学位論文要旨



No 121377
著者(漢字) 鈴木,仁人
著者(英字)
著者(カナ) スズキ,マサト
標題(和) ヘリコバクター・ピロリのCagAによる胃粘膜障害機構の解析
標題(洋)
報告番号 121377
報告番号 甲21377
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第2625号
研究科 医学系研究科
専攻 病因・病理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 野本,明男
 東京大学 教授 甲斐,知恵子
 東京大学 教授 伊庭,英夫
 東京大学 教授 小保,政男
 東京大学 教授 岩本,愛吉
内容要旨 要旨を表示する

ヘリコバクター・ピロリ(Helicobacter pylori、以下ピロリ菌)は、世界人口の半数以上が感染していると推定される病原細菌である。本菌の持続感染は、胃・十二指腸潰瘍、胃MALT(mucosa-associated lymphoid tissue)リンパ腫、胃癌などの胃関連疾病と疫学的な関連性が指摘されており、1994年にWHO(世界保険機構)/IARC(国際癌研究機関)はピロリ菌を確実な発癌因子(definite carcinogen:group 1)として指定している。

経口的に侵入した菌は、胃粘膜上皮細胞に持続的に定着し、ウレアーゼ、空胞化毒素VacA、IV型分泌装置、CagAなど様々な病原因子を産生・分泌する。このような分泌性病原因子、およびLPS、ペプチドグリカンなどの菌体成分により、菌の感染した胃粘膜局所では慢性的な炎症反応が惹起される。上皮由来のIL-8によって動員された好中球は、マクロファージなどと共にピロリ菌や菌に破壊された細胞の駆除を行う。細胞外寄生細菌であるピロリ菌に対する獲得免疫は液性免疫が主体であるが、菌への抗体は自己免疫的に胃粘膜上皮をも侵襲する。このような菌と宿主の激しい攻防によって生み出される上皮細胞の破壊と再生の"カオス"が、遺伝子の突然変異を蓄積し、癌細胞の発生とクローナルな増殖のリスクを上昇させるものと考えられている。

ピロリ菌染色体上に存在するcag病原性遺伝子塊(cagPAI;cag pathogenicity island)にコードされるIV型分泌装置は、本菌と宿主細胞との相互作用を考えるうえで最も重要な病原因子である。本菌を含めた多くのグラム陰性病原細菌に保存されるIV型分泌装置は、特定の蛋白、特定のDNAを菌体内から宿主細胞内にワンステップで輸送する特殊に分化した蛋白複合体である。多くの疫学的、および動物を用いた実験病理学的な研究により、cagPAI陽性のピロリ菌は、cagPAI陰性の菌と比較して胃発癌のリスクが大きいことが指摘されている。現在、ピロリ菌のIV分泌装置の分泌蛋白として明らかなのは唯一CagAのみである。IV型分泌装置を介して宿主細胞に注入されたCagAは、SrcキナーゼによってC末のチロシン残基にリン酸化修飾を受け、SHP-2、Grb2、c-Met、ZO-1などといった様々な宿主分子と会合し、細胞増殖、細胞運動、細胞死など多様なシグナル伝達系に関与することが報告されている。しかしながら、菌感染におけるCagAの役割においては依然不明な点が多い。本研究では、CagAが宿主Crkアダプター蛋白と結合すること、CagA/Crk複合体に活性化されるシグナル伝達がピロリ菌感染で観察される胃上皮の細胞間接着の脱制御、細胞増殖、細胞骨格の再構築などに中心的な役割を担っていることを明らかにした。

CrkはSH2(Src homology 2)ドメインと、SH3(Src homology 3)ドメインのみで構成されるアダプター蛋白である。ヒトのCrk蛋白はトリ肉腫ウイルスCT10にコードされる癌遺伝子産物v-Crkのホモログとして同定され、 Crk-II、Crk-I、Crk-Lの3つが存在する。本研究では最初に、CagAが自己のリン酸化に依存してCrk蛋白のSH2ドメインと結合することを、GSTプルダウン法および免疫沈降法などによって証明した。

CagAはヒト胃上皮由来のAGS細胞に細胞遊走(cell scattering)を惹起することが知られている。Cell scatteringとは、上皮コロニーの細胞間接着が崩壊し、細胞が個々に分かれて分散するまでの一連の過程を称す。単独となった細胞は進行方向に葉状の突起を伸ばしながら、一つの場所から他の場所へ活発に動き回る。CagAとCrkの結合が機能的なものであることを確認するために、Crk阻害条件下でのCagAによるcell scatteringの形成能を観察した。その結果、Crkのドミナントネガティヴ変異体の発現やRNA干渉によるCrkのノックダウンによってcell scatteringが顕著に阻害されたことから、Crkに仲介されるシグナル伝達はCagAの活性に重要な役割を担うことが示唆された。

また本研究では、ピロリ菌がCagAの活性に依存して、E-カドヘリン/β-カテニン複合体を含むアドヘレンスジャンクション(AJ;adherens iunction)を破壊することを見出した。AGS細胞は機能的なAJを形成していないため、CagA依存的なAJの破壊はヒト胃上皮由来のMKN74細胞やNCI-N87細胞などで観察した。極性上皮細胞であるMDCK細胞においても、発現ベクターを用いたCagAの発現によりAJの崩壊が惹起されたが、CagAのリン酸化耐性変異体の発現ではその現象は起こらなかった。そのため、CagAは単独でリン酸化に依存した上述の活性を誘導することが明らかとなった。 CagAによるAJの脱制御は、CagAによるcell scatteringと同様に、Crkのドミナントネガティヴ変異体の発現やRNA干渉によるCrkのノックダウンによって阻害された。以上の結果から、CagAにより胃上皮細胞に誘導される複数の形質発現には、CrkおよびCrk下流の分子の働きが重要であることが示唆された。

次にCrk下流のシグナル伝達がCagAの活性に与える影響を検討した。CrkはSH3ドメインを介してC3G、SoS1、Dock180などのGDP/GTP交換因子(GEF;guanine-nucleotide exchange factor)のプロリンリッチ領域(PRR;proline-rich region)と結合した状態で細胞質中に存在している。細胞膜近傍にリクルートされたCrk/GEFの複合体は、同じく膜近傍に存在する小分子G蛋白であるRap1(C3Gの標的)、H-Ras(SoSlの標的)、Rac1(Dock180の標的)を活性化する。RasファミリーのG蛋白であるH-Ras、Rap1はそれぞれRafl、B-Rafを活性化し、下流のMAPK(mitogen-activated protein kinase)カスケードを亢進させる。一方、RhoファミリーのG蛋白であるRap1は、WAVE(Wiskott-Aldrich syndrome protein family verprolin homologous protein)などアクチン重合に関わるエフェクターの作用によって細胞骨格の再構築を促進する。細胞内でC3G、SoS1、Dock180のPRRペプチドを過剰発現させることによってCagAとCrkの結合を阻害すると、菌感染におけるCagA依存的なcell scatteringが顕著に阻害された。

C3G、SoS1下流のRap1、H-Rasをドミナントネガティヴ変異体によって阻害することでも、cell scatteringは有意に抑制された。Rap1/B-Raf経路、H-Ras/Rafl経路は、細胞増殖に必須で中心的な役割を果たすMEK(MAPK/ERK kinase)/ERK(extracellular signal-regulated kinase)経路の上流に位置する。ヒト胃上皮由来のKATOIII細胞のCrk蛋白をRNA干渉によりノックダウンすると、菌感染時のCagAに依存したMEK/ERK経路の活性化が有意に抑制された。これらの結果より、CagA/Crk下流のC3G/Rap1/B-Raf経路、SoS1/H-Ras/Rafl経路は、MAPKカスケードを正に制御していることが示唆された。また、Dock180下流のRac1、WAVEをドミナントネガティヴ変異体によって阻害することでも、cellscatteringは有意に抑制された。一方で、Rac1と同様にRhoファミリーG蛋白であるCdc42、RhoAの阻害、WAVEと同様にWASPファミリーであるN-WASP(neural-WASP)の阻害は、cell scatteringの形成には影響しなかった。これらの結果から、CagAの活性にDock180/Rac1/WAVE経路によるアクチン細胞骨格の再構築が重要であることが示された。

E-カドヘリンとカテニンの複合体で形成されるAJは、細胞運動、細胞増殖、細胞分化などを負に制御しており、発癌シグナルの抑制因子として重要な役割を担っている。CagA陽性のピロリ菌が感染した細胞では、本来、細胞-細胞間の接着部位にアンカーされているβ-カテニンが核内に局在する像が高頻度に観察された。β-カテニンはAJの構成蛋白であるが、核内でWnt経路の転写因子であるTCF/LEF (T cell factor/lymphoid enhancer factor)のコアクティベーターとして働き、細胞増殖促進に寄与するMMP-7、サイクリンD1、c-mycなどの転写を活性化させることが知られている。そのため、CagA/Crkの作用によってAJのプールから遊離したβ-カテニンが核内に移行することが、ピロリ菌感染による胃発癌のリスク上昇の一因となっていることが考えられる。

以上、本研究の結果をまとめると、1)CagAはリン酸化に依存してCrk蛋白と結合する、2)CagAはリン酸化に依存してAJを破壊する、3)AJの破壊などのCagAの活性にはCrkの働きが重要である、4)CagAの活性にはCrk下流のC3G/Rap1/B-Raf経路、SoS1/H-Ras/Raf1経路、Dock180/Rac1/WAVE経路が個々に重要であることが示された。今後、本研究を基盤とした更なる研究が、ピロリ菌感染による胃発癌のメカニズムの解明につながるものと考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

本研究では、ヘリコバクター・ピロリ(以下ピロリ菌)が分泌する病原因子CagAの胃上皮細胞における新規標的因子の探索、およびCagAとその標的因子の介する新たな細胞現象の解析を試みたものであり、下記の結果を得ている。

GSTプルダウンアッセイおよび免疫沈降法などによって、ピロリ菌の感染細胞内においてCagAがCrkアダプター蛋白(Crk-II、Crk-I、およびCrk-L)と結合することを同定した。このCagAとCrkの結合はCagAのチロシンリン酸化に依存しており、CagAのリン酸チロシンがCrk蛋白のSH2ドメインと結合することが示された。

Crkのドミナントネガティヴ変異体の発現やRNA干渉による内在性Crkのノックダウンによって、ピロリ菌が感染したAGS細胞でCagA依存的に誘導されるセルスキャッタリング(cellscattering)が顕著に阻害された。このことからCagAとCrkの結合が生物学的に機能的なものであり、Crkに仲介されるシグナル伝達がCagAの活性に重要な役割を担うことが示された。

ピロリ菌を感染させた極性上皮細胞のアドヘレンスジャンンクション(AJ:adherens junction)をE-カドヘリン/β-カテニンの免疫蛍光染色によって精査したところ、CagAの活性に依存してAJが破壊されることを見出した。この現象はCagAのリン酸化に依存しており、セルスキャッタリングと同様に、Crkのドミナントネガティヴ変異体の発現やRNA干渉によるCrkのノックダウンによって阻害された。このことからCagAにより胃上皮細胞に誘導される複数の形質発現には、CrkおよびCrk下流の分子群の働きが重要であることが示された。

Crk下流のGDP/GTP結合因子(C3G、SoSl、およびDock180)や小分子量G蛋白(Rapl、H-Ras、およびRacl)のドミナントネガティヴ変異体を用いた解析から、CagAの活性にはC3G/Rapl/B-Raf経路およびSoSl/H-Ras/Rafl経路の制御するMAPK(mitogen-activated protein kinase)カスケードやDock180/Racl/WAVE経路の制御するアクチン骨格の再構築が重要であることが示された。

以上、本論文ではCagAがCrkアダプター蛋白に結合すること、Crk/CagA複合体に活性化されるシグナル経路がピロリ菌感染で誘導される胃上皮細胞間接着の脱制御、細胞増殖、および細胞骨格の再構築に中心的な役割を担っていることを明らかにした。上皮細胞のAJは発癌シグナルの抑制因子として重要である。このことからCagA/Crkの作用によるAJの脱制御は、本菌感染に関連した胃発癌のリスク上昇に関わっていることが考えられる。本研究は、ピロリ菌感染を起因とする発癌メカニズムの解明に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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