学位論文要旨



No 121366
著者(漢字) 中村,裕
著者(英字)
著者(カナ) ナカムラ,ユウ
標題(和) 肺腺癌におけるc-metの活性化について
標題(洋)
報告番号 121366
報告番号 甲21366
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第2614号
研究科 医学系研究科
専攻 病因・病理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 長瀬,隆英
 東京大学 教授 吉田,進昭
 東京大学 教授 渋谷,正史
 東京大学 助教授 宮澤,恵二
 東京大学 助教授 中島,淳
内容要旨 要旨を表示する

本文

我が国における肺癌の死亡率は、1950年以降男女とも増加の一途にあり、2004年では肺癌死亡数が全悪性腫瘍死の約18.7%を占めるようになった。肺癌の基本的な組織型は、扇平上皮癌、腺癌、大細胞癌、小細胞癌に分類され、その中でも男女ともに肺腺癌の増加が報告されている。腺癌は、原発性肺癌の約半数を占め、ことに女性や若年者に比較的多い。肺癌における発癌のメカニズムに関する研究が進んできており、癌遺伝子の異常(erbB-2の過剰発現、ras遺伝子の点突然変異、mycファミリー遺伝子の過剰発現など)と、癌抑制遺伝子の異常(p53の不活化)が明らかになってきている。今後、肺癌の治療法を開発するうえで、肺腺癌の増加、女性での罹患率の高さから、肺腺癌の発生・進展のメカニズムを検討する必要がある。近年、新たな肺癌の治療戦略として、肺癌の発生、増殖、浸潤、転移に関わる物質を標的とした薬として、EGF(Epidermal growth factor)受容体の阻害薬(gefitinib;イレッサ)、血管新生阻害薬などの分子標的剤が開発され注目されている。

HGF(Hepatocyte growth factor)は、細胞増殖、細胞運動の促進作用、強力な血管新生作用などを有する増殖因子である。Metは、1990年にDonald P BottaroによってHGF受容体として同定された、膜貫通構造を持つ受容体型チロシンキナーゼである。線維芽細胞で産生されたHGFが、Metを発現した上皮細胞に対して、endocrine,paracrine的に働くことでその機能が発現されると考えられている。Metは、一本鎖のMet受容体2本が近接して二量体化し、チロシン残基の自己リン酸化が起こることで活性化する。活性化は、MetのligandであるHGFが結合する経路以外に、(1)Metのmutation、(2)Metの過剰発現と二量体化、(3)Met遺伝子の切断・転座、(4)transactivationによるligand非依存性の経路がある。また低酸素による刺激、negative regulatorの喪失、細胞接着、Semaphorin 4D-plexinB1複合体を介した活性化機構も知られている。Metが活性化されると、抗アポトーシス作用(survival)、浸潤性亢進(細胞運動、細胞間接着の離開、細胞マトリックスの接着)、血管新生、増殖、形態発生(管腔形成誘導作用)等が認められる。

Metは、多種の癌組織において過剰発現、遺伝子増幅、突然変異が認められ、発癌・進展における関与が疑われている。肺癌に関しては、4つの主な組織型のうち特に腺癌において、MetとそのリガンドのHGFの過剰発現が報告されており、肺腺癌の治療において、浸潤、転移を抑制する為の重要な標的として有望視されている。しかし従来の肺癌検体を用いた研究では、HGFあるいはMetの過剰発現と癌の悪性形質との相関を示すデータは示されているが、Metの活性化自体についての検討はほとんど行われていない。

本研究では、まず外科的に切除された肺腺癌130例を対象として、活性化Metを認識する抗体を用いた免疫組織化学的検討により、活性化Metを発現する症例の臨床病理学的特徴を明らかにした。解析の結果、Metの発現と活性化metの発現が必ずしも一致しないこと、活性化Metの発現は高分化型の腺癌に多いことが明らかとなった。Metの発現がリンパ節転移、病期の進行と相関するという従来の報告は今回確認されたが、今までの報告と異なり、Metの発現と患者予後との相関は認められなかった。またMetは高分化腺癌においてbasolateralに局在するとされているが、活性化Metの局在はこれと異なり内腔側の細胞膜にある傾向が認められ、さらにこのような局在傾向は肺腺癌培養細胞においても確認された。これらの結果から、従来の報告にある肺癌におけるMetの高発現が必ずしもMetの活性化を意味しないこと、Metの活性化は高分化型腺癌の発生・進展において何らかの重要な役割を演じている可能性が示唆された。また活性化したMetはその局在に特徴があり、細胞の接着・運動との関連から興味ある現象と思われた。

次いで肺腺癌細胞におけるMet活性化のメカニズムについて知見を得るため、肺腺癌細胞株を用いたin vitroの実験を行った。まず肺腺癌細胞17株についてWesternBlotにてMetの発現とそのリン酸化レベルを検討した。Metの発現は17株中15株で発現しており、うち6株で高発現を示した。一方17株中10株においてMetの恒常的な活性化を認め、うち5株においてはMetのリン酸化が特に高レベルであった。従来、HGFとMetの共発現からオートクリンによるMetの活性化がいくつかの系で報告されてきていた。しかしMetのリン酸化レベルの高い5株について詳細に検討したところ、1株を除いては、(1)western blotにより活性化HGFを検出できないこと、(2)MDCK細胞を用いたアッセイにより培養上清中にHGF活性がみられないこと、(3)HGF中和抗体の添加によってMetのリン酸化に変化がみられないことなどから、肺腺癌細胞株における恒常的なMetの活性化はリガンド非依存性であることが判明した。

従来よりリガンド非依存性の活性化のメカニズムとして、細胞間接着あるいは基質との接着が報告されている。そこで肺腺癌株における細胞接着とMet活性化の関与について、足場喪失用のdish(細胞基質間接着)およびE-cadherin中和抗体(細胞間接着)を用いて、検討を進めた。Metのリン酸化はE-cadherin中和抗体の添加に影響されなかった。これに対し足場喪失によりMetのリン酸化は著明に低下した。従って肺腺癌細胞におけるリガンド非依存性のMetの活性化には基質との接着が必須であることが明らかとなった。

恒常的なMet活性化が下流シグナルに与える影響をみるため、血清非添加状態においてMet,Erk,Akt,Stat3の活性化を比較した。またK252a(met inhibitor)を添加し、Metの脱リン酸化がErk,Akt,Stat3の活性化に与える影響を経時的に観察した。その結果、MetとSTAT3の活性化がよく相関しており、恒常的なMet活性化が及ぼす影響としては、下流シグナルErk,Akt,Stat3のなかで、特にStat3が重要であることが示唆された。

高分化腺癌では、腺管構造、乳頭構造などの組織構築が保たれており、細胞間あるいは細胞基質間の接着が比較的保持された癌と考えることができる。今回の検討結果は、高分化腺癌と低分化腺癌の相違の新たな一面を明らかにしたものと言える。またさらに検討すべき点はまだ多いが、Metを分子標的とした治療を考える場合、単にHGFあるいはMetの発現ではHGF-Met系のシグナル活性化の評価は不十分であることを明確に示した点に意義があると考えている。

Metを介するシグナルは、細胞間接着(cadherin)、細胞基質間接着(integrin)に関与していて、それぞれの場合によって、シグナル伝達の経路、意義は異なると考えられる。細胞接着とMet活性化によるシグナル伝達は、癌細胞の浸潤、転移に深く関与しており、その解明は、これからの浸潤、転移を標的とした肺癌治療において、重要になると考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は、外科的に切除された肺腺癌130例を対象として、最近開発された活性化Metを認識する抗体を用いた免疫組織化学的検討により、活性化Metを発現する症例の臨床病理学的特徴を明らかにし、次に肺腺癌細胞株を用いてMet活性化のメカニズムについての知見を得ることを目的としたものであり、下記の結果を得ている。

東大病院で1999年から2003年にかけて外科的に切除された130例の原発性肺腺癌を対象として、Met、p-Metの発現を免疫組織染色を用いて検討した所、高分化乳頭状腺癌で有意にMetの活性化を認めた。またMetの局在は癌細胞の細胞質、細胞膜のbasolateralに見られるのに対し、p-Metはさらに内腔側(apical)に局在する傾向があった。肺腺癌細胞株17種類を用いて、Met、p-Metの局在を確認したところ、Metは細胞質内全体、細胞境界に局在したが、p-Metは接着斑、細胞膜(葉状仮足、細胞接着面)、細胞質内に局在していた。

Metの活性化のメカニズムを、恒常的にp-Metを発現している肺腺癌細胞株5種(H1648,H2009,L27,LC-2/ad,PC3細胞)を用いて検討した。まず、HGF(ligand)の自己分泌による活性化について検討したところ、活性型HGFを自己分泌しているのはH1648細胞のみで、HGF中和抗体の添加実験によりMetの恒常的活性化はHGFの自己分泌に依らないことが確認された。次に、RTKの活性化の機序の一つといわれている細胞間接着、細胞基質間接着について検討した。カドヘリン中和抗体を用いて細胞間接着を阻害したがMetの発現、活性化に影響を及ぼさないが、細胞が基質に接着できないシャーレで細胞株を培養し足場を喪失させると、5細胞中3細胞でMetの発現、5細胞中全てでMetの活性化が減少した。これらのことから、Metの恒常的活性化は肺腺癌細胞株自身によるHGF自己分泌に依らず、細胞基質接着が重要であることが考えられた。

Metの恒常的活性化の下流シグナルに関して、K252a(Met阻害剤)を用いて検討した。その結果、Metが恒常的に活性化しているL27細胞、PC3細胞において、p-Metの減少に伴なって、STAT3の発現が減少することが確認された。Metの恒常的活性化は、STAT3の活性化を誘導している可能性が考えられた。

以上、本論文は、肺腺癌においてMetの活性化は高分化乳頭癌で有意に高頻度に見られ、肺腺癌細胞株におけるMetの活性化に重要なのはMetの過剰発現とリガンド非依存性の活性化機構であることを明らかにした。本研究はMetを分子標的とした治療の展望において、重要な示唆を与えるものであり、学位の授与に値するものと考えられる。

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