学位論文要旨



No 121368
著者(漢字) 後藤,純
著者(英字)
著者(カナ) ゴトウ,ジュン
標題(和) 脳発生におけるFynチロシンキナーゼの機能解析
標題(洋)
報告番号 121368
報告番号 甲21368
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第2616号
研究科 医学系研究科
専攻 病因・病理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 渋谷,正史
 東京大学 教授 真鍋,俊也
 東京大学 教授 岩倉,洋一郎
 東京大学 助教授 仙波,憲太郎
 東京大学 助教授 宮澤,恵二
内容要旨 要旨を表示する

Src型チロシンキナーゼは動物種に渡って広く保存されており、細胞の増殖、分化および移動など様々な生命活動の制御に関与している。浦乳類には8つのSrc型キナーゼが存在する。そのうちSrc、Fyn、Yes、LynおよびLckは脳および脊髄での発現が高く、Trk、Eph、ErbBファミリーなど他のチロシンキナーゼファミリーと同様に中枢神経系の発生および高次脳機能に関与することが示されている。これまでにSrc型キナーゼの各遺伝子欠損マウスが作製され、神経系の顕著な表現型はfyn欠損マウスに見出された。このことは脳神経系においてFynが特に重要な役割を持つことを示している。

fyn欠損マウスはミエリン形成の低下や海馬CA3領域の細胞層構造の異常および大脳皮質第V層の錐体細胞の形態異常といった脳発生過程における表現型に加えて、空間学習能の低下、海馬LTPの減弱および情動行動の異常といった高次脳機能における表現型も示す。しかし、いずれの現象においてもFynが関わる分子レベルでの作用機序は不明な点が多い。その理由はこれまでに報告されたFynの結合分子や基質だけではfyn欠損マウスの全ての表現型を説明できないことや、Fynの転写標的遺伝子が殆ど明らかにされていないことにある。

そこで本研究ではまず神経系におけるFynの転写標的遺伝子を探索する目的で、fyn欠損海馬と野生型海馬の網羅的遺伝子発現解析を行った。マイクロアレイを用いた網羅的遺伝子発現解析によって野生型海馬とfyn欠損海馬における遺伝子発現の差異を調べた。その結果、比較した約12,000個の遺伝子のうち、554個の転写産物の発現量に変動が見られることが分かった。このうち34個の発現量はfyn欠損海馬において野生型の半分以下に減少し、別の2個は2倍以上に上昇していた。興味深いことに、fyn欠損海馬で発現量の低下していた遺伝子は多くがミエリン形成もしくはオリゴデンドロサイトの細胞分化に関与しているものであった。このうち5つのミエリン関連遺伝子(MOG、MAL、MOBP、CGTおよびPLP)についてノザンブロットを行ったところ、これらの発現量がfyn欠損脳で有意に低下していることが確かめられた。

マイクロアレイ解析ではziclなど神経細胞に発現する遺伝子もfyn欠損海馬で発現が低下する遺伝子群に含まれていた。したがって、マイクロアレイ解析の結果はfyn欠損海馬におけるLTPの減弱や海馬CA3領域における細胞層構造の異常など、ミエリン形成の低下以外の表現型も反映している可能性が十分に考えられた。今後、これらの遺伝子の機能解析によって海馬機能の分子レベルでの理解を深めたいと考える。

上記実験の過程でC57BL/6に高度に戻し交配の進んだfynヘテロ欠損マウス同士の掛け合わせを行ったところ、C57BL/6を遺伝的背景として持つfyn欠損マウスの約20%が重篤な水頭症をするという表現型を発見した。この遺伝的背景を持つfyn欠損マウスはほぼメンデルの法則に従って生まれ、生後4週齢までは発育したものの、生後約4週を過ぎると一部は重篤な水頭症により死亡した。

矢状断と冠状断の亜連続切片を作製しHE染色切片の観察を行ったところ、水頭症を発症したfyn欠損マウスでは側脳室、第三脳室および嘆球内脳室が顕著に拡大していることが分かった。

未分化神経細胞に発現するMusashi-1の遺伝子欠損マウスは上衣細胞の分化に異常を来たし、中脳水道の狭窄を伴った水頭症、非交通性水頭症を発症する。そこで、まず水頭症を発症したfyn欠損マウスの後頭部の薄切連続を作製し、水道の観察を行った。しかし、fyn欠損マウスに中脳水道の狭窄は認められず、この水頭症が交通性水頭症であることが示された。また、交通性水頭症モデルマウスの一つであるTGF-β1のトランスジェニックマウスでは脳静脈からの髄液吸収が低下している。そこで、静脈洞の形態および髄液循環に関連した器官におけるFynの発現の有無について検討した。しかし、fyn欠損マウスでは水頭症を発症した個体においても静脈洞は正常な範囲の形態を保っていた。また脳髄液産生器官である脈絡叢と吸収器官である脳静脈にFynの発現は認められなかった。したがって、このマウスの水頭症の原因は脳髄液の循環不全ではなく、大脳形成の異常であることが示唆された。

大脳形成の異常の原因を知る目的で、種々の神経系マーカーの抗体を用いたウエスタンブロットを行った。その結果、水頭症を発症したfyn欠損脳において各種神経細胞のマーカータンパク質は野生型脳と同程度発現しているものの、ミエリンタンパク質の減少とアストロサイトのマーカータンパク質であるGFAPの増加が見られた。

Fynはオリゴデンドロサイトの分化に寄与しており、またオリゴデンドロサイトに発現するCNPを欠損させたマウスは神経変性を伴った水頭症を発症することが報告されている。これらのことからfyn,欠損マウスの水頭症はオリゴデンドロサイトの機能障害がその一因である可能性が考えられた。またGFAPの発現量の増加とfyn欠損マウスの水頭症の症状との間には相関が見られ、アストロサイトの増加と水頭症の進行の関連が示唆された。初代培養系においてfyn欠損アストロサイトに増殖能の亢進は見られなかったことから、fyn欠損脳では神経変性あるいは脳圧亢進後の応答としてアストロサイトの増殖が亢進していることが示唆された。

一方で、Pafahlblヘテロ欠損マウスでは発生段階における神経細胞の移動遅延が原因で、またhyhマウスでは神経幹細胞の増殖低下が原因で、大脳の形成異常に因る水頭症を発症することが報告されている。そこで、胎生期fyn欠損マウスにおける神経細胞の増殖および移動について検討した。胎生後期のfyn欠損およびfynへテロ欠損マウス脳細胞にBrdUを取り込ませ、抗BrdU抗体を用いた免疫染色によって生後脳のBrdU陽性細胞の数及び位置を比較した。その結果、fyn欠損マウス大脳皮質ではBrdU陽性細胞の数に異常は見出せないものの、大脳皮質層における存在位置に違いが見られることが分かった。したがって、fyn欠損マウスの水頭症は大脳層構造を構成する神経細胞群の移動障害がその一因である可能性も示された。

続いてfyn欠損マウスに見られる水頭症の分子基盤を明らかにする目的で、ヒト家族性水頭症の原因遺伝子として知られる細胞接着分子F1に注目した。FynはGタンパク質共役受容体、受容体型チロシンキナーゼ、接着分子などの膜受容体の下流でシグナルを伝達する。またL1欠損マウスとfyn欠損マウスは共にC57BL6の遺伝的背景において側脳室拡大を伴う水頭症を発症するという点で似た表現型を持つ。そこでL1とFynの機能相関を検討した。その結果、HEK293T細胞に過剰発現させたFynがF1の機能に重要な1176番目のチロシン残基と1229番目のチロシン残基をリン酸化することを見出した。さらに、F1は胎生後期マウス脳においてチロシンリン酸化されていることが分かった。これらの結果は大脳皮質形成時にFynとL1が直接的に機能することを示唆していた。

Fynはオリゴデンドロサイトおよび神経細胞の両者において重要な役割を持つことから、fyn欠損マウスにおける水頭症の発症・進行にはオリゴデンドロサイトの機能低下および神経細胞移動の異常の両方が関与していると考えている。今後オリゴデンドロサイトの分化および神経細胞の移動の局面において、どのようなFynを介するシグナル伝達経路が寄与しているのかを、 F1とFynの機能相関を含め検討することが重要である。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は脳構築過程および脳高次機能において重要な役割を演じていると考えられる非受容体型チロシンキナーゼであるFynの生理機能を明らかにするために、神経系におけるfyn欠損マウスの表現型について分子生物学的・病理学的解析を行ったものであり、下記の結果を得ている。

約12,000遺伝子産物のプローブを搭載したマイクロアレイを用いて、成体fyn欠損海馬と野生型海馬の遺伝子発現の比較を行い、発現量の異なる遺伝子群を約500個同定した。このうち、fyn欠損海馬において発現量が顕著に減少していた遺伝子の多くはミエリン構成タンパク質および成熟オリゴデンドロサイトに発現する遺伝子である事を同定した。ミエリン関連遺伝子の発現量はノザン解析においてもfyn欠損脳で低下している事が確かめられ、fyn欠損脳では成熟オリゴデンドロサイトの数が少ない事が示された。故に、Fynは成熟オリゴデンドロサイトの分化・生存に重要である事が示された。

C57BL/6を遺伝的背景として持つfyn欠損マウスを作製したところ、その一部が重篤な水頭症を発症する事を見出した。病理脳切片の観察から、fyn欠損マウスの両側脳室および第三脳室が顕著に拡大しているものの中脳水道の形態は正常である事が認められ、交通性水頭症である事が示された。

脳内におけるFynの発現部位をlacZ染色で調べた結果、髄液産生器官である脈絡叢や吸収器官にFynの発現は認められず、水頭症の原因が脳髄液循環の異常に因るものでは無いことが示唆された。

発生期の脳切片の観察から、fyn欠損脳の脳室の拡大及び大脳皮質の薄化は胎生18日齢において既に顕著であり、生後さらに進行することが示された。生後6日齢のfyn欠損脳では脳梁および内包軸索の変性と脱落が認められ、ウエスタンブロットおよび免疫染色の結果、変性軸索周囲におけるアストロサイトの増殖が示された。胎生後期脳のfyn欠損脳では神経細胞の移動に若干の異常が認められた。したがって、fyn欠損脳では神経細胞の移動の異常もしくはオリゴデンドロサイトの異常が軸索変性とグリオーシスを伴った水頭症を引き起こすことを示した。

ヒト家族性水頭症の原因遺伝子とされる細胞接着分子L1とFynの機能相関について検討し、FynがL1の機能に重要なチロシン残基(Tyr1176およびTyr1229)をリン酸化することを示した。

以上、本論文はfyn欠損マウスの脳構築過程における表現型の解析から、オリゴデンドロサイトの機能低下が軸索変性を伴った水頭症を発症させることを明らかにした。また、オリゴデンロドサイトの発生過程にFyn-L1を介したシグナルが関与する可能性を示唆した。本研究はこれまで未知に等しかった、脳構築過程の異常を伴った交通性水頭症の発症機構の解明に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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