学位論文要旨



No 121370
著者(漢字) 劉,輝
著者(英字) LIU,HUI
著者(カナ) リュウ,キ
標題(和) チロシンリン酸化されるRhoGAP蛋白質TCGAPの神経系における機能解析
標題(洋)
報告番号 121370
報告番号 甲21370
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第2618号
研究科 医学系研究科
専攻 病因・病理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 井上,純一郎
 東京大学 教授 清木,元治
 東京大学 教授 御子柴,克彦
 東京大学 助教授 後藤,典子
 東京大学 講師 岡,晃教
内容要旨 要旨を表示する

Src型チロシンキナーゼは非受容体型チロシンキナーゼの1サブファミリーであり、哺乳類ではSrc、Fyn、Yes、Lyn、Lck、Hck、Blk、Fgrの8つから構成される。Src型キナーゼは様々な組織でほぼ普遍的に発現しているが、神経系と血球系では特に高い発現が認められる。Srcファミリーのうち、Src、Fyn、Lyn、Yes、Lckの5つが神経系で発現しており、中でもFynの神経系における重要性が主にFyn欠損マウスの解析から明らかになってきた。Fyn欠損マウスには海馬構造の形成不全、ミエリン形成不全などの脳発達異常が見られる。またFyn欠損マウスはLTPの減弱や空間記憶の障害、恐怖心の亢進、エタノール感受性の亢進など様々な神経機能の異常も示す。このことはFynが神経系において多様なシグナル伝達系に関与し、脳発達および脳機能の両方に重要な役割を果たすことを示唆している。最近の研究により、CNR、mDabl、N-WASP、PSD-95、p190RhoGAP、NMDA受容体など多くのFynの結合蛋白質および標的基質が同定され、それらが神経細胞の移動、シナプス可塑性、オリゴデンドロサイトの分化および神経細胞の軸索成長・ガイダンスにおいて、重要な役割を果たしていることが明らかになってきている。しかし、Fynが神経系のシグナル伝達に関与するメカニズムについては未解明な部分が多く、さらなるSrc型キナーゼ結合分子・標的基質の同定が必要である。

神経系においてアクチン細胞骨格は、神経線維構造の形成・維持、神経細胞の移動、形態変化、オリゴデンドロサイトの分化、細胞内輸送、グルタミン酸受容体クラスター化などに密接に関与している。Rhoファミリー低分子量GTP結合タンパク質はアクチン細胞骨格系を制御する主要な分子群の1つである。Rhoファミリーの中でRhoA、Racl、Cdc42についての研究が特に進んでいる。RhoAは焦点接着やストレスファイバ形成を制御している。また、Raclは膜のラメリボディア形成、Cdc42はフィロボディアの形成を制御している。神経系ではRhoファミリーは神経系の発生における神経突起伸長や、成長円錐ガイダンス、神経細胞移動、中枢神経系の樹状突起上のスパインの形態、シナプスでの神経伝達物質を介した神経機能の調節などを制御している。Rhoファミリーの低分子量GTP結合蛋白質は不活性型であるGDP結合型と活性化型であるGTP結合型として存在し、主にGEF(guanine nucleotide exchange factor)とGAP(GTPase-activating protein)により活性が制御されている。RhoGAPはGTP結合型Rhoファミリー蛋白質のGTP加水分解活性を促進して、不活性型であるGDP結合型の形成を誘導し、Rhoファミリーのシグナル伝達を抑制する。RhoGAPファミリーのうち、p190 RhoGAPはSrcとFynの標的基質であり、神経系で重要な役割を果たしていることが知られている。しかし、神経系では多くのRhoGEF、RhoGAPが発現しており、それぞれのRhoGEF、RhoGAPがどの時期、どの細胞で機能しているか、またどのようにシグナル伝達系の制御を受けるかはよくわかっていない。

本研究では神経系におけるFynシグナル伝達に関与する分子を同定するために、yeast two-hybrid法によりFyn結合分子を探索した。ヒトFynの全長をベイトとし、ヒト胎児脳のcDNAライブラリーを用いて、8.6×106個独立クローンのスクリーニングを行った結果、80個の候補クローンが得られた。本研究では得られた候補分子の中で、RhoGAPドメインを持つ、解析開始当時は新規であった蛋白質TCGAPに着目して解析を行った。

TCGAPは最近同定されたRhoGAPであり、脂肪細胞においてインシュリンによるグルコース輸送の制御に関わることが報告された。ヒトTCGAPは全長1126アミノ酸から成り、N末端側にphox homology(PX)ドメイン、SH3ドメイン、RhoGAPドメインを持ち、C末端に22個のproline-rich領域を持つ蛋白質である。本研究では、まず細胞内でのTCGAPとFynとの結合を調べた。HEK293T細胞再構成系において、TCGAPとFynを一過性に発現させ、免疫共沈実験を行った結果、TCGAPはFynと結合した。Fynの変異体を用いた結果、FynにはTCGAPとの結合に必要な領域はFynのSH3ドメイン領域であることが強く示唆された。また、再構成系によりTCGAPはFynによってチロシンリン酸化された。4週齢の野生型マウスとFyn欠損マウスから脳可溶化液を調製し、抗TCGAP抗体で免疫沈降を行った結果、マウス脳の内在性TCGAPはFynによってチロシンリン酸化されることが示唆された。

次にTCGAPのRhoGAPドメインが実際に細胞内でRhoファミリーのGTPaseに対してGAP活性を持っているかを検討した。そのためにCdc42、RaclおよびRhoAについて、TCGAPの野生型とGAP活性欠失変異体R350Iを用い、Rhoエフェクタープルダウンアッセイを行った。この方法は活性化型のCdc42、RaclがPAKのCRIBドメインに結合し、活性化型のRhoAがRhotekinのRBDドメインに結合する性質を利用している。その結果、TCGAPはCdc42に対して選択的なRhoGAP活性を示した。さらに活性化型FynとTCGAPを共発現させたところ、TCGAPのRhoGAP活性はFynによるリン酸化で抑制されることが示された。

各器官におけるTCGAPの発現パターンを検討するため、in situ hybridization法を行った。胎生期と生後のマウスでの発現を調べた結果、TCGAP mRNAは神経系に特異的な強い発現を示した。TCGAP mRNAのマウス脳における経時的発現パターンを検討した結果、胎児期と生後1週まで脳では全体的に発現し、特に嗅球、線条体、大脳皮質、海馬、小脳、視床で発現が高かった。生後2週以後の成体マウスにおいて、TCGAP mRNAは主に前脳の神経細胞層(喚球、線条体、大脳皮質、海馬)で発現が高く、小脳と視床には発現がほとんど見られなかった。

TCGAPは成熟脳では前脳に特異的に発現することから、海馬由来の初代培養神経細胞を用いて、TCGAPの神経細胞内の局在を観察した。免疫染色を行った結果、未成熟神経細胞ではTCGAPは細胞質にも神経突起にも存在していた。一方、成熟神経細胞ではTCGAPは細胞質、軸索および樹状突起に存在したが、特にスパインへの局在が鮮明に観察された。これに対応してマウス脳から調製したpostsynaptic density(PSD)画分を用いて行ったウエスタンプロットより、TCGAPがPSDに濃縮されていることが示された。

TCGAPが発達段階の脳で高度に発現するため、PC12細胞の系を用いて、TCGAPの神経突起伸長における役割を解析した。PC12細胞は神経成長因子NGFによって誘導される神経分化・神経突起伸長のモデル系として使用されている。SrcやFynを導入したPC12細胞はNGF刺激による神経突起伸長が増強される。またSrcやFynの抑制により、PC12細胞のNGF刺激による神経突起伸長が抑制されると報告されている。しかし、Src型キナーゼがNGF-TrkAレセプター伝達経路にどのようにかかわっているか、標的基質、メカニズムはまだ完全には理解されていない。

レトロウイルスベクターを用いて、PC12細胞に野生型TCGAPを過剰発現させた結果、NGFによる神経突起伸長が抑えられた。一方、TCGAPのGAP活性欠失変異体R3501の過剰発現はNGFによる神経突起伸長を促進した。このことから、TCGAPはCdc42に対するGAPとして、PC12細胞の神経突起伸長を抑制すると考えられる。また、NGF刺激により、PC12細胞の内在性TCGAPのチロシンリン酸化レベルが上昇した。このTCGAPのチロシンリン酸化はSrcファミリーの阻害剤PP2によって抑制された。これらの結果から、NGF刺激に伴い、SrcファミリーによりTCGAPがチロシンリン酸化され、そのGAP活性が抑制されることが、Cdc42の活性上昇および神経突起の伸長に寄与すると考えられる。以上のPC12細胞を用いた実験結果より、神経細胞においてもTCGAPおよびそのFynによるリン酸化は軸索および樹状突起の発達に関与していることが期待される。

本研究では、脳におけるFynの新規基質としてTCGAPを同定し、その機能解析およびFynによるリン酸化の意義付けを行った。TCGAPは発達段階の脳では軸索、樹状突起の伸長発達のほか、神経細胞の移動などにも関与しているかもしれない。TCGAPは成熟した脳において、シナプス、特にPSDに濃縮されていることから、TCGAPは成熟神経細胞の後シナプスにおいて重要な役割を果たしていると考えられる。発達脳・成熟脳における内在性TCGAPの役割の解明は今後の課題である。

審査要旨 要旨を表示する

Src型チロシンキナーゼファミリーのうち、Fynは神経系で高く発現しており、多様なシグナル伝達系に関与し、脳発達および脳機能の両方に重要な役割を果たすことが示唆されている。本研究はFynが神経系のシグナル伝達に関与するメカニズムをさらに解明するため、Fynの結合分子TCGAPを同定し、その機能解析を行ったものであり、下記の結果を得ている。

Fynの神経系の結合分子を探索するため、ヒトFynの全長をベイトとし、ヒト胎児脳のcDNAライブラリーを用いて、yeast two-hybrid法を行った。8.6×106個独立クローンのスクリーニングを行った結果、80個の候補クローンが得られた。本研究では得られた候補分子の中で、RhoGAPドメインを持つ蛋白質TCGAPに着目して解析を行った。

HEK293T細胞再構成系において、TCGAPとFynを一過性に発現させ、免疫共沈実験を行った結果、TCGAPはFynと結合した。その結合に必要な領域はFynのSH3ドメイン領域であることが強く示唆された。また、再構成系によりTCGAPはFynによってチロシンリン酸化された。4週齢の野生型マウスとFyn欠損マウスから脳可溶化液を調製し、抗TCGAP抗体で免疫沈降を行った結果、マウス脳の内在性TCGAPはFynによってチロシンリン酸化されることが示唆された。

TCGAPが細胞内でRhoファミリーのGTPaseに対してGAP活性を持っているかを検討するため、Rhoエフェクタープルダウンアッセイを行った。その結果、TCGAPはCdc42に対して選択的なRhoGAP活性を示した。さらに活性化型FynとTCGAPを共発現させたところ、TCGAPのRhoGAP活性はFynによるリン酸化で抑制されることが示された。

各器官におけるTCGAPの発現パターンを検討するため、in situ hybridization法を行った。胎生期と生後のマウスでの発現を調べた結果、TCGAP mRNAは神経系に特異的な強い発現を示した。

培養神経細胞を用いて、TCGAPの神経細胞内の局在を観察した結果、未成熟神経細胞ではTCGAPは細胞質にも神経突起にも存在していた。一方、成熟神経細胞ではTCGAPは細胞質、軸索および樹状突起に存在したが、特にスパインへの局在が鮮明に観察された。これに対応してマウス脳から調製したPSD画分を用いて行ったウエスタンプロットより、TCGAPがPSDに濃縮されていることが示された。

レトロウイルスベクターを用いて、PC12細胞に野生型TCGAPを過剰発現させた結果、NGFによる神経突起伸長が抑えられた。一方、TCGAPのGAP活性欠失変異体R350Iの過剰発現はNGFによる神経突起伸長を促進した。また、NGF刺激により、PC12細胞の内在性TCGAPのチロシンリン酸化レベルが上昇した。このTCGAPのチロシンリン酸化はSrcファミリーの阻害剤PP2によって抑制された。これらの結果から、NGF刺激に伴い、SrcファミリーによりTCGAPがチロシンリン酸化され、そのGAP活性が抑制されることが、Cdc42の活性上昇および神経突起の伸長に寄与すると考えられた。

以上、本論文はTCGAPがFynの新規基質であり、神経系におけるSrc-Rhoファミリーシグナル伝達系の新たな構成分子であることを示した。本研究は神経系でのアクチン骨格制御に重要なSrc型キナーゼからRhoファミリーGTPasesに至るメカニズムの解明に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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