胞は観察されなかった。これらのことから、GHは胃に直接作用してグレリン遺伝子発現を抑制するが、その作用はグレリン産生細胞に直接的でなく、他のGH受容体を持つ細胞から放出されるパラクライン因子を介したものであることが示唆された。

以上、第二章においては、TGラットではGH分泌の低下により血中グレリン濃度が上昇し、視床下部NPYを介して過食が誘発されていること、またGHは胃のGH受容体発現細胞に作用し、間接的にグレリン産生を抑制していることが示唆された。

本研究により、下垂体から分泌されるGHと胃から分泌されるグレリンとの間には負のフィードバック機構が成立していることが示唆された。すなわち、GH分泌が低下するような状況下ではグレリン分泌が促進され、このグレリンの中枢作用により摂食亢進が誘起されるものと考えられる。また、GHの脂肪分解作用の低下により脂肪の蓄積が起こり、脂肪組織へのエネルギーの流入の増大がさらに何らかの代謝シグナルを介して摂食を促進し、肥満を助長していることが考えられる。GHが代謝と摂食を協調的に制御する仕組みが存在することは、動物あるいはヒトが個体を維持していくうえで大変合目的的な機構であると考えられる。GHの摂食制御における役割の全容やその意義の解明には、さらにGH分泌が亢進した場合の摂食に対する影響やその機序の解明も必要であるが、本研究から得られた知見はGH低下と摂食障害を併せ持つPWSなどにおいて見られる摂食障害の原因解明や治療の一助になることが期待できる。

審査要旨 要旨を表示する

近年、生活習慣病の主要なリスクファクターとなる肥満が社会的な問題となっている。肥満の原因の一つとして過食が挙げられるため、摂食制御機構の解明は肥満の予防や治療法の開発にとって重要な課題である。肥満には成長ホルモン(GH)をはじめとする内分泌因子も関与している。GHは体成長促進作用以外にもタンパク質合成や脂肪分解などを担っており、代謝の恒常性を維持するホルモンとして機能している。GH欠損症(GHD)の患者では低身長とともに肥満が現れることも多く、GHDの中でも特にPrader-Willi syndrome(PWS)の患者では摂食が亢進する症例が多く見られる。申請者らの研究室で作出されたヒトGH(hGH)トランスジェニックラット(TGラット)は、内因性のラットGH分泌が消失しており、さらにhGHの血中濃度も低値であるためGH作用の低下が見られるとともに、著しい肥満と過食を呈する。本研究は、このTGラットで生じている過食の発症機序の解明し、さらに摂食制御機構におけるGHの生理的意義を明らかにすることを目的としたものである。

第一章では、TGラットにおける摂食制御に関わる因子の動態と、その作用機序の解明を試みた。GH分泌促進作用と摂食促進作用を併せもつことが知られているグレリンの血中濃度を測定した結果、野生型ラット(WTラット)では暗期開始前に有意に上昇し、その後ただちに減少したが、TGラットでは暗期開始前に上昇したまま、暗期開始後も高値を維持していた。グレリンによって制御されている摂食促進因子であるニューロペプチド Y(NPY)を産生するニューロンは、細胞体が視床下部弓状核に存在し、軸索を室傍核に投射している。WTラットとTGラット両群ともに弓状核、室傍核のNPY含有量は、暗期開始前に有意に増加し、暗期開始とともに減少するという動態を示した。しかし、TGラットの弓状核内NPY含有量は、すべての時間帯でWTラットに比べて有意に低値であったのに対し、TGラットの室傍核におけるNPY含有量は17時の時点でWTラットに比べて有意に上昇していた。これらの結果より、TGラットではグレリンによりNPYニューロンの興奮性が増大し、弓状核から室傍核へのNPYの軸索輸送が亢進していると考えられた。さらに、NPYのY1受容体拮抗剤によりTGラットではより低用量で有意な摂食抑制効果が発現し、一方、Y5受容体拮抗剤はWTラットの摂食量には影響を与えなかったがTGラットの摂食量を有意に減少させた。これらの結果より、TGラットではY1受容体を介した摂食促進作用の亢進に加え、Y5受容体に依存した摂食亢進が新たに生じていることが明らかとなった。

続く第二章では、TGラットに対してリコンビナントhGHを7日間にわたって投与する実験を行った。その結果、TGラットの摂食量は徐々に減少し、投与5日後には無処置TGラット群に比べて有意な低値を示し、7日後にはWTラットの摂食量と差がなくなった。さらに、グレリンの胃における遺伝子発現量、血中濃度ともに、無処置TGラットに比べて有意に減少していた。また、TGラットにおける弓状核内NPY含有量も、WTラットと同程度まで回復した。以上の結果から、TGラットにおける血中グレリン濃度の上昇および視床下部NPY含量の低下は、本ラットにおけるGHの分泌低下によるものであることが明らかとなった。次に、胃の器官培養を行い、GH添加のグレリン遺伝子発現に対する影響を検討した。その結果、GH添加によりグレリンmRNA発現量が有意に低下した。しかし、グレリン産生細胞とGH受容体発現細胞の分布を二重免疫蛍光組織化学法により調べたところ、両者を共発現する細胞は観察されなかった。これらのことから、GHは胃に直接作用してグレリン遺伝子発現を抑制するが、その作用はグレリン産生細胞に直接的でなく、他のGH受容体を持つ細胞から放出されるパラクライン因子を介したものであることが示唆された。

本研究により、GH分泌が低下するような状況下ではグレリン分泌が促進され、このグレリンの中枢作用により摂食亢進が誘起されるものと考えられた。GHが代謝と摂食を協調的に制御する仕組みが存在することは、個体を維持していくうえで大変合目的的な機構であると考えられる。本研究から得られた知見はGH低下と摂食障害を併せ持つPWSなどにおいて見られる摂食障害の原因解明や治療の一助になることが期待できる。これらの成果は、GHによる摂食・代謝制御機構に関する理解を深めるとともに、関連する病態を制御する方法論の確立にも大きく寄与するものと考えられ、学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は本論文が博士(獣医学)の学位論文として価値あるものとして認めた。

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