学位論文要旨



No 121376
著者(漢字) 柴山,正樹
著者(英字)
著者(カナ) シバヤマ,マサキ
標題(和) 遺伝子欠損ES細胞を用いたポリピリミジン配列結合タンパクPTBの機能解析
標題(洋)
報告番号 121376
報告番号 甲21376
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第2624号
研究科 医学系研究科
専攻 病因・病理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 中内,啓光
 東京大学 教授 渡邉,すみ子
 東京大学 教授 北村,俊雄
 東京大学 助教授 大海,忍
 東京大学 助教授 三木,裕明
内容要旨 要旨を表示する

マウス胚性幹(Embryonic Stem: ES)細胞は、胚盤胞の内部細胞塊より樹立される細胞株であり、未分化状態を維持したまま無限に増殖することができる。ES細胞を再び胚盤胞へ移植するとES細胞由来の細胞を備えたキメラマウスを作成できることから、ES細胞はマウス個体の全ての細胞への多分化能を備えた内部細胞塊または胚盤葉上層のin vitro counter partであると考えられている。初期胚に含まれる幹細胞およびES細胞の未分化状態を維持するために必要な分子機構として、転写因子Oct-3/4やNanogなどの重要性が示されている。一方ES細胞の増殖を制御するシグナル経路としてERasを介したPI3キナーゼ活性化経路の重要性が明らかとなっている。ES細胞の未分化状態を維持するために必要な遺伝子のいくつかはES細胞の増殖能を高く保つ為にも必要であり、Dicer-null ES細胞は多分化能を失うと同時に増殖能も低下していた。このようにES細胞の幹細胞としての性質を維持するために必要な因子の同定は進んでいるが、それらが互いにどのような関係にあるのかといった研究は始まったばかりであり、ES細胞の多分化能の維持と増殖制御メカニズムとの関係について分子レベルで明らかにしていく必要があると考えられる。

Polypyrimidine tract binding protein(PTB)は成体組織に広く発現が見られる58kDのタンパクで、pre-mRNAに結合するhnRNPの一つとして同定された。PTBはmRNAのスプライシング制御を始めとして、mRNAの安定化、internal ribosomal entry site(IRES)を介した翻訳開始、転写調節といった働きを持つ多機能な因子であることが示されている。また当研究室におけるこれまでの研究から、PTBはES細胞に特異的に発現するRex-1およびNanogの発現制御に関与する可能性があると考えられた。PTBの機能に関する知見が蓄積しているが、PTBが細胞の生存に不可欠なのか、分化運命の決定や増殖制御に関与するのか、また個体発生過程においてどのような役割を担うのかに関しては明らかではなかった。そこで本研究では、PTBが細胞の生存、分化、増殖においてどのような役割を果たしているのかを明らかにするために、Ptbノックアウト(KO)マウスおよびPtb-null ES細胞を作製し、その解析を行った。

胚盤胞において、PTBの発現は内部細胞塊および栄養外胚葉で見られた。発生過程におけるPTBの生理学的機能を明らかにするために、Ptb KOマウスの作製を試みた。Ptb +/-マウス同士を交配して得られた新生仔の遺伝子型をサザンブロット解析したところ、Ptb -/-マウスは存在せず、Ptb KOマウスは胚生致死であると考えられた。そこで各発生段階の胎仔の遺伝子型をPCR法によって解析したところ、Ptb KOマウスは着床前後の時期(胚生4-6日)に致死であることが示された。着床前のPtbKOマウスは胚盤胞期までは形態上は正常に発生するように見えたが、その胚盤胞から新たにES細胞株を樹立することはできなかった。Ptb KOマウスは胚盤胞期に既に株化可能な未分化な細胞集団を失っているのではないかと考えられたため、初期胚に含まれる幹細胞の生存、分化運命の決定、増殖制御にPTBがどのような役割を果たしているのかに関してさらに詳細な解析を行うために、Ptb-null ES細胞を樹立し、解析を行った。

Cre/loxPシステムを用いてPtb遺伝子の両アレルを破壊し、2クローンのPtb-null ES細胞を得ることができた。Ptb-null ES細胞は生存し、継代培養可能であり、形態上は未分化状態を維持したES細胞に特徴的なコンパクトなコロニーを形成した。そこでES細胞特異的に発現が見られる遺伝子に関してノザンブロット解析を行ったところ、Ptb null ES細胞においてOct-3/4 mRNAの発現量はPtb +/+、+/- ES細胞と同程度に維持されていたのに対して、Rex-1およびNanog mRNAの発現量は減少していた。これは、PTBがRex-1、Nanogの発現制御に関与するのではないかという仮説と一致すると考えられた。この時、Ptb null ES細胞が未分化なES細胞の性質を維持しているのかどうかは明らかでなかったため、増殖能および多分化能に関して以下の解析を行った。

Ptb +/+、+/-および-/- ES細胞を5日間培養して細胞数を計数したところ、Ptb -/- ES細胞はPtb +/+、+/- ES細胞の十分の一程度までしか増加しなかった。この結果から、Ptb nul ES細胞は増殖能が低下していることが強く示唆された。そこで細胞内DNA量を測定して細胞周期分布の解析を行ったところ、Ptb -/-ES細胞ではS期の細胞の割合が減少していた。DNA合成をしている細胞の割合をbromodeoxiuridine(BrdU)取り込み量を指標に測定したところ、Ptb -/- ES細胞ではBrdU陽性の細胞の割合が減少していた。このとき、TdTによって断片化DNA末端が蛍光標識された細胞をアポトーシスを起こしている細胞として判定したところ、Ptb null ES細胞ではコントロールと比較してアポトーシスの亢進は見られなかった。Ptb -/- ES細胞にPtbを強制発現させると、増殖能がコントロールと同程度までに回復した。次に、Ptb null ES細胞がテラトーマ形成能を維持しているのかどうかを検討した。5×106のPtb +/+または-/- ES細胞を、それぞれ5匹のスキッドマウスの腎皮膜下に移植し、3週間後に腎臓を取り出し観察したPtb +/+ ES細胞を移植した場合、4匹のマウスの腎臓周囲にテラトーマが形成されており、残り1匹では腎臓と周囲組織の癒合が観察された。それに対し、Ptb -/- ES細胞を移植した全てのマウスの腎臓でテラトーマの形成を確認できず、Ptb null ES細胞はテラトーマ形成能を持たないことが示された。以上の結果から、Ptb null ES細胞は生存するが、S期の細胞の割合が減少しており、in vitro、in vivoいずれの条件下でも増殖能が低下していることが明らかとなった。

Ptb null ES細胞の多分化能について検討するために、胚様体を形成させて分化誘導を行い、分化マーカー遺伝子の発現量の変化をノザンブロット解析した。Ptb null ES細胞を分化誘導したところ、原始外胚葉マーカーFgf5 mRNAの発現誘導はわずかに確認されたが、原始内胚葉マーカーGata4、Gata6 mRNAの発現はほとんど誘導が見られず、臓側内胚葉マーカーH19 mRNAの発現量は分化誘導する前よりも低下していた。この結果から、Ptb null ES細胞は原始外胚葉への分化能が低下しており、原始内胚葉への分化能をほとんど維持していないことが示唆された。即ちPtb null ES細胞はOct-3/4の発現を維持しているものの部分的に多分化能を失っており、未分化状態を完全には維持していないと考えられた。

これまで述べてきたように、本研究により以下の結果を得た。(1)Ptb KOマウスは着床前後の時期に致死であり、(2)Ptb KOマウスの胚盤胞からは新たにES細胞株を樹立できなかった。(3)Cre/loxPシステムを用いて作製したPtb null ES細胞では、Oct-3/4の発現量はコントロールと同程度に維持されていたが、Nanog、Rex-1の発現量が減少していた。(4)Ptb null ES細胞は増殖能が低下しており、(5)部分的に多分化能が失われていた。従って、PTBは初期胚に含まれる幹細胞およびES細胞が活発に増殖し、分化する際に必要であると考えられる。

ES細胞の増殖および分化状態の制御に関与するシグナル経路としてPI3キナーゼを介した経路が知られているが、PTBの機能とどのように関わるのかは不明である。既知のシグナル経路とPTBとの関連性が解明されることが期待される。また、PTBと相同性の高い因子としてregulator of differentiation 1(Rodl)およびbrain-enriched PTB(brPTB)の存在が知られている。Rodl、brPTBはいずれもPTBとアミノ酸配列で70-80%の相同性を持ち、機能ドメインの構造もよく保存されており、PTBと類似した機能を持つ可能性がある。一方、生体組織における発現様式は相互に異なっている。PTBとこれらの因子との機能的な異同や、組織における発現分布の相違に基づいた生理的役割の異同に関して、今後の解析が展開することが期待される。

本研究で得られた知見は、in vivo、in vitro双方から細胞の増殖制御、多分化能の維持におけるPTBの重要性を示すと共に、今後本研究を基にして更なる解析をしていく礎になることが期待される。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は発生過程のマウス個体およびマウス胚性幹(embryonic stem: ES)細胞におけるpolypyrimidine tract binding protein(PTB)の役割を明らかにするために、Ptb欠損(knockout: KO)マウスおよびPtb-null ES細胞の作製とその解析を試みたものであり、以下の結果を得ている。

Ptbヘテロ変異マウスどうしを交配して得られた新生仔の遺伝子型をサザンブロット解析したところ、Ptbホモ変異マウスは存在しなかった。発生過程において、胎生3.5日目ではホモ変異体は存在したが、胎生6.5日目以降では確認されなかった。この結果からPtb KOマウスは着床前後の時期に胎生致死であり、PTBがマウス初期発生に必須であることが明らかとなった。

Ptb KOマウスの胚盤胞は、形態的にコントロールと見分けがつかず、Oct-3/4、NanogおよびRex-1の発現も維持していた。しかしこの内部細胞塊から新たにES細胞を樹立することはできなかった。

Cre/loxPシステムを用いてPtb遺伝子の両アレルを欠損させ、Ptb-null ES様細胞を得た。Ptb-null細胞において、Oct-3/4の発現量はコントロールと同程度に維持されていたが、NanogおよびRex-1の発現量は低下していた。

Ptb-null細胞は増殖速度が低下しており、スキッドマウスに移植してもテラトーマを形成しなかった。Ptb-null細胞は細胞周期S期の割合が減少しており、BrdU取り込み速度が低下していた。この時、Ptb-null細胞においてアポトーシスの亢進は確認されなかった。Ptb-null細胞にPtb遺伝子を強制発現させると、増殖能が回復した。以上の結果から、Ptb-null細胞は生存するが、増殖能がin vivo、invitroいずれの条件下でも低下しており、PTBはES細胞の高い増殖能の維持に必要であることが明らかとなった。

胚様体を形成させて分化誘導したところ、Ptb-null細胞では原始外胚葉マーカーFgf5、原始内胚葉マーカーGata4,Gata6およびH19mRNAの発現量がいずれもコントロールより低下していた。Ptb-null細胞は部分的に多分化能を失っており、PTBがES細胞の多分化能の維持に必要であると考えられた。

以上、本研究によりPTBはマウス初期発生過程で必須であるのみならず、ES細胞の多分化能と高い増殖能を維持するために必要であることが明らかとなった。本研究は、初期胚に含まれる幹細胞が活発に増殖して様々な成熟細胞に分化するために必要なmRNA転写後修飾の役割の解明に重要な貢献を成すと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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